出会いの妙を書きなさい。
大人の小説書きたかったら世界観がどこまでも地味で見慣れてないといけない。
何でかと言うと、いい歳してると「聞いたことのないカタカナ語を聞いたことのある日本語と聞き間違える」というような、コントに出て来る爺様婆様の聞き違いのような事が当たり前に起こり始める、単語ですら慣れないものには対応出来ないのだ。
新しい事が全部億劫になって来て見向きもしない感覚のせいで少しづつ新奇性から手を引いていたものが、寒いから重ね着した薄い服が身体の自由を完全に奪うように徐々に娯楽に対する自由さも奪う、四十五十になって「ある日僕らの営業所に転職してきた無口で不思議な熟女は終業後路地裏で日本刀を持ってヤクザと戦っていて、その現場をたまたま見てしまった僕は巻き込まれてヤクザに撃たれたあと、いきなりベロチューされて彼女と【使い魔の契約】をさせられてしまい…」とか、もう日常とは違う情報が多過ぎてどうにも面倒くさくなる。
そういうのもう良いって…という、大皿一杯の油物やバタークリームてんこ盛りのケーキに対するのと似た、字面見ただけでの胸焼けが襲う。
あと、もうそんな派手派手しい非日常祝祭感のある娯楽の世界観や人物に共感するのも気恥ずかしい。
よっぽどのつわ者でない限り四十路で髪に原色のカラー入れて革ジャン着て街を歩く気なんか起きないだろうが、読み物にしても自分や他人が何を楽しんでるのかがそういう引いた目で見えてしまう分別盛りなのだ。
志茂田先生って偉大だったんだと思うよ、あれで書いてたものが何なのかを思うと。
アタリマエになるな一皮剥けろという気にはなるが、そこは凡人であるから矢鱈と無理しない方が良いはずだ我ら。
とは言え、よくあるドラマの主人公のあり得なさ見てれば水戸黄門や太陽に吠えろの頃から大人でもそんなに「突飛さ」には枯れてないのが分かる。
コミカルなほどのものに大人も食指はある程度動くんである、そんなに賢くもないから。
しかしまあ、やはりもう人情に対する感性しか敏感さが残らない、人間には最終的に人間関係や人間くさい条理の世界しか無いんだろうどう転んでも。
そうして新奇性への焼け棒杭みたいなもん燃そうとして「魂萌え」とか言葉を言ったんである。
大人にとって非日常は、隣の人はなにする人ぞ、という所にしか残らない…異世界、異界でなく同一地平の世界の中で他人が奇っ怪に生きているのが残されたファンタジーになるのだ。
SFみたいな宇宙論ごと違う世界を志向してた人間からするとつまらん違いだがバラエティーのトークショーの面白さは分かるから全否定するでもなし。
見た目に分からない、入り口の隠された人間心理的異界が隣近所の何処かに潜んでいるのが発見される、刑事物やミステリの面白さ。
主人公はいつも日常の中の微妙な違和感からそこへ徐々に踏み込んでしまうのだ、そして、その異界の住人に手引きされる事になる。
つい首を突っ込むたくなるような、そんな「知らない世界」との邂逅を描かねばならぬ。
定型は機微への感性から推論に着手してしまう、雑踏でコトリと音を聞くとつい立ち止まってしまうような人間の、糸の先の餌を嗅ぎ付けてしまった魚のような運命である。
読書する人間がそれ以外の人間と違うようにしか主人公は違わないが、他の人間は日常語の世界に、主人公や異界人は文語体の世界に居て現実を読んでいる。
現実世界に対して見ている言語の違いをして、その共通点によって引き寄せられる。
同じ言葉で見ている同士の出会いの妙。まあなんと言うか、退屈の独白を描きながらそこへ持っていくのが中年向けのつまらない現実的なモノを書く秘訣ではないかと思う。
普通の家庭だと思ってたら実は…
裕福なハイソサエティ紳士の趣味の会が実は…
真面目な市議会議員秘書が真夜中の山荘にしばしば…
出世街道に乗り切れずちょっとルサンチマン抱えてやさぐれた三十代後半178センチのサラリーマンが常識的な範囲で半グレと関わりながら異常者の世界へとスリリングに踏み込んで行き…。
よくあるのはそんなだよな。
だからあんま突飛な始まりするとファンタジー味出過ぎになるからトランスフォーマーONEやゴーストバスターズ3でも観てリアルな現実世界をどう描いたら良いのか学ばんとな。




