第2話:妹強火担のお兄ちゃん
「はぁ……やっぱりただ家にいるだけって退屈。……仕事見つけなきゃ」
智恵はベッドにボフン、と身体を沈めた。反動のようにため息が零れる。
倒産した職場を去ってから早五日が経った。捻挫をしたのであまり遠出できないし、せっかくだから少しのんびりしようかと、部屋の片づけをしたり、積読本を消化してみたりと、休暇を満喫していたつもりだったが、一週間も経たずに飽きてしまった。
友達と連絡を取ろうにも、無職の子なんていないので、平日はなかなか約束ができない。
「ハロワに行こうかなー」
そろそろ就職活動をするかとベッドから起き上がると、スマートフォンの呼び出し音が鳴った。
「……あ、お兄ちゃん」
一体何事だろうと、通話ボタンを押した。途端――
『智恵! お前の護符が割れた気配がしたんだが、大丈夫か?』
こちらが応答するより先に、鼓膜を突くような声が飛び込んできた。
智恵の兄・智真が、心配そうに尋ねてくる。
「もう五日も経ってるよ、お兄ちゃん」
護符が割れてしまったのは、職場を退職した日だ。つまりは五日前。それなのに、今頃連絡してくるなんて。
『すまん、北陸の山奥で修行していたから、外部と連絡が取れない状態だった』
「そっか。大変だったね」
『それで? 護符がなくて困ったことはなかったか?』
「言われてみると……特にはなかったかな」
『よかった。じゃあ、新しい護符をすぐに送るからな』
一応予備の護符があるので、急がなくても大丈夫そう。それを伝えると、兄は安心していた。
『――そういやニュースで見たけど、若い女の子が行方不明になる事件がたびたび起きてるらしいから、智恵も気をつけろよ? 護符はただの人間相手には効かないからな』
「そういえばそんな事件あったね。分かった、夜道には気をつけるから」
智真が言っているのは、去年辺りから起きている女性連続失踪事件のことだ。一ヶ月に一人ほどの割合で、首都圏の若い女性が行方不明になっているという。
事件かどうかは、実際のところは分からない。
何せ日本では毎年八万人もの人が失踪している。そんな状況下で、この連続失踪が数珠つなぎの事件であるのかは、まだ判断がつかないそうだ。
だからこそ、気をつけるに越したことはない。
『うん、何かあったら、すぐにお兄ちゃんに言うんだぞ? 智恵は美人だし、お兄ちゃんは心配してるんだからな』
「でもお兄ちゃん、修行修行でいつも連絡つかないじゃない」
たまに智真に電話をしても、ちゃんと繋がったためしがない。両親に聞けば「あぁ、修行に行ってるわ」という返事が、まるで定型文のように返ってくるのだ。
『う……そうだが。じゃあ、父さんに連絡しろ』
「分かった」
まだ電話を切りたくなさそうな智真に「じゃあね」とそっけなく言い残し、智恵は通話終了ボタンをタップした。
「お兄ちゃん、相変わらずだったな……」
電話で話す度に、智真は「智恵は可愛いんだから気をつけろ」などと注意してくる。妹強火担である兄の欲目で智真はそんなことを言っているのだと、以前は思っていた。
しかしどうやら、世間の美意識に当てはめてみても、智恵の見た目はそう悪くはないらしい。大学時代も前の会社でも、何度か告白をされていたから。
智恵は歯磨きをするため、洗面所に立った。ペーストをつけた歯ブラシをくわえながら、目の前の鏡に映る自分を見る。
先日美容室に行ったばかりなので、髪は肩につくくらいの長さできれいにそろっていた。今まで一度も染めたことはない。
まめにトリートメントをしている黒髪は、それなりにつやがある。
インドア派なので、あまり日焼けをしたことのない肌は白い。
目は大きい方ではある。鼻は小さく、くちびるは薄めだ。一時期流行ったぽってり感はまったくない。
背はあと一センチ高ければ一六〇だったのになぁと、今でも悔しく思っている。
そんな智恵は、両親と兄の愛情を一身に受けてきた自覚はある。特に智真はシスコンに片足を突っ込んだ過保護兄なので、頻繁に電話をしてくるのだ。
智恵は普通の会社員だが……もとい、だったが、智真は神職に従事している。
二人が生まれ育った成宮家は、関東地方K県西部の足濱山の中にある足濱智世神社の神主の家系だ。
先祖は知る人ぞ知る伝説の神職、成宮智嗣で、その昔、K県一帯で悪行の限りを尽くした悪鬼・足濱童子を封印したという。
智嗣は元々は山伏として各地で修行をしていたが、足濱童子を封印した後、それを維持するべく神主化し、足濱智世神社を建立した。
以来、成宮家の神職を継ぐ子孫は『智嗣の名を汚すなかれ』と、代々修験者として各地で修行を積み、自己研鑽する習わしになっている。
智恵の兄・智真も例外ではなく、修行の日々を送っており、帰省してもなかなか会えない。
父曰く、智真は智嗣と同等の力を持っているのだという。一体どんな力なのかは、智恵は分からない。
何せ智恵は、神社の運営や維持にほとんど関わっていない。お正月やお盆の祖霊祭など、繁忙期には手伝いとして社務所にかり出されていたものの、内部に関わる業務に携わったことはない。ましてや足濱童子封印の維持に関しては、母でさえよく知らないだろう。
智恵はいずれ誰かのもとに嫁ぐことになるはず。だから神社の機密事項は知る必要はないと、家族は考えているのだと思う。「智恵は普通の女の子として生活してほしい」と日頃から言ってくれて、進学も就職も自分の好きにさせてくれた。
ただ兄だけは、智恵が家を出るのをとても心配して相当ごねた。
『俺が毎日送り迎えしてやるから、家から通える大学にしなさい!』
そう言われたものの、その時にはすでに修行で多忙な日々を送っていた智真には無理なことだった。
結局、護符やらお札やらで身を護ることで、一人暮らしをなんとか許してもらえたのだった。
それほど智恵を大切に思ってくれているものの、かといって妹にかまけて神職としての生活をおざなりにすることなく、粛々と厳しい修行をこなしていく真面目な兄が、智恵も大好きだ。
「そういえば、護符が割れたのになんともなかったや……」
成宮家の一族は、いわば鬼退治をした家系ということになるので、当然といえば当然だが、鬼に嫌われている。
正確に言えば、この世に残っているであろう鬼の怨念から嫌われているのだ。残留思念の一種とでも言えばいいだろうか。
父や兄はよく鬼の憎悪のようなものを感じたりするらしいし、時には夢枕にすら立ってくるという。
智恵にまとわりついてくるそれも、おそらく足濱童子に関係した何かだ。
以前はうっすらと存在が分かる程度だったのに、ここ数年でだんだんとそれが輪郭を持ち出した。そしてそれが小さな鬼の形を成しているのに気づいたのは、今年に入ってからのことだ。
だから住んでいる部屋に設置している神棚には、兄謹製の御札が奉ってあるし、一年三六五日、兄から送られてくる護符を身に着けている。それが割れたり離れたりすれば、兄はすぐに連絡を寄越す。智恵に何かがあったのだと察知するそうだ。
智恵はその護符を『アナログなスマートタグ』と呼んでいた。
普段、智恵が護符を身体から外すのは、お風呂に入る時だけだ。家の中なら神棚の御札が効力を発揮するので、外しても問題ないからだ。
しかし過去に数度、外出中に身から離れたことがあるのだが、その時は背筋が凍るほどの怖気に襲われ、体調を崩し寝込んでしまった。
以来、護符を身に着けるのを忘れたことはなかったのだが、先日事故に遭った時に護符が割れてしまった後は、予備の存在すらすっかり忘れていた。
何故だろうと首を捻ったものの、それから少しして思い出した。
「……あ、そういえば」
智恵はバッグの中を探り、財布を取り出した。そこにあれがしまってある。
「……これのおかげ?」
あの満月の夜、鮮烈な印象を智恵に与えたあの青年――陣川湊からもらった名刺。
『さっき渡した名刺、あれを肌身離さず持っていれば、しばらくは護符と同じ役割をしてくれるはずだ。あれも結構な祈りが込められているから』
彼は確かこう言っていた。
「あれって本当だったの……?」
智恵は名刺を、矯めつ眇めつ眺めた。これが、兄からもらった護符と同じ働きをしてくれているのか。本当に?
こんな紙っぺらに、兄と同等の祈りを込められる人物って――
『異類生活支援案内所』への興味が、俄然湧いてきた。
『そこに来れば、多分いい仕事を紹介できる』
彼はこうも言っていなかったか。
「……ハロワだと思って、行ってみようかな」
智恵は名刺を持ったまま立ち上がった。