第28話 ラスボス_1
先ほど割られてしまった護符をかろうじて身につけた智真が、石碑を睨めつけている。
そこからは大きく黒い何かが飛び出しつつあった。
『成宮智嗣の子孫よ……五百年の恨みを晴らす時が来たぞ――』
智真も智恵も、足濱童子の姿を知らない。智嗣が残した文献には絵はなく、文字だけで童子の姿が表現されていた。
黒光りした身体は大きく十尺ほど、顔は岩のようで、耳は尖り、額から二本の角が伸びている――まさにその描写と同じ姿が、石碑から現れた。石にかけられたしめ縄と紙垂は、今にも千切れてしまいそうだ。
「来たぞ!」
あまりの禍々しさに、智恵は身動き一つ取れず固まっていた。湊が前に立って庇ってくれているが、足濱童子から放たれた怨念と邪気に窒息しそうだ。
白衣と袴姿の智真は、あらかじめ持参していた祓串を手にし、祈祷を始める。
「新兵衛! そこにある文箱の中に、墨と筆と硯と湧き水と半紙が入ってる! お前の法力で式神を起こせ!」
「い、いや、でもそこらの墨じゃ式神は……」
湊に縄を解かれた新兵衛は手首を擦りながら、玉垣のそばに置かれた文箱に駆け寄る。智真の迫力に圧されつつ蓋を開くものの、中の道具に触れるのには躊躇しているようだ。
「そいつは祈祷墨だ! 墨も硯もうちの家宝だから大事に扱えよ! 早く! 俺がこいつを押さえている間に頼む! 俺だけじゃ、こいつを封印できない! お前の……相士の力が必要なんだ!!」
智真の祈祷が、かろうじて童子をその場に縫い止めている。しかしそれも大してもたないだろう。
「あの墨と硯……」
智恵はそれに見覚えがあった。普段は金庫に厳重に保管されているそれらは、智嗣が足濱童子を封印した時に使ったものだと成宮家では伝えられている。年に一度、祈祷をする時にだけ本堂に奉られるのだ。
保存状態を保つために、かなり気を使って手入れをされている。
その墨と硯が、今再び悪鬼を封印するために使われようとしていた。
『足濱童子、お前まだこの世で悪さをするつもりなの?』
妖狐姿の珠緒が智真のそばにつき、援護する。
『――九尾狐か。人間なんぞに阿りおって……!』
『逆恨みをこじらせた厨二病に、言われたくはないわね。もうあきらめておとなしく寝ておきなさい!』
『黙れ! お前たち、何をしている! 早くここにいる者ども――智嗣の子孫以外を殺せ!』
足濱童子が、その場にいた鬼たちに命じる。正確に言えば、鬼に操られた人間だ。だから守護石が効かない。男たちは手にしていた拳銃を珠緒や新兵衛に向ける。
次の瞬間、湊と海が動き、拳銃を叩き落とした。それを烏天狗たちが拾い、逆に男たちに向ける。
『烏天狗まで人間の言いなりか……! もういい! お前たちは皆、わしが喰ろうてやるわ!!』
大地を震わすほどの大声が轟いた刹那、暗雲が立ちこめて辺りが暗くなった。雷鳴まで聞こえてきて、ビリビリと木々が震えたかと思うと、鳥たちが一斉に羽ばたいた。
轟音が、智恵たちの耳を劈く。
怒りを内包した童子の力が強く大きくなると、ついにはバチンと音を立て、桃の木と石碑のしめ縄が切れた。
「……」
その場にいた皆が、ごくりと生唾を飲み込んだ。
実体化した三メートルを超えるであろう巨躯が石碑を越え、こちらに向かって進んでくる。
一歩、また一歩と、いかつい足が玉砂利を踏みしめるたびに、衝撃で地面が揺れ、智恵たちの身体もよろめく。童子が近づくにつれ、圧倒的な重い気に皆の全身が強張っていくのが分かる。
「ぐぅ……っ」
童子を抑えている智真の全身から、脂汗が吹き出し、身体はズリズリと後退していく。
『智嗣の魂を継ぐ者よ、おとなしくわしに喰われろ……!』
智真と珠緒がなんとか食い止めようとするが、鋭く固い爪を湛えたごつい手が、今にも智真の首を捉えそうだ。
護符の効力など、とっくに使い果たしているようで、粉々に割れて地面に落ちていた。
『く……っ、さすが五百年妖力を蓄えてきた鬼ね……私でも一人じゃ抑えられないわ……』
珠緒の声も苦しそうだ。
鬼哭啾啾――凄まじい気の流れが周囲のものを巻き上げる。
「し、新兵衛……まだか……っ、ぐぅ……!」
智真の首元に、まさに足濱童子の爪の切っ先が掛からんとしたその瞬間――強烈な光が、禍々しい空気をなぎ払った。
皆が光の方を振り返る。眩しい中、目を凝らしてよく見ると、そこには二メートルほどの獣が二頭――虎と牛がいた。
黄金の虎と、漆黒の牛――神々しいほどの輝きを放つその獣たちは、まるで本当に生きているようだ。
「……さすが上物の祈祷墨だぜ。兄さん、後は頼んだ」
大きな仕事を終えた新兵衛は、汗だくのままその場に倒れ込んだ。人の大きさほどもある祈祷半紙二枚に、それぞれ牛と虎を描き、さらにそれを呼び出したのだ。法力と体力を完全に消耗してしまったようだ。
それを見届けた智真が、息を乱しながら言う。
「新兵衛、よくやった……! 珠緒さん、少し頼みます!」
童子を足止めしていた智真は、祓串を手放すと、両の手を組んだ。
「臨――」
その一言が放たれた途端、辺りはシンと静まりかえった。




