第14話:稀人来たり
その日、案内所はなんだか慌ただしかった。
「諏訪原さん、一体何があったんですか?」
異類や人間のスタッフたちが、バタバタと事務所内を行き来している。智恵は出勤するや、諏訪原に尋ねた。
「五年振りに出たらしいよ。稀人の男性が」
「え……稀人、ってことは……タイムスリップした人が?」
「そう。しかも日本橋で。この近くだよ。今、上で所長がその人と話をしているよ。ここのメンバーで彼とスムーズに話ができるのは、おそらく所長と本多さんだけだから」
「ということは、過去から来た人なんでしょうか」
遠い過去から現代まで千年近く生きてきた珠緒のことだ。文明の進んだ時代にいきなり来てしまった、過去の人間の対処にも慣れているだろうし、寄り添えるだろう。
「詳しいことは分からないけど、江戸時代の人間らしいよ。しかも江戸住まいだったとか」
タイムスリップしてきた稀人のピックアップは、本多と湊の担当だ。何故なら、人狼の血を引く湊は嗅覚が鋭い。異質な匂いを嗅ぎ分けられる。
そして烏天狗である本多は、珠緒同様に昔から現代まで生きている異類で、しかも稀人の気配に敏感だ。タイムスリップが起きた気配を感じ取れるのは、日本では烏天狗の一族のみ。その能力とコンピューターを組み合わせて構築された察知システムが、案内所内に設置されている。
「江戸時代? 徳川十五代将軍の誰かとか? 平賀源内とか? 個人的には、大石内蔵助に討ち入りの話を聞いてみたいと思うんですよねぇ、私」
母の趣味につきあわされる形で、智恵はよく時代劇を観ていた。
忠臣蔵のあれやこれやは真実だったのか? など、過去の人間に聞きたいことは山ほどある。
「智恵くんは意外とミーハーだねぇ。……残念ながら、有名人ではないみたいだよ。あくまでも、僕らの歴史上では無名の一般人」
キラキラキラキラと目を輝かせる智恵を見て、諏諏訪原がくつくつと笑った。
「へぇ……」
(会ってみたいなぁ……)
江戸時代を生きた人間だそうだから、銀杏髷なんだろうなぁ――とか。
粋でちゃきちゃきな江戸っ子男子なのかなぁ――とか。
智恵の妄想は、それはそれは大きく膨らんでいたのだが。
「――だるい。しばらく動きたくねぇわ。時を超えるってぇのは疲れるもんだなぁ」
所長室に呼び出され「いよいよ稀人とご対面!」と、足取り軽くエレベーターに乗り、張り切って入室した智恵を待っていたのは、ソファの上でアメーバーのようにだらんと伸びている男だった。
智恵の妄想どおり、確かに髪型は銀杏髷だ。いや、銀杏髷だった、と言うべきか。
江戸の男は基本的にはおしゃれ好きで、隙のない髷を作っていて、月代もきっちり剃って――智恵はそんな粋なイメージを持っていた。
しかし目の前の男は、髷が崩れてボサボサになっているわ、月代部分は無精ひげのように毛が生えつつあるわで、もはや落ち武者のようになっていたのだ。着物だって何故か湿っていて臭い。
しかもちゃきちゃきとは一八〇度違い、気持ちよさそうにソファのクッション性を堪能しては「このそふぁというやつは、寝心地がいいよなぁ」と、よだれまで垂らしているではないか。
顔はなかなか整っているだけに、いろいろな意味で残念だ。実に残念だ。思わず「ときめきを返せー!」と叫びたくなった智恵である。
「所長、この方大丈夫ですか……?」
「大丈夫よ。タイムスリップしてきた人はみんな、しばらくはこうだから。……で、その後、智恵ちゃんにも『サポート』を頼みたいのよね。基本的社会生活を教えていくお手伝いをね」
「基本的社会生活……ですか」
「まぁ、要はスマホや家電の使い方とか、そういったことよ。一応担当部署はあるんだけど、智恵ちゃん、面倒見よくて辛抱強そうだから」
「なぁるほど……」
稀人が一番大変、というのは、きっとこういうところなのだと、智恵は納得した。
お露、お岩、お菊の幽霊三人娘は、同じ江戸時代生まれだが、明治大正昭和――と、今日までの進化の過程を経験してきているので、幽霊といえど文明の利器をすんなりと使いこなしている。但し『案内所』の中限定だが。
しかし突然現代に飛ばされてきた稀人には、そういったものの概念から教え込まねばならないのだ。
「ちなみに彼の名前は新兵衛だそうよ」
「新兵衛さん、ですか」
「おぉ、ねえさんべっぴんだなぁ。名はなんてんだ?」
ソファに横になったまま、新兵衛が目を開いてこちらを見る。
「成宮智恵です。よろしくお願いします」
「おぅ、お智恵だな。よろしく頼まぁ」
(また『お』がついてるし……)
江戸時代の人間はどうしても、女子の名前に『お』をつけたがるのか。
とりあえずは、身だしなみをなんとかしてもらうことが最優先だ。この小汚い格好では、都会の町中に放り出すこともできない。
「智恵ちゃん、ケンゾーに行って赤島に新兵衛の全身をくまなくきれいにするよう伝えて」
「分かりました」
『ケンゾー』とは『健康増進課』のことで、クリニックからファッション指導まで、異類の『健康で文化的な生活』に関するサポートをしている部署だ。
実はこのビルには異類向けの銭湯まで存在していて、妖怪や幻獣たちが元の姿で湯船に浸かっている姿は非常にカオス。
智恵は当然ながら男湯は見たことはないが、珠緒に誘われて女湯に入ったことがある。その時の衝撃は今でも忘れられない。
広い湯船では人魚が泳いでるわ、砂かけババアは洗い場を砂まみれにするわ、絡新婦は打たせ湯の主だと言い張って動かないわ、雪女が入っている水風呂は半分凍っていて、誰もそこに寄りつかないわで、とにかく賑やかだ。
一番驚いたのは、珠緒の美ボディ。某ゴージャス姉妹ばりのボンキュッボンプロポーションで、とても千年近くを生きているとは思えないほどピッチピチだった。
凹凸がささやかな智恵だが、もはや妬み嫉みを超越して、うっとりと見とれてしまったのだった。
ちなみに赤島の正体は『あかなめ』で、健康増進課の課長を務めている。さすがに現代では垢を嘗めたりはしない。むしろきれい好きで「異類たるもの、清潔であれ!」と、常に浴場(もちろん男湯だけだが)を番台ばりに監視している。
身体をきれいに洗わないまま湯船に飛び込もうものなら、赤島からきつい指導が入るらしい。
入浴時だけではなく、案内所への出入りにも目を光らせていて、清潔感のない異類にはやはり教育的指導が入るという。
智恵が彼に新兵衛への指導を依頼すると、
「稀人は久しぶりだし、腕が鳴りますなぁ~」
と、長い舌で舌なめずりをしていた。
その日新兵衛は、赤島から全身を泡だらけにされて驚き、シャンプーのフローラルな香りに酔い、風呂上がりのコーヒー牛乳に感動していた。
そして案内所が所有している寮に案内され、赤島が手配した唐揚げ弁当とハンバーガーのセットに「なんだこれ、うめぇ!」と、がっついた。
夜はスプリングの効いたマットレスの上でふかふかの布団に包まれ、ぐっすりと眠った。
「……現代の職人技ってぇのは、おっそろしいもんだな」
現代技術の洗礼を嫌というほど浴びて、一晩を経た新兵衛の口から出たのがこの一言だったという。