片耳の福音
子爵家に生まれたわたし、ハリエットは、跡継ぎの弟もいるので十六で嫁に出された。
嫁ぎ先はスタイルズ伯爵家。
子爵家の娘の婚姻に自由などなく、惚れた腫れたなど無縁の世界。
上位に当たる貴族家から打診があれば、余程の事情がない限り従うだけだ。
実家からは、かなり遠方になる領地へ、わたしは身一つで嫁いだ。
館で開かれた内輪の披露宴には、ふだん王都に住む義両親も来て、温かい言葉をくれた。
この家は、地道な努力で維持されており、心配したほど敷居が高くもなかった。
わたしの夫、伯爵家の長男アダムは四歳年上で、領主代理として働いている。
情熱はなくとも、お互い取り立てて不満もなかったと思う。
執事やメイド長の手助けのもとで領主館を切り盛りしながら、わたしは十九で長男を産んだ。
嫁の身として、後継ぎの男子を産むと産まないとでは人間としての価値が変わる。残念なことだけれど、それは事実で、私も男子を産んだことに安堵していた。
息子はすくすくと育ち、無事に一歳半を越えた。
その頃、義両親が思いがけない話を持って来た。
「ハクスリー伯爵家で乳母を探しているので、行ってみる気はないか?
お前が乳母として採用されれば、事業に一口乗せてもらえるかもしれない」
ハクスリー伯爵家はいくつもの事業で成功しており、羽振りの良い家と聞いている。
夫は少し考えてから言った。
「一応、面接を受けてみたらどうだ?」
勤務地の領地までは、ここから馬車で一日かかる。
もしも採用されれば、頻繁に家に戻るのは難しい。
「グレアムはまだ幼いのです。
何かあった時に、すぐに帰れない場所だと……」
「あの子は大人しいし、家に置いて行って問題ないだろう」
確かに、そうかもしれない。
息子は順調に乳離れし、人見知りもしない。
メイドに子守りを任せても、泣き喚くことも無かった。
グレアムはわたしだけの子ではないのだ。
スタイルズ伯爵家の跡取りとして、世話係以外の使用人も目を配ってくれている。
当主である義父、そして義母、更には夫が勧める話だ。
翌日にはハクスリー伯爵家へ手紙が送られ、一週間後に面接に行くことが決まった。
有難いことに、先方からは迎えの馬車が寄越された。
わたし一人には勿体ないくらいの乗り心地の良い馬車だ。
「ようこそ」
迎えてくれたのはハクスリー伯爵夫人ジョゼフィン様。
彼女の夫である現当主は婿養子だ。
「あら、お子さんは家に残してきたの?」
「はい。まだ馬車に慣れていませんので」
あの乗り心地の良い馬車は、子供を連れてくるかもしれないという気遣いだったようだ。
「他に候補は二人いるということ、予めお伝えしておくわね。
それと、貴女に決まったら、お子さんは連れていらっしゃる?」
「いえ、息子は乳離れしましたし、夫からは家で面倒を見られるから、と」
「そうなのね。後継ぎですもの、母親の一存では決められないわね」
「はい」
ジョゼフィン様は、少々気の毒そうな表情をしたものの、余計なことは仰らない。
「一応、コーディの意見も参考にしないと」
彼女は悪戯っぽく笑った。
「ちょっとね、生意気な子なのよ」
案内された子供部屋は、さすがに立派だった。
まさに格の違いが表れている。
絵本から飛び出たような柔らかな色彩の動物が踊る壁紙、清潔で美しい寝具。
ベビー用のベッドは少し古めかしいが、しっかりした造りだ。
「ほとんど新調したんだけど、ベッドは私のお古よ。
家具職人に直してもらったの」
「素敵ですね」
丁度、目覚めたコーディ様が私を見た。
泣かれると採用されないかも、とは思ったけれど、顔を見てもらわないのでは来た意味が無い。
「コーディ様、乳母候補のハリエットでございます。
ご機嫌よくお目覚めでしょうか?」
そう訊くと、坊ちゃまは目を見開いた後で声を上げて笑った。
「あら、やんちゃ坊主が、貴女のこと気に入ったみたい」
「まあ、光栄です」
その夜は泊めて頂き、翌日の夕方、家に戻る。
丸二日、メイドに世話を任せたが、特に息子の様子に変化は無かった。
二週間後、採用の連絡があり、わたしは単身、ハクスリー伯爵家に出向いた。
自分の家で休日を過ごすためには、往復だけで二日間必要になる。
そのため、月に一度、四日間の休みをもらって家に帰ることにした。
仕事は順調で、コーディ様も体調を崩すこともなく、たいていご機嫌に過ごされていた。
その半年後、冬の始まる頃に、国内で流行り病が広がった。
念のため夫に手紙を書き、病への注意を促した。
病を拾わないよう行動に気を付けて欲しいこと、子供は抵抗力が弱いので、特に気を遣って欲しいこと。
出来れば、自分で息子の側に居たかったが、乳母の仕事に就いた身ではこちらを優先せねばならない。
わたしは帰宅を自粛した。
幸いにも、ハクスリー伯爵家では流行り病を拾うものは無く、翌月、わたしは一週間の休みをもらって帰宅した。
流行り病は、すっかり下火になっていた。
久しぶりに戻った屋敷の様子は変わりなく、夫もいつも通り。
すでに息子は眠っており、とりあえず元気そうな寝顔を見て、わたしは安心した。
翌日のこと。
「おはよう、グレアム」
片耳を枕に付けた息子を、そっと揺り起こす。
息子は眠そうで、なかなか起きない。
もしや熱でも、と額に手をあてたが、熱くはない。
うっすらと目を覚ました息子が伸びをし、仰向けになった途端、わたしに気付いた。
「かあさま!」
最高の笑顔だ。
「グレアム、元気でよかった」
仕事も順調で、息子も元気で。
わたしは幸福だな、とその時は思った。
ところが、ほんの一日の中で、少しずつ違和感が深まる。
二か月前の息子は、こんなに反応が遅かっただろうか?
呼びかけても、すぐに返事をしないことがある。
その理由に思い当たったわたしは、努めて冷静に息子に接した。
膝に抱いた彼の耳に口をよせ、小さく囁いた。
一方の耳には、くすぐったそうに笑った彼だったが、もう片方には全く反応しない。
俯いたわたしの唇が耳に当たると、その感触で気付き「かあさま?」と見上げてくる。
「あんまり可愛い耳だから、キスしたくなったのよ」
そう言って誤魔化した。
すぐに主治医に連絡を取り、聴力を確かめてもらった。
子供部屋でする話でもないので、談話室に場所を移す。
「私の専門ではないので、わかる範囲で申し上げますが、グレアム様は片耳がほぼ聞こえない状態です」
やはり。
一緒に診察結果を聞いた夫は、ひどく驚いていた。
「心当たりは?」
「わたしは乳母の仕事で二か月留守にしておりましたので、世話係のメイドを呼びます」
すぐに呼び出されたメイドは、緊迫した様子に狼狽えた。
医師は穏やかに質問した。
「この二か月の間に、何かグレアム様の様子に変化は?」
「……いえ、特には」
「熱が高かったようなことは?」
「二日ほど、微熱がありましたが、食欲もおありでしたし、機嫌もよくて」
「グレアム様は、どちらの耳も、ちゃんと聞こえていらっしゃいましたか?」
「はい、もちろんです。
そういえば……お熱が出た後、呼びかけてもお返事が遅かったかもしれません。
ですが、少し大きな声で呼べば、ちゃんと……」
メイドはやっと気づいたようだ。
「……そんな。
わたしは外出は控えておりましたし、外での用がある使用人は直接坊ちゃまには接していないはずです。
メイド長からも、そう指示がありました」
わたしは夫に訊ねる。
「アダム様、この二か月、いかがお過ごしでしたか?」
「私はいつも通りだ。
街では酒の飲める店も営業を自粛していたからな。
従兄が王都から帰って来たので、彼の家に一度行ったくらいだ」
「玄関先でお帰りに?」
「いや、一杯勧められたので、飲んできた。
久しぶりだから回ったな。
もちろん、少し付き合っただけで家に戻った」
「それは、サイクス家のことでしょうか?
あの家では奥様が罹患しました。
そちらへお寄りになったのは、いつ頃ですか?」
「ひと月ほど前か」
「丁度、時期が合います。
その日、お帰りになってから息子さんに接触を?」
「いや、酔っていたので、よく覚えていないが……」
「……旦那様が酔ってお帰りになった日、すぐに坊ちゃまの部屋に行かれたのを覚えております。
部屋を覗くだけだと仰るので、お止めしなかったのですが」
メイドがはっきりと答える。
夫は本当に身に覚えがないようで、怪訝な表情をする。
思い出してみれば、酔って機嫌よくなった夫が、息子を抱き上げることがあった。
……何度か見た、微笑ましい光景だ。
流行り病は、主に子供に後遺症を残した。
病が去った後、不調が出て初めて、かかっていたことを知る親も多かったそうだ。
たいていの後遺症は、悪化しないものの完治もしないと聞く。
息子の今後を思い、呆然としていたわたしに、夫は言った。
「乳母の仕事を辞めて、家に戻ってくれ。
耳の不自由な息子では、跡継ぎとして不安だ」
わたしに、また男子を産めというのだ。
確実に、夫のせいで息子が罹患したとは言い切れない。
その疑いが濃厚だ、というだけで、どこからでも病は忍び寄る。
そして、彼が自分のせいだと反省したところで、時は戻らない。
彼の考えが間違っているとは思わないけれども、一足飛びに過ぎる。
その時のわたしは、流れについていけなかった。
その夜、同じベッドで眠った息子は、わたしの心中を察したのか、ずっと不安げだった。
やっと寝付いた彼を起こさぬよう、わたしは涙を堪える。
翌朝、夫に告げた。
「仕事を辞めるにしても、一度、あちらへ戻って、ハクスリー伯爵ご夫妻とお話をしなければなりません。
グレアムを連れて行ってもよろしいでしょうか?」
「ああ、構わない」
夫は本当に、息子を後継者候補から外してしまったようだ。
「奥様、本当にわたしはなんとお詫びを申し上げればいいのか……」
世話係の若いメイドは、何度も謝ってくれた。
確かに、彼女にも責任はあった。
しかし、雇い主に逆らえたはずもない。
「いいのよ、とは言えないけれど、あなたは出来るだけのことをしてくれたのだと思うわ。
気持ちを切り替えて、自分の仕事をなさい」
わたしに言えることはそれだけだった。
息子を仕事先に伴うので、メイドは他の仕事を割り振られている。
メイド長も責任を感じているようだったが、謝られてもわたしが困惑するだけだとわかってくれていたように思う。
いつもより時間のかかった荷造りを、黙って手伝ってくれた。
ハクスリー伯爵家からは、時間通りに迎えの馬車が来た。
「挨拶だけなのに、なんだか大仰な荷物だな」
夫は不思議そうに、感想を述べる。
「いつもと違い、グレアムを伴いますから。
小さい子は、いろいろ必要なので」
脇に控える執事とメイド長は、ひときわ深く頭を下げていた。
ハクスリー伯爵家に着いて、長い休暇の礼と、息子を連れて来た詫びを述べた。
そして、息子の状態を説明する。
「夫は、乳母の仕事を辞めて、次の子を産むために家に戻れと言うのですが、すぐにそんな気にはなれなくて……」
感情の整理がついていないのだろう。
雇い主に思うまま告げてしまっていた。
「もちろんよ。
コーディも貴女に懐いているし、辞められたら困るわ。
少し時間も必要でしょう。
今まで通り、働いてくれると嬉しいわ」
「ありがとうございます、奥様」
「さあ、可愛い坊やはどこ?」
「部屋で寝かせてあります」
「そうね、初めての長旅ですものね。明日には紹介してもらえる?」
「ええ、是非」
ハクスリー伯爵は穏やかな方で、いつものごとく、奥様の言葉に頷きながら、笑顔を見せてくださった。
眠る前だったコーディ様に挨拶を済ませ、わたしは部屋に戻った。
貸していただいている部屋は、もともと、子連れの乳母を雇うつもりだったらしく十分な広さがある。
ベッドでは旅疲れしたグレアムがぐっすり眠っている。
わたしも、やっと自分の居場所に戻れたように安心して眠れた。
夫には、急には仕事を辞められない旨を手紙にして送った。
それから一月後に、王都から義両親が訪ねてきた。
「アダムや使用人たちから話は聞いたわ。
貴女の話も聞かせてくれる?」
義両親は、ハクスリー伯爵家との繋ぎのために、わたしに乳母の職を勧めた。
それもあって、すぐに家に戻れという考えではないようだ。
しばらく、このまま仕事を続けるという結論に達し、義父はハクスリー伯爵に挨拶に行った。
残った義母がわたしに告げる。
「これは、家や息子と関係なく、私たちだけの話として訊くのだけれど。
貴女は、スタイルズ伯爵家に戻る気はある?」
「今はまだ、判断ができません」
後継から外されるにしても、グレアムの将来のこともある。
自分の感情では決められない。
「後遺症のせいで後継ぎが不安というのなら、親戚から養子をもらうことも出来るわ。
その場合、グレアムのことは悪いようにはしないけれど、どうしても軋轢が生じるわね」
離縁せず、今後の子作りにも協力しないとなれば、そういう選択肢もあるのだ。
家のために、子供と引き離したことを、義母は詫びてくれた。
「私も浅はかだったわ。
母親の先輩として、もっと気を配るべきだった。ごめんなさいね」
「いいえ、お義母様のせいでは……」
「自分の息子が思ったより大人になり切っていなかったと知ったけれど、後の祭りね。
私も今後は、出来るだけ貴女の味方になれればいいのだけど」
「そう言っていただけるだけで、充分です」
それから半年が過ぎ、夫から手紙をもらった。
戻ってくる気がないのなら、離縁を考えるというものだ。
当然の成り行きに思えた。
しかし、そのまま是と返事をするのも気が進まず、わたしは義母宛に夫の提案と、それに対する自分の考えを綴った。
今後、どうするにしても、まずは仕事が必要だ。
乳母として、いつまで雇ってもらえるかは主次第。
わたしは奥様に相談した。
「乳母として必要なくなれば、メイドでもなんでもかまいません。
息子が、せめて従僕として働ける年齢になるまで、わたしを雇っていただけないでしょうか」
「まあ、乳母はずっと必要よ。
それに、そろそろ遊び相手も必要ね。
スタイルズ伯爵家との間で話が決まったら、貴女の息子さんをコーディの遊び相手として雇うわ」
「奥様」
「今でも、すでにグレアム君はコーディに話しかけてくれたり、いい影響を与えていると思うの。
このまま、ずっといてくれると嬉しいわ」
「ありがとうございます」
わたしに付いて回るグレアムは、わたしの真似をして坊ちゃまに話しかけるのだ。
二人とも、まだ言葉の意味はあまり理解していないようで、たまに大人が聞いても分からない、不思議な会話をしている。
その様子を見た奥様が「きっと同世代にしか通じない話をしているのだわ」と仰るので、放っておくことになった。
万一、急に機嫌を損ねて、どちらかが手を出すことの無いよう、誰かが必ず様子を見るようにはしている。
義母は、手紙の返事の代わりに直接会いに来てくれた。
そこで話し合い、結局、離縁することに決まる。
グレアムも籍を抜くことになり、書類を整えて署名した。
全てが片付いた後、夫から息子に小さな荷物が届いた。
開けてみれば、中には宝石の原石が一つ。
簡素な調子で綴られた手紙には、三歳の誕生日の記念品にあしらおうと用意した、とある。
子供の死亡率は低くはない。
三歳まで生き延びた時の祝いを、予め用意してくれた彼には、親としての愛情があったと思う。
手紙の中には、息子の耳の状態を知った直後の態度を謝罪する言葉もあった。
配慮が足りなかった、と。
義母も夫がうんざりするほどに、言い聞かせたかもしれない。
確かに、夫の態度は良くなかった。
だが、恨むのも違う。
今にして思えば、嫁の立場であっても、最初から息子のためにもっと粘ることも出来たはずなのだ。
わたし達は、しっかり向き合って、話し合うべきだった。
自分がいつでも、より良い未来を選べるはずだと信じている人間は少なくない。
いつだって今、手の中にある物で戦うしかないのだと腹を括るまでには、経験が必要だ。
十月十日の間、身を削り、苦しい思いをして子供を産み落としたことで、わたしは夫より一歩だけ前に出た。
もう、後戻りも出来ず、わたしは自分自身の道を進むだけ。
とはいえ、わたしに万一のことがあれば、息子は父親を頼らねばならぬこともあるだろう。
『何かあれば相談にのる』という手紙の一文を信じて、わたしはなるべく丁寧に返事をしたためた。
コーディ様より一歳年上の息子は、わたしとともに、いつも子供部屋で過ごした。
彼等の不思議な会話は、不思議な遊びへと進化する。
坊ちゃまは、グレアムの反応が、他の人たちとは違うことに気が付いた。
顔の向きによって、呼びかけても自分の方を向かない時がある。
どんな使用人でも、すぐに自分の方に注意を向けるのに、コイツだけ違う、と思ったらしい。
それが耳のせいだ、とは理解していない。
だから、揶揄っているわけではないのだ。
グレアムが自分の方を向いていない時に、音をたてたり声を掛けたりする。
それが室内だと、壁に音が反射して、息子はキョロキョロした。
庭に散歩に出た時は、音が拡散する。
息子が、はるか遠くを見ていると、コーディ様は不安になるらしい。
音をたてたのは自分だとばかり、グレアムの袖を引っ張る。
そんな坊ちゃまに、息子はいつでも笑顔を向けた。
それは、彼等にとって遊びだった。
いろいろな方向からもたらされる、いろいろな音。
大きな音、小さな音。聞き取りにくい音、響く音。
拍手や楽器の音色、名前を呼ぶ声、そして歌。
音がした場所がどこなのか、息子は自然に探すようになった。
視覚を巡らせ、世界を見渡す。
片耳が聴こえなくなったことで、どこかぼんやりとしていた息子が、少しずつ生き生きし始めた。
息子は、遊びの中で自分の聴覚に慣れ、更には視覚や気配で聴力を補うようになっていった。
グレアムに届く音は、コーディ様によって祝福されたのだ。
コーディ様に家庭教師がつくようになってからは、傍らで一緒に学び、互いに教え合っている。
息子の聴力について、家庭教師の先生方には説明しなかったが、何の問題も起きていない。
そうして長らく教育を受けさせてもらった息子は、ハクスリー伯爵ご夫妻に認められ、従僕として雇っていただけることになった。
「えー、グレアムはずっと僕と一緒に勉強すればいいのに。
将来、僕の右腕として支えてもらいたいと思っているんだ」
コーディ様とわたし達母子、三人だけのお茶の時間に、そう言われた。
「坊ちゃま、ありがとうございます。
そんなふうに言っていただけて光栄ですわ。
これ、グレアム。坊ちゃまにお礼を申し上げて!」
「将来については、いろいろ考えておりまして。
まあ、選択肢の一つとして考慮します」
「グレアム!」
「お母さん、コーディ様は、私が一緒に学べば、全部代わりにやらせて、楽が出来ると思ってらっしゃるんだ」
「まさか……」
うちの息子は、子供のくせになんてことを言うんだ、と思いつつコーディ様を見ると視線を逸らしている。
なんと、図星のようだ。
坊ちゃまは、何でも卒なく吸収していく方だが、一番得意なのは猫被り。
乳母として側に居たわたしも、まだまだ騙されている部分があるのかもしれない。
「僕はボーっとしてたいんだ。
グレアムがいてくれれば安心していられる」
コーディ様が開き直ってしまわれた。
「私はただでさえ、聴覚が半分なのですから、貴方がボーっとしてても助けられない時もあります」
「助けられる時もあるんだね?」
「そうですね。間に合えば、助けます」
「それで充分。
全責任を君に擦り付けるほど、僕は恥知らずじゃない」
「とりあえず、ボーっとし過ぎないでくださいね」
「うーん、それはどうだろう?」
いつものように飄々としたコーディ様の言動に、つい和んでしまう。
次期当主のこの方が、わたしの息子を身内のように扱ってくださるのは心強いことだ。
グレアムには乳兄弟として、猫を脱いだ坊ちゃまを受け止められる存在でいて欲しいと願う。
ノックの音がして、メイドが伝言を持って来た。
「ハリエットさん、奥様が温室でお呼びです」
「すぐに参ります」
乳母として坊ちゃまに関わることも、ほとんど無くなって来た。
その代わり、奥様の相談役のような仕事を頼まれている。
古参で信頼のおけるメイドも何人も雇っているので、わたしでなければ務まらないようなものは、何もないのだが。
「もう少ししたら、息子がもっと生意気になるに決まっているし、その時に、愚痴を言い合える人がいないと困るのよ」
奥様は、そんなふうに言ってくださる。
坊ちゃまとは年齢が離れてしまうが、奥様は現在第二子を妊娠中。
乳母は新しく若い人を雇う予定で、その指導役を任されている。
「ハリエット、急に呼んでごめんなさいね。
この手紙の内容がちっとも頭に入らなくて。
一回読んで、かみ砕いてもらえるかしら?」
「かしこまりました」
妊娠のために体力を奪われ、疲れ気味の奥様のサポートはやりがいのある仕事だ。
渡された手紙は貴族らしい、持って回った表現を駆使している厄介なもの。
わたしは気合を入れて解読にとりかかった。