傘1本で彼女を作る方法
放課後。
下校するべく昇降口に向かった俺・紺野照二は、外の様子を見て驚いた。
「今日は1日、気持ちの良い快晴が続くでしょう」。そんなお天気アナの予報も、見事にはずれる。
空には分厚い雲がかかっており、あろうことか大雨が降る始末。
予想だにしていなかった降雨に、生徒たちの大半は慌てふためいていた。
そんな中、俺は実に落ち着いた様子で鞄の中に手を入れる。
幸いにも、俺の鞄の中には折り畳み傘が入っているのだ。
これならば、びしょ濡れになる心配はない。
俺が傘を開き、歩き出そうとすると……隣で「どうしましょう……」と困っている女子生徒の姿が目に入った。
彼女は隣のクラスの、凉野華奈さん。
学年一の秀才であり、学年一のお金持ちであり、そして学年一の美少女としても有名だった。
凉野家の財力ならば、欲しい物は大抵手に入る。凉野さんの容姿と人柄ならば、困った時は誰かが手を貸してくれる。
そんな彼女が、一体どうしてこうもオロオロしているのだろうか?
理由は明白だ。
凉野さんも他の生徒同様、傘を忘れてしまったのだ。
大して接点のない同級生A相手なら、「頑張りたまえ」と心の中で応援してからこの場をあとにするだろう。
俺の手元にも傘は1本しかないわけだし、自らを犠牲にして貸すつもりはない。
しかし、凉野さんは別だ。俺は彼女に、恩がある。
2年前、この高校の入学試験当日。校内で迷子になった俺に声をかけて、受験教室まで案内してくれたのが、他ならぬ凉野さんなのだ。
あの時凉野さんに助けて貰ったお陰で、俺は今こうしてこの高校に通えている。
しかし高校生活が既に半分過ぎ去ったというのに、俺はまだその恩を返せていない。
……今こそ、恩返しをする絶好の機会ではないだろうか? そう考えた俺は、凉野さんに傘を差し出した。
「……えーと?」
何の言葉もなく傘だけ差し出されては、そりゃあ凉野さんも困惑するわけで。
「傘忘れたんだろ? これ、使って良いよ」
「それはありがたい限りですけど……紺野くんは、もう1本傘を持っているんですか?」
「えっ? あっ、あぁ」
ここで「傘を持っていない」と答えれば、きっと凉野さんは俺の申し出を拒むだろう。彼女はそういう、優しい子だ。
だから俺は、傘を持っていると嘘をつくことにした。
「そうですか。……でしたら、そのもう1本の傘を貸して下さい」
「えっ!?」
「「えっ」じゃありませんよ。もう1本の傘というのは、予備の傘なのでしょう? なら、私はそっちを使わせていただきます」
予備の傘の方が、小さかったり骨が弱かったりするだろう。だから借りる身の自分が、その傘を使う。
そのような気遣いから、凉野さんは「予備の傘を使いたい」と言ったわけじゃない。
俺が本当は予備の傘なんて持っていないことを、彼女は見抜いているのだ。
何も言わず、予備の傘も出さず、その場で固まっている俺に凉野さんは微笑みかける。
「親切に声をかけてくれて、ありがとうございます。でも、私は大丈夫ですから」
「走って帰るつもりか? これだけの土砂降りだと、校門に到着する前にびっしょりになるぞ?」
俺は考える。
無理矢理渡しても、凉野さんは傘を受け取らないだろう。
俺も凉野さんも雨に濡れずに済む、そんな妙案があれば良いのだが。
……一つだけ、互いの希望を叶える方法がある。
「だったら……一緒に入るか?」
「え?」
いきなりの提案に、凉野さんは声を上げて驚く。
「二人でこの傘を使えば、俺もお前も濡れないで済むだろ?」
「確かにそうですけど、でもそれって……」
相合い傘になるのではないか? 凉野さんはそう言いたいのだろう。
「恥ずかしいかもしれないが、我慢してくれ。濡れて風邪を引くよりマシだろ?」
「……それも、そうですね。では、お言葉に甘えて」
俺が傘を差すと、凉野さんがその中に入ってくる。
大きめの傘なので、二人並んで入ってもそこまで窮屈さは感じない。
しかしゆったりとした広さがあるわけでもなく、俺と凉野さんの肩は今にも触れてしまいそうになっている。
こんなに近くに女の子が、それも凉野さんみたいな美少女がいるなんて。先程から、ドキドキが収まらない。
帰路を歩いていると、当然多くの生徒から視線を向けられた。
凉野さんと相合い傘をしている俺は、彼らの目には世界一幸せな男子高校生として映っていることだろう。
本当は凉野さんを自宅まで送っていくつもりだったんだけど、「それだけは」と彼女から全力で拒まれてしまった。
「嫌なわけじゃないですよ? ただ……男の人と一緒に帰っているところを、お母さんに見られるとマズいので」
「マズいって、どのくらい?」
「良くて紺野くんが東京湾に沈められることになるでしょう」
どこの裏社会だよ! しかも良くてそれって……最悪一族もろともってやつなのか?
命は惜しいので、俺はここで凉野さんと別れることにした。……彼女に傘を押し付けて。
「ちょっ、紺野くん!?」
「その傘は明日にでも返してくれれば良いから。それじゃあ!」
異論は受け付けない。
俺は凉野さんがびっくりしている隙に、その場から立ち去る。
どうせ全身濡れるのなら、東京湾の水より大雨の方がずっとマシだ。
◇
翌日。
凉野さんに傘を返してもらうというイベントは、どうやら起こり得ないらしい。なぜなら……昨日雨に打たれた俺は、なんとも情けないことに風邪を引いてしまったのだ。
あれ程凉野さんに「風邪を引くから傘に入っていけ」と言っていたのに、俺の方が風邪を引いてしまうなんて。この場に凉野さんがいたら、大笑いしているだろう。
体温を測ると、38.5度。それなりの高熱だ。
両親は共働きで日中家にいない。俺は気力を振り絞って飲み水や冷えピタを用意してから、ようやくベッドの中に入った。
目を閉じると、疲労や怠さや熱が一気に押し寄せてくる。こうなってくると、自分が体調不良なのだと実感出来るわけで。
学校には休むと連絡したし、今日は一日ゆっくりして体を治すとしよう。
数分後、俺は眠りに落ちた。
目が覚めると、既に夕方になっていた。
日中寝ていたお陰で、体調もかなり良くなっている。この調子なら、明日は登校出来そうだ。
小腹が空いたことだし、何かつまみに行こうかな。そう思い、ベッドから起き上がると、タイミングよく玄関チャイムが鳴った。
「……誰だろう?」
モニターを見ると、我が家を訪ねてきたのは……凉野さんだった。
え? どうして凉野さんが俺の家に?
疑問に思ったが、その答えは彼女の手元を見てすぐに解明される。
「成る程。傘を返しに来たのか」
わざわざ家まで届けてくれるなんて、律儀な人である。
俺は玄関ドアを開ける。
「どうも」
「おう。……傘なんて、別にまた今度でも良かったのに」
「体調が悪いところお邪魔しても悪いですし、私もそう思ったんですけどね。でも、紺野くんが日中一人だと聞いたもので」
「……?」
俺が一人でいることが、どうして傘を返しにくる理由になるのだろうか?
俺が首を傾げると、凉野さんは手に提げていたスーパーのレジ袋を持ち上げて答えた。
「傘のお礼です。看病してあげます」
レジ袋の中には、ネギや卵といった食材とスポーツドリンクが入っている。
看病という凉野さんの言葉に、偽りはないらしい。
「気持ちだけ受け取っておく。1日寝てだいぶ回復したし、看病は必要ない。……ゴホッ、ゴホッ」
「ほら、咳をしているじゃありませんか。説得力が全然ありません」
「失礼しますよ」。凉野さんは半ば強引に俺の自宅に押し入る。
お淑やかな印象の強い凉野さんだったが、意外と頑固なタイプなんだな。そういえば昨日も、相合い傘はしたけれど傘を借りようとはしなかったっけ。
「体温は何度なんですか?」
「……さっき計ったら、7度だった」
「まだ熱があるじゃないですか。ソファーに座って大人しくしていて下さい」
朝は38度超あったので、それに比べるとかなり楽になった。だから料理の手伝いくらい出来るんだけど、凉野さんは頑として聞き入れなかった。
リビングのソファーでテレビを観ながら、待つこと20分。小さな土鍋をお盆に乗せて、凉野さんは俺の隣に座る。
「料理番組、好きなんですか?」
「いや、別に。単に他に観たい番組がなかっただけ。つまり消去法だ」
暗いニュースを見聞きするより、美味しそうなステーキや海鮮丼を眺めた方が気分も晴れるしな。
「まぁ毎日自分好みの番組がやっているわけじゃないですからね」
言いながら、凉野さんは土鍋の蓋を開ける。
中身はとても美味しそうな卵粥だった。
「ステーキや海鮮丼と比べたら素朴ですが、良かったら」
「病人相手に霜降り牛とか大トロなんかを出されたら、逆に困るわ。お粥はシンプルなのが一番なんだよ」
俺はレンゲで卵粥をすくい、口に運ぶ。
「熱っ!」
出来立てだからな。舌を火傷するかと思った。
「作ったばかりなのですから、当然そうなるでしょうに。……レンゲを貸して下さい」
俺からレンゲを受け取った凉野さんは、その上の卵粥にフーフーと息を吹きかける。そして、
「はい、あーん」
「……一人で食べられるんだが?」
凉野さんのやつ、俺を小さな子供か何かと勘違してやいないか?
指摘された凉野さんは、顔を真っ赤にする。
「そっ、そうですよね! 私ったら、何をやっているんでしょう。恥ずかしい……」
赤い顔のまま、凉野さんは俺にレンゲを手渡す。
俺はレンゲを受け取るなり、再度卵粥を口に入れた。
程良く冷まされたお陰で、もう火傷をするような熱さはない。熱さがなくなれば、残るのは美味しさだけである。
ただ冷ました方法が凉野さんの吐息だと考えると……なんだか純粋な気持ちで味わうことが出来なかった。
「あの……お味はどうですか?」
「普通に美味いよ。……悪い、訂正。普通じゃなくて、凄く美味い」
「本当ですか! 実は私、あまり料理をするタイプではなくて。お粥を作ったのも、初めてだったんです」
「そうなのか? 初めてでこの出来なら、才能あるんじゃないか? 将来は良いお嫁さんになるぞ」
他意のない褒め言葉だったのだが、凉野さんは「おっ、お嫁さん……」と動揺していた。
俺は卵粥を完食した。
「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末さまでした」
空になった土鍋を洗い、部屋の中の掃除を軽くする。最後に洗濯機を回してから、凉野さんは帰宅した。
帰り際、「しっかり休んで下さいね」や「ちゃんと食事は取るんですよ」と言う凉野さんに、何気なく「なんか半同棲中の彼女みたいだな」と漏らしたところ……彼女はまたも顔を真っ赤にして反論するのだった。
◇
数日後。
この日もまた、予報ハズレの雨が降った。
俺が昇降口で傘を差そうとしていると、隣に凉野さんがやって来る。
今日の彼女は、きちんと傘を持ってきていた。
「今日は傘を持ってきたんだな」
「あの日以降、常に折り畳み傘を携帯するようにしているんです。同じ過ちは犯しません」
なぜかドヤ顔をする凉野さんは、ちょっとだけ可愛かった。
下校しようとしたところで、ふと俺の視界に一人の女子生徒の姿が入る。
その女子生徒は……傘を持っておらず、困り果てていた。
「なぁ、あの子……」
「はい。傘を持っていないみたいですね。……彼女に傘を貸して自分は濡れて帰るなんて、許しませんからね。それで風邪を引いても、お粥を作ってくれないんですからね」
「はいはい、わかっていますよ」
だけどこのまま女子生徒を放っておくわけにもいかない。
もし明日彼女が風邪で欠席したら、俺は罪悪感に苛まれるだろう。
……となるとやはり、相合い傘しかないか。
俺なんかと一緒の傘に入るなんて恥ずかしいかもしれないけど、我慢して貰おう。
そう考えた俺が女子生徒に一歩近付くと……突然凉野さんが俺の服の裾を掴んできた。
「それは、ダメ」
俺が女子生徒と相合い傘をしようとしているのを、凉野さんは察しているのだろうか?
だとすると、一つわからないことがある。
「どうしてダメなんだ? 相合い傘なら、俺が濡れて風邪を引く心配もないだろう?」
「それは……私が嫌だから」
頬を紅潮させ、声を小さくして、凉野さんは呟く。はっきり言って、クッソ可愛かった。
「紺野くんなら、絶対彼女を見捨てないとわかっています。あなたはそういう、優しい人だから。そこがあなたの長所であり、魅力であり、だからこそ……私はその優しさを、独占したいと思っている」
「あなたの優しさを、私にだけ向けて欲しい」。その言葉の真意に、気付かない程俺は鈍感じゃない。
しかしここで女子生徒を見捨ててしまっては、俺は優しさという長所や魅力は失われてしまう。
さて、どうしたものか?
俺がジレンマに頭を悩ませていると、凉野さんは「本当、そういうところですよ」と言いながらクスッと笑みをこぼした。
「彼女のことは、私に任せて下さい」
凉野さんは女子生徒に近づき、話しかける。
「この傘、使って下さい」
「え? でもそしたら、凉野さんが……」
「大丈夫。私、彼に入れて貰いますから」
女子生徒に傘を貸して俺が濡れて帰ることを、凉野さんは許さない。
俺と女子生徒が相合い傘をすることを、凉野さんは許さない。
一見詰みのように思えるこの状況だが、解決策は確かにあって。凉野さんはその解決策を、見事実行してみせたのだ。
俺が傘を開くと、凉野さんがその中に入ってくる。
「濡れるといけませんから」と、彼女はピッタリ俺にくっついていた。
「今日も家の近くまで送れば良いのか?」
「いいえ。今日はちゃんと家まで送り届けて下さい。その……紺野くんのこと、お母さんにも紹介したいので」
雨なんて、濡れるし寒いしジメジメするだけのように思えるけど。こうして彼女のすぐ隣にいられるのなら、案外悪くないのかもしれないな。