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8月2日(2)


「ムスメサン ハ ランソウガン デス」


診察室に入った3人は凍りついていた。

入室した全員の氏名を確認した後で、医者は徐にそう告げたのである。


(今、この人は何を言ったんだろう?日本語?)


秋生の脳は、完全に状況理解を拒んでいた。

優希は下を向き涙を堪えている。

咲夜はキョトンとした表情だ。


3人共「がん」など想像も覚悟もしていなかったので、心も理解も追いついていない状況である。それでも患者や家族の反応に慣れているのか、医者は治療ガイドラインという本を開きながら淡々と説明を開始した。


「がんって、治らない病気の、あのがんですか?」

「今は治るとは言えませんが、ええ、そのがんです」

「治らないんですか?」

「お父さん、少し説明させて下さい。まず、これが今日撮ったお腹の中の写真なんですが」


レントゲン写真だろうか、そこには白い影が映っている。

サイズは、秋生の手のひらより遥かに大きそうだ。殆どお腹全体に広がっているように見える。


「ここに白く映っている部分が全部、がんの腫瘍です」


説明の内容はよく分からなかったが、医者の説明は丁寧だったと思われる。思われるのは殆ど耳に入っていないからであるが、理解を深める為に本も勧めてくれた。

レントゲン写真や本を見ながら、時にはメモ用紙に手書きで図解してくれながら説明は1時間に及んだ。


人間の卵巣は本来アーモンド位のサイズらしい。レントゲン写真にはお腹全体にまで肥大化した腫瘍らしきものがアーモンドから肥大化した物であることが到底想像出来ない。


「説明は以上です。これ要ります?」

「はい。」


手書きメモを受け取る。


「このご時世なので入院前にPCR検査が必要で。最後にPET-CTを撮って今日は終わりましょう。それと入院説明と手続きは本館に行って下さい」

「はい」


診察券と何かのプリントが入ったクリアファイルを受け取る。


「PET-CTは放射能を含む薬剤を使います。終わったら他の人と接触しないようにして、そのまま病院の外にお願いします」

「はい」


もはや「はい」以外の返事が出来ていない様子は、言われた通りに動くロボの様である。正体が明かされたPET-CTの撮影は更に1時間を要する。秋生は待ち時間の間に会社への電話と入院説明と手続きを済ませる事にした。


「佐藤です、お疲れー。忙しい?」

『もしもし、佐藤さん? 声が変だけど、どーしたの?』

「あのね、娘が卵巣がんだって。今病院で言われたんよ」

『っ!・・・』


まず電話を掛けたのは会社の総務である。秋生は開口一番に衝撃の現実を伝え、電話の向こうからは声に成らない嗚咽が聞こえて来る。秋生は今分かっている状況を伝える。


「・・・そんな感じで、多分今月は俺ポンコツだわ」

『分かった。こっちは心配しなくて良いから。連絡は可能な限りブロックして、何かあったらメールで連絡するから』

「ありがとう。迷惑掛けるね」

『大丈夫、大丈夫』


その後、プロジェクトに関わりのあるメンバーに次々と話をする。納期的に迷惑を掛けそうな客にも電話を掛けた。

驚くことに、話を聞いた皆が泣いてくれた。予想もしなかった状況に、練馬高野台駅の高架下で、秋生は号泣していた。

言ってみれば他人の不幸なのに、我が事の如く涙を流し支えようとしてくれる。

そんな仲間が居る。秋生は今の環境で仕事が出来る事に、途轍もない幸運を感じていた。


次に入院支援の窓口に向かう。

残念ながら、早口で捲し立てる窓口担当に何を言われているのか理解が追い付かなかった。勿論、窓口担当にしてみれば毎日同じ説明を何度もしているのだろうが、全てを初めて聞く人間が理解するには、些か難しい内容が多かった。

隣りにいる優希の涙腺はとうに決壊しており、避難勧告が必要なレベルである。これでは自分以上に役に立ちそうにはない。秋生は既に理解する事を諦めており、入院ガイドなるパンフレットを後で読み直そうと早々に決めた。


「結局昼も食べ損ねたし、終わったら何か入れようよ。咲夜の腹は何腹だ?」


無理やりに作った笑顔で、咲夜が大好きな深夜ドラマのワンフレーズを発する。

それは手が震えて運転など出来ないと感じた、今の秋生に考えられる精一杯の回避策だった。


***


「思ったより大変な事になってもーた。正直、薬貰って帰るくらいの気持ちだったのに」

「だね。明日入院、明後日には手術だよ」


完全にポンコツ化した両親が正気を取り戻せたのは、あっけらかんとした咲夜のお陰かも知れない。

絶望のコンディションで車の運転が出来ないと感じた秋生の希望で、病院から最寄りのサイゼに徒歩で向かい、遅めの昼食と言うか夕食を突付いていた。


優希に帰ってから食事の支度など、とても出来そうにない。

咲夜はそもそも熱で食欲が無い。

これだけバラエティに富んだコンディションの客を相手取れるファミリーレストランが持つ防御性能のお陰で、一時的にも日常の一幕へと帰還を果たせた秋生は、ファミレスの存在に感謝していた。


「秋生さん、これ。先生が説明に使ってた本だね」


正直、卵巣がんの知識など皆無だし、google先生の言うことには怪談顔負けの恐怖ブログしか帰ってこない。

優希のスマホにはプライムな通販サイトに本のタイトルが表示されていた。


その名は、『日本婦人科腫瘍学会 子宮頸がん・子宮体がん・卵巣がん 治療ガイドライン』。


「優希、それ買い。とにかく情報が欲しい。何も分からん」

「ポチっとね。明日来るって」

「さすがプライム先輩、そこに痺れるー」

「憧れなくて良いから。咲夜、これも食べんさい」

「とーさん。ガムシロくんはアイスコーヒーさんの親戚で、戸籍上フォカッチャさんとは他人だよ。しかも残り半分て」


全員食欲はないので、出てきた料理を突付いているだけだが、病院という恐怖の空間から開放され少しは落ち着いた様である。


「んーと、『健康保険の限度額適用認定書』を貰う必要がある。帰ったら速攻でポスト行かなきゃ。」


優希が入院パンフを見ながら確認している。


「あの早口の受付さんは、健康保険を使うか使わないかを選ぶための説明をしていたのか?」

「使うに決まってんじゃん。庶民様舐めんな」

「まぁ、選択肢ないよね、それ」


医者の説明時のメモも見てみる。

この時点で3人が理解出来たのは、以下の4点だけだった。


・卵巣がんを疑っています

・腫瘍がものすごく大きくて、右か左か不明

・ステージも発生部位も、手術しないと判らない

・すぐ手術しましょう


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