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7月4日と7月9日

7月4日

週末の副反応で少しだけ減った体重を取り戻す勢いで、秋生は朝からビールを飲んでいた。

と言っても、今日は新幹線に乗って4時間弱、広島に移動するだけである。明日の早朝から現地で作業が有る為に、今日は完全に移動日である。


広島は秋生の地元だが、たまたま実家の母が怪我で入院しており生憎実家に帰っても誰も居ない。加えて地方では、未だコロナ差別が残っており「穢れた東京モン」が病院に顔を出す事は許されていない様だと言うのは毎日見舞いに行ってる親戚のおばちゃんの密告である。かと言って、平日の昼間から暇をしている知り合いは居るはずもない。

とどの詰まり、今日は新雪の平原を見るが如く、秋生の予定表を埋める項目が存在しなかった。


暫く来ない内に様変わりした広島駅に降り立った秋生は、挙動不審になりながらも市電に乗り込んだ。広島に住んでいた頃は電車など乗ることも無かった癖に、いざ広島を離れると電車に乗ってノスタルジーを感じたいと思うのだから人間とは分からない生き物である。


「良かった、使えたー」


どうやら挙動不審の理由は「支払いにSuicaが使えるかどうか分からない」だったらしい。八丁堀で電車を降りた秋生は、迷いの無い足取りで「肉のますゐ」に向かう。


目貫から1本に外れた裏通り。そこは秋生が高校時代に足繁く通った肉屋の営む大衆食堂である。

戦後の高度成長期から変わらぬ看板には威風堂々と「SUKIYAKI and FOREIGN FOOD」と掲げられている。後半部分は、恐らく「洋食」を表現したかったのだろう。「英語は分からんけど、まぁ通じるじゃろうよ」という判断が成されたのだろう看板には、昭和の浪漫と平和都市広島市民の気高き誇りが滲み出ている。外国人が訪れた外国で外国の食材と書かれた看板を見て、何を感じるかは誰にも解らない謎である。


自動ドアを潜って昼時で混んだ店内を見回し、店員の案内を待つまでもなく常連風を吹かせながら2階に上がり、惜しげもなく緋毛氈の敷かれた廊下を通り過ぎて座敷に上がり込んだ。


「おー、今でもサービスとんかつ、ライス付きで350円じゃん。頑張ってるぅ」


この国が消費税という唾棄すべき懲罰システムを導入する前から頑として変わらない値段に、この上ない安堵を感じながらメニューを置く。


「すませーん、上トンとライスね」

「お二階さん、上トンとライスー」


水とおしぼりを持ってきたオバちゃんに略称注文で更なる常連感を醸し出せば、間髪入れずオバちゃんから威勢の良いコールアンドレスポンスが返ってくる。

それを合図に厨房が動き始め、どんなに遅くとも最長3分も待てば、名物の独特なフルーティーなデミグラスソースがたっぷりと掛かったトンカツとライスが運ばれてくる。勿論、箸などない。FOREIGN FOODをナイフとフォークで頂くのはもはや我が国の常識であり、食べやすくカットされて出てくるトンカツに価値など無いのである。

付け合せは茹でキャベツとポテトサラダ。キャベツが千切りではなく、ザク切りの茹でキャベツな点だけを取っても大衆食堂の矜持を盛大にアピールしている。チャラチャラしたファーストフードやカフェよりも、遥かに旨いし、高速かつお手軽価格でボリュームがある。そして何より旨いのだ。


秋生は、出来たてトンカツに一切の迷いなく「ウスターソース」を追い掛けた後、大胆にナイフで切り分け一口目を頬張った。


「うまい」


スタートダッシュからクライマックスで全力疾走である。

あっという間に平らげてしまい、多少の物足りなさを感じるが大衆食堂のメニューにはデザートなる高貴な項目は存在しないので、会計をする以外の選択肢は秋生には無かった。

いや、「トンカツお代り」という禁断の飛び道具も無くはないのだが、秋生は河岸を変えた方がより満足度が高いと判断した様である。


余談ではあるが、秋生の注文は上とんかつ550円にライス150円で700円なので、値段はサービスとんかつの倍である。しかし彼の青春と言っても過言ではない思い入れ深い大衆食堂が、いつまでもそのままで在って欲しいと願い、感謝と応援を込めてワンランク上の注文をしたのである。

例え彼の青春が、毎日ゲームセンターに通い詰めた色気のない青春だとしても、セピア色の思い出はいつだって人に優しい。


「どうせ応援すんなら、すき焼き注文しろって話よのう」


支払いを終え、店先に灰皿を見つけてタバコに火を点けながらボケツッコミを独り言ち、妻に連絡を入れるためメッセンジャーアプリであるWhatsAppをタップする。


「お疲れ様。広島?」

「とんかつやったどー」

「楽しそうじゃん」

「以上を以って本日の予定は全て終了致しました。当機はこれよりホテルに向かいます」

「随分とお忙しそうですねー」


なお、世間的にはLINEが主流だが、秋生はLINEをインストールする事を良しとせず、WhatsAppを入れている。これには深い理由が存在する・・・事はなく、海外出張先で教えてもらって初めて入れたメッセンジャーがたまたまWhatsAppだったというだけである。

なお、大変大きなお世話であるが、秋生のWhatsApp連絡先リストには優希と咲夜の二人しか登録されていない事と、優希と咲夜が普段はLINEでやり取りしている事が言う迄も無い現実なのは、少し悲しい別の物語である。


***


7月9日

広島出張から帰った週の週末、今度は成田空港に居た。2年半ぶりの海外出張を前に、秋生はかなり不機嫌だった。御立腹と言っても過言ではない。


「UIうんこかーい!」


彼の御機嫌を最大限に傾けたのは、MySOSなる帰国時の検疫管理アプリの入力画面のユーザーインターフェースだ。品川区の摂取証明は対面で即日発行してくれたので、2回目の摂取証明は確りと手元にある。しかし練馬区は郵送対応で接種証明の発行に10日程度掛かるとのことで、残念ながら3回目の接種証明は持っていない。


つまり、彼は「ワクチンを3回打ったのに、2回目の摂取証明しか持っていない」と言う片手落ちな状態だ。


ところがこのMySOS、入力画面では3回目摂取証明専用のアップロードボタンがあるだけで、2回目の接種証明はそもそも出番が無かったのである。

そうやって、接種証明のアップロードが無い場合、画面に表示されるステータスは「ワクチン接種なし」である。

この様な理不尽な現象を、業界の被告は「仕様」と呼び、検察側の証人は「考慮不足」と呼ぶが、一般の民意は「バグ」である。

今や海外はワクチンはおろかマスクすらしていない状況なので、出国する事には何も問題は無い。むしろ日本に帰ってきた時に満を持してこのアプリの出番が来る予定だが、秋生は出国前から「ワクチン接種なし」の烙印を押されてしまったのである。


「即日発行しない練馬区が駄目なのか、はたまた2回目に対応してない糞アプリが駄目なのか?」


折角3回目の摂取を済ませたのに、屈辱的なこの仕打ち。秋生の独り言は止まらなかった。ちなみに、場所は成田空港のチケットカウンターであり、彼の後ろには軽く15人程の待ち行列が発生していた。


「そもそも、画面遷移がWEBベースなのよ。 海外でネット難民になったらどーすんの? なんでアプリで接種券のバーコード読ませねーのよ。入力文字数何桁有ると思ってんだ、コノヤロー!老眼舐めんな、コノヤロー!テメ、ドコチューヨ?」


もはや論点が脱線しており言い掛りの領域に片足を突っ込んでいるのだが、彼も技術者の端くれであり、WEBアプリのバーコード読み取り実装は汎用ライブラリが使えるので実装は難しくないと理解しているが故に、改善工数はそこそこの精度で見えている。不名誉な烙印に至る道程で結果的に意味の無い入力を強要させられた事を憎々しく思い出し、怒りの炎に景気良く燃料を焚べていた。


「仕様を決めた国が駄目なのか、提案出来ないSI屋がポンコツなのか。完全にIT後進国だよ。観光立国なんてクソ喰らえ、モノ作りに回帰しろや。つまり政治が悪い」


秋生の中で既にスケールが炎上案件化している。

確かに、盛り上がらない国政選挙を前に、政治家暗殺という前代未聞な事件が起こり、世間のニュースは完全に選挙を置き去りにしていた。

勿論、秋生にとっては残念な事ながら、誰も聞いていない正義のオピニオンも滑走路に置き去られて行った。


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