半井温と沼田清司
ついに一緒に暮らし始めました。
目を開けると白い天井が見える。遮光カーテンにしなかったせいで明け方になると薄い光が部屋に差し込んでくる。微かな物音がするのは清司が起き出しているからだろう。
2人で暮らし始めてから3ヶ月経つ。生活は表面上穏やかだ。過去について声を荒げることも、相手の気持ちを探ることもない。お互いどこか距離を測りかねている、危ういといえば危うい生活。
早春に再会してから清司は私の社会復帰を助けてくれた。まずは部屋を借りようと動き始めたが1人で暮らそうにも定職がない私に借りられる部屋は怪しげなものが多く、家探しに付き合ってくれた清司は早々と腹を括ったらしい。一緒に暮らすぞ、と宣言された時は安堵よりも戸惑いが勝った。懐かしさだけで生活を共にするには柵が多すぎた。
家賃は綺麗に折半、とはいかない。清司の方が明らかに稼いでいるからだ。私の方は施設から出る支援金でなんとか生活費を賄っている。私が職を見つけるまでは清司に多く持ってもらうことになった。その代わり家のことは私ができる限りする、と決めた。炊事や洗濯は光の家でもしていたことだから苦ではない。光の家に洗濯機はなく手洗いだったからそれに比べれば随分楽だ。
前より職場が遠くなった清司は朝早く家を出る。そして夜は遅くに帰ってくる。12時近くに帰ってくる時は大抵酒の臭いを漂わせている。そんなに美味いのかと一度尋ねたことがある。別に大して美味い酒を呑むわけじゃないと返事があった。酔って帰ってくる清司は少しだけ怖い。
結局肝心なことは何も聞けないまま清司の顔をそっと伺う。線の細い顎や鋭い鼻筋は幼い頃から変わらない。嫌いな人間と一緒に暮らそうなどと言うはずはないと何度も自分に言い聞かせる。私が疎ましかったら支援者にはならずに手紙を無視し続けることだってできた。私達の「友情」は光の家を出てからも変わらなかった。それはすなわち真に運命の糸が結ばれていたと言うことなのではないか。いや、あれは嘘だったか。
洗脳が解けたと判断され外に出てからも私の心に神はいる。ブレヒトの作ってくれた木彫りの神様は常に私のズボンのポケットに入っている。祈りは全てそこに注がれる。父の罪、私を捨てた母、他の天使の子供達、そして清司のことを思って祈る。生まれながらに邪悪を飼っていたのはどうやらブレヒトではなく私の方だったらしい。裏返ってしまった私達のことを考える。光の家でユリクはブレヒトを守ろうとしていたが外では清司に守られているようだ。清司がいなければ私は危険思想の社会不適合者だ。
外に出てから自分の世界があまりに狭く特異だったかを知った。私は金を稼ぐ術も生きて行く術も持っていないのに外に出されてさあ生活せよと言われているのだ。もちろん支援の手はさしのべられているし、週に2回のカウンセリングはあと何年か続く予定だ。しかし私達は解き放たれたのだ。自分の始末は自分でつけねばならない。
早く金を稼げるようになりたい。清司に頼りきりのこの生活はあまりにも私の胸を圧迫する。対等でない関係がここまで私にとって重荷になるとは思わなかった。清司が何を考えているかはわからない。毎日顔を合わせて何を喋るでもなく飯を食って時々一緒に出かけたり、出かけなかったり。
神の話は未だできていない。と言うより、過去の話を一切せずにこの生活は成り立っている。口に出そうとすると喉が詰まる。なぜ私を置いて逃げたのか、私のことが嫌で逃げ出したのか、君はどうして私に神をくれたのか、私に見えていた光は君にも見えていたのか。聞きたいことはたくさんあるのに、一つでも溢れ出したらきっとこの生活はひび割れて壊れるだろう。そんな予感がする。
光の家にいた時の方がブレヒトに近かった。薬の生み出した幻想だったのかもしれないが、私は今も清司の胸の内を知れるなら薬を飲むだろう。洗脳は解けているのだから、それはもう宗教とは関係のない衝動だ。普通の友達同士もこんな風に心を探ろうとするのだろうか。
一度目が覚めてしまったら眠れない。何度も寝返りを打つ。清司の出かける音が聞こえる。行ってきますも行ってらっしゃいもこの家には、ない。
恐らく私は怯えすぎている。清司に投げ出されたら私は外で生きられないのだ。だから言いたいことが言えない。ブレヒトだったら良かった。彼の絶望も怒りもわかった。もう大人になった沼田清司はただ静謐に生きているだけだ。その奥に何を隠しているのか、ちらりとも見せはしない。
いや、酔って帰ってきた日だけは感情らしきものを浮かべている。それが倦怠や憎しみの形になりそうで怖い。彼が遅く帰ってきそうな日はできだけ早めに床に着く。布団に頭まで突っ込んで清司の立てる物音を耳を澄まして聞く。
諦めてベッドから身を起こした。また1日が始まるな、とぼんやりとカーテンから滲んで部屋に入ってくる光を眺めた。掃除をして、洗濯をして、食事を作り清司を待つ生活。気分が良ければ散歩に行くかもしれない。図書館に行ってもいい。そんな穏やかで薄いガラスに包まれた生活。
社宅を出るにあたり手続きが必要で、引っ越す旨を事務員に伝えたのがどこでどう尾鰭がついたのか同棲だの結婚秒読みだの噂がたった。細かい事情を話すのが億劫で放置している。そのうち収まるだろう。
呑み会の席で真相を尋ねられたので遠縁の男を住まわせていると答えた。妙な顔をされたので病気なんだと付け加えた。罪悪感が湧きあがり慌てて話題を変えた。病気というのは間違いではないと心のどこかで思っているからそんな言葉がとっさに出たのだ。
洗脳が病だとしたら半井の病は完治していない。カウンセラーがいくら社会に適合できると診断を下しても半井の目にはまだ信奉がこびりついている。抱き合わせで引き剥がせないものが張り付いて、無理に剥がそうとしたら半井を壊すだろう。血を流して、皮を剥いで腐った肉を切り落とせばようやく半井温の本当の姿が出てくるだろうか。それをやる勇気が誰にあるものか。残った部分は死に等しくなると分かっているのに。
カウンセラーはあの木像を見ていないから、あれを撫でさする半井の顔を見ていないから外に出したのだ。今でも彼は部屋に木像を祀って心の支えとしているのだろう。尋ねることはできない。今あいつから像を取り上げたら最悪の結果になりそうだ。もっと時間をかければ、もっと他に興味を持つものがあれば病は治癒するだろうか。
自分の暮らしで手一杯だった俺に医者の真似事なんかできるわけがない。ただ同じ家で生きるだけで精一杯だ。幸い半井は生活音が小さく、部屋にこもってしまえばいるのかいないのかわからない。俺が起き出す頃にはまだ寝ていて、帰る頃には就寝していることが多い。畳まれた洗濯物や妙に片付いた部屋、冷めた料理が半井の存在を示す。
休日、気力に余裕があれば半井を連れ出して外を歩く。引っ越したばかりの家の周りは知らないものばかりだが、平日に出歩いている半井の方がよく道を知っている。先導して進む彼は少し嬉しそうでもある。日の光の下で見る半井は妙に青白い。向こう側が透けて見えるのではないかと錯覚する。ここを超えるとずっと向こうに海があるんだ、と木立の先を指差して半井は言った。光の家からほとんど出たことがない彼は大きな自然が珍しいらしかった。そういえば職場に向かう電車の窓から海を見た気がする。朝晩乗っているはずなのに車窓の景色に注目していなかったことに気がついた。
まともにならなければとがむしゃらに働き続けて10数年、立ち止まることもなく歩き続けていた人生に階段の踊り場のような、道端のベンチのような場所ができつつある。かつて捨てた男がそれを持ってきたことを認めざるを得ない。子供の頃はどこに行くにもついてきてベタベタと煩わしかったが大人になった今は適切な距離を保っており、何十年も会わなければこうも躊躇いがちになるのかと思う。人1人を思いやる隙間がようやく自分の人生にも生まれたということか。問いたださねばならないことはいくつかあった気がするが、雑多な生活に飲まれて結局何も言い出せない。
お前はまだ心の中に神を飼っているんだろう、それは長い更生期間でも矯められなかった。深く根付いているということだ。それなのに一青年の顔をして社会に出ようというんだな、まだユリクのくせに。まだ神様を信じているくせに。
俺は半井が憎いのだろうか。俺の光の家での暮らしはユリクと分かち難い。俺に罰を与えた幹部はユリクではない。だがきっかけはいつもユリクだった。罰を受けた俺を慰める子供は優越感に浸ってはいなかったか。弱々しいものを守る気持ちは愛ではなくある種の優越を秘める。あの目だ。ユリクの目には何が入っていたか。俺はもう忘れてしまった。俺はもうブレヒトではないのに、半井はまだユリクの顔をして俺を見る。波風の立たない生活の中、過去を引きずり出せば地獄がまた俺たちを迎えにくるだろう。半井温の中にユリクの面影を見るたびに俺は暴力衝動が湧き上がるのを感じる。半井と教祖は違うのに、わかっているのに。俺もまだあの光の家に囚われている。
「どう?生活は」
有明さんは暑がりらしくもう完全に夏の装いをしている。
「まあまあです。」
彼女は豪快に笑った。
「その曖昧な言い方はすごく『下界』っぽい。」
カウンセリングの担当者は指名制で、私は大抵有明さんを名指しするが断られた試しがない。私の他には誰も指名しないのだろうか。
「人と暮らすなんてね、他人と暮らすなんてそんなもん。まあまあが一番いいよ。」
「有明さんもまあまあですか?」
「まあまあより少し、悪い。」
有明さんは顔を顰めた。いつもの冗談だろうか。
「冷蔵庫をね、ちゃんと閉めないのよあの人は。」
え?と思わず聞き返す。
「冷蔵庫のパッキンの部分あるでしょ?あそこがすこーし浮いた状態で放置するの。問い詰めたらまたすぐ開けようと思ってそうしとくんだって。不経済、不衛生。」
有明さんは止まらない。
「で、次開けるっていう時間間隔が長いのよ。5分とか。閉めときなさいよ、1分でも長いよ。しかも全開じゃないから閉めてあるものと勘違いして閉め忘れるの。ちょっとずつ冷気が漏れてるっての。なんで忘れるのよ!?リスなの!?」
息が切れている。そんなにも有明さんを怒らせる夫の存在を思い浮かべてみた。ぼんやりと男性の肉体と顔が想像できる。そのぼやけた男は困った眉毛で有明さんを宥める。
「生活って大変よね。半井さんはどう?イライラすることない?」
怒りはない。強いて言うなら怯え、躊躇い。なんと表現したらいいのかわからない。私は黙り込んでしまう。
「その…お金を大部分払ってもらっているという…負い目が…」
「いやいやいや、半井さんが家事とか全部家のことはやってるんでしょ?」
「うーん…向こうも一人暮らしをしてきた人なので、大抵のことはできるというか…。確かに家のことは私がやってはいますが。」
「そんなのねえ、気にしちゃだめよ。あなたはずっと世間に触れないで生きてきた人で、普通に生活するのだって慣れるのに大変な時期なんだから。」
しかも、と有明さんは続ける。
「支援者になるって覚悟を決めたのは沼田さんなのよ。甘えちゃいなよ。あなた達は不平不満を言う自由がないところで暮らしてきて、ようやくその自由を手に入れたのに今度は沼田さんに遠慮してどうするの。今は同居人なんだから、言いたいことがあったら言えばいいの。」
「そうでしょうか。」
絶対にそう、と彼女は強く言い切った。有明さんとのカウンセリングが終わると何やら暖かなパワーが流れ込んでくる気がする。生命の力だろうか。
カウンセリングの帰りに近くの公園でベンチに腰掛ける。有明さんは「言いたいこと」を生活上の不満と捉えたようだが私と清司の場合もっと根幹的なところを話し合っていないのだった。奇妙に過去のことだけを避けた会話は表面をなぞる。有明さんの言う通り清司はすでに私を受け入れたのだから恐れる必要はないのかもしれない。清司は私を気遣ってあえて過去の話を持ち出さないのかもしれない。神様の話をしたかった。あれをくれた真意を聞きたい。神様がずっと私の支えだったことを伝えたい。ブレヒトが脱走してから毎朝彼を思って祈りを捧げていたことを言いたい。
私達は友人と呼ぶにはあまりに感情が多すぎる。もしあの家にいなければ私と清司はこんな風に関わることなどなかっただろう。平坦な生活を手に入れたふりをするのが私たちにとっては苦痛だ。過去を無かったことにして、臭いものに蓋をしたら私たちの間にあるものも消えてしまう。そうしたら残るのは奇妙な共同生活だけだった。
日が傾いてきた。どれくらいここにいたのだろう。外に出てからと言うもの内部の時間と外部の時間がどんどんずれていくようだ。時間が足りない。外に対応するだけの時間が私にはまだ足りないのだ。内省する時間が祈りと等しかったあの頃とはもう違う。あの生活はもうない。幸せだったと口にすることはできない。だが、ブレヒトには通じるだろうか。満ち足りていたユリクの時間。
私は歩き出す。今の家は清司が疲れ果てて帰ってくるアパートの一室でしかない。距離的には近しくなったが心はお互いどこか遠くを見ているようなあの家だ。この胸の騒めきをなんと言って伝えればいいのだろう。最近眠りが浅くなった。少しの物音でも起きてしまう。騒めきが大きいせいだ。あの頃だったら胸に邪悪なものが住み着いたと思うだろうが、今はどうすることもできない。清司を見ると騒めきが暴れ出す。言いたいこと、を口にしたら良くなるだろうか。
晩御飯を考える傍でそんなことを思っている。どこかでカラスが鳴いた。呼応するように周りのカラスも鳴き出す。夕暮れの中を私は歩く。
どこかで恐れていたことが起ころうとしているのを感じ取っていた。ユリクだった頃の微笑みを浮かべて、呼吸を乱す事もなく立っている男に本能的な嫌悪が這い寄ってくる。手に何を持っているのかよく見なくてもわかる。
「話をしよう。」
疲れているともやめてくれとも言えないまま曖昧に頷いた。越してきた時に買った4人がけのテーブルを挟んで腰掛ける。意味もなく木目を眺める。できるだけ色味のある家具を揃えた。光の家には白い家具しかなかったから。あそこから遠ざかりたくて、遠ざけようとして。
「今さら何を話すって言うんだ。」
乾いた冷たい声は本当に自分のものか。
「神様の話だ。」
静かな部屋に木彫りの像がテーブルに置かれた音だけが響いた。稚拙な荒い玩具。
「それはただの木の破片だ。」
「君が私にくれたものだよ。君は私にいろいろなものをくれたけれど、持ち出せたのはこれだけだった。昔遊んだ聖剣とか、君が描いてくれた絵はあの家に残ったままだ。」
光の家に現代的な玩具は何一つ持ち込まれなかった。だから自分たちで作る必要があった。木の棒切れを聖剣と呼んで振り回し、落ち葉を集めて切りつけた。雨の日は鉛筆一つで絵を描いた。そのうち俺は飽きて光の家を抜け出すことを遊びとした。ユリクはついてこなかった。腹が減って光の家に帰ると必ず罰が待っていた。地獄が俺を過去から見返している。
「君がいなくなってからずっと神様が私の友人だった。偶像だと分かっていても捨てられなかった。祈りは全てここに捧げた。」
机の上の神様と呼ばれているモノが俺を見ている。俺の背中にはまだ消えない傷がある。鞭の傷は治らない。俺の痛みの記憶はユリクの祈りと共にあった。俺の罰をユリクはずっと見守っていた。そして時には彼自身が鞭を振るった。涙を流しながら。
「君の無事をずっと私は祈ったよ。どこにいてもいい、何をしていてもいい、ただ元気であってくれと。」
俺は脱走してからユリクを思い出すことは無かった。ふと浮かぶことはあったが日々生き抜くことに必死ですぐに追い払った。俺は薄情か。
「わかるかい、私の神様はもう」
「黙れ。」
大きな声に温は体びくりと動かし止まった。睨みつけると微笑みは消え、不安定な目だけが揺れ動く。
「俺をお前の神にするな。」
俺はテーブルの上の置物を握り、床に投げ捨てた。絨毯の上でそれは転がり、なんの拍子か真ん中から裂けた。もう限界だったのだろう。10数年も前の、なんの加工もされていない木片だ。裂けた部分は妙に白く、手垢に塗れた表面との差が目立った。
「まともになれよ。お前はおかしいんだ、ずっとおかしいんだよ!どうして何かに縋らなけりゃ生きられないんだ。」
黒い感情に身を任せて俺は喚いた。
「どうして俺を叩いたんだ!あんなに遊んでやったのにどうしてチクるんだよ!お前は傷一つない体でよかったな、俺なんか、」
怒りに任せて俺は服を脱いだ。背中だけじゃない、ありとあらゆる場所を見つけ出しては先生や梵様は俺を苛んだ。拷問の才能でもあるのかと思うくらい執拗に奴らは俺を痛ぶった。
「女と寝ると陰でなんて言われるか知ってるか?ゾンビだってよ、薬で跡が変色してるからな。」
温はずっと壊れた神様を見ている。
「おい、こっち向けよ。お前はおかしいんだ!頭のおかしいお前と一緒に暮らしてやってる俺の身にもなってみろよ。早くまともになってくれよ、そうしたら、そうしたらようやくお前を」
憎めるのに。
自分の中にあった感情を口に出したらようやく納得できた。俺はユリクを恨んでいたのだ。ずっと恨んでいた。罰を受ける自分を淡々と受け入れていた俺もまた洗脳されていたのだ。地獄の一部を担っていたのは自分だったのだ。
温が顔をあげる。彼は虚な瞳から涙を流していた。
憎んでいると告げられるのをずっと待っていたのかもしれない。世間と触れるたびに己の過去が異質なものだとまざまざと突きつけられる。幸せだった光の家の光景はブレヒトへの罰も内在していた。彼の肉体が痛めつけられるのと同時に私の心もまた同じ痛みを味わっていたが、その痛みは私にとって甘美に似た。想像の痛みなど自己愛の賜物に過ぎない。ブレヒトとの共鳴を私は好んでいた。痛みは共鳴を引き起こし易い。邪悪なのは私の方だ。教祖の器が私にもあったと言うことか。
今、傷だらけの体を晒して冷たい瞳をする彼に何を言えば良いだろう。だが、やっと清司は私を見たのだ。ようやく私達は過去を同じ位置から見つめられる。唯一の救いはそこにある。
同時に私は気がついた。気がついてしまった。私のこの胸の苦しみは愛情だ。私は沼田清治を愛しているのだと。物心ついてからずっと清治は私の神様だった。
だがそれはけして口にしてはならないことだ。産まれた瞬間に殺さなければならない感情は涙に変わった。
憎んでくれた方がいい。壊れないようにそっと息のつまる生活をするよりずっと。憎しみなら清治の瞳はようやく私を正確に映す。
私は神様の話をすることで清治に恋愛感情を吐露した気になっていたのだ。彼の気も知らずに。清治の言うとおり私はおかしいのだろう。今だって彼のために泣いているのではなく自分の感情の行き場のなさに泣いているのだから。
彼はなにも言わずに自室へ戻った。私は神様の破片を集める。清治が私のことを考えて作ってくれたものだ。私のことが嫌いでも、あのとき神様を手渡してくれたのは紛れもなく善意だった。
ブレヒトのことが好きだったので彼を救いたくて密告を繰り返した。罰を受けたあとの彼を慰めるのが好きだった。痛みを分かち合う行為に酔いしれていた幼い頃の私。今思えばその異常さがわかる。私自身が清治の過去であり、邪悪なものなのだ。私がこの世にいる限り清治に本当の安息は訪れないだろう。
早くまともになれと清治は言った。私の支援を引き受けたのは復讐なのだろうか。それでもかまわない、そばにいられたらそれでかまわなかった。
対等な立場になりたかった。世間一般の恋人のように。でもそれは叶わないことだと知ってしまった。清治が優しい声で私の名前を呼ぶことはないだろう。清治はもう2度と私と散歩をしない。彼自信の憎しみを、かなしみを、過去を思い出してしまったから。
私はいつまともになるのだろう。どうしたらまともになれるのだろう。彼のことが好きで好きで神様にしてしまって、離れていても気持ちが枯れないくらい思っていた、その全てが私の狂気を表しているのか。だとしたら、清治を嫌いになれれば私はまともになるのか。まともになったら恨んでくれるのか。
神様は私の手のなかで力なく崩れていた。これを明日の朝に埋めようと決めた。埋葬だ。私の神様は死んだ。私が清治を好きだったせいで彼は今苦しんでいる。私の身勝手な愛情は殺されてしかるべきだったのだ。
神様を握りしめてベッドに入った。これで最後だ、これでもう終わりだからと祈った。明日の朝になればこんな気持ちは消える。私は頭がおかしくて、だからブレヒトのことが好きで、だから彼に好いてもらえなくて、だからこんなに寂しいのだ。
今日だけ、あと数時間だけはこの感情を愛でていたい。すべての元凶だった邪悪なものだが私には慣れ親しんだ感情だ。
あのころ幸せだったのはブレヒトが私と一緒にいてくれたからだ。ここでは、とても、孤独だ。
まともになれ、と言うのは俺を引き取り仕事をくれた遠縁の男の台詞だった。お前みたいな出自のやつは何をしてもケチをつけられる。だから仕事をして、適当に遊んで、くだらない冗談を言えるようになれ。男はそう言ったのだった。大衆に紛れるのだ。そうすれば平凡な幸せが手に入る。
言い過ぎたと後悔する自分とついに言ってやったと気が晴れる自分が共存していた。俺を陥れたユリク、だが俺に平凡な生活を持ってきた半井温。
過去の傷をなるべく見ないようにし、ぼんやりとした霧の中に放っておくのが今までの俺のやり方だった。治したかたがわからない傷を化膿させないためにはそうするしか無かった。半井を引き受けたことで俺は傷を治す方法を見つけてしまった。あいつのせいにすればいいのだ。そうすれば楽になれる。中途半端に通った学校では「宗教の家の子」として疎まれ、光の家では異端児として扱われた。外に出てからも学の無いやつだと嘲笑われ、過去を隠しても肉体の傷は消えない。商売女は眉を顰めて俺の体から視線を逸らせた。
憎しみが俺を救う。あの家で俺は怒っていたのに、ずっと怒っていたのに誰に向かって怒鳴ったらいいのか、暴れたらいいのかわからなかった。今ならばわかる。神様だ。ユリクが崇め奉っていたあの神が俺を怒らせ絶望させていた。母親もユリクもダーもみんなみんなおかしいのに、どうして誰も気が付かないのか。俺の叫びを誰も正確に捉えなかった。自分自身さえも。
だから半井が弱々しいままでは困るのだ。俺の長い憎しみに足る人物でなければ。神を捨てた半井温でなければならない。光の家の神を無くし、新たに俺を代わりにするような男では信仰の向こうに俺の憎しみが消えてしまうだろう。
全部が全部半井のせいではない、だが手近な解決策に流されてしまう。あいつも被害者だ、という小さな声を無視して俺は憎悪に浸ろうとしている。これは正しいか正しくないかで言えば後者だ。ユリクと遊んでいた頃の自分はただあの目に魅せられていただけだった。要領が悪く不器用ですぐ疲れるユリクと一緒にいる理由はそれだけだった。あのころ自分の怒りに気がついていれば俺はユリクを拒絶できたのだろうか。なんとなく一緒にいる生き物の美しい目のせいで痛みも苦しみもぼんやりとした膜に覆われた。俺の洗脳はユリクの瞳を持ってして完成した。
気まずいまま次の日を迎える。珍しく俺より先に起きる音が聞こえ、玄関をそっと開ける様子がわかった。どこに行くつもりなのか、行くあてなどどこにもないのに。夢現のまま半井の立てる音を聞く。
朝飯を食べ終わり、出かける用意をする頃にようやく帰ってきた。手が土で汚れている。
「どこに行ってた。」
「公園。」
半井は少し微笑んだ。どこかを見ているような微笑みではなく、確かにここに立っている生身の男の笑み。
「あれを埋めた。」
そうか、としか答えられなかった。俺と半井の間にあるものはごめんやいいよで乗り越えられるようなものではない。それがわかっていて、それでもこの日常を続けるしかない。半井温が治るまで。
光の家から世間の目が離れてきた頃、ダーがぽつぽつとメディアに登場するようになった。俺は夕食後に酒を呑みながらテレビを見ている。出演が増えたのは特別な経歴のせいもあるが、彼女の美しさも手伝ったのだろう。花岡芽依はどんな質問にも丁寧に答え、常に冷静だった。下世話な質問が飛ぶこともあったがそれらにも適切に対応していた。もう俺たちのダーではない、1人の大人の女性がそこにいる。
始終穏やかだったインタビューの中で花岡芽依が一度だけ言葉を詰まらせたのは子供のことだった。育てるにはあまりにかけ離れてしまったと語った。距離ではなく、心が。土台が違うものになってしまっていたと彼女は言った。外を知らずに育った子供と外を知っている自分ではたとえ血が繋がっていてもかけ離れている。だから、ひどい親だとは思うけれど連れてはいけなかったと。脱出する時にお子さんは連れていかなかったのですかと意地の悪い質問をした初老の女は顔を顰めた。
俺もそうだったのかもしれないな、と思う。俺達はお互い分かり合うのにあまりに遠くにいる。ユリクに外に出ようと言っても出なかっただろうし、彼は密告しただろう。それが正しいことだと信じているから。盲信の目。俺を救おうとする、目。
そうだ、ユリクの全ては善であり、慈悲だった。俺が欲しいものが詰まっている瞳だ。母親から貰いたかった視線、足りなかったもの。全ては「俺」に向けられたものだった。半井をまともじゃないと詰った俺はかつてユリクから受け取ったものをも否定しているのか。いつからあいつはあんな目をするようになった?ユリクがいたから俺は外に出られたのか?
酒を呑んでいるせいか思考がぐるぐると回る。だが俺は痛かったし、嫌だった。苦しむ俺に駆け寄ったユリクの顔は歪んでいた。祈りの言葉が蘇ってくる。優越感?違う、悲しみ、近い。救済か、人は人を救えないのに。救えなくても良いといつ識ったのか。ユリク、お前は何を俺に求めていたんだ。いや求めてなどいなかったのか。見返りを求めない祈り、それは…。
何かを掴みかけた気がしたが明確にしようとすると離散した。
清司がソファで寝ている。今日は会社が休みの日だったか。机の上には空いた酒の缶が散らかされており、片付けようと持ち上げると少し残っていた液体がちゃぷりと揺れた。口をつけるとアルコール臭が鼻をついた。飲み干す。ぬるまった液は甘ったるい味を残して消えた。これは美味いのだろうか。
静かに上掛けを体に被せてやる。夏はとうに過ぎ去り肌寒くなりつつある。片付けの物音に気が付いたのか、薄目を開けた清司は俺がやるからいいと小さな声で言った。
嗜好品としてではなく自分を追い詰めるためだけに酒を呑んでいるように思える。つまみも無くただアルコールを胃に流し込むような行為は緩やかに首を絞めているような、あるいは私が絞められているような。
寝ていろと言うのに清司は赤い目をして起き上がった。見ていられなくて私は空き缶を袋に詰めることに集中した。足音が背後まで近づいてくる。
「ー何もなかったみたいな顔をしやがって。」
体が震える。
「じゃあ他にどうしろと?」
神を埋葬してからも私と清司の生活は表面上続けられている。無いものに祈るような信仰への敬虔さは持ち合わせていなかった。私はまともになりつつあるのだろうか。
「わからん。」
結局はそうなのだ。私も清司もお互いへの気持ちをどう処理したら良いのかわからず途方に暮れるしかない。生活は淡々と続く。私は長年の思慕を表に出せず腐らせ、清司は真新しい憎しみに慣れずに。
「私のことが嫌いだったならどうしてここに置いたんだ。君はまるで受け入れたみたいに…」
言葉が続かなかった。食事の合間に見せた薄い、それでいて安堵に満ちた笑みはなんだったのか。散歩道で表情を緩めた男は何を考えていたのか。
「わからん。」
清司は繰り返した。心底疲れ果てたとでも言うように。呟きはため息に似ていた。
金さえあれば私はここを出ていくだろう。知識があれば適切に言葉を繰って清司を納得させられるだろう。そして心底神を信じていれば彼に祈りの言葉を囁くだろう。どれも無いからただ立ち尽くすしかない。
私は光の家でずっと清司に、ブレヒトに恋焦がれていただけなのだ。幼い私の中で全てが善なるものは簡単に強く優しいブレヒトに置き換わった。有り体に言ってしまえば光だった。陳腐すぎて笑える。
神を捨てても清司への思慕は捨てられなかった。恋愛と崇拝の違いももうわからない。こんな気持ちはおかしいのだろう。彼の言う通り。
「どいてくれ。」
清司の体は押せばぐんにゃりと動き私に道を作った。すり抜けようとする私の腕を清司は掴んだ。暖かい手だ。
「なあ、もしかしてお前は、」
清司、酒に溺れて君は何を見たのか。言わないでくれ、もう何も言うな。私は彼の手を乱暴に振り払う。すまん、と清司は反射的に口にした。嫌っている人間にも謝れる君が好きだ。飄々としているように見えて変に義理堅く、案外細かいことを気にするところが好きだ。君の立てる朝の物音が好きだ。私を起こさないように抜き足差し足で動く音。黙っているときつい目元が笑うと優しくなるところが好きだ。一緒に暮らしてから私は前よりもっと身近に清司のことを考えるようになった。
彼のかけがえのない少年時代を奪った自分が憎い。
「君が私の運命じゃなければよかったんだ。」
私は俯いて目線を床の板に這わせた。
「神様なんて最初から、、」
言葉が詰まる。宗教はブレヒトを救う手段に過ぎなかった。苦しそうだったから助けたかった。多分出会ったときから好きだった。光が見えた。どうしたら正しく伝わるだろうか。どうしたら私たちは救われるだろうか。あの時見た光のことを伝えなければと思うのに、上手く言葉が出てこない。ずるずると壁に身をもたれさせて座り込む。
「ー君が好きだ。」
混乱した頭の中から飛び出したのは単純な告白だった。冷えた感情が心を支配する。終わったな、と思う。
項垂れた男を見ている。
俺達はずっと誰かに手を差し伸べて欲しかったのに誰もそうはしてくれなかった。一番血縁として近しいはずの両親が俺達を放置し歪んだ愛が他人の口から実しやかに語られた。
半井温を憎むのは簡単で単純な方法だ。父親とはとっくの昔に縁を切っていて、母親は恐らく幹部として囚われている。組織は解体され上層部の信者のほとんどは裁判を待つ身だ。俺の手近にいるのは半井だけだ。
愚かな男だ。俺としか一緒に遊ばなかったから信仰心と恋愛感情を履き間違えた。この愚かな男を心から憎めるだろうか。
まともになるとはなんだろう、と二日酔いで重い頭で考えた。盲目的に信じ込んできた言葉が今では疑念で霞む。ユリクの信仰心は、俺への思慕は普通ではなかったのだろうか。外に出た俺はまともに成れているのだろうか。俺のことを好きだという男はまともじゃ無いからこんなことを言うのだろうか。
知らず知らずのうちに喉から唸り声が出ていた。半井が怯えたように顔を上げる。
俺達はどうしたらいいのだろう。俺達はどうしたら救われるのだろう。祈る相手がいるものは幸福だ。こんな思いをしなくて済むのだから。
祈る対象のない俺には考え続けるしか道はない。祈る対象を無くした半井もまた考え続けるしかない。
潰しきれなかった空き缶がゴミ袋の中でベコっと鳴る。2人の男は静かに思考の沼に沈む。
ーおい、ユリク。大丈夫か?
頬の赤い子供が白い部屋の中で寝そべっている。余計な暖房器具は排除されているために部屋の中は肌寒く、子供にかけられている布団は薄い。潤んだ目をゆっくりと開けた子供は弱々しい声でブレヒト、と囁いた。
少し大きな子供は外の冷気にあたっていた手を寝ている子供の額に乗せた。2、3日は寝込むだろうと世話係の女が言った。かわいそうに、とも。
ー元気の出るものやるよ。お前が好きそうなの。
大きな子供はそう約束した。女は目を細めて様子を見ている。
ーだから早く治せよ。
ーうん。
細い声が明るく跳ねた。
ありがとうございました〜
神様=好きな人、の半井温と神様=嫌なもの、の沼田清治では永遠にわかりあえるわけがないよなーと思いながら書きました。わかりあえないけど一緒に暮らす、わかりあえないけど憎みきれないという地獄をこれからも2人で生きていく予定です。出会った瞬間好き!って言えちゃえば楽なのにそんなのおとぎ話だよねという話です。