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神よ、人の祈りよ、喜びよ  作者: 墨太郎
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ユリクとブレヒト

 長かった第一段階の更生プログラムが終了して手紙を書くことを許されるようになった。カウンセラーは手紙や日記を書くことを推奨している。父や母ではなく君に手紙を書いているのは彼らより君の方が私の心に近しいと感じるからだ。とはいえ本当にこの手紙を君に出すかはわからない。外部への手紙は検閲されるし、何より君は私を忘れたいのではないかと思う。ブレヒトであった頃より沼田清司になってからの方が長くなった君はもう外の人間なのだから。

 第一段階のプログラム中には知らされなかったが終了と同時に君の情報がもたらされた。沼田清司、どうも慣れない響きだ。かくいう私も天使の子ユリクから半井温に変わり未だ慣れずにいる。半井というのは母だった人の姓だ。温、という名前は私が産まれた時に母が付けようとしていたものらしい。偶然だが君も名前にさんずいが入っている。私たちにはまだ運命の糸が繋がっているのだろうか。

 立派にお仕事をされていますよ、とカウンセラーは言った。工場というところで機械を作っていると聞いた。私には想像もつかない仕事だが君の身体が健やかであることを祈る。私は元気でやっている。時折お主様や梵様のことを思い出す。私はまだ、


 書きかけて紙を握りつぶした。どう考えてもこの手紙の大半は検閲で朱線を引かれてほとんど意味をなさないだろう。それならば出さない方がよほど良い。こんな手紙が届いてもブレヒトの心を揺さぶるだけだ。私だけが過去の感傷に囚われて地に足をつけて歩む彼に絡まりつく。

 手のひらを見る。私はにじゅうなな歳らしい。それがどのような意味を持つのか実感できないでいる。光の家にいた頃は歳をとらなかった。天使の子供達には年齢がない。

 カウンセラーは穏やかで冷静だが私を見る目にどうしても哀れみが混じる。私は犯罪者の子供で宗教団体に27年間閉じ込められていたそうだ。天使の子供達は皆集められ更生プログラムを受けている。他の子供達には会えない。社会復帰したら会える可能性もあるとカウンセラーは言うが私が会いたいのはブレヒトだけだ。私の運命の相手だったブレヒト。

 運命の糸が子供達を結びつけると言うのは教祖が考えた仕組みにすぎないと説明された。多くは天使の子供と俗世の子を結ぶ。それは俗世の子の心を宗教団体の中に引きつけておくための仕組みなのだと。信じられなかった。私はブレヒトとの間に糸を見たのだ。ブレヒトの感情が手にとるようにわかったし共鳴していた。カウンセラーの言葉を借りれば麻薬の効果だ。常習的に口にしていた祝福の水の中には麻薬が含まれていたらしい。光の家を出てから最初にしたことは麻薬を抜くことだった。思い出したくもないが病棟に入れられベッドに縛られている間渇きと頭痛が私を襲った。そんな苦しみの中で祈りだけが私の心を軽くした。糞尿を垂れ流しうめき声をあげながらも私は瞼の裏に神を見続けていた。それは昔ブレヒトが私にくれた木彫りの像の姿をしていた。

 懺悔をしなければならない。神に姿は無い、神に形を与えるなど俗世の習慣だと梵様は常々私たちに教えてくれていたのにブレヒトがくれた神様の像を私は嬉々として梵様に渡してしまった。彼は罰を受けた。告げ口をした訳ではない。問題行動ばかり起こす彼が改心したのだと私は思ったのだった。姿を与えるのは悪いことだがユリクのために神を彫った彼を讃えたかった。熱を出して寝込んでいた私に彼は木彫りの像を渡してくれた。これこそが紛れもなく全ての行いが善なる神だと私にはわかった。熱を持った額にブレヒトの体温の低い手が触れた。運命の糸はあるのだと信じる。

 梵様は木彫りの像を離さない私の頬を打った。泣きながら打った。そして愛だと言った。私も泣いた。愛だと思った。

 ブレヒトは懲罰房に入れられ鞭を受けた。私は彼の運命なのでその姿をずっと見続けた。そして彼のために祈りを捧げた。早く彼の中から邪悪なものが出ていくように、早く汚れた魂が救われるように。

 鞭打ちが終わりぐったりと疼くまる彼の元に駆け寄り抱きしめた。どうしたらブレヒトが救われるのか私にはわからなかった。感情だけは近しいのに、こんなにも結ばれているのにどうしても私はブレヒトの安心する場所になり得ない。

 ブレヒトは外から来た子供だった。彼の母親が家に入りたいと願い出て、それが叶ったのだ。天使の子供のうち相手がいなかったのは私だけだったから必然的に私とブレヒトが結ばれた。お主様に結んでいただいた時のことを私は一生忘れないだろう。あれが初めてお主様とお会いした日だった。ブレヒトは長時間の正座に耐えられず足を崩し、母親を探して視線を彷徨わせ叱責を受けていた。私は緊張のあまり動けず、よくお主様を前にして平気なものだと驚いたのだった。

 お主様はお優しかった。2人で涅槃に至るのだよ、仲良くするのだよとおっしゃった。私は不思議な目を持つお主様を見つめていた。美しいものを見た、と思った。ブレヒトはついに立ち上がって脱走しようとし先生達に捕まった。

 お主様は犯罪者で私の父親なのだそうだ。天使の子供達のほとんどは母親が異なる義兄弟なのだと聞いた。お主様は嘘で、梵様も嘘で、だから運命の糸も嘘なのだ。私は光の家で産まれた戸籍のない子供で、ブレヒトは沼田清司だっただけだ。私達の間には何もなかった。ではあの時見た光は、ブレヒトを救いたいと思った感情は一体何だったのだろう。

 私はブレヒトに光を見出していた。先生はブレヒトを厄介者扱いし、梵様も彼に厳しく説教していたが私は密かにブレヒトの中に神性を感じ取っていた。祈りの会に参加せず木の上に隠れていても、経典を諳んじることができなくても、俗世の習慣が抜けなくても彼には光があった。ただ今は邪悪が彼を蝕んでいるだけで救い出すことさえできれば彼は一番お主様に可愛がられるだろう。そんな予感さえあった。だからブレヒトの間違いを正すために私は積極的に彼と対話し彼を罰した。何度ブレヒトの手の甲を叩いただろう、何度先生に彼の間違いを話しただろう。救いたかった。苦しむ彼を救えるのは私だけだと思っていた。なぜなら私はブレヒトの運命だから、そして天使の子供ユリクだから。

 更生プログラムが進むにつれて私の世界は変貌していった。光の家しか知らなかった私は大きな世界と相対することになる。ユリクだった頃の自分の感情を言葉にするのは容易いようで難しい。ブレヒトに向けたのは羨望、期待、そして嫉妬や優越感。そこに独占欲も混じって天使の子供という言葉からは考えられないほどの腐臭を放ったものを煮やしていたのが私だ。昼間はカウンセラーによって目を開かされ、夜はブレヒトのことを思って眠れなくなる。私は布団に頭まで潜り心の中で呼びかける。君はもしや私が厭わしかったのか。君が脱走の話を最後まで私に打ち明けなかったのは密告を恐れてか。

 ブレヒトが何人かの者と共に姿を消したと報告を受けた時私は糸が断ち切られる音を聞いた。嫌な音だった。初めて懲罰房に入れられて知っていることを話せと梵様に諭されたが知っていることなどなかった。その事実が更に私を苦しめた。ついに彼を救うことができなかったという後悔の気持ちと裏切りへの絶望が悪寒となって私に這い寄った。

 運命を失った私は梵様になる資格を失った。救わねばならなかった魂を救わなかった私には処罰が下され、私はかつてのブレヒトが受けた罰を受け入れた。肉体の痛みはブレヒトへの気持ちを昇華させた。痛みが増せば増すほどブレヒトへの想いは澄んだ。救えないのだ、と知った。私に人は救えない。私は梵様にもお主様にも成れない。力のない私にできることはただ一つだった。毎朝ブレヒトのことを思い祈った。


 手紙を出すことを許して欲しい。外の世界で平和に暮らしている君を苦しめようなどと考えているわけではない。更生プログラムの第二段階に入った。驚くべきことを知った。

 ダーを覚えているか。私達の世話係だった優しいダー。彼女の手記の抜粋をカウンセラーから受け取った。彼女は、花岡芽里は性的虐待を受けていたと告白している。クスリを与えられ、あの梵様やお主様から暴行を加えられていた、と。涅槃にたどり着くためには手を取り合いなさいと教えてくれたあの梵様がそんなことをするだろうか。彼女は子供を身篭り、天使の子供達を産んだそうだ。

 私も同じなのだと気がついた。母はおそらくお主様からそれと気が付かず暴行を加えられていたのだろう。吐き気がする。母が私と会いたくないのも当然だ、私は確かに犯罪者の子供だ。

 ダーのことを思い出す。聖典を噛み砕いて語り聞かせてくれたダー。いつもは暴れん坊の君もダーの膝の上なら大人しくしていた。君と一度だけ喧嘩をしたのはダーの膝の取り合いだった。いつの間にか彼女は私達の世話係ではなくなり、程なくして脱走したと聞かされた。驚いた。あの時君はそれほど驚いても悲しんでもいなかった。気がついていたのか。

 花岡芽里の手記によると天使の子供のうちの数人も性的虐待の対象となっていたそうだ。年端も行かない子供を愛でる性癖を持った梵様がいたのだと書いてあった。私は何も気が付かなかった。

 聞いてくれるか。私は幸せだったのだ。あの頃、君がいて、ダーがいて、祈りがあったあの頃。私は満ち足りていた。聖典を開けば真実が書いてあり、祈れば神が微笑んでくれた。麻薬の効果らしい。そうだとしても私は幸せだった。

 今は、苦しい。


 カウンセラーは顔を顰めた。

 「これは、出せないかもしれないわね。」

 一応上司に確認してみるけれど、と彼女は私の手紙をファイルにしまった。

 「受け入れるのが難しいのはわかっている。でも聞いてちょうだい。光の家は解体されて大垣長人は服役中よ。幹部の数名はまだ逃げ続けているけれど捕まるのも時間の問題でしょうね。」

 大垣長人、私の父親でありお主様だった人。

 「まず光の家で習った言葉を用いないことね。お主様ではなく大垣。梵様ではなく幹部。ブレヒトは沼田清司さん、あなたはユリクではなく半井温さん。」

 言葉は脳を支配する。言語学者であり脳科学者でもあった大垣は聖典を神の言葉で記した。彼自身が作り上げたどこの国のものでもない言葉だ。家にいる間私は神の言葉と俗世の言葉の両方を使って話した。光の家は大垣の巨大な実験施設であったと言える。私達はその実験台だ。外の世界に触れさせないで、特殊な状況に洗脳して子供を育てたらどうなるか。

 「大垣はある意味天才ね。40年間も宗教団体を存続させたのだから。」

 第二段階に入ってから担当になったカウンセラーの有明さんはあけすけだ。自己紹介で彼女は「私、ここでは鼻つまみ者なの」と言った。

 「お勉強はできたみたいね。博士号を2つ、それも1つは留学して取得している。もっと別のことに頭を使って欲しかったわ。」

 有明さんは足を組んでため息をついた。

 「さて、今日はお話をしましょう。」

 更生プログラムは全部で5段階ある。3段階目が終了した時点で外に出られる。まだまだ道のりは遠い。

 「半井さんは外に出たら何がしたい?」

 色々な体験学習が組まれているが今日は雑談の日らしい。

 「ブレ…清司に会いに行きます。」

 うんうん、と有明さんは頷く。

 「そして神様の話をしたいな。」

 初日に有明さんは神様のことを聞いてくれた。全てが善なる神様。神に会いに行くために祈り、神のことを知ろうと涅槃に至る。その過程を修行と呼ぶ。決まった呼吸法があり、印を組みながら聖典を読めばいつか涅槃にたどり着く。「聞いた話より悪い神様じゃあなさそうね。ヨガみたいなもの?」と彼女は言い、神のことは無理に捨てなくても良いと言ってくれた。

 「なぜあなた達は見たこともない神様のことをそんなに愛せるの?ていうか神の話ってしていて楽しいもの?」

 「なぜ??」

 私は驚いて言葉を失う。神を愛するのは当たり前のことで理由を考えたことなんかなかった。

 「ごめんごめん。私は無宗教だからさ。」

 「有明さんには神様がいないということですか。」

 そうねえ、そう言うことかもと答える有明さんにまた言葉を失ってしまう。

 「では、間違った時にどうやって許しを得るんですか。悲しい時とか寂しい時に誰に話しかけるんですか。」

 「許しは…誰からも得られないかな。悲しい時とかは夫に、聞いてもらったり、とか。」

 「オット?」

 「結婚の制度の話は聞いたわよね。旦那さん、婚姻関係を結んだ相手、オット。」

 奇妙な制度だ。しかし外の世界はそうやって成り立っていて有明さんには夫がいる。

 「許しを得られなくて平気なんですか?夫は神様に近い?」

 「私は平気。でも外の世界にも平気じゃない人はいるよ。あと夫は神様ではない。どちらかというと悪人。」

 悪人!?私は大きな声を出してしまう。

 「有明さんは悪人と一緒に暮らしているんですか。」

彼女は楽しそうに笑った。

「平気で虫を潰したり、他人の生活を邪推したり、する。」

「それが外の悪人?ですか?」

「ふふふ。半井さん、これは冗談というやつだよ。」

 有明さんの言っていることは時々わからない。

 「今回のは少々の過ちを大袈裟に伝える手法ね。」

 「勉強になります。」

 私は渡された白いノートに書き留める。冗談、はまだ習得できない。

 「半井さんは大垣が悪いことをしたと理解しているのに『神様』は信頼しているんだね。」

 もちろんだ、という意味を込めて大きく頷く。神の存在を身近に感じ続けていた私にとってそれは規範であり秩序である。大垣が否定された今、やはりあの木彫り像は神の姿なのだと確信する。

 「私と清司は神の話をしました。」

 光の家は小高い丘の上にあった。下界からは遠ざけられた神聖な場所。俗世から来た子供達は外の学校に通うが天使の子供達は家の中で先生から指導を受けた。思考を矯正することもまた虐待の一種だと第一段階で教わった。私達の知識は歪で社会に馴染まない、らしい。

 「私は聖典にある奇跡の話が好きで、そういう話を集めていました。」

 「集める?」

 「そうです。光の家の中や周りの森林を探検して、聖人の跡を見つけたり奇跡を想像したり。奇跡のことを凡人が考えるのは本当は悪いことなのですが私達はそれに夢中になった。」

 聖人は善なる人を蘇らせる、山を動かす、動物を意のままに操る。手をかざして葉っぱを動かせないか、祝福の水の色を変えられないか試した。あの頃が間違いなく一番幸福なときだった。ブレヒトの手は同年代より大きく力が強かった。手を引かれて森の中を彷徨った。邪悪なものが現れたらどうしよう、と怯える私にブレヒトは尖った木の枝をくれた。邪悪なものを倒す遊びをした。

 「清司は中学校に通うようになってからおかしくなってしまったんです。」

 天使の子供達に外の食べ物は与えられない。けれどブレヒトはことあるごとに給食を持ち帰り私にくれた。私は誘惑に負けてそれを口にし、そのあと幹部に懺悔した。共に罰された。幹部の男は私の喉に手を入れて食べ物を吐瀉させた。私の潤んだ瞳を、餌付く様子をブレヒトはじっと見つめていた。黒い瞳の奥で何を考えていたのか、私達はだんだんと共鳴できなくなっていた。

 「規則を破って外泊したり悪い言葉を使ったり。私は彼に善いものになって欲しくて、懲罰房に会いに行きました。小窓から聖典を読み聞かせた。」

 雑談をしようにも私の心はまだあの幸せの中にいる。外の言葉で長く喋れるようになったのは更生プログラムの賜物だが精神はどうだろう。社会に適合できうる精神を得るにはあと何年かかるのか。

 「思い上がりでした。私は清司を救えなかった。彼はきっと私が疎ましかったでしょう。」

 俯いて膝の上の拳を固める。薬物を抜いて、洗脳を解かれる過程で私の正しいと思っていたことはゆらゆらと揺れる。運命の相手を厭うことなどできないと思い込んでいた。外でもブレヒトは神を思い、私のことを祈るだろうと。頭の隅にある考えが滑り込んで消えない。ブレヒトは私を嫌っていたのだ!だから逃げ出した。

 「それでも半井さんは沼田さんに会いたいんだね。」

 カウンセラーは静かに言った。

 「私が信じたものの話をしたいのです。彼に光を見たので。」

 薬物の作用に過ぎないただの幻覚だったとしても彼が私を嫌っていても会わねばならないという思いが私を突き動かしている。更生プログラムに取り組む理由もそこにある。私は外に出てブレヒトと話をしなければならない。

 休憩にしようか、と有明さんは言った。


 ブレヒトがいなくなってからも私は敬虔な信者として過ごした。他の誰とも再び糸を結ぶことはなかったがそれでも私の心は満ち足りていた。私は天使の子供の教育係となってかつてのダーのように彼らを膝に乗せ聖典の話をした。ブレヒトの話もした。かつて光を持った人がここにいたと伝えた。

 彼らのうちの何人かは私の義兄弟であったらしい。あの子供達も幹部に愛でられていたのだろうか。私達に自慰を禁じた「梵様」が子供を弄ぶ様を想像し胸が苦しくなる。もし私が幹部になっていたら私も罪に手を染めただろうか。自分の意思を持たされていなかった天使の子達は簡単に罪に染まるだろう。

 どうやら光の家で産まれ、洗脳されたまま成長すると自我が薄くなる傾向にあるそうだ。現在犯罪者として勾留されている天使の子供も上層部の意見に流されたのだろう。だからといって罪が軽くなりはしないが。幸にして私は比較的自我を保っている方だとカウンセラーは言う。これにはブレヒトの影響が大きいだろう。外部に接している子供と親しんだ日々は私に核を与えた。

 神を信じると一口に言っても派閥がある。ブレヒトが去ってから過激派の活動が目立つようになり、私の属す穏健派は本部に居を移した。ブレヒトと過ごした場所を去るのは惜しかったが本部に行くことを私は単純に喜んだ。大垣は穏健派であった。幹部の一部が過激派であり、いく人かを連れて本部を去ったので人手が足りなくなったのだ。

 事件が起こった日、私は神と対話していた。祝福の水を口に含み、一定のリズムで呼吸しながら神を呼び祈っていた。戸口から人の声が聞こえた。騒めきが段々と大きくなり修行の場を乱した。集中力を切らした修行者が立ち上がると戸口からもつれるように人が雪崩れ込んで来た。年若い同志達だった。盛んに口を動かし、何を言っているのかわからない。

 「殺した。」

 その一言だけやけに鮮明に聞こえた。誰が誰を、という情報は後からやってきた。

 信者を増やし私腹を肥やす光の家を危険視するもの達は外の世界に数多くいた。政治家や報道記者、著名人の中にも声高に光の家を批判するもの達がいた。過激派が彼等に襲撃を仕掛けたのだった。不発に終わった計画もあったが偶然成功した計画では数名を傷つけ、運悪く重症に至った政治家の1人が死んだ。襲撃犯の多くはその場で取り押さえられたが逃げおおせた者もいる。危険をいち早く察知した大垣はどこかに雲隠れした。怯え、狼狽える私たちを残して。

 まもなく黒い服を着た俗世の人々が光の家にやってきて私たちを保護した。彼らの口調や態度は優しげだったが目は鋭く冷たかった。家を出る時、何も持って行ってはいけないと言われたが私はブレヒトの作ってくれた偶像をそっと服の中に隠した。かつて幹部の男が奪ったそれを、ブレヒトはいつの間にか取り戻していたのだった。

 私達に手錠は用いられなかったが一人一人に制服の男が付き添い肩を押さえられていた。丘を降りる時、私は立ち止まって振り返ろうとしたが男はそれを許さなかった。

 「止まらないで。進んでください。」

 機械的な声で彼はそう言った。信者のいなくなった家はどうなるのだろう。祈りのなくなった場所はもう神聖ではない。しかし私の心は静かだった。服の中に隠した像がほんのりと熱を持つようだった。私の神はここにあり、何も案ずることはないとその時は思っていた。

 身体検査であっさりと偶像は取り上げられ、私の地面が揺らぎ始める。更生プログラムを始める前はほとんど病室にいた。何種類かの薬と解毒剤が聖典の代わりとなり、はしゃぎ回りたいような良い気分のあとに体が重くなり何も考えられなくなる絶望が待っていた。明るい気分の時に私が大声を出して暴れたので私はベッドに細い紐で括られていた。ブレヒトの名前を呼んでいたらしい。ブレヒトに呪詛の言葉を投げつけ、そのあとに許しを乞うていたそうだ。それが私の本性か。

 熱を持ち、だるい体を横たえながら幼少期の美しい思い出に浸っていた。病室でも私はある意味幸福だったのかもしれない。苦しみは世界を知ってからやってくる。


 沼田清司様

 お元気ですか。いきなり手紙が届いて驚かれたことでしょう。私を覚えておいででしょうか。半井温です。ユリクと名乗った方がわかりやすいですか。

 更生プログラムの第二段階が終わろうとしています。このまま順調にいけば私は来年の春には施設を出て良いそうです。施設では外に出た時に役に立つことを学びました。プログラムを受けたわけではないのにたった16歳で外に飛び立ったあなたはとても勇気があったのだとわかりました。

 先日カウンセラーの先生方と外を散歩しました。空気が冷たくなり、葉が色づく季節です。この季節になると私はあなたの起こした奇跡のことを思い出します。拾ってきた松ぼっくりを金色に変えたことを覚えていますか?金色にしてあげると約束した次の日には私の枕元に綺麗に光る松ぼっくりがありました。私はびっくりして、嬉しくて、もっと増えるようにと2人で森の中に埋めましたね。次の年になっても松ぼっくりは生えてこなかった。あなたは私に木というものは数十年しないと大きくならないんだと教えてくれました。

 施設にいると昔のことばかり懐かしくなるのです。お主様も梵様も陽炎となった今、あなただけが確かに実態として私の中に有ります。昔はよかったと感傷に浸りたいわけではなくあなたと私を繋ぐ唯一の場所があそこだったのだと思います。

 お忙しいでしょうから返信は不要です。体を大切にしてください。

                                              半井温


 何日も空けていなかった配達ボックスからチラシや電気代のお知らせなどを回収している途中、白い封筒が滑り落ちた。いつかこんな日が来るだろうと予想していたことだった。そっと拾い上げた。夜勤明けで朦朧とした頭に丁寧な差出人の名前がやけに鮮明に飛び込んでくる。半井温。虹彩の薄い瞳が俺を捉える。外斜視ぎみの不思議な、目。頭痛がするのは朝まで働いていたせいか、この手紙のせいか。

 事件が起こった日、俺は工場でせっせとバリを取りネジをしめ油を塗っていた。昼休憩に入った定食屋でそのニュースが流れた。俺の過去を知らない同僚は顔を顰めてイカレ野郎どもと吐き捨てた。信者に襲われた著名人を助けようとした警備員が大怪我を負い、巻き添えで民間人が怪我をして、社会学者は逃げようとして捻挫し、政治家は死んだ。実行犯は若い男だと聞き、体が凍りついた。豚の生姜焼きは半分も喉を通らず、残すのももったいなくて水で無理やり流し込んだ。午後はめまいを堪えながら働いた。

 残業をせずに一目散に帰宅しテレビをつけた。ニュースで流れている実行犯の顔には見覚えがなく、とりあえず安堵する。光の家は解体される。ぼうっとニュースを見続けた。光の家が無くなる。あいつはどうなるのだろう。

 数日後には大垣長人が大麻所持や幼児虐待、婦女暴行の件で捉えられ光の家の実態が明るみに出た。それと同時に花岡芽依の告白もあり、ニュースは宗教団体の話で持ちきりになった。新興宗教についてまわる三悪、金薬女を全て網羅していたのが大垣長人だ。布施と称して金を得て、敷地内で麻薬を育て、洗脳した女を抱く。油ぎった子男をユリクはお主様と呼んで慕っていた。花岡芽依の証言を聞き、ふとあいつは大丈夫だったんだろうかと思った。幹部の中には男の子を愛するものもいたそうだ。俺がいる間は大丈夫だった、はずだ。俺がいなくなってからはわからない。まさか教祖の息子に手を出すわけもないか。

 大垣長人は賢しい子供だったそうだ。勉学はできた。しかし人間関係を築く能力に乏しく友人も恋人もできないまま大学を卒業する。大垣は体躯が小さく、太り気味で極め付けに卑しい目つきをしていた。人を見下す目つきだ。対人関係の不安から声は聞き取りにくく、猫背で髪の毛は汚らしく伸ばし放題だった。優秀さ故のプライドと容姿へのコンプレックスを抱えて彼は博士課程を終了、そこからは一時行方不明になる。家族関係は希薄で特に捜索願いは出されなかった。ねじ曲がった精神と優秀な頭脳の中で教祖という妄想が膨れ上がり形を成したのは34歳の時だ。そこから40年、狂った宗教家の歴史が綴られた。

 テレビで大垣の顔を見て、ああなんだこんな老人だったのかと拍子抜けした。特別醜くもなく、道端にいればただのお爺さんでとおるような老人だった。若い頃も自身で思い込んでいたより醜くはなかったのだろう。心根は別として。

 他の幹部も次々に逮捕された。梵様達の中には見覚えがある者もいて、12年も経てばこんな風に歳をとるのかと思っただけだった。上層部の逮捕に関して予想以上に俺の心は凪いでいた。

 光の家にいた信者達のことについての報道は規制されているのか僅かで、ネットに頼って彼らの情報を追った。ネットの情報は雑多で中には耳を疑いたくなるような噂もあり、その度にユリクの囁くような神の言葉が思い起こされ罪悪感で眠れなくなった。あいつも連れて逃げればよかったのか。

 ユリクは一緒にいて楽しい相手ではなかった。何かといえばすぐ神様のことばかり口にして面倒だし、俺が祈りの時間に居眠りをしていると起こしてきた。規則を破れば告げ口されひどい時には鞭打ちの罰が待っていた。それでもなんとなく一緒にいたのはあの目が理由だ。絶対の信頼を向ける瞳。それ以外のパーツは凡庸でどこでもいる子供なのに一部分だけが明らかにバランスを欠き、異様な存在感を放っていた。そしてそれに気がついているのは俺だけだった。盲信の目とでも言えばいいのか。多動児で乱暴者ゆえに親から見放され、友人もいない俺にとって信頼は甘い蜜だった。

 ユリクは自ら俺を罰している時ですら俺に頼り、縋っていた。小枝が俺の手の甲を裂くとき痛そうなのは誰よりもユリク自身だった。外にいる時だったら絶対に関わらなかったであろう子供2人がお互いに見当違いのものを求め、結局は決別した。

 数週間後、信者が保護されたという政府認定の施設から葉書が届いた。脱走者の住所も把握されていたのだと驚いた。支援者にならないかという誘いの葉書だったが、返事をせずにいるとそれきりで終わった。あなた方のような先駆者の存在が社会に出る励みになり…という文章をちらっと読みかけて止めた。

 脱走者の生活は励みになるほど充実したものではない。今や散り散りになりどこで何をしているかもわからないかつての仲間達も似たり寄ったりの暮らしだろう。

 義務教育の終了と共に光の家で修行に明け暮れるのだとわかった俺は何人かの子供を誘って脱走した。本部や支部から遠く離れた土地を選んで移動した。移動費や生活の資金は逃げ出すときに失敬した金を使った。すぐに金は尽きて店からパンを盗んだら警察の世話になった。事情が事情だけに俺達は児童施設に保護され幼い同志は親元、即ち光の家に送り返された。それを察知した俺達はまた逃げ出し、けして掴まってはならないと知った。

 学もなく履歴書も書けない俺達に待っていたのはまともではない世界の入り口だった。俺は運が良く、遠縁を頼って町工場に就職できたが他のもの達はどうなったか。俺はまた人生から人を切り捨てたのだ。

 工場の暮らしも楽ではないがようやく貯金ができるようになってきた。常に何かに追われているようだった生活に一息つけるかと思いきや今度はこれだ。手紙はユリクの表面だけをなぞっているように平坦だった。あの松ぼっくりは道端で拾った金色のマニキュアで塗った。あんなに喜ぶとは思わなかったから内心焦った。けして誰にもいうなと約束させた。梵様にでも言われたら鞭か懲罰房だ。俺を聖人か何かだとあいつは信じ込んでいたのだ。

 楽しい相手ではないのに一緒にいて10年。あいつを見捨てて外で暮らして12年。光の家のことはもう遥か遠くの話としか思えない。あそこは不穏な雰囲気が常に漂っており、細部まで思い出そうとすると痛みの記憶だけがぼんやりと浮かび上がる。躾にしては厳しすぎる体罰があそこでは神の愛だった。

 手紙が来るまでは忘れていた、忘れようとしていた相手からの柔らかな文字は見るに堪えない清らかさを持っていた。いもしない神に祈り続けると人間はこうも穏やかになるのか。これは更生プログラムの結果なのだろうか。ユリクはどんな子供だったか、俺はもう正確に思い出せない。信望する瞳、綺麗に釣り上がる唇、ささやきのような神の言葉。些細な情報ばかり散って本体が掴めない。俺が切り捨てた少年は成長し、恨言ひとつも書かずに手紙を寄越した。

 放心した俺の手から白い紙はするっと抜け落ち床に落ちた。眠りたい。


 俺はことごとく母親を絶望させた。お前が可愛げがないせいでお父さんは戻ってこないのよ、と母親は言った。口が達者な幼少期の俺は「鬼婆だからだろ」と言い返して頭を叩かれたりした。母親はだんだん挙動がおかしくなり、遂には光の家に入信した。光の家では親子関係というものは無いに等しい。大人は大人、子供は子供で修行するからだ。さらに言えば大人の男と女も住居を別にしており、入信してから母を見かけたのは数えるほどだった。どうでもよかった。俺を愛さない女はただの肉塊だとしか思えないまま今日に至る。

 光の家は嫌なところだった。初日から俺は逃げ出そうとして先生に捕まった。外も伸びやかとは言い難いが家の中はさらに窮屈で、身も心も何か分厚い壁に包まれたようだった。俺はありとあらゆる規則を破った。懲罰房には慣れっこになり、体罰中は意識を虚空に飛ばすことを覚えた。そのせいか、体罰の傷は体に残ったが記憶は薄い。懲罰房ではユリクの細い声を聞いた。慰めにはならなかったが暇は潰せた。

 梵様や先生はことあるごとにユリクを見習えと言った。無理だ。俺は別に入信したかったわけじゃない。無理矢理母親に連れてこられただけだ。ユリクのように心から神に祈ることも、純粋に聖典を読むこともできない。君には聖なる力があるよ、と彼はよく言っていた。幼いうちはそれでいい気になったが長じるとその言葉がむず痒かった。

 俺が悪いことをすればするほどユリクの信頼は深まるかのようだった。固い椅子に縛られて水をかけられた俺に駆け寄りユリクは「君はきっと救われる。必ず救われる。」と繰り返した。俺のことを理解してくれるのはお前ひとりだと、俺たちは真実運命の糸で結ばれていると言いさえすれば暖かい深みへ落ちて行くのは簡単だったろう。しかし俺はユリクの親愛に抗い頭の中で彼を嗤っていた。お前が俺に向ける感情は自己愛に過ぎない。お前は邪悪な俺を救う自分に酔っているのだ。言ってしまえばよかった。突き放せれば楽になれた。残酷な言葉を口にしようとするたびユリクの目がちらついて言葉がでなくなる。長時間の祈りを終えると充血してしまう目。長くはないが根本が太い睫毛で縁取られた目。

 中途半端なまま俺は逃げた。最悪な形でユリクを置いて逃げた。別れの言葉も言わなかった。

 返事を書けないでいるうちに白い手紙が溜まる。1ヶ月に1度、段々仮面を分厚くした半井温からの手紙がくる。最初の2、3通は昔の思い出を書き連ねていたが最近ではもうそんなことはお首にも出さず施設で何をしたこれができるようになったあれが食いたい季節がどうのこうの、取り止めもない言葉が白い紙いっぱいに書かれる。洗脳が解けた半井と俺にはもう何の繋がりもないのだ。それなのに糸が切れないように繋ぐこの手紙は一体どうしたことだ。俺は誰からの手紙を受け取っているのだろう。酒を呑みながら白い紙を繰ると社会に適合しようとしている男の淡々とした日常が有る。一度くらい返事を出してやろうと思うのに、返信不要だと締め括られているせいで躊躇われる。これはあいつの残した逃げ道か。第一何を書くというのか。代わり映えしない俺の毎日を書いたところで本音は違うところにあるのに、半井にしたって心の奥を見せないくせにこんな手紙に意味があるのか。

 潜伏していた幹部が死体で発見された。自殺と見られるそうだ。夕方のニュースは大々的に幹部の死を報告した。死の間際に彼らが信じた神が見えただろうか。俺の頭の中で幹部の顔は成長したユリクになった。いや、あいつは今施設にいる。洗脳は解けたのだから心配することはないのだ。しかし一度鮮明に現れたイメージはなかなか消えない。誰もいない廃墟で1人神に祈るユリク。死へ向かうユリク。

 更生プログラムでいくら外に適用させたといってもまともに仕事なんかあるのだろうか。光の家しか知らずに天使の子供と呼ばれ、祈ることしかできなかった男が今更世間に無理に慣らされてどう生きるのだろう。そもそも更生とはなんだ。ユリクは加害者ではなく被害者なのに、なぜ隔離され更生させられているのか。プログラムを終了したと証明しないと社会に受け入られ難いのはわかる。理屈ではわかるが信仰を持ったユリクと手紙を書き送ってくる半井がどうしても同じ人間とは思えない。

 手紙が溜まる。プログラムは順調に進んでいるようだ。施設でもお前は優等生なんだな、と心の中で語りかける。やがて春になる。そうしたら半井は外に出る。

 俺は随分前に届いた更生施設からの葉書を探した。捨てるに捨てられなかったそれは本と本の間に挟まっており、施設の電話番号が印刷されていた。俺は携帯を手に取り一つずつボタンを押す。途中で気が変わったらやめるつもりで。結局最後まで番号を押した。プルル、プルルと無機質な音が鳴る。俺の望みはなんだろう?今更ユリクと、半井と繋がろうとしているのか?プルル、プルル。



 没収されたはずの木彫りの像は有明さんの好意で私の手に戻ってきた。内側に温もりがある、と思う。私がずっと握りしめていたので手垢で汚れ、昔ははっきりとしていた顔立ちも今ではぼんやりとしている。しかしこれが完成形なのだと感じる。常にあるがままが完璧な形なのだ。

 天使の子の1人が死んだ日、私は善なる神を握りしめ心の中を見つめた。幹部になれるはずの子供だった。更生施設から逃げ出し、山に向かった彼は薄着のまま山頂を目指したそうだ。神様は天にいると教わった。神に逢おうとしたのだろうか。山頂付近で座禅を組んだまま凍死している彼を、地元の警察が発見した。アーネク、彼は私と半分血が繋がっていたと後から聞いた。

 逃げ出す前日も変わった様子はなく、後少しで外に出られると喜んでいたそうだ。アーネクの気持ちを察することはできない。何を考え、何に絶望し何に希望を求めたのかは彼自身にしかわからない。

 ただ、祈る。大垣長人に植え付けられた神にではなく自分の中にある神に、祈る。アーネクが安らかでいられるように。

 私の絶望ならいくらでも語ることができる。外に出るのが恐ろしい。私はきっと認められないだろう。支援の手があったとしても他人の考えを変えるのは難しい。外で生き直せるだろうか。

 同時に希望の話もできる。沼田清司に手紙を書き送っている。直接住所は知らされていないが有明さんに渡すと次の日確かに届けたと伝えてくれる。外に出たら彼を探そうと思う。私の中にある神は彼のくれた木彫りの像に似る。成長しても清司は光を纏うだろう。あの光をもう一度見たい。

 アーネクのことを手紙に書こうか書くまいか迷っているうちに日々が過ぎる。前に手紙を出してからどれくらい経ったか。会いに行きたい、という一言が書けない。返事をしなくても良いと書くのをやめれば彼は返事をしてくれるだろうか。

 「半井さん、嬉しいお知らせだよ。」

 朝一番に有明さんの溌剌とした声が飛び込んできた。アーネクが死んでから沈みがちだった私の気持ちを奮い立たせようとするかのように明るい。

 「沼田清司さんがあなたの支援者になるって。」

 支援者?私は言葉をなぞる。

 「ええと、外に出た時に生活のサポートをする、人。」

 「清司に会えるということですか?」

 もちろん!と有明さんは跳ねる声で言った。清司に会える。彼は私を嫌っていたのではないということか?

 「沼田さんが電話をくれてね、外に出てから苦労するだろうから手助けをしたいって。」

 暴れたり、大声ではしゃいだり、そういう昔の彼からは想像できないが、私の手を握って森の中を駆けたブレヒトならば、木の中から神を見つけたブレヒトならばその言葉を口にするだろう。

 「外に友人がいるのは心強いよね。」

 「ゆ、友人?」

 私と清司は友人なのか。もっと強いもので結ばれていたはずだと信じていた。けれどそれは幻だった。それならば今私たちの間にあるものは『友情』で良いのだろうか。

 「いいじゃない、友達。どんな関係でもひっくるめて友達。」

 考え込む私に向けられた有明さんの微笑みは聖女のようだった。友という言葉が胸に落ちて深い部分に収まった。友人という言葉の持つ温かみは神様のもつ温度と同じだ。



 春先。日差しは暖かいとはいえ空気はまだ冷たい。

 施設から出てくるユリク、もとい半井温を迎えに行く。クリーム色をした巨大施設はその大きさに比べて存在感が薄い。

 何人かの職員に見送られて細身の男が門から出てくる。手を挙げると男は破顔し、駆け寄ってくる。ボストンバックが重そうだ。

 「元気だったか。」

 声をかけると半井温はにこりと笑って手のひらサイズの何かを見せつけてきた。

 「元気だったよ。」

 それは木彫りの人形だった。俺が遠い昔に作った、不細工な人形。幹部への反抗心から神に姿を与えた代物を、ユリクは愛おしげにさする。

 「神様のおかげで。」

 外斜視気味の目、左だけで俺を捉える。盲信の目だ。こいつは変わらなかった。変われなかった。

 俺たちの地獄はこれから始まるのかもしれないと、思った。

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