フランスパンが街に溢れる日について
久しぶりに雨が上がった土曜日の昼下がり、僕は街の通りで、口から『フランスパン』が生えた女性を見た。
いや、正確にはフランスパンを口にくわえ込んだまま歩いている女性とすれ違っただけのことだ。かっちりとしたスーツを着て、歩くリズムに合わせて揺れる髪も清潔感に溢れるものだった。彼女が口からフランスパンさえ取り除けば、彼女はいたって普通のOLに見える筈だろう。
逆に、その『フランスパン』が彼女を普通のOLに見せないでいるのだ。
僕は気になったので声をかけることにした。
「こんにちは。久しぶりに雨が上がって良い天気ですね」
「そうですね。私は雨の日も嫌いではないけれど、長く続くと飽きてしまいますものね」
「あの、一つ質問があるのですが。貴方が口にくわえているのはフランスパンですか?」
「ええ、フランスパンです」
「本物の?」
「ええ、紛れもなく、本物の」
「分からないな。僕はフランスパンをくわえて街を歩かないし、君はフランスパンをくわえて街を歩く。何か、フランスパンをくわなければならない理由でもあるのですか?」
僕がそう言うと、彼女はうつむき、時折忙しなくフランスパンを噛みちぎり、それを咀嚼した。
フランスパンを飲み込んだ後、少しためらいながら、彼女は話し出した。
「私は美人ではありません」
「そうですか?」
「いえ、気休めはいいです。私は醜い顔をしています。口だって大きいし、鼻だって潰れてるし、瞼だって一重です」
「綺麗な一重の目をしていますよ」
「ありがとう。でも、そう思わない人も多いのです。この顔のせいで人前に出るのが嫌でした。家に引きこもりがちになっていました。だから、私はフランスパンをくわえる様になりました。フランスパンをくわえていると、私の顔よりもフランスパンに目がいくからです」
「つまり、フランスパンは君にとっての、コミュニケーションの緩衝材というわけだ。フランスパンがあるから、君は人前に出ることが出来る」
「少し違います。フランスパンのおかげで私が人前に出れるのは事実ですが、フランスパンは私にとっての仮面なんです。フランスパンをくわえることによって、私の素顔を隠すことが出来るのです」
「フランスパンが仮面?」
「そうです。フランスパンは仮面なのです。この頃は素顔を隠すために、フランスパンをくわえる人が増えて来たらしいですよ」
「それは知らなかったな。僕が知っているフランスパンは、あくまで食べ物なんだ」
「そうなんですか。私も時折フランスパンを食べますが、何故か、あまり食べ物という感覚がありません」
「それは、君がフランスパンを仮面として使っているからだよ」
「あ、それもそうですね」
彼女は少し微笑んだ後、待ち合わせがあるといって、その場を後にした。
彼女が去った後、僕はフランスパンと彼女の関係について考えてみた。彼女はフランスパンを仮面と称した。フランスパンという仮面があるから彼女は街を歩けるのである。
それでは、フランスパンを必要としない我々はどうなのだろうか?
全く、同じである。仮面を着けて生活している点で、我々は全く同じであると感じた。おそらくなにかしらの仮面をつけないで社会の中で生きる人は居ないはずだ。名前、肩書き、我々は何かしらの仮面を着けて生活しているのだ。彼女にとって、その仮面がフランスパンだった、たったそれだけのことだ。
僕は通りの真ん中から、周りを見渡した。ショッピングに出歩いている人やカフェでティータイムを楽しんでる人、自販機の前でしゃがんでる人や駅から出てきた人など、とても多くの人がいた。そして、その中には少なからず、フランスパンをくわえている人がいた。
フランスパンが街に溢れる日は、そう遠い日のことではなさそうだ。そして、その来たる日について思いめぐらすとき、僕は無性に人恋しくなったりするのだった。