管仲という宰相
管仲とは中国の『斉』という国に登場した、春秋戦国時代屈指の名宰相だ。
彼の名を出すからには、『管鮑の交わり』という言葉の説明は外せない。
史記や十八史略の記述などから、かいつまんで説明するとこうだ。
かつて管仲と鮑叔のふたりは、共に商いをしていたが、管仲は利益を鮑叔のそれより多めに取った。けれども、鮑叔は彼を貪欲とはしなかった。管仲が貧乏であると知っていたからだ。
かつて管仲は鮑叔のために謀をしたが、さらに悪い事態を招いてしまった。けれども、鮑叔は彼を無能だとはしなかった。上手くいくか、そうでないかは時の運に左右されることを知っていたからだ。
かつて管仲は三度戦い、三度逃げた。けれども、鮑叔は彼を臆病だとはしなかった。管仲には生きのびて、養わなければならない母がいることを知っていたからだ。
そんな親友ふたりは、それぞれ別の斉の公子に仕える。
管仲が仕えたほうを『糾』、鮑叔が仕えたほうを『小白』という。
当時、君主の座にいたのは彼らの兄『襄公』だ。人の道に外れた人であったので、管仲は『召忽』という同僚と共に、糾を連れて、『魯』という国に亡命した。一方の鮑叔も小白と共に『莒』という国に亡命。
襄公が政変で倒れると、ふたりの公子は争う形で、斉に帰還しようとした。次の君主になるためである。紆余曲折の結果、この競争に勝利したのは小白のほうだった。
この小白こそ、覇者・斉の『桓公』だ。
鮑叔は主君である桓公に、こういった。
「斉一国を取り仕切るのであれば、高傒と私だけで足りましょう。しかし、天下の覇者になりたいのであれば、管仲を採用なさるべきです」
管仲は先ほど君主の座を争った糾の家臣、つまり敵だった。
けれども、桓公の器はまことに大きかったというべきだろう。憎しみを捨てて、管仲を許し、採用したばかりでなく、最高権力者である宰相の職に彼を任命したのだから。
鮑叔の言葉どおり、管仲は桓公を覇者にした。
この逸話から管仲の『管』の字と鮑叔の『鮑』の字をとって、『管鮑の交わり』という言葉ができた。
意味は、『互いに理解しあった、とても親密な関係』。
ちなみに、管仲の旧主糾は魯でころされ、同僚の召忽は糾の後を追い死んだ。
管仲と召忽。
ふたりの間にも嘘か真かは、私は学者ではないから、わからないが、こういう話がある。
桓公が魯に、逆賊となった管仲と召忽を返すように、命じた。
桓公が自分たちを雇う腹積もりだと確信した召忽は管仲にこういった。
「君は生きろ。私は死のう。国の大臣に任じられると知りながら、それを蹴って、死を選べば、糾様にはあれほどの忠臣がいたのかと世の人はいうさ。君が生きて、桓公を覇者にすれば、糾様にはあれほど有能な家臣がいたのかと世の人はいうさ」
召忽は自らの首をはね、死んだ。管仲は生きて、覇業を成し遂げた。
召忽の言葉どおり、ふたりが仕えた糾の名も確かに歴史に残った。
管仲と鮑叔、管仲と召忽。両方の逸話とも、なんと美しい話なのかと、私は思う。
しかし、だ。
このふたつのお話――。
管仲より鮑叔、管仲より召忽の株が上がっているように、思えてならないのだ。
では、管仲はなにをもって、桓公を覇者にしたのか。
列挙すると、
一 農業の重視
二 税制の見直し
三 物価の操作
四 法整備
五 塩などの特産品の専売
などだろうか。もっと管仲が行ったことはあったはずだが、私の勉強不足でこのくらいしか挙げられなかった。
一 管仲は、『土地こそが政治の要諦である』と考えていた。ゆえに農業を強く奨励した。
二 この当時の『税』とは、ほとんどが土地に課せられる税のことである。そこで管仲は土地の評価を見直した。具体的には従来の『広さ』ではなく、『収穫量』で土地を評価し、それに応じて、税を課した。
三 需要と供給を人為的に調節して、物価を操作した。具体例のひとつを『管子』に引く。『管子』とは管仲の言葉や考え、行動をまとめた書のことである。
ただし、この書は管仲著と伝わってはいるものの、多くの文が管仲の手によるものではないだろうと思われる。むろん、管仲自らの手の物ではないか、と考えられる文も、存在するにはするのだが。
斉の国において、西部では飢饉が起こったが、東部ではむしろ豊作だった。
そこで管仲は桓公に提案する。
「新しく徴税令を出し、一人につきまして三十泉(お金の単位)の額を、『米』で納めさせます。豊作で米の安い東部はたくさんの米を納めなければならないのに対し、飢饉で米の高い西部はわずかな米で済みます。そうしておいて、今度はこの法令で徴収した米を西部に払い下げるのです」
東部は米をたくさん失って、安すぎた米価が上がり、西部は米をたくさん手に入れて、高すぎた米価が下がった。
東部西部両方の米価を調整したのである。
このように、物価の調整を考慮して、政策を行う。当たり前のことのように感じるが、当時としては、革新的な発想であったのだ。なにしろ、管仲が活躍した時代は、今より二千年以上も前なのだから。
さて、一と二と三は結局のところ、『国民生活の安定』を目的としている。
『国、財多ければ、則ち遠き者来たり、地、辟挙すれば、則ち民は留処し、倉廩実つれば、則ち礼節を知り、衣食足れば則ち栄辱を知る』
管子の言葉の中でも非常に有名なものだろう。牧民篇にある。
国が富んでいれば、遠方からも、はるばる民はやってくる。土地が開発されているならば、民はそこに留まるし、倉が満ちれば、民は礼儀というものを知るし、衣服や食事が十分であれば、民は栄誉や恥というものを知る。
経済的充実があってこそ、礼節や栄辱というものが国民に備わるといっているのだ。
なるほど、確かに明日生きていられるかもわからない人間に『礼儀を尽くせ! 恥を知れ!』と説教したところで、おそらく意味がないだろう。
国民の生活を安定させることが国家を安定させるのに最も大事なことなのだ。
実際国民生活の充実により、斉の国内では需要が増加し、物流も急加速した。
四 そののちに、厳格な法律を整備した。国民が法を守るのも生活にゆとりがあればこそ、だ。
管仲は法家として有名である。
五 管仲に関して、もっと有名なことがある。『塩の専売』がそれだ。斉の特産品には、塩があり、この塩は生活必需品。塩に目をつけた管仲は、これの専売を実施し、巨万の富を斉にもたらした。
こうした管仲の政策を採用し、内政を整え、軍備を充実させた桓公は積極的に動いた。諸侯間の問題や『周』の問題を解決したのだ。
『周』とは中国に当時存在した王朝であり、かつては諸侯を統括していたのだが、春秋戦国時代にはすでに、その統治能力を完全に失っていた。
衰退した周の代わりに、諸侯を統治し、仕切ったのが覇者桓公だったのだ。
この桓公の末路を書く。
「易牙、豎刁、公子開方を遠ざけてください」
「易牙は自分の長男をころし、料理としました。自分の子さえも愛せない人間が、どうして君主を愛せますか?」
「豎刁は去勢し、宦官としてあなたに取り入りました。自分の体さえも愛せない人間が、どうして君主を愛せますか?」
「公子開方は、衛から斉にきて、十五年になりますが、一度も親元に帰っていません。自分の親さえも愛せない人間が、どうして君主を愛せますか?」
管仲は、こう言い残し、死んだ。
桓公は管仲の言葉どおりに三人を一時は追放した。
しかし、易牙がいないと飯がうまくない。豎刁がいないと後宮が乱れた。公子開方がいないと政治がうまくいかない。
「あの管仲ですら、間違えることがあるのか」
そう思い、桓公は彼らを呼び戻した。
結果、三人は斉にて、大乱を引き起こす。
間違っていたのは桓公だった。屈指の名宰相の目に狂いはなかったのだ。
乱により埋葬が遅れ、桓公の遺体はウジが這い出すほどに放置されるありさまだったらしい。
一時は中華の覇者にまでなった男のあまりに惨めな末路である。
旧敵であった管仲を信頼し、最高権力者の座につけた、桓公の度量は高く評価すべきだ。けれども管仲の死後も、桓公は彼の言葉を信じ抜くべきだったと、私は思う。
儒教の祖『孔子』は、管仲を器が小さく、礼を知らないと酷評していたようだ。
だが他方では、こうも評している。
「桓公は諸侯を糾合した折、武力に訴えるようなことはしなかった。それは管仲の功績である。誰がその仁に及ぶことがあろうか。誰がその仁に及ぶことができようか」
「管仲は桓公を覇者にして、天下を正した。人民は現在に至るまで、彼の恩恵を受けている。管仲がいなければ、今頃、(異民族に占領されて)我々はざんばら髪に、服の襟を左前に合わせるような、異民族の風習に染まっていただろう」
管仲に批判的な孔子も、彼の功績を評価しないわけにはいかなかったのである。