1.吸血鬼ミカちゃん
今日は金曜日。いや、すでにもう土曜日だ。
ああ今週もよく働いた、というか働きすぎだよな、と考えつつ玄関をがちゃりと開けると、そこにはミカちゃんが腕を組み仁王立ちで私を待ち伏せていた。
「律子さん」
「ん……ただいま。ミカちゃん、仁王立ちして何? どうしたの」
ひきつる私をじっと見つめる大魔王……いや、ミカちゃんことミカ・エルヴァスティ……金髪碧眼のどう見ても20代半ばの美青年は、どう見ても夜遊びを叱ってやろうと待ち構えていたオカンの雰囲気をムンムンに漂わせていた。
彼の眉間には、くっきりと皺まで寄っている。
「遅くなる時は連絡くださいと言いましたよね」
「んー、ごめん、忘れてた。もう、忙しくってさあ」
あははと手をぶらぶらさせ、定時ギリギリに故障対応とか入るんだよ、ありえないよねと私は笑ってみたが、ミカちゃんは誤魔化されなかった。
ますます眉間の皺を深くするばかりだ。
「いかに日本とはいえ、このあたりも物騒ですし、遅くなるときは駅まで迎えに行くとも言いましたよね」
「あー、そっか、ごめん。もしかして眠かったのに待っててくれた? でもミカちゃんて夜行性だよね?」
今は深夜2時。
だが、ここは、最寄駅がかなり遅くまで終電のある路線であり、終電ラッシュで電車が遅れて帰宅がこの時間になってしまうこともあまり珍しくはないという、首都圏のそんな地域でもある。
「それにまあ、駅から10分かかんないし、変な道もないし、交番の前も通るんだから大丈夫だよ」
「そういう問題ではありません」
くわっと眉を吊り上げ、最近起こった凶悪事件をあれこれと数え上げるように並べ立て、いかに夜道の一人歩きが危ないかを説くミカちゃんの姿は、高校時代、暗くなってからの帰宅をああだこうだと心配しまくっていた、実家の母の姿を思い起こさせた。
ほんとオカンだなあ、と妙な感動を覚えつつ、「いやほんとごめん。次はちゃんと気をつけるから」と拝み倒すように謝ると、ミカちゃんは、はあ、と諦めたような溜息を吐いて、「それで夕食は食べたんですか」と尋ねた。
「それが……時間なくって」
テヘペロと頭を掻く私に、そんなことだろうと思いましたと、また、ミカちゃんは溜息まじりに呟く。まったく仕方のない娘だよと呟く実家の母のように。
「消化のよいものを用意しますから、その間にお風呂を済ませてください」
「はーい」
正直、彼が私の「健康と血液の管理を」などと言い出した時は、いったい何をするつもりなのかとかなりビビった。だって王道吸血鬼が家事雑事こなせるなんて思わないし、なんか吸血鬼的なよくわからないけど怪しいことでもされるんじゃないかと、真面目に心の底からビビっていたのだ。
ところが、蓋を開けてみれば、まさかこれほどまでに華麗に完璧に主婦業をこなしてくれるとは。彼はいったい何者なんだろうか。何者でもいいけど、本当に嬉しい誤算である。このまま嫁に貰ってもいいんじゃないだろうか。
同僚と「こんだけ忙しいと、彼氏より嫁が欲しいよね。ていうか、就職して家を出てやっと母の有り難みを思い知ったよ」などとたしかに冗談を言い合っていたが、これは夢のような暮らしかもしれない。
嫁というより母というよりむしろオカンなので、非常にうるさいんだが。
……もちろん、私だって家事は一通りできる。
だが、なんといっても仕事が不規則すぎるのだ。生鮮食料の買い置きなど言語道断。ちょっと残業が続けばあっという間に傷んで腐るし、週末作り置きなどと言ったって、作ったものを翌週食べられる保証などないのだ。さらに言えば、その週末なんて不足した睡眠を補い溜まった洗濯物を片付け掃除機を掛ければ、それですべてが終わってしまうくらいの時間しかない。
儚い。休日ってマジ儚い。
女性週刊誌がドヤ顔で提唱するような「上質な暮らし」など、所詮、豊かな収入と定時帰りにバックアップされたファンタジーなのだ。定時帰りなど都市伝説でしかないこの仕事では、とうてい無理。
もちろん異論は認めない。
……だがしかしだ。今の私を見てみろ。
イケメンな嫁が飯と風呂の用意をして帰宅を待っていてくれるのだ。弁当も毎日作ってくれるし洗濯も掃除もばっちりで布団まで干してくれるんだ。勝ち組万歳! 嫁って素晴らしい!
……まあ、恋人でもなんでもなくただのオカンだし、自分を捕食対象だと思ってる人外だけど。
「おおう、うどんだあ。しかも鶏!」
風呂を出たらうどんが用意されていた。鶏のお出汁に柚子胡椒を添えた、いかにもお腹に優しそうなうどんだ。
「あんまり重たいものを食べてしまうと、胃に悪いですからね」
うむ、と頷くミカちゃんは、いったいどこでこんなスキルを身につけたのだろうか。少し前に料理レシピの投稿サイトを漁っていたのは知ってるけれど、漢字はあまり読めないとか言ってなかったか。
「いただきまーす」
両手を合わせてぺこりと一礼し、さっそくうどんを啜る。鶏の出汁が実に良い。
「くう、うまい!」
身悶えしながらあっという間に完食した私を、ふと気づくとミカちゃんは何か面白いものでも見るような顔で眺めていた。なんか観察日記でも書いてるんじゃないかという顔だ。落ち着かない。
いや、観察日記というよりは、家計簿の一言日記に「○月○日 餌に○○を与えた」みたいな飼育日記のほうがしっくりくるか。
「どうしました?」
日記よりむしろ毎日の家計簿を付ける図を想像し、ついついじっと見てしまった私に、ミカちゃんが首を傾げる。
「いやあ、最近の吸血鬼って、マジで芸達者なんだね。ミカちゃんナイスすぎるよ」
「それは光栄です」
にっこり笑うエプロン姿のイケメンというのは、また、妙に可愛いもんだなあなどとおっさんくさいことを考えながら、私はご馳走様と立ち上がり、どんぶりを流しに持っていった。
「はー、それにしても疲れたあ。やっと週末だ。今週もよく戦った私!」
「どんな仕事か知らないけれど、大変なんですね」
「んー、基本、お客さんが無茶言うからね。湾岸にゴジラが上陸したら納期が延びるかなあなんて考えたこと、一度や二度じゃないよ」
「ゴジラですか」
「ルルイエ浮上でもいいね。東京湾にどーんと」
「それはちょっとシャレにならないのでやめたほうが」
ミカちゃんが困ったように笑う。
「私、外なる神より納期とバグが怖いね。断言する」
「……そんなもの、よくご存知ですね」
「ネットで読んだからね!」
「はあ……それはそれとして、もういい加減おやすみにならないといけませんよ」
ミカちゃんは苦笑しながら私をベッドへと連れて行った。なんだか甘やかされてる子供の気分だ。
うちにベッドはひとつしかないので、寝るときはミカちゃんが添い寝をする形になる。
これは、彼が初めてうちに来たときからずっとそういうことになっている。
……色っぽい雰囲気など欠片もないのは、たぶん、なんだか捕食される小動物のような気分でびくびくしていたせいだろう。今ではさすがにそんなことはないが、慣れてしまったせいか、今の彼のポジションは、ただの冷んやりシーツか抱き枕がいいところだ。
……今さら意識したって何も出ないしな。
あ、冬どうするかは、今から考えておいたほうが良いだろうか。彼はとにかく冷んやりだから、さすがに同衾は寒そうだ。
ベッドもうひとつ置く余裕なんてないから、ふとんかな……。
とりとめもなくそんなことを考えるうちに、いつの間にか寝てしまうのはいつものことだ。
ミカちゃんは謎が多い。
吸血鬼なんだから当たり前かもしれないが、その割に国籍持ってるし、パスポートと外国人登録証も完備だし、ビザも取って日本にいるというのだ。
いったいどうやって取ったのかと訊いてみたら、企業秘密ですと言われてしまった。ものすごく気になる。
だが、ドヤ顔で「ゆうちょ銀行に口座も作ってあるんですよ」と言われたのはちょっとどうかと。そもそもそれって自慢になるのか?
まあ、そうやって正規の方法で日本にいるのなら、ちゃんと就職して部屋を借りて、こんなとこ居候しなくてもいいんじゃないかと言ったら、美味しい血液に巡りあうということの奇跡と苦労について熱く語られてしまった。ついでに、昼間起きてるうえに働くとか罰ゲームです、とのことだが、たぶんそっちは単なる言い訳だろう。
じゃあ、うちで家事をして過ごすのも似たようなもんじゃないかと返すと、そこはそれ、それらすべてが美味しい血液に結びついているのだと考えると、この家事労働は喜びとなるのだとかなんだとか……なんなんだろうな、この残念な感じは。
私には意味がわからないよ。