目的
刑壇地下室で死刑囚の死亡確認のため控えていた医官は、転がっていた蛭川の頭部を見て驚いた。
蛭川の頭部には皮膚が全くなかった。
押元は平静を装って東京拘置所を離れた。
「駅に行け」
小さな怪物と化した蛭川は、押元の上着のポケットに忍び込んでいた。押元は言われるがままに最寄の綾瀬駅に足を向けた。
これからどうなってしまうのだろう。早足で歩きながら考える。
今頃、執行確認室は大変な騒ぎになっているだろう。逃げ出したのは間違いだったかもしれない。いずれ嫌疑を掛けられるならば、あの場に残り、たとえ信じ難い事実であっても釈明したほうが良かったのではないだろうか。
しかし、それは叶わなかったに違いない。逃げなければ、拘置所長や検察事務官と同じ目に遭わす、と脅かされただろう。結局とるべき道はひとつしかなかったのだ。
「私に何をさせる気だ」
押元の問いに、ポケットから不気味な笑い声が耳に届いた。
くそッ! と、押元は咄嗟にポケットに拳を思い切り振り落とした。
「妙な気は起こすなよ」
オレの殺傷能力の高さは知ってるだろ、と不快な蛭川の声が耳元で響いた。いつの間にか移動したらしい。
それでも押元は素早く肩に手を伸ばし蛭川を掴むと、轢かれてしまえ、と車道に向かって投げつけた。
だが、指先に投げた感覚は残らなかった。気づくと蛭川は袖先を噛んでぶら下っていた。
「死に急ぐ必要はない」
目の前を浮遊する蛭川は歯を噛み鳴らした。
「解っているだろう。オレの目的はひとつだ。復讐を遂げるまではこうして神も命を与えてくれているようだしな」
押元は歯噛みした。蛭川に会うたびに繰り返された言葉、「復讐」の二文字。
「肥後さんも充分苦しんだはずだし、後悔もしている……」
ふざけるなッ! と、蛭川が割って入った。小さな目は憎悪に満ち溢れている。
「オマエになにが解る。オレが過ごした恐怖と屈辱の日々は、誰にも理解できないッ!」
オマエはオマエの心配だけしてろ、と鼻先で脅すと、蛭川は再びポケットに潜り込んだ。
遠くから警察車輌のサイレンが聞こえだした。警察が既に動き出したようだ。
押元は間もなく自分が第一容疑者として警察に手配されることを自覚しなければならなかった。
今は蛭川に従うほかない。
押元は身の潔白を証明する前に、身の危険を回避する道を選ばざるを得なかった。
――確か、名古屋だったか。
押元は肥後の住む名古屋行きを決意した。
その頃、東京拘置所では、ひとりの刑務官が連絡した警察の命を受けて現場の保全にあたっていた。
刑務官は二体の遺体が転がるを執行確認室のドアの前を、落ち着かない様子で行ったり来たりしていた。
警察の到着を待ち望んでいると、ドアの向こう側から物音が聞こえた。
刑務官は驚いて肩を竦めた。中には誰も残っていないはずだ。
刑務官は恐る恐るドアを開けて中を確認した。
「所長?」
刑務官が発した生涯最後の言葉だった。