逃走
刑壇室に隣接する執行確認室にいた押元恒夫検事は、何が起きたのか瞬時に事態を呑み込めなかった。
ガラス越しに見ていた死刑囚が刑壇から消えた途端、足元に見える刑壇地下室のコンクリートの床に叩きつけられた。
――ロープが外れたのか?
しかし、その考えはすぐに否定された。
白い布で目隠しされた頭部が床を転がり、胴体周辺は波紋のように血溜りが広がっていた。
――なんてことだ。
凄惨な現状に、どう対応すればいいのか判断をしかねた押元は、右隣に並んでいる堅田所長に助言を求めた。
「どうします、堅田所長」
押元が堅田に顔を向けると、堅田は天を仰ぐようにして口を開いていた。
「堅田所長……」
様子がおかしい、と押元が感じていると、堅田は奥にいる検察事務官にむかって血しぶきをあげながら後方に倒れた。
「堅田所長!」
押元が倒れて痙攣している堅田の様子を窺うと、首の肉が齧りとられたような損傷があった。頚動脈が切れたのか夥しい出血が見られた。
「しっかりしてくださいッ!」
押元はハンカチを取り出し傷口を覆ったが、止血できる傷ではなかった。ハンカチから瞬く間に染み出る血液が、押元の手を赤く染めた。
「事務官ッ! 救急車をお願いします!」
押元が叫んだが、事務官からの返答はなかった。
再び事務官! と顔をむけると、再び信じ難い光景が目に飛び込んできた。
堅田と同じように天を仰ぐような姿勢の事務官。
水面に酸素を求める魚のように口をパクパクさせている。
その左肩で蠢く奇妙な物体。
20cmほどの黒い毛のようなものが左右に揺れている。
――なんだあれは?
押元が呆然と眺めていると、その奇妙な物体が180度回転した。その途端、噴水のように血液が噴出し、検察事務次官は堅田所長と同様に後方に倒れた。ほぼ同時に、その奇妙な物体は押元にむかって勢いよく飛んできた。
近づいてくる物体を瞬間的に捉えた押元は驚愕した。
その野球ボールほどの物体には、信じ難いことに人の顔が貼りついていた。しかも、今しがた絞首刑を執行されたばかりの蛭川の顔のように見えた。
「蘇ったよ」
見間違いでは」なかったようだ。押元の肩に乗った蛭川の顔を貼りつけた物体が耳元で囁いた。
「ひ、蛭川なのか……」
押元は震える足で声を搾り出した。
「不恰好ではあるがそうみたいだな」
フフフッ、と笑い声を発する蛭川? に対して全身から汗が吹き出た。これが現実であるのか思考を巡らせる。
「信じられないようだな」
蛭川の声に我に返った。
「現実だよ、現実。今、オマエは命の瀬戸際に立っているンだよ。さっきまでのオレのようにな」
押元は床に転がる堅田と検察事務官の無残な姿を見た。命の危機にさらされていることを痛感し、顔から血の気が引いていくのがわかった。
「ここから逃げろ」
「えッ!?」
「逃げるンだよ。この状況を見てわからないのか。誰がこの二人を殺したと判断されると思う」
オマエじゃないか! と押元は口に出しかけたが呑み込んだ。命を狙われている恐怖はもちろんだが、蛭川の言うとおり、ここで起こった事実を伝えたところで、一体誰が信じてくれるであろう。状況から見て、真っ先に疑われるのは押元自身である可能性は高い。そこで妙な弁明をすれば、狂人扱いされるかもしれない。
そうなれば――今まで築いたものを全て失ってしまう。
押元は決意した。
――逃げなければ。