悪魔の種子
嘘ッ!
なんでアンタが――。
奏の目に飛び込んできたのは、小さな悪魔と化した蛭川だった。
堀鳥の頭上を浮遊し、屈折した笑みを浮かべている。
「やはり生き延びたようだな」
頭上からの声に驚いた堀鳥は、事故車から救出した女性の盾となって銃を構えた。
しかし蛭川は堀鳥の動作のわずかな隙をついて奏に迫っていた。止まり木で羽を休める鳥のように奏の左肩に乗った。一瞬のことで防御はおろか身動きひとつできなかった。
「堀鳥さんッ!」
標的を見失っている堀鳥にスティーブが叫んだ。
スティーブが指差す先を目で追った堀鳥は、蛭川という得体の知れない生物を確認すると驚きの表情を浮かべていた。
「動くなよ」
蛭川が刑事達の動きを制した。
「動けばコイツがあの車のドライバーの二の舞になるゾ」
蛭川は奏の耳元で歯を噛み鳴らした。監禁時にも聞かされた不快な音が響き背筋を冷たいものが走った。
さて、と蛭川が話を切り出した。
「忌々しいことに、これでオマエは二度オレの手から逃れたことになる。果たしてこれを幸運と呼ぶべきかな?」
蛭川の問いになんと答えればいいのかわからなかった。ただ、再び命の危機にさらされていることだけは全身で理解していてカラダの震えが止まらない。
「怖いのか。だが安心しろ。この場でオレが手を下すことはない」
オレが手を下すことはな、と蛭川は繰り返した。
その言葉がなにを意味しているのか奏にはわからなかった。安心どころか不安が増すばかりだった。
「目覚めたようだな」
蛭川の言葉に、動きを封じられていた刑事達が動き出した。スティーブが美緒と双子の子供、堀鳥が母親をそれぞれ警護し、周囲に目を凝らしている。
事故を確認するように減速した車が一台二台と通り過ぎた。その後方をゆっくりと進む男の姿があった。事故を起こした男だろうか。白いシャツが真っ赤に染まっていた。
無事だったンだ。
奏の目にはそう映ったが、堀鳥は男に対して銃を構えていた。
どうして?
蛭川が現れる前もそうだった。刑事は土手から下りてくる女性を迷わず撃った。それ以前に、監禁場所でも美緒の家でも銃声が響いた。奏の知る日本の警察はそれほど簡単に発砲しないはずだった。それが何故?
「やめてェ~!!」
いきなり母親が声を裏返して堀鳥を突き飛ばした。虚を突かれた堀鳥は地面を転がった。
危ないッ!
転がった堀鳥に乗用車が向かってきていた。堀鳥は俊敏に上体を起こしたが、車から逃げられそうもなかった。
ブレーキによってタイヤが悲鳴をあげるとともにボンネットの上を勢いよく転がった。フロントガラスの傾斜を転がり上ると車は停車し、ボンネットへ転がり戻った。
無事なの?
奏が心配する間もなく、母親の叫び声が周囲に響き渡った。
奏が目を移すと、母親は夫であろう男に両手で頭を抱えられ首元を喰いつかれていた。母親は噴水のように血飛沫をあげ、激痛に顔を歪めていた。
奏の咽喉を苦いものが込み上げてきた。
男は尚も獰猛な肉食獣のように母親の肉を貪り食べている。母親は既に意識を失くしているようだった。
男の強力な力で首があり得ない角度で曲がると、男は頭部を胴体から引きちぎった。脳からの信号が途絶えた母親の首から下の肉体は、バランスを保持できず地に崩れ落ちた。
あまりにも無残な光景に、奏は意識を失いかけた。だが、一発の銃声が奏を現実へと無理やり引き戻した。
男は眉間を撃ち抜かれていた。後方へ背中から倒れ落ちると、母親の頭部が地を転がった。
撃ったのは堀鳥だった。地面に伏せた状態で銃を握っていた。
フンッ!、と蛭川が耳元で鼻を鳴らした。
「オレの蒔いた種はすぐに花を咲かせ種を落とす。逃げ切れるものなら逃げてみろ」
蛭川はそう言い残し、髪をなびかせながら奏の肩を離れた。
奏は思考力を取り戻せないまま、ただただ呆然と立ち尽していた。