不安
奏は全身で水分を吸収するようにシャワーを浴びていた。
助かったンだ。両親も今頃は刑事からの電話で胸を撫で下ろしているだろう。
監禁中に生理現象で汚れてしまった下半身を中心に入念に洗い流す。
「餓死も面白いかもな――」
連れ去られた夜、父に復讐するために地獄から舞い戻ってきた、と信じ難い姿形の小さな怪物は、いやらしい笑みを浮かべて殺害方法を選択した。
どこだかわからない場所にひとり残され、死へのカウントダウンが始まった。
水や食料を口にしない状態でどれだけ生きられるだろう。
誰でもいい。早く私の存在に気づいて――。
しかし、監禁状態の奏を苦しめたのは、咽喉の渇きでも空腹感でもなかった。長時間、同じ姿勢ですわり続けることで生じた、臀部を襲う激しい痛みだった。
肉を圧迫し続ける痛みは眠気さえも凌ぐものだった。我慢の末の排尿の惨めさなど消し飛ぶほどだった。いつかテレビで見た介護における床擦れ予防の重要性を身に沁みて感じた。
なんとか楽になれないものかと腰をずらしたり浮かせようともがいたりしたが、足を浮かせて椅子に縛りつけられていてはなす術がなかった。餓死するよりも先に、気が触れてしまうのではないかとさえ思った。
二度目の朝を迎える頃には、咽喉の渇きや眠気も加わって、意識が朦朧としていた。
その奏を目覚めさせたのは一発の銃声だった。
なに? 犯人? いや、あの怪物が撃たれたの?
話し声が聞こえると、二人の男が窓から颯爽と飛び込んできた。二人が刑事だと知ったときは、喜びとともに、安堵から全身の力が抜けた。
ロープを解かれカラダが自由になると、急に肉体が水分を求めてきた。刑事に告げると、迅速に行動に移ってくれた。
ただ、この家を訪れてからは、少し様子がおかしいと奏は感じ始めていた。刑事二人の言動には緊張感が漂い、なにより病気で臥せている人にわざわざ協力を求めるだろうかと疑念を抱いた。
シャワーを終えてタオルでカラダを拭く。
堀鳥という刑事が二階から運んできたグレーの上下のスウェットを着た。洗面台の前に立ち、鏡を見ながら髪をとかしていると、突然乾いた大きな音が響いた。
奏は慌てて脱衣所を飛び出し、スティーブと呼ばれる刑事と美緒に駆け寄った。
「なにがあったンです?」
刑事に尋ねたが返答はなかった。ただ、心なしか肩を落としているように奏の目には映った。
しばらくすると、二階から堀鳥が硬い表情で降りてきた。どんな言葉も受けつけないという雰囲気を纏っていた
「着替え終わったようだね」
表情を崩さず奏に一瞥をくれると、美緒の頭にそっと手を乗せた。
「ママは重い病気で病院へいかなきゃならないンだ。今から救急車が迎えに来るから、君はおじちゃん達と一緒に行こう」
美緒を説得する姿を見て、この刑事は嘘をついている、と奏は直感的に思った。美緒も幼いなりに不安を感じとっているようだった。
一体なにが起こったのだろう。あの音は確かに――。
「スティーブ、行くぞ」
奏の不安をよそに、堀鳥は美緒の手を引いて玄関扉に手を掛けた。
「奏ちゃんも――」
スティーブに肩を叩かれると、頭の整理がつかないままに従った。
それから、とスティーブが表情を曇らせた。
「何度も電話したンだけど、ご両親と連絡がつかないンだ」
刑事の言葉に、奏の心はますます不安で募っていった。