復讐②
息を呑み、まばたきさえ忘れるほど凍りついている二人を横目に、蛭川は押元の首を齧り続けた。
玄関の床タイルは、瞬く間に押元の血で染まっていく。
「お役目ご苦労さん」
蛭川は前のめりに倒れていく押元に言葉を投げると、今にも悲鳴をあげそうな肥後の妻の肩に飛び移った。
「静かに頼むぜ」
小刻みに震える肥後の妻の耳元で、カチカチと歯を噛み鳴らした。
肥後の妻は焦点の定まらない目のまま、無言で小さく繰り返しうなづいた。
「肥後ォ、オレがなんだかわかるか?」
呆然と立ちつくしている肥後に、微妙なニュアンスで問うた。
突然訪れた恐怖に慄いている肥後は、言葉を探しているようだった。誤答を恐れているに違いない。
その姿が、蛭川には愉快でたまらなかった。
「わかるわけねェよな。オレだってなにかなンてわからねェし……」
蛭川はそう言って、肥後の眼前まで飛んだ。
「蛭川だよ」
驚愕の表情を浮かべた肥後を尻目に、再び肥後の妻の肩に戻った。
「オマエに会いたくて逢いたくて、地獄から姿を変えて戻ってまいりました」
蛭川は肥後の妻の首筋にキスをした。肥後の妻はパパ助けて! と、耳元を飛び回る蚊でも追い払うように喚きながら手を振り回したが、蛭川は嘲笑しながら軽々とかわした。
肥後は茫然自失といった様子で、身動きひとつしなかった。
「懐かしい再会だ。手ブラで来るわけにもいかねェから土産を用意したぞ。その倒れているヤツの上着のポケットに入っているはずだ」
蛭川は肥後にポケットを探るよう命じた。
「スマホとかいうヤツがあるだろ。便利な世の中になったもンだなァ」
蛭川は東京からの移動中、押元から知識を得ていた。
肥後が重い足取りで押元の遺体に近づき、スマートフォンを取り出すと、蛭川は撮影した動画を見るよう指示した。
「二人で見るがいい。きっと気に入るはずだ」
蛭川はそう言って、心躍らせた。二人とも、胸がざわついているだろう。
肩を寄せ合い、画面を覗き込む二人の頭上に移動する。
映像が流れ出すと、二人同時に悲鳴にも似た声をあげた。
「奏ェ!!」
二人には正視にたえない映像だろう。
暗闇の中、懐中電灯の光が浮かび上がらせる奏の姿。
ガムテープで口を塞がれ、ロープで椅子に固定されている。
そこに撮影者の左手が割り込み、奏との距離を詰めていく。
目を見開いて怯える奏の首に、撮影者の左手がすッと伸びた。
奏の苦悶の表情が映し出されたところで映像は終わった。
「この化け物めッ!!」
激昂した肥後が、怒りにまかせてスマートフォンを蛭川にむかって投げつけた。しかし、石膏ボードの壁をわずかに傷つけるにとどまった。
蛭川はほくそえむ。
そうだ、それでいい。怒りが激しければ激しいほど、自責の念は強くなる。
「奏はどこだ! 何処にいるッ!」
必死にまくしたてる肥後を、蛭川はせせら笑った。
「十二年前のように自分の罪を伏せて、警察に助けを求めるがいい。と言っても、もう無駄だがな……」
「ちょっと待てッ!」
肥後は息を吹き返したかのように語気を強めた。
「お前は思い違いをしている。俺は警察に連絡なンてしてない。警察の方から報せてきたンだ。君の学生時代の友人が事件に関係しているかもしれない。狙われるおそれがあるから気をつけなさい、と」
肥後の言葉に蛭川は愕然とした。原田と角田の事件を知って、警察に情報を提供する者など、肥後以外にあり得ないと考えていた。
それなら誰が――。
蛭川の耳には、奏の居場所を教えろッ! とわめき立てる肥後の声が届かなかった。
アメリカ合衆国ジョージア州アトランタ。
警察官のジョージは、手首の傷がもとで闘病生活に入り、十ヶ月後に静かに息を引き取った。
彼の死はCDC(アメリカ疾病管理予防センター)の疫学者デレック・リベラにも報告された。
リベラは電話を切ると、深いため息をついた。
「死んだだけか……」