復讐①
東京を離れて九時間が過ぎようとしていた。
押元は蛭川の復讐のターゲットである肥後克哉の家の前に立っていた。
押元は数時間前にもこの家を見ていた。
狡猾な蛭川は名古屋に着くと、真っ先に肥後家の情報収集を指示してきた。検事という肩書きがあれば楽だろう、と不適な笑みを浮かべた。
まさしくそのとおりだった。
名刺と十二年前の事件の話を切り出せば、近所の主婦を中心に簡単に肥後家の情報を引き出せた。娘の奏の現況なども容易に知ることができた。
次に蛭川は空き家探しを命じてきた。肥後の家からさほど離れていない距離で、不動産物件ではない放置された家を求められた。隠れ家にでも使うかと思いきや、そうでないことを後々知ることになった。
レンターカーを借り、肥後の住む中村区と隣接する西区へと車を走らせた。伊勢湾へと注がれる庄内川の堤防下の集落で、蛭川の望む空き家をみつけた。
蛭川は満足そうな表情を浮かべると、「さァ、始めようか」と、地下鉄伏見駅行きを口にした。情報収集の結果、得た場所だった。
それを聞いた押元は、蛭川が十二年前の事件と同様に、娘の奏を手に掛けることで復讐を果たそうとしていることを悟った。
復讐の手助けなどしたくない、という思いと、命を失いたくない、という思いの葛藤のなかハンドルを握った。空き家から伏見駅まではそれほど遠くない。
信号待ちの停車中、バックミラーにパトカーが映った。
東京拘置所の事件で警察はどう動いたのだろう。やはり、事件現場から姿をくらましたとして行方を追っているだろうか。だとするなら――。
捕まえてほしい――。
押元は信号が青になるとアクセルを目一杯踏み込んだ。スピード違反で検挙されることを狙った。
――気がついてくれ!
後方のパトカーに心の中で訴えた。
しかし、先に気づいたのは蛭川の方だった。
フロントガラスとの間に飛び込んできた蛭川は、口を大きく開けて威嚇してきた。
押元は咄嗟にハンドルから片手を離し、咽喉元を覆うと、恐怖で足が震え、アクセルを踏む力が抜けていった。
「オレを出し抜けると思っているのか」
蛭川の言葉に、押元の心は絶望感に包まれていった。もう、犯罪に加担するしか道はないのか。
車が広小路通りに差し掛かると、蛭川は通りに面した老舗の商店街に寄るよう言った。そこで蛭川の指示に従い、品物を買い揃えた。
再び車に乗り込むと、強い西日が車内に飛び込んできた。肥後家の近所で聞き込んだ情報を元に、奏が通う剣道場へ向かった。
これは不可抗力だ。
押元は車を走らせながら、自分に何度も言い聞かせた。
「行け!」
蛭川に命じられた押元は、インターホーンに手を伸ばした。
肥後は娘の帰りを待っているに違いない。しかし、それは叶わない。奏は――。
『はい――』
インターホーンから女性の声が聞こえてきた。恐らくは肥後の妻であろう。
「夜分すみません。私は十二年前の事件の担当検事の押元と申します。蛭川のことでお話したいことがありまして……」
『少々お待ちください」
肥後の妻の動揺した様子がインターホーン越しにも伝わってきた。夫に駆け寄っていく姿が容易に想像できる。
ほどなくして玄関灯がついた。ロックを外す音が鳴り、ドアが開いた。
「どうぞ……」
歓迎とはほど遠い声のトーンの肥後に迎えられた。
「失礼します」
押元は頭を下げて、玄関に足を踏み入れた。ドアを閉めた途端、強烈な痛みが首筋に走った。
「ひッ、蛭川ァ!」