楓とマグロ職人
宿に到着し、私達はマグロが届けられているらしい飯盒炊爨を行う河原に向かう。すると、巨大な筋肉質の魚は、キャンプ場の中央テーブルを一つ占領していた。それを取り囲むようにして見ていた先生達に私は質問攻めをされる。全員納得の行かない表情だったが、先生達はマグロがいる訳が無いという知識よりも、釣れた事実を生徒と共に祝おうと言う事で「残さず食べなさい」とおっしゃってくれた。
その後、小声で「余ったら先生にもわけてくれ」と言ってきた担任の先生には中トロを差し上げる事を約束する。その際の和美の怪しい笑みは何だったのだろうか。まるで「貸し一つですよ」みたいな・・・?
私達は予定通り肉じゃがを作り始めた。他のグループも事前に用意した食材で食事を作り始める。男子グループはほとんどカレーだ。昼間もカレーだったのに・・・。男の人は同じ物を連続して食べることができるというのはどうやら本当のようだ。
しかし、男子達は・・・いや、女子達もほとんどが注意力散漫のようであり、周りから「失敗した」「それ違うよ」「まずはこっちでしょ」と、作業が円滑に進んでいないような声があがる。もちろん、みんな数分おきにマグロをうっとりと眺めているからだ。
肉じゃがの下ごしらえも終わり、後は煮込むだけといった時間に一人の男性が現れた。その人は緑色の割烹着に緑色のビニールのエプロン。顔には緑のマスクをかけており、緑一色だ。マグロのテーブルの前まで行くと、持っていた木のケースから少し長めに見える細身の包丁を取り出した。
「マグロの方、切り分けさせていただきます」
そう言うと、ためらい無く魚に包丁を突き立てた。そして、明らかにマグロを切るには短いと思われる包丁を使い、流れるような動きでまずは頭を切り取った。それを見ていた生徒や先生達が歓声を上げる。
「大トロ切ってくださーい。私達の! 私達のっ!」
和美と佳奈がマグロの前に行って、職人風の人に注文をつけている。私は和美達と行動を一緒にはせず、先生達の所へ行く。
「先生、あの人を呼んでくださったんですか?」
「ん? あの切っている人? いや・・・知らないが・・・。宿の人が気を利かして呼んでくれたか、宿で働いている調理人が来てくれたんじゃないか?」
「やっぱりそうでしたか・・・」
「やっぱり?」
私は先生に頭を下げると、中央のテーブルに行き、職人さんの後ろに立った。彼は気がついているのか、いないのか、集中してマグロを切っているように見える。
「あなたは私の知っている人じゃない?」
「何をおっしゃいます。私はただのさすらいマグロ職人でございます」
私が訪ねると、彼は驚く様子も無く答えた。
「それはそうと・・・お上手ですね。コツでもあるのですか?」
「多少の練習をすれば誰にでもできますよ」
冬哉は昔、私が褒めると大変喜んだ事を思い出す。目の前の職人の背中は一瞬震えた。
「私はアジやサバの三枚おろししかやった事がないので」
「同じような物です」
「やはり包丁が違うのかな? それは良く切れそうね、冬哉」
「さすが楓様! お気づきになられましたか! これは堺の刀職人、柳藤次郎作の名品です。今度一振り自宅の方へお持ちいたします」
「やはり冬哉だったわね」
「・・・・はっ!」
途中、一度も動きを止めずに滑らかに作業をしていた職人の手が、一瞬ぴたりと止まった。
「何のつもりなのっ! 主の前で顔を隠しているんじゃありませんっ!」
私は彼の料理人用の帽子と、顔につけているマスクを剥ぎ取った。中からやや長めの黒髪と高い鼻が覗いた。
「主? 楓様、執事と認めていただけるのですか?」
「認めないわよっ!」
「と・・・・冬哉さまぁ!」
冬哉を睨みつけている私の所へ、和美がテーブルを回りこんでやってきた。相変わらず目がなぜかハートに点滅をしている。
「冬哉さま! 今日は何を・・・あっ! 料理人のアルバイトですかっ?」
「その通りです、響田様」
「楓の親友の私にそんな堅苦しい・・・。是非、和美って呼んでください!」
「かしこまりました、和美様」
和美は冬哉の作業をうっとりと眺めている。佳奈も相変わらずうっとりとマグロを見ている。特に霜降りの部分を。
「それで冬哉。どうしてあなたが直接来るのよ。カメラの映像でも良くなかったの?」
「さすが楓様! カメラにお気づきになっていたとは! 暗くなって来ましたのでCCDカメラの映像が不鮮明で・・・。楓様が気になったので直接見に来てしまいました」
「・・・カメラも仕掛けていたのね。・・・やっぱり・・・」
「はっ! 楓様! ずるいですっ!」
冬哉は困惑した顔をしながらもマグロを解体する手は休めない。こ奴は昔から料理やケーキ作りを器用にこなし、庭の木の剪定も見よう見まねで見事にやってのけた。
「どうせこのマグロもあなたが私に釣らせたんでしょうけど・・・。この件はもう良いわ。今からマグロを引き上げると、暴動が起きるから・・・」
「な・・・何のことだかわかりませんが・・・ピュー・・・ピュー」
冬哉が下手な口笛を吹く。どういう訳か、冬哉は昔から隠し事が苦手で、ごまかすために口笛を吹くのだが、普段は上手に吹くくせにこのときばかりはなぜか下手になるのだ。
「あなた子供の頃とそこは変わらないわね。お父様が冬哉に「私には黙っていろ」と言うような約束事があっても、すぐにバレた」
「そ・・・そうでしたか? それに私は当時とまったく変わっておりませんが・・・。身分も」
「ちょっと! 二人でごにょごにょしゃべってないで・・・。楓! 少しは私にも話を振ってよ!」
和美が不満そうに私と冬哉の間に割って入ってきて言った。
「あ・・・ごめん和美。あと・・・冬哉はこの後すぐ帰ってしまうんだってさ。用事があるから!」
「えー・・・。そうなんだぁ。一緒にご飯食べたかったなぁ」
「楓様。私はこの後も予定を空けておりま・・」
「か・え・る・の・よ・ね? 冬哉」
「・・・和美様申し訳ありません。急用で・・・」
あぶない、あぶない。こんなのにうろうろされたら私の評判が悪くなる。
冬哉がマグロを解体し終わると生徒はもちろん、先生達からも拍手を受けた。常に付きまとう私の鋭い視線を感じたのか、冬哉は拍手の中、静かに包丁をしまいすごすごと帰って行った。
マグロは200kg、人数は生徒が120人プラス先生達。一人1㎏超。とても食べきれないと思ったが、そこは育ち盛りの高校生。マグロの頭まで平らげてしまった。部位の割り当ては和美と佳奈が主導で行い、私達とクラスの仲の良い子には大トロ。先生達には中トロ。その他の子達には赤身だったが、それすらも大好評だった。




