涼しいカフェで
【氏名:赤園 真衣 評定:3.9】
私はかれこれ一時間、目の前の成績表とにらめっこしていた。中学をあっという間に卒業して、勉強を重ねて晴れて高校生になった。喜美静高校、ここらでは少し上くらいの高校だった。親から就職に有利になるだとか、進学も良い面があるだとか言われてここに来た。別に親だけの言葉で来たわけでもなかった。制服も可愛かったし、ブレザーで嬉しかったし、色々な授業があったし。来る理由はいくらでもあった。入ろうと考えたとき、勉強を何とか頑張り始めた。
そして、今同じような波が私を攫いそうになっている。高校二年生、夏休みに入る前の酷く暑い日にこの紙は手に渡ってきた。今考えている大学には、評定が4.2ほど必要だった。そして、私の目の前の数字は4に手を伸ばしている程度。どうにも届かない気がした。
昔から突然の体調不良で学校を早退することが多かった。そして、今もそれは変わっていなかったのだ。遅刻の欄には綺麗な縦長の丸が書かれているが、早退の欄には並列した数字が私を見ている。インクが私に現実を見せつけてきて、目が痛い。
私は紙をファイルに入れ込んだ。目の前には、何もない。周りを見ると、少しザワザワとしていた。視線が私に刺さる。心当たりしかなかった。かれこれ、注文もせず、一時間も、ここにいるのだ。私はかっと顔を赤くして席を立とうとした。
でも、目の前に少し長い影ができた。顔を上げると、綺麗な切れ長の目が私を映していた。
「注文、なさいますか」
思ったよりもほんの少し高い声で、問われたその声に、私はチーズケーキとカフェオレを頼んだ。彼はかしこまりました、と微笑んで対応して裏に消えていった。私は現実から逃れるようにカバンから単語帳を取り出した。とりあえず気を紛らわせるために。
「__お待たせしました、チーズケーキとカフェオレでございます。伝票はこちらに入れておきます」
その声が聞こえたのは、およそ何分後だっただろうか。すぐな気もしたし、五分も十分も後なきもした。小さく会釈をすると、彼は微笑んでまたホールのどこかに消えていく。甘いチーズケーキを口に運びながら、さっきの青年を思い出す。
切れ長の目、細い眉毛、すらっとした鼻、小さめな口。髪はダークブラウンでハーフアップ。思ったよりも高い声で、でも体格は少しがっしりとしている。節々で男性を感じた。
「あの」
「はい?」
顔を上げると、目の前に先ほどの青年がいた。ネームプレートの【あおみ】という文字がきらりと反射していて。
「喜美静高校、ですか」
彼は私の制服を見て、静かにそう聞いた。私はこくんと頷く。彼は微笑んで言葉を続けた。
「僕も一緒です。良ければ、名前を聞いてもいいですか。えっと、あの、知り合いがいなくて…」
「あぁ、そうなんですか…赤園真衣です。今、何かに…」
「メモ帳をお貸ししますよ、どうぞ」
彼は丁寧にメモ帳を一枚切り取って、私にボールペンと共に渡してくれた。どこまで優しいのだと思い微笑んでしまう。私は丁寧にボールペンで名前を書いた。少し癖のある字、でも彼は嬉しそうに手に取って眺めてくれた。
「僕は、碧海慧です。字は…」
彼もまた一枚の小さい紙にペンを走らせる。迷いのない手つき(自分の名前だから当たり前かもしれないけど)で、習字の時間でしか見たことないような綺麗な字が書きあげられていく。私は紙を手に取って、ぼそっと言った。
「…色が入ってますね、私たち」
「…!確かに、赤と碧ですね…僕の碧はちょっと馴染みが無い方ですが」
「私、こっちの碧って字も、かっこよくて好きだよ」
軽率に、初対面の人の前で好きという単語を言ってしまった。私が口を慌てて押さえると、彼はほんの少しだけ顔を赤くしていた。
やっちゃったかな。
「ありがとうございます。あなたと出会えてよかった」
やっちゃったかも。
そんなことが頭の中を巡った。けれど、私はなんとか微笑み返した。ふと腕時計を見ると、もうすぐ門限の時間だった。カフェオレをすっと流し込み、立ち上がる準備をする。彼は紙をシャツの胸ポケットに入れて、姿勢を正した。
「お会計ですか?」
「あ、はい」
「かしこまりました。レジにどうぞ」
彼が丁寧に案内をしてくれて、私は何とかカフェを去ることができそうだった。彼はレジを終えると、綺麗に一礼した。
「またお越しくださいませ」
どの店でも、帰り際に言われる言葉。けれど、今の私には彼から向けられた、彼だけの、特別な言葉に聞こえてならなかった。
次の日の学校で、私は彼を探した。同じ学年がいる階を練り歩いてみる。すると、昨日知ったばかりの単語が耳を通り抜けた。
「碧海、次の授業移動だろ、行くぞ」
「あーい」
「今日どうした。やる気なさすぎだろ」
「昨日のバイト疲れたんだよ」
私は教室をチラッと覗いた。そこにいたのは、垂れ下がる甘えるような眉毛、柔らかい目、頬を膨らしたあの男だった。碧海慧。昨日見た印象とは打って変わっていた。すると、彼の瞳がこちらを捉えた。ふわりとあげられた瞼はまた少し細められて。彼はこちらに歩いてきた。昨日と同じ歩き方、そのはずなのに、制服のせいかやけにスラッとして見えた。
「赤園さん、だよね」
「あ、うん」
「同い年だったんだ。会えて良かった!」
文字通り、ぱっと輝く笑顔。印象がぐるぐる変わっていく。彼は時計を見て、ぎょっとしていた。私も同じ顔をしてしまっただろう。授業が始まるまであと二分程度だ。ここで遅れたら、また成績に響く。彼は既に友人たちの方に戻っていた。
「昨日カフェで知り合った人!会えたから頑張れる!」
「なんだそれ、少女漫画かよ?」
笑い声と戸惑うそんな声を聴きながら、私も教室を後にした。
走りに走って、私は視界がぐらりとした。でも次の授業は英語、今一番受けないとまずい授業だった。倒れるわけにはいかない、保健室に行くわけにはいかない。そんなことを考えながら走っていた。
三時限目を告げるチャイムが、私の頭に響いた。




