表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
県初の障がい者教諭として赴任した結果、学校と自分がゆっくり壊れていく話  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/26

第9話「帰り道の罵声」

 四月十日。


 校舎の窓ガラスに、廊下の蛍光灯が反射して薄く映っている。

 職員室の時計は、すでに二十一時を回っていた。


 机の上の教科書とプリントの山を、ざっとそろえて引き出しに押し込みながら、成美は、今日一日の「やり残し」を頭の中で数えた。


 連絡帳のコメント、二冊、書けていない。

 三年一組の宿題プリント、明日配る予定の分をコピーしそびれた。

 昼休み、教室の隅で体育館シューズの泥をいじっていた男子に、声をかけようか迷って、そのままスルーしてしまった。


 全部、細かいことだ。

 命に関わるようなミスではない。

 そう分かっていても、「細かいこと」が積もった先に、大きな何かが崩れるような気がしてならない。


「山本先生、もう上がるの?」


 コートを手にした佐川が、プリントの束を抱えたまま声をかけてきた。


「はい。……そろそろ帰らないと、対向車もいなくなったら山道が本当に闇一色になってしまうので」


「ああ、そうですよね。あの道、街灯少ないですもんね」


 佐川は苦笑しながら、自分の机に視線を落とした。


「私、もうちょっとだけ残ります。今日中にやらないと本当に回らないやつがあって。……気をつけて帰ってくださいね」


「佐川先生こそ。あまり無理なさらないでください」


「それ、山本先生にもそのままお返しします」


 軽い冗談めいたやり取り。

 でも、その裏側で、どちらも限界ぎりぎりの足場に立っていることは、二人とも薄々分かっている。


 成美は、机の上のスタンドライトを消し、椅子を机に入れた。

 タイムカードを押して職員室を出ると、廊下はほとんど無人だ。

 掃除用具入れの前に、モップが一本立てかけられている。

 誰かが片付けを途中で呼び出され、そのままになってしまったのだろう。


 下駄箱で靴を履き替え、ガラス戸を開ける。


 外の空気は、もう冬の名残をほとんど手放していたが、山の風はまだ少し冷たい。

 校門の外では、大学生らしき男女が数人で笑いながら歩いている。

 その背中を見送りながら、成美は駐車場へ向かった。


 車に乗り込むとき、いつも一瞬だけ、胸の奥がきゅっと縮む。


 運転が怖い。

 これは、免許を取ったときから変わらない感覚だ。

 けれど、ここへ来るには、車以外の手段がない。


 シートベルトを締め、キーを回す。

 エンジンが低く唸り、フロントガラスの向こうに、暗くなり始めた山道が横たわる。


 車を発進させると、すぐに学校は背中側に消えた。

 生徒の声も、職員室のざわめきも、窓ガラス一枚と数メートルの距離で、まるごと別世界になる。


 その切り替わり方が、いつも少し不思議だった。



 山道に入ると、街灯は一気に少なくなる。

 ところどころにあるオレンジ色の明かりが、ぽつ、ぽつ、と浮かんでいるだけだ。


 対向車のライトと、山肌の黒い影。

 それと、自分の車のエンジン音。


 それ以外の音は、ほとんどない。


 助手席には、今日も鞄が一つ。

 その中には、連絡帳、未採点のプリント、明日の授業案。

 持ち帰りはしない、と決めたはずなのに、「念のため」と思って鞄に入れてしまった紙類が、日ごとに増えている。


 ハンドルを握りながら、成美は、今日一日の場面を逆再生するみたいに思い出していった。


 朝の会で、提出物の回収を一組だけ忘れて、あとで慌てて集めに回ったこと。

 漢字の小テストを配るとき、プリントを一枚数え間違えて、最後の一人の分が足りなくなり、職員室まで取りに戻ったこと。

 五時間目の授業で、教科書のページ番号を言い間違えて、生徒たちがざわざわしたこと。


 どれも、致命的な失敗ではない。

 授業としては、形になった。

 生徒たちが大きく困ったわけでもない。


 それでも、記憶はそこだけを何度も再生する。

 うまくいかなかった瞬間、間に合わなかった一歩。


「……あれは、あり得ない」


 自然と、言葉が口から漏れた。

 誰に聞かせるわけでもなく、ただ、前方の暗闇に向かって。


「プリントの枚数くらい、ちゃんと数えろよ。準備のときにチェックしておけばいいだけだろうが」


 ハンドルを握る指先に、力がこもる。


 言いながら、自分でも、少しほっとしていることに気づく。


 学校にいる間は、心の中でいくら自己嫌悪をしても、声に出すことはない。

 廊下にも教室にも、いつも誰かがいる。

 職員室では、ちょっとした独り言でさえ、誰かに聞かれてしまう。


 けれど、今は違う。

 この狭い車内には、自分しかいない。

 窓を閉めてしまえば、自分の声は自分にしか届かない。


「連絡帳も書き忘れて。あんなに丁寧にメッセージもらってるのに。信じられない」


 言葉は、さっきよりもはっきりとした音になった。


 頭の中でぐるぐる回っている責め言葉を、外に押し出していくような感覚。

 口に出した瞬間だけ、胸のうちのざわつきが、ほんの少しだけ静かになる。


 右カーブ、左カーブ。

 カーブミラーに、自分の車のライトがゆがんで映る。

 ブレーキとアクセルを慎重に踏み替えながら、暗い山肌をなぞるように走る。


「注意しなきゃいけない生徒のことも、放課後にはすっかり頭から抜けてた。見て見ぬふりしたと同じだろうが。教師として最低だな、お前」


 助手席の鞄が、カーブのたびに少し揺れる。

 その中の連絡帳が、紙と紙を擦り合わせるように小さく鳴った気がした。


 心の中で責め続けるよりも、声にしてしまったほうが、楽だ。

 そんな風に思い始めている自分がいる。


 学校の中では、「ちゃんとしなきゃ」「迷惑をかけちゃいけない」という声が、いつも前面に出ている。

 帰り道の車の中だけ、その声に覆いかぶさるように、「できていない自分」を罵倒する声が出てくる。


 どちらも、自分の声だ。

 けれど、学校にいるときと、この帰り道とでは、役割が違う。


 学校では、「先生」の役。

 家に帰るまでの山道では、「裁判官」と「検察官」が一人の中で喋っているみたいだ。



 トンネルに入る。


 外の暗さとは別種の、人工的なオレンジの光に包まれる。

 ライトをつけた車が前方を走っている。

 自分の車と、その前の車。


 他に、誰もいない。


「今日の授業だってさ」


 成美は、フロントガラスの向こうを見つめながら、また口を開いた。


「板書、途中で段落の順番間違えてたろうが。黒板の右側から書けばよかったところを、真ん中から始めて、自分でわけ分かんなくなって、馬鹿かお前は」


 生徒に指摘されたわけではない。

 でも、あのときのざわざわした空気と、自分のうろたえた感覚は、手触りのある記憶として残っている。


「“見やすい黒板”にしようって、あれだけ気をつけようとしてるのに。結局、整理できてないだろうが。準備不足。段取りも甘い」


 声は、小さなトンネルの中で、車の内側の壁に跳ね返って、自分の耳に戻ってくる。


 まるで、自分で自分を叱責するために、ここの空間を選んでいるみたいだ、とふと思う。


 トンネルを抜けると、視界が一瞬だけ開けた。

 夕暮れはとっくに終わり、山の稜線は黒い影となって空に貼り付いている。


 その向こうに、街の小さな灯りが点々と見えた。

 あの灯りのどれかが、自分の帰るべき場所だ。


 しかし、その「帰るべき場所」に戻るまでの時間を、成美はどこかで引き延ばしたがっている。


 車を停めるまでの一時間半は、「先生でも娘でもない時間」だ。

 誰かの期待にも不安にも、直接触れなくていい時間。


 代わりに、そこに割り込んでくるのが、自分自身の声。


「授業前に、プリントの確認をもう一度しておけば良かったんじゃねぇの? 時間がない? 馬鹿か。配分が下手なんだよ。空き時間に何してたんだよ? ぼんやりしてただけだろうが、この愚図が」


 ぼんやり、という言葉に、成美の手のひらが汗ばむ。


 実際には、空き時間にぼんやりしていたわけではない。

 コピー機の前で、自分の順番を待っていた。

 電話がかかってきて、対応していた。

 誰かに話しかけられて、相談を受けていた。


 それでも、「自分は他の人よりも手際が悪い」という意識は、なかなか拭えない。


 同じ時間内で、他の先生たちはもっと多くの仕事をさばいているように見える。

 それと自分を比べてしまうと、「できていない」のラベルを自分に貼らずにはいられない。


「向いてないんじゃねぇの、教師」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥が、きゅっと痛んだ。


 “向いてない”という言葉は、採用される前から、何度も自分に向けてきたものだ。


 一般企業の事務職で、短期間でいくつも職場を変わったとき。

 雑音の多いオフィスで、電話と来客と上司の指示が同時に飛び交う中、頭が真っ白になって、メモを取り損ねたとき。

 「ここには自分の居場所がない」と、机の上の荷物をまとめたとき。


「事務も向いてない」「接客も向いてない」「営業なんてもちろん無理」。


 そうやって、できない仕事のリストは増えていった。


 その中で、「障がい者雇用なら、配慮があるかもしれない」と思って挑戦したのが、教師としての採用試験だった。


 だから、「教師も向いてない」と自分で言ってしまうことは、その最後の拠り所まで手放すことになる気がして怖かった。


 怖いと分かっているのに、その言葉を口にしてしまう。

 車の中以外では言えないことを、ここでだけ、試すように。


「向いてないよ。だって、普通の人が普通にできること、全部つまずいてんじゃねぇか」


 左手でハンドルを握りながら、右手が膝の上でぎゅっと握りしめられる。


「プリント配るだけでミス。連絡帳の返事も終わんない。生徒の顔と名前も、いまだに覚えきれてないし? 何回名簿見てんだよ! この屑!」


 一つ一つの事実を並べて、自分に突きつけていく。


 誰も、責めてこないから。

 校長も村井も、「まだ慣れていないだけだから」と言ってくれる。

 佐川も、「大丈夫ですよ、一緒にやりましょう」と笑ってくれる。


 だから、自分で自分を責めるしかない。

 責任の矛先を、自分に向けることで、何とかバランスを取っている。


 そうしないと、「本当はこの構造自体がおかしいんだ」と思ってしまいそうになる。

 それを認めることは、あまりにも大きすぎて、今の自分には抱えきれない。



 山道の途中、小さな展望スペースのような路肩がある。

 そこに車を停めることは、めったにない。

 停まってしまったら、そのまま動けなくなってしまいそうで怖いから。


 でも、今日は、少しだけアクセルを緩めた。

 胸の鼓動がやけにうるさい。

 さっきから、息が浅い気がする。


 路肩に寄せ、ハザードランプをつけて車を停める。

 エンジンはかけたまま。


 ハンドルから手を離し、背もたれに体重を預ける。


 フロントガラスの向こうに、真っ暗な山が広がっている。

 その中に、自分の車のライトだけが、白い帯となって地面を照らしている。


「……はあ」


 長く息を吐くと、それが白く曇ってガラスに薄い膜をつくった。


 車の中には、自分の呼吸の音と、エンジンの低い唸り声だけ。


「何やってるんだろうね、ほんと」


 今度の言葉は、さっきまでの鋭さとは少し違っていた。

 責めるというより、呆れるような響き。


 それでも、その裏側には、「うまくやれていない自分」への苛立ちがある。


「せっかく採用してもらって、県で初めての障害者雇用教諭だって言われて。期待されてるかもしれないのに。こんなんじゃ、“やっぱりダメだ”って思われるじゃない」


 「やっぱりダメだ」。


 その言葉は、「障害者だから」というラベルと、いつもセットになって頭に浮かぶ。


「“やっぱり無理でしたね、配慮しても”。そう言われるのが、一番怖いのに。怖いくせに、その怖さを打ち消せるほど結果も出せてないじゃない」


 声が、少しだけ大きくなった。

 狭い車内に、自分の声がくっきりと響く。


 誰も聞いていない。

 だから、どれだけひどい言葉を口にしてもいい。


 そう思うと、口の中に、まだ言っていない単語がいくつも浮かんでくる。

 でも、その中のいくつかは、まだ声にはしない。


 代わりに、別の語を選ぶ。


「ダメだな、ほんと。何もかも中途半端。事務も続かなくて。教員もきっとダメで。向いてる仕事、ひとつもないじゃんね」


 自分で言いながら、笑ってしまう。

 笑うしかない種類の言葉だ。


 笑いはすぐに消えて、かわりに喉の奥がじわっと熱くなる。

 涙が出るほどではない。

 ただ、熱だけが居座る。


 運転中は危ないから、ここでは泣かない。

 泣くとしても、家に帰ってから。

 そう決めているわけでもないのに、身体のどこかがそう判断している。


「……行かなきゃ」


 小さく呟いて、再びハンドルを握る。

 ハザードを消し、バックミラーで後ろを確認し、ゆっくりと道路に戻る。


 アクセルを踏むと、車は、また暗い山道に溶け込んでいった。



 残りの道のり、成美はほとんど無言だった。


 罵声を浴びせることで少し軽くなった部分と、逆に重くなった部分がある。

 頭の中のざわざわは、完全には消えない。


 ただ、「何も言わないで黙っている」よりはマシだと感じている自分がいる。


 教師としての一日が終わったあと、娘としての夜が始まるまでのあいだ。

 その狭いすき間を、この「ひとり反省会」が埋めていく。


 運転中に喋る声は、誰にも聞かれない。

 だから安全だ、とどこかで思っている。


 ここでどんなに自分を罵倒しても、学校の誰にも、母にも、知られない。

 弱音も、愚痴も、自己嫌悪も、全部この車の中に閉じ込めておける。


 そう信じている。


 けれど、ハンドルを握る指先に残る強張りと、家に着く頃にはぐったりと重くなる肩の感覚は、少しずつ確実に蓄積していく。


 帰り道の罵声は、この先しばらく、成美の日常に組み込まれていくことになる。

 まるで、授業の準備や採点と同じように、「一日のルーティン」のひとつとして。


 そのことに、この日の彼女は、まだ気づいていない。

ストレス解消のために自分をはけ口にする。

成美はどんどんやめられなくなっていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ