第9話「帰り道の罵声」
四月十日。
校舎の窓ガラスに、廊下の蛍光灯が反射して薄く映っている。
職員室の時計は、すでに二十一時を回っていた。
机の上の教科書とプリントの山を、ざっとそろえて引き出しに押し込みながら、成美は、今日一日の「やり残し」を頭の中で数えた。
連絡帳のコメント、二冊、書けていない。
三年一組の宿題プリント、明日配る予定の分をコピーしそびれた。
昼休み、教室の隅で体育館シューズの泥をいじっていた男子に、声をかけようか迷って、そのままスルーしてしまった。
全部、細かいことだ。
命に関わるようなミスではない。
そう分かっていても、「細かいこと」が積もった先に、大きな何かが崩れるような気がしてならない。
「山本先生、もう上がるの?」
コートを手にした佐川が、プリントの束を抱えたまま声をかけてきた。
「はい。……そろそろ帰らないと、対向車もいなくなったら山道が本当に闇一色になってしまうので」
「ああ、そうですよね。あの道、街灯少ないですもんね」
佐川は苦笑しながら、自分の机に視線を落とした。
「私、もうちょっとだけ残ります。今日中にやらないと本当に回らないやつがあって。……気をつけて帰ってくださいね」
「佐川先生こそ。あまり無理なさらないでください」
「それ、山本先生にもそのままお返しします」
軽い冗談めいたやり取り。
でも、その裏側で、どちらも限界ぎりぎりの足場に立っていることは、二人とも薄々分かっている。
成美は、机の上のスタンドライトを消し、椅子を机に入れた。
タイムカードを押して職員室を出ると、廊下はほとんど無人だ。
掃除用具入れの前に、モップが一本立てかけられている。
誰かが片付けを途中で呼び出され、そのままになってしまったのだろう。
下駄箱で靴を履き替え、ガラス戸を開ける。
外の空気は、もう冬の名残をほとんど手放していたが、山の風はまだ少し冷たい。
校門の外では、大学生らしき男女が数人で笑いながら歩いている。
その背中を見送りながら、成美は駐車場へ向かった。
車に乗り込むとき、いつも一瞬だけ、胸の奥がきゅっと縮む。
運転が怖い。
これは、免許を取ったときから変わらない感覚だ。
けれど、ここへ来るには、車以外の手段がない。
シートベルトを締め、キーを回す。
エンジンが低く唸り、フロントガラスの向こうに、暗くなり始めた山道が横たわる。
車を発進させると、すぐに学校は背中側に消えた。
生徒の声も、職員室のざわめきも、窓ガラス一枚と数メートルの距離で、まるごと別世界になる。
その切り替わり方が、いつも少し不思議だった。
◇
山道に入ると、街灯は一気に少なくなる。
ところどころにあるオレンジ色の明かりが、ぽつ、ぽつ、と浮かんでいるだけだ。
対向車のライトと、山肌の黒い影。
それと、自分の車のエンジン音。
それ以外の音は、ほとんどない。
助手席には、今日も鞄が一つ。
その中には、連絡帳、未採点のプリント、明日の授業案。
持ち帰りはしない、と決めたはずなのに、「念のため」と思って鞄に入れてしまった紙類が、日ごとに増えている。
ハンドルを握りながら、成美は、今日一日の場面を逆再生するみたいに思い出していった。
朝の会で、提出物の回収を一組だけ忘れて、あとで慌てて集めに回ったこと。
漢字の小テストを配るとき、プリントを一枚数え間違えて、最後の一人の分が足りなくなり、職員室まで取りに戻ったこと。
五時間目の授業で、教科書のページ番号を言い間違えて、生徒たちがざわざわしたこと。
どれも、致命的な失敗ではない。
授業としては、形になった。
生徒たちが大きく困ったわけでもない。
それでも、記憶はそこだけを何度も再生する。
うまくいかなかった瞬間、間に合わなかった一歩。
「……あれは、あり得ない」
自然と、言葉が口から漏れた。
誰に聞かせるわけでもなく、ただ、前方の暗闇に向かって。
「プリントの枚数くらい、ちゃんと数えろよ。準備のときにチェックしておけばいいだけだろうが」
ハンドルを握る指先に、力がこもる。
言いながら、自分でも、少しほっとしていることに気づく。
学校にいる間は、心の中でいくら自己嫌悪をしても、声に出すことはない。
廊下にも教室にも、いつも誰かがいる。
職員室では、ちょっとした独り言でさえ、誰かに聞かれてしまう。
けれど、今は違う。
この狭い車内には、自分しかいない。
窓を閉めてしまえば、自分の声は自分にしか届かない。
「連絡帳も書き忘れて。あんなに丁寧にメッセージもらってるのに。信じられない」
言葉は、さっきよりもはっきりとした音になった。
頭の中でぐるぐる回っている責め言葉を、外に押し出していくような感覚。
口に出した瞬間だけ、胸のうちのざわつきが、ほんの少しだけ静かになる。
右カーブ、左カーブ。
カーブミラーに、自分の車のライトがゆがんで映る。
ブレーキとアクセルを慎重に踏み替えながら、暗い山肌をなぞるように走る。
「注意しなきゃいけない生徒のことも、放課後にはすっかり頭から抜けてた。見て見ぬふりしたと同じだろうが。教師として最低だな、お前」
助手席の鞄が、カーブのたびに少し揺れる。
その中の連絡帳が、紙と紙を擦り合わせるように小さく鳴った気がした。
心の中で責め続けるよりも、声にしてしまったほうが、楽だ。
そんな風に思い始めている自分がいる。
学校の中では、「ちゃんとしなきゃ」「迷惑をかけちゃいけない」という声が、いつも前面に出ている。
帰り道の車の中だけ、その声に覆いかぶさるように、「できていない自分」を罵倒する声が出てくる。
どちらも、自分の声だ。
けれど、学校にいるときと、この帰り道とでは、役割が違う。
学校では、「先生」の役。
家に帰るまでの山道では、「裁判官」と「検察官」が一人の中で喋っているみたいだ。
◇
トンネルに入る。
外の暗さとは別種の、人工的なオレンジの光に包まれる。
ライトをつけた車が前方を走っている。
自分の車と、その前の車。
他に、誰もいない。
「今日の授業だってさ」
成美は、フロントガラスの向こうを見つめながら、また口を開いた。
「板書、途中で段落の順番間違えてたろうが。黒板の右側から書けばよかったところを、真ん中から始めて、自分でわけ分かんなくなって、馬鹿かお前は」
生徒に指摘されたわけではない。
でも、あのときのざわざわした空気と、自分のうろたえた感覚は、手触りのある記憶として残っている。
「“見やすい黒板”にしようって、あれだけ気をつけようとしてるのに。結局、整理できてないだろうが。準備不足。段取りも甘い」
声は、小さなトンネルの中で、車の内側の壁に跳ね返って、自分の耳に戻ってくる。
まるで、自分で自分を叱責するために、ここの空間を選んでいるみたいだ、とふと思う。
トンネルを抜けると、視界が一瞬だけ開けた。
夕暮れはとっくに終わり、山の稜線は黒い影となって空に貼り付いている。
その向こうに、街の小さな灯りが点々と見えた。
あの灯りのどれかが、自分の帰るべき場所だ。
しかし、その「帰るべき場所」に戻るまでの時間を、成美はどこかで引き延ばしたがっている。
車を停めるまでの一時間半は、「先生でも娘でもない時間」だ。
誰かの期待にも不安にも、直接触れなくていい時間。
代わりに、そこに割り込んでくるのが、自分自身の声。
「授業前に、プリントの確認をもう一度しておけば良かったんじゃねぇの? 時間がない? 馬鹿か。配分が下手なんだよ。空き時間に何してたんだよ? ぼんやりしてただけだろうが、この愚図が」
ぼんやり、という言葉に、成美の手のひらが汗ばむ。
実際には、空き時間にぼんやりしていたわけではない。
コピー機の前で、自分の順番を待っていた。
電話がかかってきて、対応していた。
誰かに話しかけられて、相談を受けていた。
それでも、「自分は他の人よりも手際が悪い」という意識は、なかなか拭えない。
同じ時間内で、他の先生たちはもっと多くの仕事をさばいているように見える。
それと自分を比べてしまうと、「できていない」のラベルを自分に貼らずにはいられない。
「向いてないんじゃねぇの、教師」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が、きゅっと痛んだ。
“向いてない”という言葉は、採用される前から、何度も自分に向けてきたものだ。
一般企業の事務職で、短期間でいくつも職場を変わったとき。
雑音の多いオフィスで、電話と来客と上司の指示が同時に飛び交う中、頭が真っ白になって、メモを取り損ねたとき。
「ここには自分の居場所がない」と、机の上の荷物をまとめたとき。
「事務も向いてない」「接客も向いてない」「営業なんてもちろん無理」。
そうやって、できない仕事のリストは増えていった。
その中で、「障がい者雇用なら、配慮があるかもしれない」と思って挑戦したのが、教師としての採用試験だった。
だから、「教師も向いてない」と自分で言ってしまうことは、その最後の拠り所まで手放すことになる気がして怖かった。
怖いと分かっているのに、その言葉を口にしてしまう。
車の中以外では言えないことを、ここでだけ、試すように。
「向いてないよ。だって、普通の人が普通にできること、全部つまずいてんじゃねぇか」
左手でハンドルを握りながら、右手が膝の上でぎゅっと握りしめられる。
「プリント配るだけでミス。連絡帳の返事も終わんない。生徒の顔と名前も、いまだに覚えきれてないし? 何回名簿見てんだよ! この屑!」
一つ一つの事実を並べて、自分に突きつけていく。
誰も、責めてこないから。
校長も村井も、「まだ慣れていないだけだから」と言ってくれる。
佐川も、「大丈夫ですよ、一緒にやりましょう」と笑ってくれる。
だから、自分で自分を責めるしかない。
責任の矛先を、自分に向けることで、何とかバランスを取っている。
そうしないと、「本当はこの構造自体がおかしいんだ」と思ってしまいそうになる。
それを認めることは、あまりにも大きすぎて、今の自分には抱えきれない。
◇
山道の途中、小さな展望スペースのような路肩がある。
そこに車を停めることは、めったにない。
停まってしまったら、そのまま動けなくなってしまいそうで怖いから。
でも、今日は、少しだけアクセルを緩めた。
胸の鼓動がやけにうるさい。
さっきから、息が浅い気がする。
路肩に寄せ、ハザードランプをつけて車を停める。
エンジンはかけたまま。
ハンドルから手を離し、背もたれに体重を預ける。
フロントガラスの向こうに、真っ暗な山が広がっている。
その中に、自分の車のライトだけが、白い帯となって地面を照らしている。
「……はあ」
長く息を吐くと、それが白く曇ってガラスに薄い膜をつくった。
車の中には、自分の呼吸の音と、エンジンの低い唸り声だけ。
「何やってるんだろうね、ほんと」
今度の言葉は、さっきまでの鋭さとは少し違っていた。
責めるというより、呆れるような響き。
それでも、その裏側には、「うまくやれていない自分」への苛立ちがある。
「せっかく採用してもらって、県で初めての障害者雇用教諭だって言われて。期待されてるかもしれないのに。こんなんじゃ、“やっぱりダメだ”って思われるじゃない」
「やっぱりダメだ」。
その言葉は、「障害者だから」というラベルと、いつもセットになって頭に浮かぶ。
「“やっぱり無理でしたね、配慮しても”。そう言われるのが、一番怖いのに。怖いくせに、その怖さを打ち消せるほど結果も出せてないじゃない」
声が、少しだけ大きくなった。
狭い車内に、自分の声がくっきりと響く。
誰も聞いていない。
だから、どれだけひどい言葉を口にしてもいい。
そう思うと、口の中に、まだ言っていない単語がいくつも浮かんでくる。
でも、その中のいくつかは、まだ声にはしない。
代わりに、別の語を選ぶ。
「ダメだな、ほんと。何もかも中途半端。事務も続かなくて。教員もきっとダメで。向いてる仕事、ひとつもないじゃんね」
自分で言いながら、笑ってしまう。
笑うしかない種類の言葉だ。
笑いはすぐに消えて、かわりに喉の奥がじわっと熱くなる。
涙が出るほどではない。
ただ、熱だけが居座る。
運転中は危ないから、ここでは泣かない。
泣くとしても、家に帰ってから。
そう決めているわけでもないのに、身体のどこかがそう判断している。
「……行かなきゃ」
小さく呟いて、再びハンドルを握る。
ハザードを消し、バックミラーで後ろを確認し、ゆっくりと道路に戻る。
アクセルを踏むと、車は、また暗い山道に溶け込んでいった。
◇
残りの道のり、成美はほとんど無言だった。
罵声を浴びせることで少し軽くなった部分と、逆に重くなった部分がある。
頭の中のざわざわは、完全には消えない。
ただ、「何も言わないで黙っている」よりはマシだと感じている自分がいる。
教師としての一日が終わったあと、娘としての夜が始まるまでのあいだ。
その狭いすき間を、この「ひとり反省会」が埋めていく。
運転中に喋る声は、誰にも聞かれない。
だから安全だ、とどこかで思っている。
ここでどんなに自分を罵倒しても、学校の誰にも、母にも、知られない。
弱音も、愚痴も、自己嫌悪も、全部この車の中に閉じ込めておける。
そう信じている。
けれど、ハンドルを握る指先に残る強張りと、家に着く頃にはぐったりと重くなる肩の感覚は、少しずつ確実に蓄積していく。
帰り道の罵声は、この先しばらく、成美の日常に組み込まれていくことになる。
まるで、授業の準備や採点と同じように、「一日のルーティン」のひとつとして。
そのことに、この日の彼女は、まだ気づいていない。
ストレス解消のために自分をはけ口にする。
成美はどんどんやめられなくなっていく。




