表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
県初の障がい者教諭として赴任した結果、学校と自分がゆっくり壊れていく話  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/26

第8話「合理的配慮という口約束」

 その日は、朝から耳の奥がずっとじんじんしていた。


 始業前の職員室。

 コピー機の音、電話のベル、誰かの笑い声、行事予定についての打ち合わせ。

 それぞれはたいした音量ではないのに、全部が一度に耳に入ってくると、頭の中で増幅されてしまう。


「……すみません、ちょっと、先に失礼します」


 朝の打ち合わせが終わると同時に、成美は立ち上がった。

 いつもならそのまま三年生の教室に向かうのだが、今日は違う。


 職員室の奥、ガラス戸で仕切られた小さな部屋。

 そこが主幹教諭、村井信之の「城」だ。


 扉は少し開いていて、中からはキーボードを叩く音が聞こえる。

 成美は、ノックしようとして、一度手を引っ込めた。


 タイミングは今でいいのか。

 朝のこの時間は、忙しすぎないか。

 放課後まで待ったほうがいいのではないか。


 そう考えた途端、放課後の自分の机の上に積まれているであろう書類の山が、頭に浮かぶ。

 電話、連絡帳、採点、会議。


 「落ち着いたタイミング」を待っていたら、この相談は一生できないかもしれない。


 深呼吸をひとつしてから、指先で扉を二度、軽く叩いた。


「どうぞー」


 村井の声がした。


「失礼します」


 中に入ると、壁際に書類棚がずらりと並び、その手前に大きめの机がひとつ。

 机の上には、パソコン、未処理の書類の山、緑茶のペットボトル。


 村井は、モニタから目を離して顔を上げた。

 四十代後半、いつもどこか疲れたような、でもどこか柔らかさもある顔つきだ。


「山本先生? どうした?」


「あの、お時間少しだけ、よろしいでしょうか」


「うん、大丈夫。座って」


 促されて、向かいのパイプ椅子に腰を下ろす。

 座った途端、膝が少し震えていることに気付いた。


「顔色、ちょっと悪いね。大丈夫?」


「すみません、大丈夫です。ただ、少し、相談したいことがあって……」


「うん」


 村井は、マウスから手を離し、成美のほうに体ごと向き直った。

 その仕草に、「ちゃんと話を聞こうとしてくれている」という誠意は感じられる。


 だからこそ、余計に言い出しづらくなる。


 障害のこと。

 自分の「苦手」のこと。

 それを改めて言葉にして伝えることは、いつまで経っても慣れない。


「あの……騒音、というか、音の多さのことと、突然の授業変更について、少し……」


 口火を切るとき、自分でも声がかすれているのが分かった。


「うん。騒音と、授業変更」


 村井が、キーワードを繰り返してくれる。

 それだけで、言葉が少し出やすくなる。


「私、採用のときの面接でもお伝えしたと思うんですけど、ASDの特性があって……大きな音とか、いろんな人の声が重なっている状態が続くと、頭がうまく働かなくなってしまうんです」


「うん、うん」


「それと、予定が急に変わることが、とても苦手で。もちろん、学校という場所で、全部が予定通りにいかないのは分かっているんですけど……」


 言いながら、自分でも「わがままを言っているのではないか」という不安が、じわじわ胸のあたりに広がっていく。


「ここ最近、授業の合間に急な代教が入ったり、時間割の変更が立て続けにあったりして……正直、そのたびに頭が真っ白になってしまって。授業の準備も、順番が崩れると、どこまでやったか分からなくなってしまって」


「うん……」


 村井は、腕を組みながら、ゆっくりと頷いている。

 否定はされていない。

 ただ、「どうしたもんかな」と考えている気配が伝わってくる。


「もちろん、現場で動いている以上、ある程度の柔軟さは必要だと思うんです。私も、できる範囲で合わせようとはしているんですけど……」


 一度、言葉が喉につかえた。

 そこから先は、少し勇気がいる。


「……でも、今のペースだと、自分のキャパシティを超えてしまっている気がして。せめて、急な代教だけでも、少し減らしていただけないかと思って」


 最後の部分は、ほとんど絞り出すような声になった。


 沈黙が落ちる。

 村井は、しばらく視線を宙に泳がせ、それから小さく息を吐いた。


「そうか……急な代教、ね」


「はい」


「たしかに、ここ最近、体調不良の先生も多いしね。欠席が出ると、そのたびに時間割がガタガタっと動く」


 村井の声にも、疲労の色がにじんでいる。


「山本先生の特性のことは、もちろん分かってるつもりだよ。採用のときの資料も読んでるし、自分なりに、配慮できるところはしたいと思ってる」


 そこまで聞いて、成美は胸の奥が少しだけ軽くなった。


「ただね……」


 その言葉を皮切りに、再び何か重いものが、ゆっくりと降りてくる予感がした。


「現場の回り方として、“急な代教をゼロにする”っていうのは、正直、難しいんだ」


「……ゼロに、じゃなくて、減らしてもらえたら、ということで……」


「うん、うん。それは分かってる。ただ、“じゃあ誰が代わりに行くのか”って話になるでしょ」


 村井は、机の端に置いてあった時間割表を手に取った。

 三年生、二年生、一年生。

 それぞれのクラスのコマ割りが、細かいマス目にびっしりと書き込まれている。


「今の人員配置だとね、誰かが一時間抜けると、その分どこかの“空き時間”がつぶれる。それで何とか回してる状態なんだ」


 指で時間割をなぞりながら話す声は、責める口調ではない。

 ただ、事実を説明しているだけだ。


「山本先生の空きコマも、もちろん大事なんだけど、それと同じように、他の先生たちの空きコマも、全部ギリギリで回していてね。“ここだけは動かしたくない”っていうラインが、もうあちこちにある」


「……はい」


「だから、“山本先生だけ、急な代教は基本なしにしましょう”って決めるとね、その分、他の誰かの負担が確実に増える。それがまた、別の先生のメンタルを削ることにもなるかもしれない」


 「他の誰か」。

 その言葉に、佐川や早川、他の先生たちの顔が頭に浮かぶ。


「現場で回している感覚としてはね、“お互いさま”で、なんとかやりくりしてる、っていうのが本音なんだ」


 村井は、少し苦笑いを浮かべた。


「誰がいつ体調を崩すか分からない。家の事情で急に休まなきゃいけなくなることもある。だから、“今日は自分が代教に入るけど、次は誰かがフォローしてくれる”っていう暗黙の了解でやってる部分が大きくてね」


 “お互いさま”。


 便利な言葉だ、と成美は思った。

 支え合いを表す優しい言葉でもあり、同時に、「誰も弱音を吐けない」空気を作る呪文にもなる。


「もちろんね、障害者雇用っていう制度上、山本先生に必要以上の負担をかけないように、っていうことは重々承知してる。合理的配慮も必要だってことも」


 村井は、そこで一度言葉を切り、成美の目をまっすぐ見た。


「でも、“合理的配慮”って、現場でどう形にするかっていうのが、正直、まだ手探りなんだよ。“こうすれば正解”っていう前例もマニュアルもないからね」


「……はい」


「だから、まずは、今の配置で様子を見ながら、“ここはどうしてもきつい”っていうところを、ひとつずつ調整していくしかないかな、と思ってる」


 それは、人事課で聞かされた言葉と、よく似ていた。


 まずは同じ配置で。

 無理な部分が出てきたら、その都度変えていく。


「今も、きついです」と言いかけて、成美は、口を閉ざした。


 “様子を見る”という言葉の中には、「まだ本気で対処する段階ではない」と判断されているような感覚がある。

 それを否定する勇気は、今の自分にはなかった。


「具体的にはね、なるべく“事前に分かっている変更”については、早めに共有するようにする。突然の代教も、できるだけ他の先生とバランスを見てふるつもりだよ」


「……ありがとうございます」


「山本先生のほうでも、“今日はここまではできるけど、ここから先は難しい”っていう線があったら、遠慮なく言ってほしい。言ってくれなきゃ、こっちも分からないからさ」


 「遠慮なく」と言われても、その「線」をどこに引いていいのかが分からない。

 線を引いた瞬間、「ああ、自分は他の人よりできないんだ」と自分で突きつけることになる気がして、怖い。


「すみません……その、“線”が、自分でもあまり分かっていなくて」


「そりゃあ、難しいよね」


 村井は、ため息まじりに笑った。


「俺たちだって、“これ以上は無理”って、実はよく分かってないまま働いてるところもあるからね」


 冗談とも本気ともつかないその言葉に、苦笑がこぼれる。


「とりあえず、今のところは、“あまりにも重なるようだったら、その都度相談して”ってことでどうかな。今日みたいに」


「……はい」


「山本先生のほうが、“これはもう限界に近い”って思う前に、一回声をかけてくれたら、できる範囲で調整するから。いきなり倒れられちゃうのが一番困るからさ」


 最後のひと言に、悪気はない。

 むしろ、「倒れられたら困る」ほどには、気にかけてもらっているのだと、良いほうに受け取ることもできる。


 でも同時に、「倒れてからでは遅い」というのは、成美自身がいちばん理解している。


「ありがとうございます。……すみません、忙しいところ」


「いやいや。相談してくれてよかったよ。何かあったら、また来て」


 そう言われて部屋を出るとき、ガラス戸の向こう側の職員室の喧騒が、急に現実感を取り戻した。


 さっきまで、少し遠くに感じていた音が、一気に耳の中に流れ込んでくる。



 その日の三時間目。


 成美は三年三組で、漢字の小テストを返していた。

 ひとりひとりの机の上に、赤ペンで採点したプリントを配りながら、ところどころで声をかける。


「ここ、惜しかったね。“線”のほうじゃなくて、“泉”のほうね」

「この字はきれいだから、そのままテストでも書けるといいね」


 教室の空気は、いつもより少し穏やかだった。

 朝の相談で、どこか気持ちが軽くなっていたのかもしれない。


 そのとき、教室の扉が静かに開いた。


「山本先生、ちょっといい?」


 顔だけ覗かせたのは、村井だった。


「あ、はい」


「ごめんね。ちょっと、職員室まで」


 大事な話だろうか、と胸がざわつく。

 成美は、生徒たちに「ちょっと待っていてね」と声をかけ、教室の外に出た。


「どうしましたか」


「二年生の担任の一人が、急に体調崩しちゃってさ。保健室で寝てるんだけど、今日はもう授業難しそうでね」


 村井は、申し訳なさそうに眉を寄せた。


「で、急で悪いんだけど、四時間目の二年一組の社会、代わりに入ってもらえないかな。教科は違うけど、プリントは教科担当の先生が用意してくれるから」


 言葉が、耳に入ってから意味を結ぶまで、少し時間がかかった。


 急な代教。

 さっき話したばかりのこと。


「……私で、いいんですか」


「ほかに空いてる先生がいないんだよ。みんな、既にびっしり授業入っちゃってて。四時間目、山本先生は空きになってたよね?」


「はい、空きですけど……」


「もちろん、無理そうなら別の手立て考えるけど、正直かなり苦しい。生徒だけで自習させるわけにもいかないしね」


 頭の中で、「断る」という選択肢が一瞬浮かんでは消える。

 断ったら、誰がそのコマを埋めるのか。

 埋められなかったとしたら、その二年生たちはどうなるのか。


「分かりました。四時間目、二年一組ですね」


「ありがとう。本当に助かる」


 村井の笑顔は、心からのものだった。

 それを見て、「やっぱり断れなかった」と自分に苦笑する。


 教室に戻ると、さっきより少しざわついた空気が迎えた。


「先生、どうしたの?」


「ううん、ちょっと職員室から連絡があってね」


 成美は笑顔をつくり、黒板の時間割に視線をやった。

 三時間目、国語。

 四時間目、職員会議(と書かれている)。

 本当は、その時間を使って採点を進める予定だった。


 その予定は、今、音を立てて崩れた。


「じゃあ、このあと小テストの解説をして、残りの時間で少しだけ教科書読もうか」


 授業自体は、予定通り進める。

 黒板に書くべきことは頭に入っている。

 ただ、四時間目にやるつもりだった仕事を、どこに移動させるかが、頭の中でまだ決まらない。



 四時間目。


 二年一組の教室に入ると、三年生とはまた違った空気があった。

 少し幼さの残る顔。

 ざわめきの質も、三年生より軽い。


「えー、今日は社会の先生がお休みなので、代わりに国語の山本が授業をします」


 そう言うと、「マジか」「ラッキーじゃん」という声があがる。

 社会の小テストが予定されていたらしい。


「今日は、社会の内容はやりません。その代わりに、国語の授業で使える“ちょっとした読み取りの練習”を一緒にします」


 急ごしらえのプリントを配りながら話す。

 教科の枠をまたぎながらも、生徒が退屈しないように工夫する。


 授業自体は、何とか形になった。

 笑いもあったし、数人はきちんと発言もしてくれた。

 終わりのチャイムが鳴る頃には、二年一組の顔も少し覚えられた。


 教室を出たあと、職員室に戻る廊下の途中で、成美はふと立ち止まった。


 さっき、村井と話したときのことが、頭の中でリフレインする。


“なるべく調整するよ”

“あまりにも重なるようだったら、その都度相談して”


 今日の代教は、「あまりにも重なる」のうちには入らないのかもしれない。

 たしかに、四時間目一コマだけだ。


 でも、その一コマで崩れた自分の段取りを、どこで立て直すのか。


 明日の授業準備、採点、行事のプリント。

 それらは、どこかの「空き時間」に押し込まれるはずだった。

 その空き時間が、少しずつ削られていく感覚がある。


 それでも、あの場で「無理です」とは言えなかった。


 あの場で断ることは、二年一組の子どもたちに「先生がいない一時間」を与えることになる。

 ただでさえ宿題や行事で忙しい他の先生に、またしわ寄せがいくことになる。


 それを想像しただけで、「自分だけが特別扱いされている」ような後ろめたさが、喉元に詰まる。


 合理的配慮。


 きれいな言葉だ、と成美は思う。

 パンフレットに印刷されていれば、希望の響きを持つ。

 人事課のスライドに載せられれば、制度の前向きさを象徴する。


 けれど、その言葉を現場に降ろした瞬間、重力が変わる。

 「誰の仕事を減らし、その分、誰の仕事を増やすのか」という、具体的な話になる。


 そのとき、目に見えない重さを背負わされるのは、結局「一番声を上げにくい人」なのかもしれない。



 放課後。


 成美の机の上には、朝よりも高い書類の山ができていた。

 代教に入ったことでずれこんだ採点。

 行事プリントの最終チェック。

 連絡帳の返事。


 そこへ、村井がやってきた。


「さっきは、本当にありがとうね。助かったよ」


「いえ……」


「二年一組の担任、病院行ったらインフルエンザっぽいってことでさ。数日はお休みになるかもしれない」


「そう……なんですか」


 ということは、明日以降も、時間割の変更が続く可能性が高い。

 二年一組の授業のいくつかは、誰かが代わりに持つことになる。


「明日の時間割、今、教頭と組み直してるところなんだけど、できるだけ山本先生の負担が偏らないようには考えるから。……とはいえ、多少はまたお願いすることになるかもしれない」


「分かりました」


「本当に、“お互いさま”でやっていくしかない状況だからさ。俺も、正直、どこまでが“配慮不足”で、どこまでが“現場の限界”なのか、線引きがうまくできてないところがある」


 村井のその一言は、本心なのだろう。

 責任放棄ではなく、本当に「分からない」のだ。


「だから、もし本当にきつくなったら、遠慮なく“きついです”って言って。さっきみたいに。口約束じゃなくて、ちゃんとその都度調整していきたいから」


 合理的配慮という言葉が、そこでまた出てくる。

 「口約束じゃなくて」と言ってくれている。


 でも、現実には、今日もまた、口約束から一歩も進めなかった気がする。


 それでも、成美は微笑んだ。


「ありがとうございます。……また、相談させてください」


「うん。無理だけは本当にしないようにね」


 村井が去ったあと、成美は机の上の小テストの束を手に取った。

 赤ペンを握り、最初の一枚の名前を確認する。


 さっきから、赤ペンの先が紙の上で少し震えている。

 手が疲れているのか、頭が疲れているのか、自分でもよく分からない。


 ひとつのミスも見落とさないようにと、目に力を入れる。

 しかし、行の途中で、ふと視線が滑る。

 どの字を見ていたのか、一瞬分からなくなる。


 そのたびに、少し前にさかのぼって確認しなおす。

 作業はどんどん遅くなっていく。


 「お互いさま」という言葉が、頭の中で何度も反芻された。


 うまく回っているときには、やさしい響きだ。

 しかし、全員が限界近くまで働いている場所でそれを口にするとき、その言葉は少しだけ形を変える。


 誰も、真っ先に「無理です」とは言えなくなる。

 誰も、「自分だけは例外にしてほしい」とは言えなくなる。


 合理的配慮は、「言ってください」と言われた側が、どこまで自分を守るために声を出せるかにかかっている。

 だが、その声を出すこと自体をためらわせる空気が、現場には確かにあった。


 チョークの粉がうっすらとついた指先を、成美はじっと見つめた。


 黒板に書く文字の裏側で、何が削られているのか。

 それを、まだうまく言葉にできないまま、今日もまた、空き時間のはずだった時間が赤ペンで埋まっていった。

誰も悪い人はいないんです。

誰かが悪いわけじゃない。

だから、どうしようもない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ