第7話「黒板の裏側」
午前七時二十五分。
三年二組の教室には、まだ誰もいない。
窓際のカーテンを開けると、山あいの薄い霧が、校庭の向こうでゆっくりほどけていくのが見えた。
黒板の前に立ち、成美は日付を書き込む。
四月十五日。
その下に、「朝の会」とチョークで小さく書き添えた。
今日の連絡事項。
提出物の回収。
身体測定の時間。
放課後のクラブ見学。
頭の中で、ざっと流れを並べてから、黒板の端に「今日の目標」と書く。
『お互いにていねいな言葉を使おう』
文字を書き終えたところで、廊下から足音が聞こえてきた。
まだ少し眠たげな声が、教室の手前で交錯している。
「おはようございます」
扉を開けて入ってきた最初の生徒が、成美を見つけて頭を下げた。
「おはよう」
笑顔を返しながら、教卓の脇に立つ。
次々と生徒たちが入ってきて、椅子を引き、カバンを机の横にかける。
椅子の脚が床をこする音、机の中に教科書を押し込む音、笑い声、あくび。
音が一気に増えていく。
その一つ一つが、まだ朝の柔らかさをまとっているうちはいい。
「席についてくださーい。出席取ります」
チャイムと同時に声を出す。
副担任としての、朝の会。
「今日の朝の会は、まず健康観察と、連絡が二つあります。一つ目は身体測定の時間割、二つ目はクラブ見学についてです」
自分で「二つ」と言いながら、頭の中ではすでに「三つ目以降の今日の予定」が並んでいる。
一時間目は三年一組で国語。
二時間目は二組。
三時間目は四組。
それぞれ内容は少しずつ変えている。
板書も、問いかけも、配るプリントも違う。
朝の会の十分間で、すでに頭の中のリストはいっぱいだ。
「じゃあ、健康観察。欠席者は……」
名前を呼びながら、視線でクラス全体をなぞる。
今日も一人、保健室登校の生徒がいる。
その子の顔はまだ見ていない。
あとで保健室に様子を見に行けるだろうか、と考える。
朝の会が終わると、すぐに一時間目の教室へ移動しなければいけない。
廊下に出た瞬間、別のクラスの担任が、「ごめん、今日のプリント、今渡していい?」と声をかけてくる。
「あ、はい」
思わず立ち止まる。
受け取ったプリントの束が、手の中でずしりと重く感じられる。
同時に、頭の中でアラームのようなものが鳴る。
今、立ち止まると、一時間目の準備が一つ後ろにずれる。
三年一組の教室まで、あと一分で教科書とノートを持って入らなければいけない。
「ありがとうございます。職員室に置いておきますね」
「ごめんね、助かる」
笑顔で答えながら、足を速める。
短い廊下の間にも、情報がひとつ増える。
それを「あとでやるリスト」のどこかにひっかけておく。
◇
午前の授業は、チャイムごとに教室を移動するだけでも、息が切れそうになる。
一時間目、二時間目、三時間目。
黒板に書く日付を何度も繰り返し書きながら、ときどき自分が今どのクラスにいるのか、一瞬分からなくなることがある。
それでも、授業中はまだいい。
内容さえ頭に入っていれば、板書と問いかけで時間は進む。
本当の意味で「マルチタスク」が顔を出すのは、授業と授業の合間と、授業の外側だった。
◇
昼休み。
給食当番がエプロン姿で配膳台を囲む。
成美は教室の後ろで、配膳の様子が円滑に進むか見守る。
「ごはん足りない人、いない?」
「先生、牛乳余ったよー」
「アレルギーある人、ちゃんとメニュー確認してね」
そんな声をあちこちで拾いながら、生徒たちの表情を見る。
食べながら喧嘩していないか。
誰かひとりだけ無口になっていないか。
箸が動いていない子はいないか。
頭の中では、「午後の授業の板書」「今日中提出の書類」「放課後のクラブ見学の導線」が同時に思い浮かんでは、順番を巡っている。
「先生、一緒に食べないの?」
前の方の机に座っていた女子が、顔を上げた。
「あ、ごめんね。先生は、このあとちょっと職員室でやらなきゃいけない仕事があるから、給食はあとでいただきます」
そう言うのは、本音では半分以上嘘だった。
「あとで」ゆっくり食べる時間が、本当にあるわけではない。
でも、「今、この場で“食べながら見守る”こと」が、自分には難しいことも分かっていた。
食べることと、生徒を見ていることと、頭の中で午後の段取りを組むこと。
それらを同時に行えるほど、器用ではない。
「先に、みんながちゃんと食べてるか見ていたいからね」
そう言葉を付け足すと、女子は「ふーん」と納得したようなしないような顔をして、また箸を動かし始めた。
誰かが牛乳パックを強く握りすぎて、中身が吹き出した。
きゃっと悲鳴と笑い声があがる。
床にこぼれた牛乳を拭きに行きながら、成美は「これはあとで掃除当番にお願いしよう」と頭の片隅にメモを残す。
給食が終わる頃には、午後の授業までの準備時間は、ほとんど残っていない。
「じゃあ、片付けよろしくね。先生は一度職員室に戻ります」
「はーい」
返事を受けて教室を出ると、その足でコピー室へ向かう。
昼休み中のコピー室は、ちょっとした戦場だ。
◇
コピー機はひとつ。
その前に、先生方が三人並んでいた。
手には、それぞれのクラスのプリントの原稿。
「あ、ごめん、山本先生。今、このプリントだけ急ぎで」
「いえ、大丈夫です」
順番を譲ると、「ありがとう」と言われる。
その「ありがとう」に悪意はない。
ただ、譲ったことで自分の順番がまた一つ後ろに行く、という事実だけが積み重なる。
コピー機が紙を吸い込む音を聞きながら、成美は手に持った原稿に目を落とした。
三年生向けの国語の宿題プリント。
新出漢字の練習と、短い文章の要約。
「今日中に作っておいて」と言われたものだ。
表面はもう完成しているが、裏面の文章はまだ案の段階。
おおまかな内容は決めてあるものの、具体的な文章は頭の中でしかできていない。
コピー機の順番待ちをしながら、その裏面の文章を考える。
同時に、「連絡帳のコメント、まだ書いていない生徒が何人かいる」という情報が、頭の隅をつつく。
「そういえば、今日の身体測定、時間割変更あったんでしたっけ」
隣に並んでいた先生が、ふと話しかけてきた。
「あ、はい。三年は、五時間目からになったって聞きました」
「ですよね。じゃあ、うちのクラス、掃除当番の配置変えなきゃなあ」
会話をしながら、別のタスクがまたひとつ増える。
それを覚えておくために、メモ帳を取り出そうとする。
だが、その瞬間、「今メモ帳を取り出すと、コピーの原稿を落としそうだ」と思い直し、手を止める。
メモしようとして手が止まり、そのまま何もしないと、どんどん情報がこぼれていく。
こぼれていくことが分かっているのに、手が動かない。
その感覚が、もどかしい。
「次、どうぞ」
コピー機の前の先生が退いた。
自分の番だ。
原稿をセットし、部数を入力する。
四クラス分、プラス予備。
紙詰まりを起こさないように祈りながらスタートボタンを押す。
ガシャガシャと、機械が動き始める。
排紙トレイに、白い紙が重なっていく。
その間にも、頭の中のリストは勝手にスクロールする。
「行事の案内プリントの文面を作る」「三年二組の連絡帳コメント」「保健室登校の生徒の様子確認」「生徒指導室の記録書き」……。
ひとつを考え始めると、別のひとつが途中で割り込んでくる。
考えが、まっすぐ一本の線にならない。
あちこちに飛び跳ねて、落ち着かない。
「……裏面の文章、どうしよう」
思わず、小さな声が漏れた。
誰も聞いていないことを確認してから、成美はポケットからボールペンを取り出し、空いている紙片にキーワードだけを書きつけた。
家庭学習
自分で読む力
短い時間でいいから
言葉をつなげるのは、あとにしよう。
今は、コピーの束を崩さないように持ち運ぶことが先だ。
◇
午後の授業が終わると、廊下には部活動の呼び込みの声があふれた。
「三年生も見学来ていいからねー」「運動部入りたい人ー?」「文化部も楽しいよー」
成美は、仮入部期間だけ顧問として顔を出すことになっている文化部の部室へ向かう。
正式な顧問は別の先生だが、その先生はこの時期、別の業務分掌で手一杯らしい。
「顧問が二人いるってことにしておけば、どっちかが行けないときもフォローできるからね」
村井はそう言っていた。
ただ、それは同時に、成美の「空き時間」がひとつ減ることも意味している。
部室に入ると、机を囲んで数人の生徒が集まっていた。
漫画研究部。
壁には、生徒たちが描いたキャラクターのイラストが並んでいる。
「こんにちは」
「こんにちはー」
にぎやかな声が返ってくる。
授業中とは違う、生き生きとした表情。
部活動の時間が、彼らにとって唯一の息抜きの時間であることも多い。
だから、この時間をできるだけ大事にしたいと成美も思う。
「今日見学に来てくれた人は、名前を書いてくださいね。活動内容は、ざっくり言うとイラストを描いたり、漫画を読んだり、文化祭で展示をしたり……」
部員の一人が、誇らしげに説明を始める。
その姿を見ながら、成美は「ここでは、私は“先生”であると同時に、“ちょっと年上の見守り役”くらいの立場でいい」と自分に言い聞かせた。
しかし、部活動の終了時間が近づくと、また別の顔をしなければならない。
「片付けの時間ですよー。机の上のもの、全部しまってください。窓閉めと電気の消灯、最後、忘れないように」
時計を見ながら声をかける。
帰りの会まで、あと二十分。
職員室に戻って、連絡事項の確認をしてから教室に戻るには、ぎりぎりの時間だ。
◇
帰りの会。
「今日、何か困ったことがあった人、いますか」
三年二組の教室でそう問いかけても、多くの生徒は「ないでーす」と肩をすくめるだけだ。
昼間の喧嘩の余韻も、表面上はあまり見えない。
それでも、今朝より少し固くなった空気が、教室の隅に溜まっている。
「じゃあ、明日の持ち物をもう一度確認します」
板書しておいた「明日の連絡」を読み上げていく。
プリント回収、身体測定、クラブ見学二日目。
帰りの会が終わると、生徒たちは一斉に立ち上がり、椅子を引きずり、カバンを肩にかける。
廊下まで続く足音。
騒がしい声。
教室が空っぽになってから、成美はようやく深く息を吐いた。
しかし、そこで一日が終わるわけではない。
むしろ、「黒板の裏側」の仕事は、ここからが本番だった。
◇
職員室に戻ると、机の上にはメモ用紙が二枚増えていた。
「三年二組 Aさん 連絡帳コメント要確認」
「保護者から電話希望 Bさんの件で」
誰かが置いていってくれたのだろう。
そのメモを見ただけで、頭の中の「処理待ち」はまた増える。
机の引き出しから連絡帳の束を取り出し、一冊ずつめくる。
保護者から書かれたメッセージに目を通し、それぞれに返事を書く。
「最近、家庭学習の時間が減っているように感じるのですが」
「朝起きるのがつらいと言っています。学校ではどのような様子でしょうか」
問いかけの行間には、それぞれの家庭の不安が見え隠れしている。
それに対して、どう言葉を返すか。
書きながら、「この返事は、明日の自分の仕事を増やすことにもなる」と分かっている。
相談のために、また時間を作らなければいけない。
「山本先生、行事の案内プリント、文面できました?」
向かいの机から、学年主任が顔を出した。
「あ、はい。いま、下書きが」
「できたら、私に一度見せてもらっていいですか。そのあと全クラス分印刷したいので」
「分かりました」
連絡帳からいったん顔を上げ、行事プリントのファイルを開く。
さっきコピー室で書き散らしたキーワードを元に、文章を組み立てていく。
『保護者各位
平素より、本校の教育活動にご理解とご協力をいただき、ありがとうございます。
さて、このたび三年生は、キャリア教育の一環として……』
決まり文句と、新しい情報を組み合わせる。
丁寧すぎず、ラフすぎず。
保護者が一目で要点を把握できるように。
書き終えたところで、「そういえば、今日の生徒指導の記録、まだ書いていない」と思い出す。
頭の中で、「行事プリント」「生徒指導記録」「連絡帳コメント」が三つ巴になる。
どれから手をつけるべきか、一瞬迷う。
その間に、机の端に積んでおいた小テストの束が視界に入った。
四クラス分の漢字テスト。
今日中に採点して返したい、と自分で決めたものだ。
やるべきことのリストに、「採点」が一気に四倍のボリュームで加算される。
「……優先順位」
小さく呟きながら、頭の中で並び替えを試みる。
「今日でなければ絶対に困るもの」と、「明日の朝でもぎりぎり間に合うもの」を分ける。
しかし、その線引きすら、だんだん曖昧になってくる。
「山本先生、電話、つながりました」
事務室から声がかかった。
さきほどのメモにあった保護者からの電話だ。
「はい、すぐ行きます」
ボールペンを置き、椅子から立ち上がる。
連絡帳は途中。
行事プリントも途中。
小テストの束も手つかず。
ひとつのタスクが中断されるたびに、頭の中の「作業メモリ」が小さく悲鳴を上げる。
途中で止めた仕事の位置を正確に記憶しておくのは、不得意な作業だ。
戻ったときには、どこまでやったのかを思い出すだけで、少し時間がかかる。
それでも、電話を後回しにするわけにはいかない。
保護者対応は、最優先にせざるを得ない。
◇
電話口の向こうの声は、攻撃的というより、不安に満ちていた。
「最近、うちの子、家で全然宿題しなくて。ゲームばっかりで。学校ではどうなんでしょうか」
問いかけの一つ一つに、慎重に言葉を選びながら答える。
「学校では、授業中に集中している時間もありますが、気が逸れやすい場面もあります」
「ご家庭と学校とで、声かけの方向性を揃えたいと思います」
電話を切る頃には、十五分以上が経っていた。
職員室に戻ると、さっきまで広げていた書類が、別人の机のように感じられる。
「どこまでやってたっけ」
思わず口に出す。
連絡帳は、三分の一ほど書いたところで止まっている。
行事プリントの文面は、最後の一文がまだ決まっていない。
小テストは、名前欄にチェックを入れただけの状態。
頭の中の地図を、もう一度描き直さなければいけない。
「空き時間が命綱だからねえ」
隣の席で書類をまとめていた早川が、ふと呟いた。
「授業の合間に、どこまで事務仕事と採点を押し込めるかで、一日の終わる時間が変わるのよ。若い頃なんて、空き時間が全部つぶれても終わらなくて、家に持ち帰ってたわ。風呂敷残業よ」
「風呂敷……家に、ですか」
「当たり前じゃない。昔はね、夜中まで赤ペン持ってたものよ。今みたいに“働き方改革”なんて言葉もなかったし。残業時間なんて、誰も数えてなかったわよ」
早川は笑いながら言う。
しかし、その目の奥に、長年の疲労の色が滲んでいる。
「でもまあ、今は少しずつマシになってるわよね。タイムカードもあるし。昔よりは、ね」
“昔よりは”。
その言葉は、今の状況を肯定しているわけではない。
ただ、「これでもマシになった」と自分に言い聞かせているようにも聞こえる。
「山本先生は、あんまり無理しちゃだめよ。障害抱えてるんだから」
そう言いながら、早川は手元の書類に目を戻した。
その言い方にも、悪意はない。
ただ、「無理しちゃだめよ」の前に、すでに「うちは無理をしないと回らない」という前提がある。
その前提に、成美も少しずつ絡め取られていく。
◇
夕方。
外はうっすらと暗くなり始めている。
職員室のあちこちで、「今日はここまで」「あとは明日だな」という声が聞こえ始める。
それでも、多くの机にはまだ人が座っていた。
成美の机の上には、赤ペンを入れ終わった小テストの山がようやく一つ積み上がった。
四クラス分を採点し終えるのに、思っていた以上の時間がかかった。
ミスがあってはいけないと思うと、一枚一枚の確認に神経を使う。
途中で電話や来客で中断されるたびに、再開するときに集中力を立て直す作業が必要になる。
時計を見ると、すでに七時近くだった。
「山本先生、そろそろ帰ったほうがいいですよ」
佐川が、コートを片手に声をかけてきた。
「はい……もう少しだけ、連絡帳を書いたら」
「それ、全部今日中じゃなくても大丈夫じゃないですか。急ぎの分だけにしておきましょうよ」
「そう……ですよね」
頭では分かっている。
全てを今日中に終えようとするから、終わらない。
明日に回してもいい仕事もある。
けれど、「今日の仕事を明日に残す」ことに、強い罪悪感を覚えてしまう。
明日の自分が、さらに苦しくなる気がして。
「三年二組の子たち、連絡帳の返事楽しみにしてますから」
佐川は、それでも優しく言う。
「でも、先生が倒れちゃったら、返事どころじゃなくなるからね。そこはちゃんと、バランス取らないと」
「……はい」
成美は、ペンを握ったまま、しばらく迷った。
それから、急ぎの二冊だけを仕上げて、残りの束を引き出しに戻す。
「今日は、ここまでにします」
自分に言い聞かせるように呟く。
机の上を簡単に片づけながら、ふと「空き時間が命綱」という早川の言葉を思い出す。
今はまだ、空き時間がある。
授業と授業の合間に、コピー室に行ったり、連絡帳を書いたりできるだけの余裕が、ぎりぎり残っている。
もし、この空き時間が代行授業で埋まるようになったら、どうなるのか。
どこでプリントを印刷し、どこで採点をし、どこで保護者と話すのか。
想像しただけで、胸の奥がじわりと重くなった。
◇
職員室を出るときには、すでに八時を回っていた。
校舎の窓はほとんど暗く、廊下の照明だけが白く伸びている。
体育館のほうからは、まだバスケットボールのバウンドする音が微かに聞こえてきた。
運動部の練習は、もう少し続くのだろう。
靴箱で上履きを脱ぎ、外履きに履き替える。
ガラス戸を開けると、ひんやりとした夜の空気が、顔にまとわりついた。
駐車場に並んだ車のうち、残っているのは数台だけだ。
その一つ一つに、今もまだ机に向かっている誰かの姿が浮かぶ。
自分の車に乗り込み、エンジンをかける。
フロントガラスの向こうには、真っ暗な山道が続いている。
朝、ここに来るために走ってきた道を、今度は逆にたどる。
学校を出てすぐのカーブで、成美はバックミラーをちらりと見た。
暗い校舎の窓。
黒板の裏側には、まだ消しきれないチョークの粉が残っている気がする。
そこに明日もまた立つために、今夜は少しでも眠らなければいけない。
食事をして、風呂に入って、明日の授業の準備をして。
頭の中で、「家に帰ってからのタスク」がまた並び始める。
それでも、今日一日の仕事を何とか終えたことに、わずかな達成感もある。
達成感と同じくらいの疲労が、肩にのしかかっているけれど。
ハンドルを握りながら、成美は小さく息を吐いた。
授業時間十七時間。
数字だけ聞けば、「それほど多くない」と言う人もいるかもしれない。
でも、その裏側にある、朝の会、帰りの会、給食指導、廊下巡回、クラブ顧問、業務分掌、行事準備、採点、プリント印刷、連絡帳、電話。
そのひとつひとつが、「空き時間」に押し込まれている。
空き時間は、命綱。
その命綱に、少しずつほつれ目が増えていることに、このときの成美は、まだ気付かないふりをしていた。




