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県初の障がい者教諭として赴任した結果、学校と自分がゆっくり壊れていく話  作者: 妙原奇天


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第6話「教室という戦場」

 黒板の端に貼られた時間割を見上げながら、成美は小さく息を吐いた。


 三年一組、二組、三組、四組。

 週にそれぞれ国語が三時間ずつ。

 それに、三年二組の副担任としての学級活動と道徳、総合的な学習がいくつか。


 ざっと計算して、授業時数は十七時間前後。

 数字だけ見れば、「標準的」と言われる範囲なのだろう。


 けれど、その数字の向こう側に、どれだけの音と、視線と、感情が詰め込まれているのかを、成美はまだ実感しきれていなかった。


 四月の始業式から数日。

 今日が、三年生への本格的な授業初日だ。



「三年二組、国語、山本先生」


 始業チャイムが鳴り終わるより早く、廊下の掲示板の時間割を確認した生徒たちが教室に戻ってくる。

 扉をがらりと開ける音、机を引きずる音、椅子の脚が床を擦る甲高い音。


 教室という箱の中に、いっきに十数種類の音が流れ込んでくる。


「えー、今日から山本先生なんだって」「あの人、副担任の?」「障がい者雇用の人でしょ」


 小さな声でひそひそと囁く気配も、耳に引っかかる。

 本人には聞こえないだろう、という前提で発せられた声は、不思議なくらい耳に届く。


 成美は、教室の前方、教卓の横に立っていた。

 手には、今日配るプリントと教科書。

 黒板にはすでに「三年二組 国語 第一回」と白いチョークで書いてある。


「えっと……じゃあ、席についてください」


 声を出すと、自分の声が思っていたより高く響いた。

 ざわざわしていた空気が、少しずつ静まっていく。


 一番後ろの窓際では、まだ二人の男子がふざけあっている。

 机に足を乗せかけた片方が、もう片方の肩を押すように叩いた。


 小さな突き飛ばし。

 その瞬間の笑い声。


 「今は、全体を静かにさせることが先」と自分に言い聞かせ、成美は教室全体を見渡した。


「改めまして、今日から国語を担当します、山本成美です。二組では、副担任もさせてもらいます。よろしくお願いします」


「よろしくお願いしまーす」


 ばらばらの声が返る。

 その波が収まりきる前に、教卓の近くで手が挙がった。


「先生、黒板の“国語”の字、うまいっすね」


 前列の男子がにやりと笑って言う。


「国語の先生だからね」


 そう返すと、教室のあちこちからくすくすと笑い声が漏れた。

 笑いの方向が、自分を試すようなものではなく、少し場を和ませるようなものに感じられて、成美は内心でほっとする。


「今日は、最初の時間なので、教科書の前に、三年生としての国語の授業で大事にしたいことの話をしてから、少しだけ短い文章を読んでみようと思います」


 そう前置きし、教卓に広げていたノートを確認する。

 頭の中には、授業の流れが細かく刻んである。

 どこで問いかけるか、どこで板書するか、どこで生徒に書かせるか。


 同時に、後ろの窓際のほうから聞こえてくる、ペン回しの音や、椅子を揺らす音が気になる。

 十数人の視線が前を見ていても、何人かの視線は明らかに別の方向を向いている。


 全員を一度に把握しようとすると、視界が一気にノイズで埋まる。

 だから、まずは「気配」だけ掴むように意識する。


「国語は、“正解をひとつだけ覚えればいい教科”ではありません。読む人の数だけ、感じ方は変わるし、それぞれの答えがあっていいと思っています。ただ、その答えを言葉にするときに、根拠を持てるかどうかは、大事にしたいところです」


 できるだけゆっくり、言葉を選びながら話す。


 そのとき、教室の後ろのほうで、机の天板を叩く鈍い音がした。


「おい、痛えだろ!」


「うるせー、そっちが先に蹴ってきたんだろ」


 振り返ると、二人の男子が立ち上がっていた。

 片方は、もう片方の胸ぐらを掴んでいる。


 教室中の視線が、一斉にそちらに向かった。

 ざわ、と空気が揺れる。


「ちょっと、やめなさい」


 成美は声を張った。

 しかし、自分の声が、彼らの荒い息遣いと怒鳴り声にかき消される。


「痛いって言ってんだろ!」


 胸ぐらを掴まれていたほうが、相手の手を振りほどこうとして、逆に押し返す。

 机が一つ、がたんと動いた。

 置いてあった教科書が床に落ちる。


「やめなさい!」


 もう一度、声を出す。

 今度は、意識して腹から声を出すようにした。


 教室の前から後ろまでの距離。

 その間にある視線と、ざわめき。


 一歩、二歩と前に出る。


 その間にも、机の脚が床を擦る音、椅子が引かれる音、誰かの小さな笑い声が混ざる。

 音が層になって押し寄せてくる。


「二人とも、いったん離れて」


 間に入ろうとしたそのとき、別の方向から声が飛んできた。


「おーい、何やってんだよ、授業中だぞ」


 三年二組の隣のクラスの男子が、ドアの隙間から顔を覗かせていた。

 様子を見にきたというより、騒ぎを聞きつけて見物に来たという雰囲気だ。


「見てないで、自分の教室に戻りなさい!」


 成美がそう言うと、廊下にいた数人がひゅっと顔を引っ込める。


 そのわずかな時間差のあいだに、争っていた二人の距離が、さらに近づいた。

 胸と胸がぶつかり、肩と肩が押し合う。


 成美は、一瞬ためらった。

 ここで無理に間に入って、自分が突き飛ばされてしまったらどうする。

 そんな考えが頭をかすめる。


 でも、このまま見ているわけにもいかない。


「止まりなさい!」


 もう一度、強い声を出したその瞬間。


「うるせえな!」


 片方の男子が、思いっきり腕を振った。

 相手を突き飛ばそうとしたその腕が、横にあった別の机にぶつかり、机ごと前の列に倒れ込む。


 机の上の筆箱やノートが、床にまとまって落ちた。

 教室のあちこちから、悲鳴と笑い声が同時に上がる。


「ストップ! 全員、その場で立ち止まって!」


 背後から、別の声が飛んだ。

 佐川だった。


 騒ぎを聞きつけて、廊下を走ってきたのだろう。

 息を切らしながら、教室の後ろに立ち、怒鳴るように指示を出す。


「動かない! 今、動くと余計危ない!」


 その声には、場数を踏んできた人間の響きがあった。

 教室の中の時間が、ようやく一瞬止まる。


 争っていた二人も、佐川のほうを振り返った。


「何やってんの。お互いに」


 佐川は、近づきながら、声のトーンを少し落とした。


「ここ、教室だよ。喧嘩する場所じゃない。どうしてこうなったかはあとで聞くから、とりあえず今は座って。机倒したほうは、元に戻しなさい」


 指示を出しながら、成美のほうをちらりと見る。

 その視線には責める色はなく、ただ「大丈夫?」と問うような心配が滲んでいた。


 成美は、息を整えながら小さく頷いた。



 騒ぎがおさまるまでに、十分近くかかった。


 机を元の位置に戻し、床に散らばったノートやペンを片づける。

 争っていた二人には、放課後に生徒指導室に来るよう伝えた。


 クラス全体の空気は、まだざわざわしている。

 怒りと興奮と、「ちょっとしたイベントを見た」ような高揚感が混ざり合っている。


「先生、時間、大丈夫?」


 黒板の端の時計を見ながら、佐川が小声で聞いてきた。


「あと……十五分くらいです」


「そっか。じゃあ、今日は自己紹介とクラスルールのところまででいいと思う。国語の内容、本格的に入るのは次からにしよう」


「はい」


「最初の一週間って、こんな感じだから。どこも」


 佐川は、苦笑しながら肩をすくめた。


「困ったときは、遠慮なく呼んで。隣のクラスで授業してても、声聞こえたら飛んでくるから」


「ありがとうございます」


 そう言いつつ、「声が聞こえたら飛んでくる」という前提が、すでにおかしいことにも気付いている。

 それはつまり、「どこかで常に何かが起きている」ということだ。


 教室は穏やかな学びの場――

 そんなイメージは、理想として掲げられるだけのものになってしまっているのかもしれない。



 三年二組の次は、一組での授業だった。


「起立」「礼」「お願いします」


 クラスごとに揃い方が微妙に違う。

 一組は、二組より少し落ち着いているように見えた。

 ただ、その「落ち着き」の中に、別の難しさもある。


「教科書、開けるのめんどくさいんだけど」


 前列の女子が、机に頬杖をついたままぼそっと言う。

 それに対して、隣の席の男子が、「黙って開けろよ」と小声で返す。


 その何気ないやりとりの中に、小さなイライラが蓄積されていく。


「今日は、まず短い随筆を一緒に読みながら、“自分の感じたことを言葉にする練習”をしてみましょう」


 プリントを配りながら話すと、教室の後方で、机の下に視線を落とした男子がひとりいるのが目に入った。


 親指が、明らかにスマートフォンの画面を滑っている。

 机の天板でかろうじて隠しているつもりなのだろうが、角度的に丸見えだ。


「そこの、机の下に小さな世界を広げている人」


 成美が、できるだけ柔らかい声で言うと、周りの生徒が一斉に振り返る。


「は? 何すか、小さな世界って」


 スマホを持っていた男子が顔を上げる。

 少し挑戦的な目つきだ。


「そこにあるの、多分スマホだよね。今は国語の時間だから、一回カバンにしまってくれる?」


「別に、ゲームとかしてないっすけど」


「何してるかは、今は関係なくてね。授業中にスマホいじってると、他の人もそっちが気になっちゃうし。私も気になるし」


 教師が自分のことを主語に含めて話すと、生徒の反応が少し変わることがある。

 それは、以前、講師時代に教えてもらった小さなコツだった。


 男子はしばらく黙っていたが、やがて渋々といった様子でスマホをカバンに入れた。


「ありがとうございます」


 成美がそう言うと、「先生、ありがとうって言うんだ」と、前列の女子が小さく笑った。


 些細なやり取り。

 でも、そのひとつひとつが、教室での「空気」を作っていく。


 それが分かっていても、常に全員の動きを把握し続けることは難しい。


 教科書の文章を黒板に書き写しながら、成美は背中に突き刺さる視線と、後方でひそひそと続く囁き声に意識を向けた。


 「先生、字きれい」「いや、そこじゃなくね」「ってか、今のうちに宿題やっとこうぜ」


 教室は、常にいくつものレイヤーで成り立っている。

 表向きの授業の流れと、その下で動く小さな会話や、視線のやり取り。


 それらを同時に把握しようとすると、頭の中で警報音が鳴り続ける。

 それがASD特性の「ノイズ過敏」というものなのだろう。


 黒板の文字が、一瞬にじんで見えた。

 成美はチョークを置き、深く息を吸った。


「じゃあ、この文章を読んで、“ああ、こういうことあるな”と思ったところに、鉛筆で線を引いてみてください。全部じゃなくていいです。自分だったらここが引っかかる、というところを」


 生徒たちが下を向き、教科書を読む音に切り替わる。

 ページをめくる紙の音。

 鉛筆が紙の上を走る音。


 その数分間だけは、教室のノイズがすこしだけ単純になる。

 成美は、その短い静けさに、ほっと救われる。



 午前中の三コマを終える頃には、成美の頭の中は、すでに疲労でどろどろになっていた。


 三年二組での喧嘩。

 一組でのスマホ。

 四組では、授業中に突然泣き出した女子生徒の対応に追われた。


「先生、家庭のことでいろいろあって……」


 個別に話を聞きながら、「これはスクールカウンセラーや養護教諭にもつなげたほうがいい案件だ」と判断する。

 ただ、その判断をしてから、実際に動くまでの「段取り」が頭の中で一度渋滞する。


 誰に伝えるべきか。

 どのタイミングで。

 授業と授業の間のわずかな五分十分で、どこまでできるか。


 チャイムが鳴るたびに、頭の中の情報が入れ替えを迫られる。

 授業の準備、出席確認、連絡事項、問題行動のメモ。


「マルチタスクが苦手」という診断の言葉が、現実の問題として目の前に突きつけられていく。


 職員室に戻ると、机の上には、すでに「本日中」と赤字で書かれた提出物のプリントが置かれていた。


「山本先生、三年の宿題プリント、今日中に人数分作っておいてもらえますか」


 村井が、別の仕事の電話をしながら片手でそう言ってくる。


「はい」


 反射的に返事をしてから、「今日中」の重さを噛みしめる。

 午後も授業が三時間ある。

 放課後には、生徒指導室で三年二組の喧嘩した二人の話し合いが待っている。


 その合間に、宿題プリントを作り、印刷し、クラスごとに仕分けする。


 時間だけを並べると、どうにかなる気もする。

 けれど、その一つ一つのタスクの間には、必ず人の感情とやり取りが挟まる。

 それが、思考の切り替えをどんどん難しくする。


「先生、さっきの三年二組の件、放課後、生徒指導室で一緒に対応しましょうか」


 佐川が声をかけてくれた。


「お願いします。助かります」


「お互いさまですよ。こっちも一人だとしんどいから」


 そう言って笑う佐川の机の上にも、プリントの山と未処理の書類が積み上がっている。


 誰も余裕がない。

 それでも、お互いに少しずつ支え合って、何とか回している。


 その構図が、「現場」という言葉の中身なのだろう。



 午後の授業中、三年三組でのことだった。


 教科書の音読をしてもらい、数人に感想を発表してもらう。

 その間、成美は教室の後方を歩きながら、ノートをのぞき込んだり、板書を写していない生徒に声をかけたりしていた。


「先生、ここの漢字、どう書くんだっけ」


 前列の女子が手を挙げる。

 その声に反応しつつ、同時に教室の真ん中あたりで、二人の男子が消しゴムを投げ合っているのが視界の端に入る。


 教卓の上で開いているノートには、次の授業の連絡事項が書きかけのまま放置されていた。

 職員室の机の上には、まだ目を通していないプリントが数枚。


 脳の中で、十個以上の「処理待ちタスク」が渋滞している。

 どれを先に捌けばいいのか、一瞬分からなくなる。


「先生、漢字」


「あ、ごめんね。ここは……」


 女子のノートにさっと字を書いて見せた瞬間。


「いてっ!」


 教室の後ろのほうから短い悲鳴があがった。


 振り返ると、さっき消しゴムを投げていた男子が、今度はシャープペンの芯ケースを相手にぶつけていた。

 それが外れて、近くの別の生徒の頬に当たったらしい。


「お前、マジでやめろよ」


「そんな本気で言うなって」


 冗談と本気の境目で揺れる声。

 成美は、再び教室の前方へ歩み出た。


「投げるのをやめて。授業中に物を投げない」


「はいはい」


「“はいはい”じゃなくて。これは、危ないからやめてって言ってるの。分かる?」


 自分の声が、少し鋭くなっていることに気付く。

 鋭さは、時に生徒を黙らせるけれど、心の距離も遠ざけてしまう。

 そのことも分かっている。


 でも、今は一つずつ丁寧に感情のケアをしている余裕がない。


 教室という空間は、常に何かが起きている。

 ちょっとした口論、悪ふざけ、見えないいじめ、居眠り、スマホ。

 それらをすべて同時に把握し、「ここまでは許される」「ここからは止めるべき」という線を、瞬時に引き続けなければならない。


 それは、「空気を読み続ける」作業だ。

 ASD特性を持つ成美にとって、一番苦手な領域。


 頭の奥がじんじんと痛み始めていた。



 放課後。


 三年二組の教室の明かりが消え、生徒たちの靴音が廊下を遠ざかっていく。

 職員室に戻る前に、成美は教室のドアの前で立ち止まった。


 昼間まで喧噪で満ちていた空間は、今は何も音を持っていない。

 机と椅子が整然と並び、黒板には昼間の板書が残っている。

 「自分の感じたことを、言葉にしてみよう」。


 その文字の下で、さっきの殴り合いが起きていた。


 教室は学びの場。

 同時に、常に小さな暴力が転がっている場所でもある。


 それは、殴り合いのように分かりやすいものだけではない。

 ため息、視線、笑い声、無視。

 そうした目に見えにくい暴力も含めて、この箱の中はいつもざらざらしている。


 そこに毎日立ち続けるということが、自分にとってどれほどの負荷になるのか。

 まだ一週間も経っていないのに、その片鱗だけは、はっきりと分かってきていた。


「山本先生、行きましょうか」


 後ろから声をかけられ、振り向くと佐川が立っていた。


「生徒指導室、あの二人もう来てるみたい」


「あ、はい」


 足を教室から離しながら、成美はもう一度、黒板を振り返る。

 そこに書かれた自分の字が、少し心もとないものに見えた。


 ──私は、この“戦場”で、何ができるんだろう。


 問いの答えはまだ見えない。

 けれど、明日もまた、チャイムが鳴ればこの教室に入っていく。


 その繰り返しの中で、少しずつ何かが削られていくことを、このときの成美は、まだうまく言葉にできずにいた。

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