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県初の障がい者教諭として赴任した結果、学校と自分がゆっくり壊れていく話  作者: 妙原奇天


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第4話「免許合宿の春」

自治体により状況差はあると思いますが、割とリアルな現実です。

一部違うところがあるとすれば、うちの自治体では配属先の通知はもっと遅く、3月末に通知されます。

なので、私の場合は4月に赴任直後、仕事をしながら夜間免許を取りにいきました。

 春休みの始まりと同時に、成美は小さなスーツケースを転がして駅に立っていた。


 まだ肌寒い朝。

 ホームには、同じようにキャリーケースを持った若い人たちの姿がちらほら見える。

 みんな、目的地は同じだ。


「自動車教習所行き無料送迎バスはこちらでーす」


 黄色いベストを着た係の人が、プラカードを掲げている。

 大学生らしい男女のグループが、楽しそうにそちらへ向かっていった。


「合宿、二週間だって」「カラオケあるらしいよ」「夜は飲み会じゃん」


 弾む声が耳に入る。

 成美は、その輪から一歩離れた場所で、そっと息を吸った。


 合宿。

 短期集中で免許を取るためのプラン。

 そこに、自分が混ざっていることが、いまだに現実感を持てない。


 ──本当は、運転なんて向いてない。

 そう分かっているのに、それでもハンドルを握るしかない場所に、自分は配属されてしまった。


「先生になるなら、車ぐらい運転できなきゃね」


 坂下校長の笑顔混じりの声が、耳の奥で何度も再生される。

 そのたび、胸の奥でなにかがぎゅっと縮む。


「山本さーん?」


 呼ばれて顔を上げると、送迎バスの乗り場で係の人が名簿を持って立っていた。


「あ、はい」


「こちらのバスにどうぞ。スーツケースお預かりしますね」


 成美は会釈してバスに乗り込んだ。

 座席はほとんど埋まっていて、すでに和気あいあいと話しているグループもある。


 空いていた窓側の席に腰を下ろすと、背もたれに軽く体を預けた。


 今日から二週間。

 教習所と宿舎と、教習車と。

 その繰り返しの毎日が始まる。


 心のどこかで、「ここで躓いたら、もう後がない」と思ってしまう自分がいる。

 その意識が、じわじわと肩に重みを増していた。



「では、これから入所式とオリエンテーションを始めます」


 教習所のロビーは、思っていたよりも賑やかだった。

 壁には交通安全ポスターや、卒業生のメッセージカードがびっしりと貼られている。

 中には、「合宿サイコー」「先生おもしろい」といった手書きの言葉もあった。


 長テーブルに並べられた椅子に、入所者たちがぎゅっと詰め込まれる。

 前に立った事務員が、淡々と説明を始めた。


「こちらが二週間のスケジュールになります。皆さんの教習時間は、毎朝ロビーに貼り出されるタイムテーブルを見て確認してください。キャンセルや遅刻は、基本的にできませんので、そのつもりで」


 手渡されたスケジュール表を見ると、びっしりとコマが埋まっていた。

 学科、技能、学科、技能。

 ところどころに「休憩」と書いてある時間もあるが、その隙間に宿題や予習が入り込むのは容易に想像がつく。


「では、適性検査のあと、いよいよ技能教習に入っていきます」


 “いよいよ”。

 その言葉に、周囲から小さなどよめきが起きる。


「早く乗りたいね」「自分が運転するなんてワクワクする」


 そんな声を聞きながら、成美は、自分の胸の中にそれとはまったく違う感情が広がっていることを自覚していた。


 ──ワクワク、とは程遠い。

 むしろ、逃げ出したい。


 それでも、椅子から立ち上がる。

 ここで引き返す選択肢は、もう現実的ではない。



 適性検査の結果は、「注意力にムラがある」「複数情報の同時処理に弱い」といった、すでに自分が知っている内容だった。


 診断書に書かれたASDの特性と、ほとんど同じことが、今度は教習所の紙の上に並んでいる。


「まあ、最初はだいたいこんな感じですよ」


 結果用紙を見た教習所の職員は、軽く笑って言った。


「慣れていくうちに、周りを見渡す余裕が出てきますから」


 彼らにとっては、おそらくよくあるパターンなのだろう。

 ここに来る多くの人が、「慣れることで何とかなってきた」のだと思う。


 でも、成美は、自分が「慣れ」でカバーできるタイプではないことを知っていた。


 それでも、説明することはしなかった。

 ASDという言葉をここでもいちいち出すのは、なんだか「面倒な客」になるような気がしたからだ。


「では、第一段階の技能教習、A-3コースの方はこちらの教習車へ」


 ロビーに声が響く。

 成美の番号も呼ばれた。


 外に出ると、教習車が何台も並んでいた。

 白い車体に、大きく教習所の名前がプリントされている。


「よろしくお願いしまーす」


 ドアを開けながら、教官と思しき中年男性が軽い口調で言った。

 日焼けした顔に、細かな皺が刻まれている。


「助手席に乗ってるのが俺ね。山崎。分からないことはその都度聞いてください。じゃ、まずは運転席どうぞ」


「はい。よろしくお願いします」


 成美は深呼吸して運転席に腰を下ろした。

 ハンドルが目の前にある。

 ペダルが三つ並んでいる。

 ミラー、レバー、メーター。


 一度に視界に入ってくる情報が、多すぎる。


「じゃあシート合わせて、ミラー調整して。やり方分かる?」


「えっと……」


 焦ると、頭の中が真っ白になる。

 どこから手を付けていいか分からなくなる感覚が、身体の中に広がる。


 山崎教官は、少し早口で説明を続けた。


「シートはブレーキ踏んだときに、膝が少し曲がるくらい。ハンドルは腕を伸ばして、手首が乗るくらい。ミラーは後ろの窓が全部見えるように、サイドは自分の車体が少し入るくらい」


「……」


 頭では理解しようとするのに、情報がいっぺんに入ってきて、整理が追いつかない。

 成美は、言われたとおりになっているか不安なまま、がちがちに体を動かした。


「まあ、あとで微調整すればいいや。はい、そしたら発進してみましょう」


「えっ、もうですか」


「もう、ですね。教習ですから」


 冗談めかした口調に、他の生徒たちの笑い声が重なる。

 場の空気は軽いのに、自分の胃のあたりだけが重く沈んでいく。


「クラッチ踏んで、ギアを一速に。サイドブレーキ下ろして。左右確認して、合図出して、もう一回確認してから、ゆっくりクラッチ離して」


 指示が流れるように飛んでくる。

 成美は必死で頭の中に並べる。


 クラッチ、ギア、一速、サイドブレーキ、左右確認、合図、確認、クラッチ。


 順番を間違えると、何かとんでもないことが起きる気がして、かえって動きがぎこちなくなる。


「はい、クラッチ急いで離さない! もっとゆっくり!」


 ガガガ、と嫌な振動が足元から伝わってきて、教習車が大きく揺れた。


「あ、ごめんなさい」


「謝らなくていいけどさ。ほら、エンストしちゃったよ。落ち着いて、もう一回最初から。慌てると余計悪くなるから」


 山崎教官の声に、苛立ちと心配が少しずつ混じってくる。

 成美は唇を噛みしめ、もう一度クラッチを踏み込んだ。


 ──慌てないなんて、無理だ。

 こんなに一度に指示されて、落ち着ける人のほうが、すごい。



 数回のエンストのあと、車は何とかコース内をゆっくり進み始めた。

 窓の外では、他の教習車がスムーズに曲がり、止まり、また発進している。


「はい、じゃあ次のカーブ、少しスピード上げて。流れに乗って」


「はい」


 成美は、アクセルを少し踏み込んだ。

 エンジン音が大きくなる。

 それだけで、心臓の鼓動も早くなる。


「カーブの手前で減速して、ハンドル切って、外側の景色を見ながら。ほら、もっと臨機応変にっていうか、流れを読んで」


 臨機応変。

 流れを読む。


 その言葉が、耳に刺さる。


 ──臨機応変が、一番苦手なのに。

 流れを読むのができなくて、今まで何度もしくじってきたのに。


 頭の中で反論しながらも、身体はぎこちなく反応する。

 減速が遅れ、カーブの手前で慌ててブレーキを踏んだ。


「ほら、ブレーキ遅い。もっと手前で“このくらいのスピードだと膨らむな”って予測しないと。運転ってさ、空気を読むことだから」


 山崎教官は悪気なく言う。

 おそらく彼にとって運転は、「見えない情報を感覚で捉える」行為なのだろう。


 「空気を読む」。

 彼の言う「安全確認」とは、きっとその延長線上にある。


「安全確認って、目で見るだけじゃないからね。なんとなく“危なそうだな”っていう空気を感じとるのも大事。そこが一番難しいところなんだけど」


 成美は、苦笑いを浮かべる余裕もなかった。


 ──空気で読む、が一番苦手なんです。

 だから診断名がついたんです。


 喉の奥までその言葉が上ってきて、しかし形になる前にしぼんだ。


「危なそうって思う前に、どこを見ればいいか教えてもらえませんか」


 本当はそう言いたかった。

 けれど、周りの教習車はスムーズに回っている。

 きっと、他の人には「空気で読む」ことが、そこまで難しくないのだろう。


 ここで自分だけが細かい説明を求めたら、「めんどくさい人」と思われるかもしれない。

 そんな考えが、口を塞いでしまう。



 教習所での生活は、想像以上に体力を削った。


 朝八時から夕方まで、ほとんど休みなく詰め込まれたスケジュール。

学科教習では、教壇に立つ講師が眠気を誘う声で交通ルールを読み上げる。

 「ここテスト出ますよ」のフレーズに、周囲の受講生が一斉にノートを取る音がする。


 成美は、黒板の文字を写しながら、内容を頭に入れることに必死だった。

 覚えることが多すぎる。


「危険予測と安全確認は、運転の基本です」


 講師は何度もそう繰り返した。


「つまり、“こうなったら危ないな”って先に想像して、その前に行動すること。右左折のとき、横断歩道の手前、見通しの悪い交差点、夜間の路地……。状況に応じて、どこを見るべきかを“瞬時に判断”できるようになってください」


 瞬時に。

 状況に応じて。


 成美はノートに「瞬時」と書きながら、胸の奥で小さくため息をついた。


 自分にそれが、いちばん難しい。

 だから普通の職場で、何度も処理が追いつかなくなってしまった。


 それでも、運転に必要だと言われれば、やるしかない。

 教科書通りに手順を覚え、繰り返し練習して、「瞬時の判断」を少しでもパターン化していくしかない。



 夜、宿舎に戻ると、廊下から笑い声が聞こえてきた。


「今日、S字で三回も脱輪した」「うそ、やばいじゃん」「でも教官がめっちゃおもしろい人でさ」


 ドアの少し先では、大学生らしきグループがカップラーメンを片手に盛り上がっている。


 成美はそれを横目に見ながら、自室のドアをそっと開けた。


 簡素なベッドと机、テレビ。

 ユニットバスが一つ付いただけのシンプルな部屋だ。


 スーツケースを開け、着替えを整理しながら、スマートフォンを手に取る。

 着信履歴には、さっき母からの不在着信が残っていた。


「もしもし」


「あ、成美? 今日からだったわね。どう? 無事着いた?」


「うん。着いたよ。送迎バスもちゃんとあったし」


「どんな感じ?」


「うーん……なんか、合宿免許って感じ」


「それはそうでしょうけど」


 母の笑い声が、少しだけ緊張を緩ませてくれる。


「若い子が多くてね。みんな“免許とったらドライブ行こう”とか、“合宿終わったら飲もうぜ”とか言ってて」


「楽しそうね」


「私は……必死」


 思わず本音が漏れる。

 電話の向こうで、母が息を飲んだ気配がした。


「そんなに?」


「初日から、エンストしまくりで。教官には“もっと臨機応変に”“空気読んで動かないと危ないよ”って言われるし」


「空気読んでって……」


 母の声に、微かな怒りが混じる。


「運転に必要なことなんだろうけどね。言ってることは分かる。でも、“空気で読む”が一番苦手だから、だから診断がついたのに、って思って」


「……ちゃんと、ASDのこと話してる?」


「ううん。言ってない」


「どうして」


「なんか……ここでもいちいち言うの、嫌で。面倒な人だって思われそうで」


 言葉にすると、自分でも矛盾していることが分かる。

 配慮がほしいのに、配慮を求めることをためらう。


「でも、運転は命がかかってるんだから、本当は言ったほうがいいんじゃないの?」


「たぶん、そうなんだろうね」


 成美は天井を見つめた。


「でも、二週間で仮免まで行かなきゃいけないスケジュールだからさ。“細かい説明してください”とか、“もう少しゆっくり教えてください”とか言ったら、それだけで後ろが詰まっちゃいそうで」


「向こうの事情も分かっちゃうのね」


「うん。教官も教官で忙しそうだし。みんな一斉に詰め込みだから……」


 母はしばらく黙っていた。

 沈黙の向こうで、何かを飲み込んでいるような気配がする。


「……無理はしないでね」


「無理しないと終わらないスケジュールなんだよ、これ」


 自嘲気味に言ってから、自分でその言葉の重さに気付く。


 “無理しないで”と、“やらなきゃ終わらない”が、最初から矛盾している。

 その矛盾の上に、この合宿は成り立っている。


「でも、取るしかないんでしょ?」


「うん。車運転できないと、あの山の学校には通えないから」


 成美はゆっくりと言葉を続けた。


「なんかさ、“車運転できない人間は教師としてスタートラインにも立てないんだな”って、今日ちょっと思った」


「……」


「山東第二中に行くためには、免許が前提条件なんだよね。授業ができるかどうかとか、生徒と向き合えるかどうかより、まずそこ」


 母は言葉を失ったようだった。

 やがて、絞り出すように答える。


「本当は、おかしいと思うけどね」


「うん。でも、みんな“そんなもんだよ”って顔してる」


 教習所のロビーに貼られたポスターや、教官の言葉、坂下校長の「みんな車で来てるよ」という一言。

 それらが一斉に、「当たり前」の側に並んでいる。


 そこに違和感を覚える自分のほうが、少数派なのかもしれない。


「とりあえず、二週間、がんばるよ。ちゃんと寝て、ちゃんと食べて。倒れない範囲で」


「……約束できる?」


「できるだけ」


「“できるだけ”って言うときのあなた、いつもだいたいできてないから」


「手厳しいな」


 苦笑すると、母も少しだけ笑った。


「でも、今回は本当に倒れないで。運転中に具合悪くなったら、大変なことになるからね」


「うん。そこは、私も怖いから」


 電話を切ったあと、成美はしばらくベッドに仰向けになった。


 部屋の天井の白さが、やけに広く見える。

 窓の外からは、遠くを走る車の音がかすかに聞こえてきた。


 ──自分も、その音のひとつになるのだろうか。

 怖さと義務感が、胸の中で絡み合う。



 数日が経つ頃には、教習所内の空気にも少しずつ慣れてきた。

 それでも、運転自体への恐怖は消えない。


「はい、じゃあ次S字ね。入り口でしっかり減速して、ハンドルを一気に切らない。先を見て、どこを通るかイメージして」


 別の日、S字クランクの教習で、教官が指示を出す。


「先を見るって、どこを……」


 思わず漏れた疑問を飲み込む前に、車は狭いコースの縁石にタイヤをこすっていた。


「ほらほら、もっと外側を通らないと。そこは感覚で覚えて。何回かやれば分かるから」


 感覚で。

 また出てきた言葉に、成美は苦笑したくなった。


 「何回かやれば分かる」まで行く前に、頭がフリーズしてしまうことのほうが多いのに。


 それでも、繰り返し走るうちに、少しずつ「ここでハンドルを何回転」「このポールが見えたら一気に切る」といった、自分なりの“手順書”が頭の中にできてきた。


 おそらく、他の人より回り道の覚え方だ。

 でも、それしか方法がない。


 仮免検定前日、山崎教官は言った。


「最初の頃に比べたら、だいぶマシになったよ。エンストも減ったし。あとは、もっと周りを見て、状況に応じて動けるようになればね」


「状況に応じて、ですね」


「そうそう。運転って、マニュアル通りじゃないからさ。教科書には載ってないこともいっぱい起きる。そこを“空気で読む力”が大事なんだよね」


 そこまで言って、山崎は笑った。


「まあ、それ言うと元も子もないんだけどさ。まずは教科書通りに覚えて、そこから少しずつ広げていけばいいから」


 彼なりのフォローなのだろう。

 最初から「空気読め」とだけ言っているわけではない。


 それでも、「空気で読む」というフレーズは、成美の耳に特別重く落ちていく。


 学校でも、会社でも、教習所でも。

 どこへ行っても、「空気」という見えないものが、ルールの上にもう一枚重なっている。


 それを読み取るのが苦手な人間には、どこも息苦しい。



 仮免検定当日。

 教習所のロビーには、いつもより緊張した空気が漂っていた。


「落ちたら延長だって」「ここで落ちると追加料金ヤバい」「絶対一発で受かりたい」


 受検者たちが口々に言う。


 成美も、同じ思いだった。

 ここで落ちたら、二週間では終わらない。

 費用も時間も、どんどん膨らんでいく。


 検定員が助手席に乗り込み、淡々と指示を出す。

 発進、停止、S字、クランク。

 一本橋、踏切。


 頭の中で、これまで覚えた“手順書”を無理やりフル回転させる。


 安全確認、出発、ミラー、合図、目視。

 順番をひとつでも飛ばせば、減点の対象だ。


 途中で一度、クラッチ操作が遅れて車がガクンと揺れた。

 心臓が跳ね上がる。


 ──今の、どのくらい減点されたんだろう。

 頭の中で不安がぐるぐる回る。


 それでも、なんとかコースを一周し、停止線で車を止めることができた。


「お疲れさまでした。では、場内に戻りましょう」


 検定員の声は感情が読めない。

 良かったのか、悪かったのか。


 結果が出るまでの時間、ロビーの椅子に腰掛けているだけで、手のひらに汗が滲んだ。



「仮免許試験、合格者の番号を読み上げます」


 掲示板の前に受検者たちが集まる。

 事務員が番号を読み上げていく。


 成美の番号が呼ばれた瞬間、膝の力が抜けそうになった。


「……よかった」


 小さく呟くと、隣で番号を確認していた女の子が、「やったね」と笑いかけてきた。


「私も受かった。これで路上いけるね」


「うん。……そうだね」


 路上。

 次は、一般道だ。


 教習所のコース内ですら怖かった運転が、今度は本物の車と人と信号の中に放り込まれる。


 喜びより先に、不安がふくらむ。

 それでも、「合格」という事実が、少しだけ肩の力を抜いてくれた。


 仮免許証を受け取った帰り際、山崎教官が声をかけてきた。


「お、受かったね。おめでと」


「ありがとうございます」


「最初どうなるかと思ったけどね。まあ、あとは路上で“臨機応変力”を鍛えていくだけだから」


 またその言葉か、と心の中で苦笑しながらも、成美は頷いた。


「はい。がんばります」


 がんばる。

 そう言うことにも、少しずつ疲れてきている自分に気付きながら。



 合宿の二週間が終わる頃には、教習所の職員にも顔を覚えられ、すれ違いざまに「お疲れさま」「もうすぐ卒業だね」と声をかけられるようになっていた。


 最終日の卒業検定も、ギリギリの点数で合格した。

 教習所の前で記念撮影をしているグループの横を通り過ぎながら、成美は仮免と卒業証明書を鞄の中にしまう。


「これで、試験場行けば本免許だね」


 同行していた大学生のひとりが言った。


「やっと解放されるー。飲み行こ飲み」


「免許取ったら、みんなで海行こうよ。私が運転するから」


 彼女たちの会話は眩しかった。

 運転が、「自由」と結びついている人たち。


 一方で、成美にとっての運転は、「義務」と「恐怖」がセットになっている。


 車があれば、山の学校に通える。

 車がなければ、教師としてのスタートラインに立てない。


 免許は、自分の世界を広げてくれる鍵ではなく、狭い山道に自分を縛り付ける鎖にもなり得る。


 それでも、試験場での本免試験を終え、手の中にプラスチックのカードが渡されたとき、心のどこかで小さな達成感があったのも事実だ。


 写真の中の自分は、少し疲れた顔をしている。

 でも、その目は、まだ前を見ているように見えた。



 帰宅すると、母が玄関まで飛び出してきた。


「おかえり。どうだった?」


「……取れたよ」


 成美は、免許証をそっと差し出した。

 母はそれを受け取り、まじまじと眺める。


「本当に取ったんだ……。おめでとう」


「ありがとう」


「大変だったでしょう」


「大変だった」


 二人で顔を見合わせて笑った。

 笑いながらも、胸の奥には、別の感情が静かに沈んでいる。


 これで、山東第二中への「入場券」を手に入れた。

 同時に、「逃げ道」をひとつ失った気もしていた。


 夕食のあと、ひとり部屋に戻ると、机の上に採用通知と配属校の資料が置かれているのが目に入った。


 免許証をその横に並べてみる。

 教師としての肩書きへの入口と、山の学校へ通うための資格。


 二枚のカードが、これからの自分の生活を決めていく。


 成美は、免許証の写真をじっと見つめた。


 ──この顔で、あの山道を毎日走るんだ。

 片道一時間半。

 朝早く、まだ薄暗い時間帯に。


 免許を取ったからといって、運転が好きになったわけでも、得意になったわけでもない。

 怖さはそのままだ。

 ただ、「怖いけどやる」という選択を、強いられたに過ぎない。


 それでも、自分で選んだのだと信じたい。

 そう思わないと、心が折れてしまう。


 窓の外では、春の夜風がカーテンをふわりと揺らしていた。


 数週間後、その風の代わりに、山間を抜ける冷たい朝の空気が、成美の頬を刺すことになる。

 そのとき、ハンドルを握る手は、きっと今日よりもずっと強ばっている。


 運転そのものが、ゆっくりとストレスの種になっていくことを、今はまだ、具体的に想像できないまま。

※5話以降は毎日19時更新です。

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