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県初の障がい者教諭として赴任した結果、学校と自分がゆっくり壊れていく話  作者: 妙原奇天


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第3話「山の学校」

 配属校一覧の紙を配られたとき、成美は、まず自分の名前を探すことに精一杯だった。


 県庁の一室。

 採用者たちが長机の列に座り、前方のホワイトボードには無機質な地図が貼られている。

 人事課の職員が、「では、順に配属先を確認していきます」と淡々と告げた。


 端から順に名前が読み上げられていく。

 市内の中学校、郊外の小学校、特別支援学校。

 聞き慣れた地名が続くうちに、成美の心臓の拍数がじわじわ上がっていった。


「山本成美さん」


 自分の名前が呼ばれた瞬間、背筋がぴんと伸びる。


「はい」


 反射的に返事をすると、担当者が手元の資料をめくりながら続けた。


「山東第二中学校。こちらになります」


 前方の地図の一角に、丸い印がつけられた。

 市街地から離れた山あい。

 細い線で描かれた県道をぐねぐねと登った先に、小さく「山東町」と書かれている。


 教室の一画から、かすかなざわめきが起こった。

 誰かが地図の端をのぞき込み、「あ、ここ、スキー場近くのあたりじゃない?」とささやく声がする。


 成美は、自分の心臓が一瞬止まったように感じた。


 ──山。


 市内の学校なら、電車とバスで何とかなると思っていた。

 通勤時間が少しかかっても、路線図の中で完結する距離なら、何とかやっていけると考えていた。


 だが、地図の中のその赤い丸は、路線図の外側にぽつんと浮かんでいるように見えた。



 オリエンテーションが終わると、個別の説明のために、配属校ごとに呼び出されることになった。

 廊下で順番を待つ間、成美はスマートフォンで「山東町 中学校 アクセス」と検索してみる。


 画面には、最寄り駅の名前と、そこから「バスで三十分」「本数・一時間に一本程度」といった情報が並ぶ。

 スクロールすると、「冬季は道路状況により遅延の可能性あり」の文字。


 胸の中に、小さな石が落ちたような感覚がした。

 通勤経路を頭に思い浮かべようとしてみる。


 自宅の最寄り駅から県北の駅まで、電車で四十分。

 そこからバスで三十分。

 乗り継ぎの待ち時間を考えれば、最低でも一時間半、うまくつながらなければ二時間近くかかる計算だ。


 しかも、バスは一時間に一本。

 乗り遅れれば、その時点でアウトだ。


「山本さん、中へどうぞ」


 呼ばれて顔を上げると、人事課の男性職員が会議室のドアの前で立っていた。

 成美はスマホをバッグにしまい、会釈して部屋に入る。


 室内には、先ほど前で説明していた人事担当と、スーツ姿の男性がもう一人座っていた。

 後者が、配属校の校長だと紹介される。


「山東第二中学校の校長の坂下と申します。よろしくお願いします」


 丸顔で、人の良さそうな笑みを浮かべた五十代くらいの男性だった。

 成美も慌てて頭を下げる。


「山本成美です。よろしくお願いいたします」


「いやあ、本当に助かりますよ。うちは今、なかなか人が足りなくてね」


 坂下はそう言いながら、成美の資料に目を落とした。

 「障がい者雇用教諭」という文字に、視線が一瞬だけとどまる。


「ああ、特性については、ある程度伺ってます。うまくやっていきましょう」


 その口調は柔らかい。

 おそらく本当に、「うまくやっていこう」と思ってくれているのだろう。


 人事担当が、淡々と説明を付け加える。


「山東第二中は、全校生徒が四百五十名程の中~大規模校です。山間部になりますが、最近子育て世帯向けの住宅地も増えてきています。地域と密着した、伝統のある学校ですね。山本さんには、教科指導と一部の学級経営をお願いする予定です」


 山間部。

 伝統のある。

 人事担当の言葉は、どれも明るい形容詞で包まれている。


 だが、成美の頭の中を占めているのは、さっきスマホで見たバスの時刻表だった。


「あの……」


 自分でも驚くほど小さな声が、口から漏れる。


「ひとつ、伺ってもいいでしょうか」


「はい、どうぞ」


 人事担当が穏やかに頷いた。


「通勤のことなんですが、私、運転免許を持っていなくて……。電車とバスでの通勤になりそうなんですけど、その……」


 言葉を探していると、坂下が「ああ」と頷いた。


「最寄り駅までは電車、そのあとバスだね。たしか駅からは、七時ちょうどくらいのバスがあったはずだよ」


 人事担当が、手元の資料をめくりながら口を挟む。


「駅発が七時五分、学校近くの停留所着が七時三十五分ですね」


「七時三十五分……」


 勤務時間は、八時十五分から。

 数字だけ見れば、余裕はあるように思える。


 けれど、オリエンテーションで何度か耳にした言葉が、頭の隅でうずく。


「朝は生徒を迎えるために、七時半には学校にいてほしい」


 そんな話を、別の校長がしているのを聞いた。


 恐る恐る尋ねる。


「山東第二中学校も、その……朝は、何時ごろから先生方は?」


「うん?」


 坂下は、少し驚いたように目を瞬かせ、それから当たり前のことを言うような口調で続けた。


「勤務時間は八時十五分からだけどね。うちは昔から、生徒が登校を始める七時半には先生が学校にいる、っていうのが伝統なんだよ」


 伝統。

 その言葉が、軽い笑いと一緒に投げられる。


「やっぱり、教師は子どもたちより早く学校にいるべきだと思ってね。玄関で“おはよう”って迎えてあげる。まあ、これは勤務時間とは別の話なんだけど、だいたい皆、七時二十分とかには来てるかな」


 成美の喉が、かすかに鳴った。


 七時二十分。

 さっき聞いたバスの到着時刻は、七時三十五分。


「あの……」


 再び口を開く声が、自分でも頼りなく感じられる。


「時刻表を見る限りだと、バスだと、どうしても七時三十五分着になってしまって。七時半には、ちょっと間に合わなくて……」


「ああ、そうか」


 坂下は、時刻表のコピーに目を落とし、少しだけ眉をひそめた。


「たしかに、七時半にはきついねえ。一本前は?」


「一本前だと、六時発で……。自宅から駅までも電車で四十分かかるので、始発に乗っても、そのバスには多分間に合わない……」


 駅までの道のりを思い浮かべるだけで、胃のあたりがきゅっと縮む。


「そうかそうか」


 坂下は腕を組み、少し考えるような素振りを見せた。

 人事担当も、時刻表の数字を追いながら黙り込む。


 数秒の沈黙。

 このまま「では七時三十五分でいいですよ」と言ってもらえたら、どれほど楽か。


 だが、出てきた言葉は、別のものだった。


「じゃあ、車で来ればいいじゃない」


 坂下は、ぽん、と手を打つように言った。


「免許を取ってもらえれば、一番いいよね。みんな車で来てるし。山の学校だから、そこは仕方ない部分もあるけど……それに、教師続けるんなら、免許ないと厳しいですよ、行事やら顧問やら、絶対必要になってきますから」


 さらりと口にされた「仕方ない」という言葉が、成美の耳に重く響く。


「運転……」


 成美は思わず視線を落とした。


 運転免許。

 大学時代、周囲が教習所に通う中で、自分だけはその波に乗れなかった。


 同時にいくつもの情報が飛び交う状況が苦手で、教習所のシミュレーション講座で軽いパニックを起こしたことがある。

 アクセル、ブレーキ、ミラーの確認、標識。特に臨機応変な車線変更。

 それらを一度に頭の中に入れておくことが難しく、結局免許取得を諦めてしまった。


 その記憶が蘇り、背中に冷たい汗がにじむ。


「運転は……正直、あまり得意ではなくて。免許も持っていないんです」


 なんとか絞り出した言葉に、坂下は「そうか」と短く応じた。


「でも、今から教習所に通えば、四月までには何とか間に合うんじゃないかな。みんなそうやって来てるしね」


 「みんな」「そうやって」。

 その二つの言葉が、さりげなく基準を押し上げていく。


 人事担当が、補足するように口を開いた。


「山間部の学校は、どうしても車通勤が基本になってしまいますね。公共交通機関に合わせて学校運営を変えるのは難しいので……。通勤の負担については通勤費は出しますが、教習所費用は基本的には自己負担でお願いする形になります」


「そう……ですか」


 成美の声は、自分でも驚くほど小さくなっていた。


 通勤の負担は個人で。

 学校の「伝統」と「当たり前」は、変えない前提で。


 合理的配慮という言葉が、頭の中でゆっくりと薄まっていく。



「不安でしょうけど、大丈夫ですよ」


 席を立とうとしたとき、坂下が柔らかく言った。


「最初は、山道の運転も怖いかもしれないけど、皆通ってきた道だからね。慣れれば、どうってことないですよ。何かあれば、同じ方面の先生と一緒に通うこともできるだろうし」


 それは、きっと本心からの「励まし」だった。

 自分が長年その道を通ってきて、「慣れた」からこその感覚を、そのまま渡してくれている。


 悪意があるわけではない。

 むしろ、「新しく来る先生を何とか受け入れよう」とする善意が、言葉の表面ににじんでいる。


 だからこそ、ややこしい。


「……はい。考えてみます」


 成美は、それ以上何も言えず、頭を下げた。


 会議室を出て廊下に出ると、窓の外には遠くの山並みが見えた。

 春の気配はまだ浅く、山肌にはところどころ雪が残っている。


 あの山のどこかに、これから自分が通う学校がある。


 そこで毎朝、七時半前には玄関に立ち、生徒を迎える。

 そのために、自分はハンドルを握る。


 想像しただけで、胸の奥がじわりと重くなった。



 家に戻ると、母が玄関まで出てきた。


「どうだった?」


 その顔には、期待と不安がないまぜになって浮かんでいる。


 成美は靴を脱ぎながら、「山東第二中学校ってところに決まった」と簡単に告げた。

 リビングに移動してから、プリントをテーブルに広げる。


「ここ?」


 母が地図の上に身を乗り出す。

 市街地から大きく離れた丸印を見て、「まあ」と小さく声を漏らした。


「ずいぶん山の方ね」


「うん。駅からバスで三十分だって」


「通えるの、それ」


「……車なら、って言われた」


 短く説明すると、母の表情が一瞬固まった。


「車?」


「免許取って来ればいいんじゃないか、って。みんなそうしてるから、って」


「でも成美、運転は……」


「得意じゃない。うん」


 自分で口にすると、その言葉の重さが倍になって返ってくる気がした。


 母はしばらく黙って時刻表を眺めていたが、やがてため息をひとつついた。


「通勤時間も長いわね。駅まで四十分、駅からバスで三十分……。それで七時二十分に着くには、何時に家を出なきゃいけないの」


「……五時前、かな」


 思わず視線をそらす。


「そんな時間に毎日起きて、山道を運転して……。冬は雪も降るでしょう?」


「たぶん」


 たぶん、ではなく、きっと。

 地図の等高線が、そのことを物語っている。


 母は口をつぐみ、少しだけ目を細めた。

 心配と、怒りと、諦めが混ざり合ったような複雑な表情だった。


「人事の人には、何て言われたの」


「まずは、皆と同じように、って。学校側にも伝えてくれるとは言ってたけど……」


 「皆と同じ」。

 その言葉を、自分でも無意識に反芻しているのが分かる。


 障がい者雇用枠で採用された。

 合理的配慮があるはずだと、面接では言われた。


 でも、配属先が決まった途端、「伝統」「当たり前」「みんなそうしている」のほうが強くなっていく。


「……やめといた方がいいんじゃないの」


 沈黙のあとで、母がぽつりと言った。


「そんな場所、最初から条件に合ってないじゃない。配慮が前提なら、せめて通勤だけでももう少し楽なところにしてくれても」


「でも、もう決まっちゃったし」


「決まったって、無理なものは無理でしょう?」


 母の声が、少しだけ熱を帯びる。


「あなた、運転のことだって、ちゃんと話してあるのよね?」


「免許は持ってないって言った。そしたら、『今から取れば間に合う』って」


「簡単に言うわね」


 母は、かすかに笑った。

 怒りというより、呆れに近い笑いだった。


「……でも、断るって言ったってさ。せっかく採用してもらったのに。最初から“その条件は飲めません”って言ったら、もう二度とチャンスないかもしれないし」


 その怖さを、成美は誰よりも強く感じていた。

 一般企業で短期離職を繰り返してきた過去が、「今度こそは」と背中を押す一方で、「ここを逃したらもう後がない」という焦りにも繋がっている。


「せっかく障害者雇用枠で採用してもらったんだから、多少は頑張らないと、って……」


「頑張るのはいいけどね」


 母は静かに言った。


「頑張りすぎて、倒れたら意味がないのよ」


 その言葉には、重みがあった。

 これまで、布団から起き上がれなくなった成美を何度も見てきた人の言葉だ。


 成美は、テーブルの上の資料をぼんやりと見つめた。


「……とりあえず、教習所を探してみるよ。やるだけやってみる」


 それが、今の自分にできる「折り合い」のつけ方のような気がした。


 本当は、「もう少し通いやすいところに変えてもらえませんか」と言うべきなのかもしれない。

 でも、口にする前から、その頼みがどれほどの負担になるかを想像してしまう。


 配慮を求めるたびに、「迷惑をかけている」という感覚が、じわじわと心を侵食していく。

 その感覚は、既に身体に染み込んでしまっている。



 その夜、成美はパソコンを開き、「短期 合宿免許 春休み」と検索した。

 画面いっぱいに教習所の広告が並ぶ。


「最短十四日で卒業」「宿泊費込み」「学生割引あり」。


 どのサイトも、明るい色と笑顔の写真で飾られている。

 教習車の横でピースサインをする若者たち。

 その中に、自分の姿を重ねることができない。


 スクロールしながら、成美はふと気付いた。


 ──これもまた、「まずは健常と同じスタートラインに立ってから」という発想の延長なのかもしれない。


 「自分だけ特別扱いしてほしいわけじゃない」。

 そう思う一方で、「最初から条件が違うこと」を認めてもらえないと、どこかで歪みが生じる。


 山道を運転することの怖さも、

 早朝五時に起き続けることの負担も、

 全部ひっくるめて「最初の頑張り」として飲み込んでしまえば、その後に残るのは疲労だけだ。


 それでも、いま目の前にある選択肢は多くない。


 「配属を変えてほしい」と叫ぶ勇気と、

 「決まったならやるしかない」と自分に言い聞かせる声。


 天秤は、静かに後者に傾いていく。


「……大丈夫。大丈夫だから」


 画面の光に照らされた指先が、申込フォームの「資料請求」ボタンを押した。


 押した瞬間、胸の奥で、何か小さなものがきしんだ気がした。

 それが、「合理的配慮」という言葉が押し出された音だったと気付くのは、まだずっと先のことだ。


 こうして、山本成美の「山の学校」への道は、静かに、しかし確実に形を取り始めていた。

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