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県初の障がい者教諭として赴任した結果、学校と自分がゆっくり壊れていく話  作者: 妙原奇天


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第26話「それでも、明日は来る」

 退院の朝は、拍子抜けするほど静かだった。


 病棟の窓から見える山の稜線は、入院した日と同じように、淡い青と灰色のグラデーションを重ねている。

 ただ、点滴スタンドのない自分のベッドと、畳まれたパジャマだけが、日常に戻される合図のようだった。


「では、今日でいったん退院ということで」


 主治医がカルテを閉じながら、穏やかな声で言った。

 四十代半ばくらいの、落ち着いた目をした内科医だ。


「一度に全部、元通りにはできません。

 でも、“倒れる前の状態に戻す”ことが目標ではない、というのは覚えておいてください」


 山本成美は、ベッドの端に腰かけたまま、小さくうなずいた。

 まだ少しだけ残っている立ちくらみと、胸の奥の不安が、静かに体の中で揺れている。


「お仕事については……先日お話しした通りですね。

 現時点で、教壇に立つイメージが持てないのであれば、無理に復職の時期を決める必要はありません。

 休職を延長して、その上で“退職も含めて”考える。

 あなたの心と体を守るためには、それも大切な選択肢です」


「……はい」


 声に出すと、胸の奥で何かがきしんだ。

 教師になるまでの道のり。

 採用通知を受け取った日。

 母と一緒に泣いた夜。


 そのすべてが、「やめる」という言葉の前で、いったん白紙に戻されるようで怖かった。


「もちろん、仕事自体が一生できない、という話ではありませんよ」


 医師は、そう付け加える。


「診断書にも書きますが、今の状態は“適切でない環境に長期間さらされた結果”です。

 働き方や職場の環境を選べば、あなたが力を発揮できる場は必ずあります。

 たとえば、在宅でできる事務、時間や刺激の少ない環境での仕事、障害者雇用枠での事務職など。

 そのためにも、まずは生活リズムと体調を整えることを優先しましょう」


「……普通に、働ける日が来るんでしょうか」


 成美は、小さな声で聞いた。


「“普通”という言葉は、人それぞれですからね」


 医師は少し笑う。


「でも、“普通に休める仕事”なら、この世にちゃんとあります。

 それを信じて探していくことは、決して間違いではありませんよ」


 その言葉は、どこかで聞き覚えのあるフレーズと重なった。

 ゴールデンウィークの夜、布団の中で、スマホの光を顔に浴びながら考えたこと。


 普通に働いて、普通に休む人生を送るはずだったのに。


 そのときにはもう、そんな未来は自分に残っていないと思っていた。

 今はまだ手の届かない遠い場所のように感じるけれど、「この世にちゃんとある」と言われると、ほんの少しだけ、その輪郭が近づいた気がした。


     ◇


 病院の玄関を出ると、秋の空気が、ひやりと頬を撫でた。


 駐車場で待っていた母が、運転席から降りてきて、手を振る。


「成美」


 声が、思ったよりも震えていた。

 この数週間で、母の髪にはさらに白いものが増えたように見える。


「荷物、持てる?」


「大丈夫」


 退院の荷物といっても、着替えと洗面道具くらいだ。

 それでも、紙袋の持ち手を握る自分の指が、細くなっていることに気づいて、成美は少しだけ視線をそらした。


 車に乗り込むと、母はシートベルトを確認しながら、ちらりと横顔を盗み見る。


「先生のお話、どうだった?」


「……休職を続けて、退職する方向で考えたほうがいいって」


「そう……」


 母のハンドルを握る手が、一瞬だけ強くなったような気がした。

 車はゆっくりと病院の駐車場を出て、山のほうへ向かって走り出す。


 窓の外には、見慣れた田んぼと、小さな商店と、バス停。

 病院へ運ばれたときには、サイレンの音も風景も、遠い夢の中の出来事のようだった。

 今は、同じ道が、別の速度で自分に近づいてくる。


「……ごめんね」


 ハンドルの向こうから、母の声が漏れた。


「せっかく採用してもらったのに。

 先生にも、『お母さん、喜んでくれてましたもんね』って何回も言われてたのに。

 こんな形になっちゃって」


「お母さんのせいじゃないよ」


 それだけは、はっきりと言えた。


「先生が言ってた。

 壊れてたのは、私じゃなくて、働き方とか、環境のほうだって」


「……そう」


 母は、それ以上何も言わなかった。

 ただ、信号で止まったとき、ハンドルから片方の手を離して、そっと成美のほうに伸ばした。


 指先が、袖の上から腕に触れる。

 その温度に、成美はようやく、自分が本当に“生きて帰ってきた”ことを実感した。


     ◇


 家に戻ると、玄関には、見慣れたスリッパが三足並んでいた。


 父の革靴も、おそらくこのあと帰ってくるのだろう。

 ただいま、と声を出すと、その響きがどこかぎこちない。

 入院前は、ここから毎朝、山道へ向かっていたのだ。


「荷物は、あとでゆっくり片づけなさいね」


 母が気を利かせて言う。


「今日はもう、ご飯とお風呂だけで十分だから。

 あ、そうだ」


 母は、廊下の途中で立ち止まった。

 そして、自分の部屋のドアを見て、一瞬だけ表情を曇らせる。


「部屋のことなんだけどね」


「ああ……」


 成美も、同じドアを見つめた。

 退院前、母から聞かされた話が、胸の奥で小さく疼く。


 “付箋ね。あんなに貼ってあったなんて、知らなかった”


 母は、泣きながら一枚一枚はがしたと言っていた。

 「死にたい」「消えたい」「ごめんなさい」

 自分でも、何を書いたのか思い出せないほど、たくさんの言葉たち。


「あの付箋は……全部、捨てちゃった。ごめんね」


 母は、申し訳なさそうに言った。


「成美の許可も取らずに。でも、どうしても、部屋に置いておけなかった。

 見るたびに、胸が苦しくなって」


「ううん。捨ててくれて、よかった」


 成美は首を振る。


「自分でも、何を書いたか、あんまり覚えてないくらいだから。

 あれは……病気みたいなものだったから」


 ドアを開けると、部屋の中には、見慣れた机と、本棚と、カーテン。

 壁は、白いままだった。

 付箋の跡も、テープのあとも、母がきれいに拭き取ってくれたのだろう。


 その代わりに、机の上には、小さな観葉植物がひとつ置かれていた。

 丸い葉っぱをつけた、多肉植物。


「病院の売店でね、“育てやすいですよ”って書いてあったから」


 母が、照れくさそうに笑う。


「お水、あんまりあげなくても平気なんだって。

 私たちでも育てられるかなって、思って」


 成美は、そっとその葉を指でつついた。

 ぷに、と、柔らかく弾む感触がする。


「ありがとう。……かわいい」


「お世話は、無理しなくていいからね。

 忘れてたら、私が水やりするから」


 そう言いながらも、母の声には、どこか「一緒に育てよう」という小さな希望が混じっているように聞こえた。


 ベッドに腰を下ろすと、体の奥からじわじわと疲れが広がってきた。

 病院では、決まった時間に起きて寝て、食事も運ばれてきた。

 今度は、自分たちのペースで、生活を組み立て直さなければならない。


「ねえ、成美」


 母が、部屋の入り口に立ったまま、言った。


「これからの仕事のことは、急がなくていいから。

 先生も言ってたでしょ、“まずは体調を整えて”って。

 私はね……」


 そこで、一度言葉を切り、深呼吸をする。


「私は、あなたが生きていてくれるだけで、十分だから」


 その言葉は、部屋の空気をふわりと震わせた。


 病院の白い天井を見上げながら、何度も思った。

 自分は、もう役に立てない。

 迷惑ばかりかけてきた。

 生きている意味なんて、ないんじゃないか。


 母の「十分」という言葉が、その全部を否定してくれるとは思わない。

 それでも、両手いっぱいに抱えていた「役に立たなきゃ」という荷物を、ほんの少しだけ床に下ろしてもいいような気がした。


「……ありがとう」


 それだけ言うのが精一杯で、成美は布団に横になった。

 天井の模様を眺めながら、ゆっくりと目を閉じる。


 眠りは、入院中よりも、少しだけ自然にやってきた。


     ◇


 退院から二週間。


 朝は七時頃に起きて、母と簡単な朝食をとる。

 トーストと、目玉焼きと、インスタントのスープ。

 そのあと、洗濯物を一緒に干し、十時を過ぎた頃には、ソファでうとうとしてしまう。


 昼前に少し散歩をして、午後は病院のリハビリに通う日もある。

 耳鳴りとめまいは、完全には消えていない。

 それでも、山道のカーブを毎日運転していた頃に比べれば、体は確実に静かになっていた。


 夜は、十時前には布団に入る。

 睡眠導入剤は、医師と相談しながら、少しずつ減らしている。

 薬の力を借りなくても眠れる日が増えたことが、小さな自信になった。


 手帳のページは、以前のように授業や会議の予定で真っ黒にはならない。

 その代わり、病院の予約と、ハローワークの相談日と、カウンセリングの日が、ぽつりぽつりと書き込まれていく。


「在宅の事務とか、データ入力とか、そういう求人も増えてきていますよ」


 ハローワークの障害者雇用担当の職員は、パソコンの画面を見せながら言った。

 四十代くらいの女性で、話し方はゆっくりしている。


「週二日から、短時間勤務も相談可、というところもあります。

 通勤時間が長いのは負担になりますから、できれば自宅から近いか、在宅のものを中心に探していきましょう」


「……人と話すのは、どのくらいありますか」


 成美は、自分でも意外な質問をしていた。


「電話応対が多い仕事だと、どうしても音や情報量が多くなるので、負担が大きいかもしれません。

 メール対応中心の仕事や、決まった手順で進められる事務作業のほうが、山本さんには向いていると思います」


 職員は、カルテのメモを見ながら、そう答える。


「“集中してひとつの作業を進める力がある”というのも、立派な強みですよ。

 それを活かせる職場を、一緒に探していきましょう」


 “強み”という言葉に、成美は少しだけ戸惑った。

 これまで、自分の特性はずっと“弱点”として扱われてきた気がする。


 マルチタスクが苦手。

 急な変更に対応できない。

 音や光に疲れやすい。


 それでも、黒板の板書をひとつずつ丁寧に書いていくことや、テストの採点を黙々と続けることは、苦ではなかった。

 その部分だけを切り取って見てくれる場所が、この世にあるのだとしたら。


 帰り道、駐車場から空を見上げる。

 雲は薄く広がり、ところどころ青空がのぞいていた。


(……“普通に休んでいい仕事”)


 病院で医師が言った言葉が、また頭の中によみがえる。


 ほんの少し前まで、「過労で倒れたい」と本気で願っていた自分がいた。

 あの頃は、“休む”という選択肢が、完全に消えていた。


 今も、未来が明るいとは言えない。

 相談員と一緒に求人票を見ても、「本当にできるのか」「また迷惑をかけるんじゃないか」と不安のほうが先に立つ。


 それでも、「いつか、“休んでいい”と言ってもらえる職場に出会えるかもしれない」と、かすかに思えるようになっただけでも、大きな変化だった。


     ◇


 その夜、夕食を終えた頃。


 ダイニングテーブルの上でスマホが震えた。

 画面には、「佐川瑞希」の名前が表示されている。


「あら、学校の先生?」


 母が、興味深そうに覗き込む。

 成美は小さくうなずいて、メッセージアプリを開いた。


『成美先生、退院おめでとうございます。

 突然ごめんなさい。体調はどうですか』


 画面の向こうから、あの明るい声が聞こえてくるような気がした。

 文字は丁寧なのに、ところどころに絵文字が入っていて、佐川らしい。


 成美は、息を整えてから、ゆっくりと返信する。


『ありがとうございます。

 まだ本調子ではないですが、少しずつ生活に慣れてきました』


 送信ボタンを押すと、すぐに返信が返ってきた。


『よかった……。

 本当は、お見舞いにも行きたかったんですけど、先生が休んでいる間もいろいろバタバタしてしまって。ごめんなさい』


 その言葉に、成美は首を横に振った。

 もちろん、画面の向こうには伝わらない仕草だ。


『いえ、そんな。

 きっと、学校も大変ですよね』


 と返すと、しばらくしてから、少し長めのメッセージが届いた。


『大変は大変です。

 山本先生の分の授業は、非常勤の先生と、他の先生たちで何とか回しています。

 でも、あの日以降、うちの学校で、“残業何時間いったわ”って笑いながら自慢する人はいなくなりました』


 そこで、一度メッセージが途切れる。

 新しい通知が、すぐに重なった。


『前は、“今月八十時間超えたわー”って、ちょっとした武勇伝みたいになっていたんです。

 私も、笑って聞き流していました。

 でも、体育倉庫から山本先生が運ばれていくのを見てから、それを笑い話にはできなくなりました。

 “笑っている場合じゃない”って、みんな、どこかで分かってしまった感じです』


 画面の文字が、にじんで見えた。

 佐川は、あの日、裏口のサイレンを聞きながら授業を続けていたひとりだ。


 続けて、もうひとつメッセージが届く。


『これは、山本先生にとっては、何の慰めにもならないかもしれません。

 でも、あの出来事で、“この働き方はおかしい”って、声に出す人が少し増えたのは本当です。

 校長も教頭も、“働き方改革”って言葉を、前よりもちゃんと口にするようになりました。

 すぐに大きくは変わらないと思いますけど……。

 少なくとも、“倒れるまで頑張るのが当たり前”とは、もう誰も言い切れなくなりました』


 誰も悪者ではない現場。

 でも、構造に飲み込まれて、みんな少しずつ壊れていく。


 あの学校で倒れた自分を思うと、胸の奥はまだざらざらする。

 それでも、「何も変わらなかった」わけではない、と知ることができたのは、救いだった。


『……ありがとう。

 そう言ってもらえると、少しだけ、あの日のことを思い出すときの苦しさが和らぎます』


 そう打ち込んでから、成美は、ふと指を止めた。

 別の言葉が、自然と浮かんでくる。


『どうか、佐川先生自身も、無理しすぎないでください』


 送信すると、今度は少し時間を置いてから返信が来た。


『はい。

 “お互いさまだから”って笑ってごまかすの、そろそろやめようって、若手同士で話しています。

 いつか、“普通に休める学校”になれたらいいんですけどね』


 画面の向こうで、佐川が肩をすくめる姿が目に浮かぶ。

 それは、現場に残った人たちの、小さな抵抗だ。


 成美は、スマホをテーブルに置き、深く息を吐いた。

 自分は、もうあの職員室には戻らない。

 戻れない。


 それでも、自分が倒れたことで、誰かの心に「これはおかしい」という種がまかれたのだとしたら。

 その種が、いつか芽を出してくれたらいい――そう、静かに願った。


     ◇


 翌朝。


 窓の外から、鳥の声が聞こえる。

 山間の朝は、相変わらず早い。


 カーテンを少しだけ開けると、柔らかい光が、部屋の中に流れ込んできた。

 山の稜線が、淡い金色の縁取りをまとっている。


 時計は、七時を少し回ったところ。

 かつてなら、この時間にはもう、車のエンジンをかけていた。

 山道に向かって、ハンドルを握りしめていた。


 今日は、布団の中で、一度ゆっくり伸びをしてから起き上がる。

 体の重さは、まだ完全には取れていないが、「行かなきゃ」という焦りに突き動かされる感覚はない。


 キッチンに行くと、母がコーヒーを淹れていた。

 湯気の向こうで、振り返って笑う。


「おはよう。よく眠れた?」


「うん。まあまあ」


「よかった。今日は、何か予定あったっけ?」


「午後から、カウンセリングだけ。

 午前中は、少し求人サイト見てみようかなって」


「無理しないでね。

 見てるだけで疲れたら、途中でやめていいんだから」


「分かってる」


 トーストにバターを薄く塗りながら、成美は笑った。


(“途中でやめていい”か)


 学校にいた頃、そんな言葉をかけられたことはなかった。

 「途中で倒れたら困る」とは言われても。


 食器を片づけてから、自室に戻る。

 机の上の観葉植物は、昨日よりも少しだけ葉を膨らませているように見えた。


 ノートパソコンを開き、求人サイトのページを開く。

 「在宅」「事務」「障害者雇用」

 いくつかのキーワードを入れると、一覧に、いくつかの仕事が並んだ。


 週二日、四時間勤務、在宅可。

 メールによる問い合わせ対応。

 マニュアルあり。


 条件だけ見れば、「できそうかもしれない」と思えるものもある。

 ただ、応募ボタンをクリックする勇気は、まだ出ない。


 指を宙で止めたまま、成美は、自分に問いかける。


(私は――本当は、どうしたいんだろう)


 過労で倒れたいと願っていた頃の自分。

 死にたいと付箋に書き続けていた自分。

 そのどちらも、本心のすべてではなかった。


 本当は、ただ。


「生きて、働きたいんだと思う」


 声に出してみると、その言葉は、思ったよりも自然に口からこぼれ落ちた。


 誰かに褒められるとか、役に立つとか。

 そういうことも大事かもしれないけれど、今はまだ、そこまで考えられない。

 「今日はここまででいい」と、自分で自分に言える働き方を、どこかで見つけたい。


 すぐには難しいかもしれない。

 応募しても断られるかもしれない。

 また、途中で体調を崩すかもしれない。


 それでも、「過労で死ねたら楽なのに」と思っていたあの日々から、一歩だけ外に出た自分がいる。

 その一歩を、無駄にはしたくなかった。


 ノートパソコンを閉じて、窓を開ける。


 ひんやりとした山の空気が、部屋の中に流れ込んでくる。

 遠くで、トラックの音が微かに聞こえた。

 きっと、あの山の向こう側には、今も子どもたちの声が響いているのだろう。


 成美は、窓の桟に手を置き、空を見上げた。


 山間の朝の光は、相変わらずやさしくて、

 ただひとつ違うのは――

 もうあの学校へ向かうハンドルを握っていないことだけだった。

 ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


 この物語で描いた出来事はフィクションですが、いくつかの実話をもとにしています。そして、山本成美先生だけの話、「自分にはあり得ない話、関係ない話」では決してないと思っています。むしろ、現実のほうがもっと生々しく、もっと複雑で、もっと救いの少ないケースもたくさんあるのでしょう。


 山本成美先生は、「弱いから壊れた人」ではありません。

 「迷惑をかけたくない」「役に立ちたい」という、ごく当たり前で、むしろ社会が好むタイプのまじめさを、そのまま極端な環境に投げ込まれた結果として壊れていきました。


 では、何が悪かったのでしょうか。

 学校でしょうか。校長でしょうか。人事でしょうか。本人の「自己肯定感の低さ」でしょうか。


 たぶん、どれも少しずつ正しくて、どれも「それだけが犯人」ではありません。

 「お互いさまだから」「子どものためだから」「今どき忙しくない職場なんてないから」──耳慣れた言葉が積み重なって、誰も悪気がないまま、ブレーキのない働き方が当たり前になっていく。その構造そのものが、いちばんの「加害者」なのかもしれません。


 あなたの身の回りにはどうでしょう。

 ・休むことを「甘え」と言わせてしまう空気はありませんか。

 ・残業を笑い話にしてしまう場面はありませんか。

 ・「大丈夫」と言っている人の、顔色や言葉の裏側を、見ないふりをしていませんか。


 そしてもうひとつ、もしこの物語を読みながら、「これは自分のことかもしれない」と胸がざわついた方がいたなら。

 どうか、「自分が弱いからだ」とひとりで結論を出さないでほしい、と願っています。環境が悪いこともあります。仕組みが壊れていることもあります。「倒れるまで働く」がデフォルトの社会のほうがおかしい、という視点を、どうか手放さないでください。


 この作品は、「誰かを糾弾する」ためではなく、「何があれば、成美はここまで追い込まれずに済んだのか?」を読者の方と一緒に考えるために書きました。

 制度なのか、現場の文化なのか、家族や友人のまなざしなのか。あるいは、「もう無理です」と言葉にする練習や、それを受け止める技術なのか。答えはひとつではないはずです。


 もし、いままさにしんどさの渦中にいる方がいたら、信頼できそうな人や、専門の相談窓口、医療機関に、どうか早めに声を届けてください。「助けを求める」という行為は、わがままでも負けでもなく、生き延びるための正当な権利です。


 「それでも、明日は来る」。

 その明日が、少しでも「普通に休める明日」に近づくように。

 この物語が、そのための小さな問いかけとして、あなたの心のどこかに残ってくれたらうれしいです。


 ここまでお付き合いくださってありがとうございました。


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『合理的配慮のない教室で、私は壊れた ― ASD教師の再生記録 ―』

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