第25話「報告書の行方」
翌週の月曜日、午後四時三十分。
子どもたちが下校したあとの職員室には、プリントを束ねるホチキスの音と、コピー機の低い唸りだけが残っていた。
カーテン越しの光はすでに薄く、蛍光灯の白さが、疲れた大人たちの顔色をいっそう平板に見せる。
その一角、窓際近くの丸テーブルに、数人の教員が集まっていた。
校長は出張で不在。代わりに、黒瀬教頭が中心に座り、その隣に主幹教諭の村井、向かい側に若手の男性教師と、佐川瑞希が並んでいる。
テーブルの真ん中には、コピー用紙をクリップで止めた書類一式。
表紙には、きっちりしたゴシック体でこう印字されていた。
「職員健康・安全管理に関する報告書
―山本成美教諭 体調不良事案―」
黒瀬は、そのタイトルを見つめながら、深く息を吸った。
胸のあたりが、重く、ぎゅうっと掴まれているようだ。
「……では、続きですが」
かすれた声で切り出し、老眼鏡をかけ直す。
その仕草ひとつにも、ここのところの寝不足が滲んでいた。
「ええっと……。ここからが、“事案の原因及び再発防止策”の部分になります。
教育委員会のほうから、『まずは校内で叩き台を作ってほしい』という依頼がありましたので、私のほうで案をまとめてみました」
そう言って、黒瀬は数枚の紙を、テーブルの真ん中にそっと差し出した。
村井が手を伸ばして一部を取り、隣の若手教師と佐川に回す。
「すみません、ざっくりですが……。
まず“原因”のほうから」
紙には、箇条書きでいくつかの文言が並んでいた。
一 本人の体調管理及び服薬状況の不適切さ
一 業務内容に対する自己申告不足(負担感等を十分に共有していなかった)
一 職場全体としての業務量の多さ
一 障がい者雇用教諭としての勤務形態・配慮のあり方についての検討不足
若手の男性教師は、三十代前半。
眼鏡の奥の目を動かしながら、一行一行をゆっくり追っていく。
その横で、佐川は、眉間に細い皺を寄せていた。
読み進めるほど、胸の奥がざわざわする。
「……“本人の体調管理および服薬状況の不適切さ”」
村井が、いちばん上の行を、小さく読み上げた。
「ここは、教育委員会の担当から、『必ず入れてほしい』と言われましてね」
黒瀬が、申し訳なさそうに説明する。
「市販薬とはいえ、睡眠導入剤を常用していたという点は、公務災害かどうかの判断にも関わる、と。
“それを学校がどこまで把握していたか”“本人が自ら管理していたか”を、きちんと書く必要があるそうです」
そう言いながらも、どこか釈然としていない表情だった。
若手教師が、ペン先でその行を軽く指しながら、口を開く。
「……“不適切さ”という言い方だと、かなり印象がきつくありませんか。
あたかも、山本先生が“危ない飲み方”をしていたみたいに聞こえるというか」
「実際、毎晩飲んでいたわけですし……」
黒瀬が、困ったように視線をさまよわせる。
「医師からも、『市販薬とはいえ心配なレベルだった』と言われましたしね。
そこをまったく触れないわけにもいかない」
「でも……」
若手教師は、言葉を選びながら続けた。
「眠れなくなるくらいしんどくしていたのって、本人だけの責任じゃないですよね。
残業も多かったし、通勤時間も長かったし。
“不適切だった”という一言で片付けてしまうのは、ちょっと……」
テーブルの上に、短い沈黙が落ちる。
コピー機の機械音だけが、遠くで続いている。
「……まあ、そのあたりは、“他の要因も含めて総合的に”という形でね」
黒瀬が、どこか自分に言い聞かせるように言った。
「全部を山本先生のせいにするつもりは、もちろんありません。
だからこそ、三行目と四行目に、“職場全体としての業務量の多さ”や、“配慮のあり方の検討不足”も入れていますし」
「“も”って言ってる時点で、配分がもう……」
思わず漏れた佐川の小声に、村井がチラッと目をやる。
「佐川先生」
「あっ、すみません」
佐川は背筋を伸ばし、改めて紙を見下ろした。
“本人の体調管理不足”という文字。
その黒々としたインクの線が、ひどく冷たく見える。
あの日、体育倉庫で倒れていた成美の顔色。
血の気がなく、唇も真っ青で、触れたら折れてしまいそうだった身体。
あの姿を見てしまっているからこそ、「管理不足」という言葉が、どうしても喉につかえた。
「……“体調管理不足”って、どこまでを指すんでしょうね」
佐川は、自分でも驚くほど落ち着いた声で言った。
「毎日七時前に学校に来て、夜の十時過ぎまで残って。
授業して、トラブル対応して、部活も見て。
そのうえで、“もっと自分の体調を管理しろ”って、どうすればよかったんでしょうか」
黒瀬は、視線を紙から離さないまま、口元だけでため息をついた。
「そこを感情的に考え出すと、書類が前に進まないんですよ、佐川先生」
口調は少しきつかったが、その裏に、同じような苛立ちが潜んでいることを、佐川も薄々感じている。
「この書類は、“誰がどれだけ悪いか”を決めるためのものではない、と教育委員会は言っています。
『事実を整理して、今後に活かすための資料』だと」
「でも、言葉ひとつで、“責任の置き場所”は変わります」
若手教師が、静かに反論した。
「“体調管理不足”と書けば、読む側は『なぜ自分でケアしなかったのか』と考えるでしょうし。
“過重な業務により体調悪化を招いた”と書けば、『仕事のさせ方は適切だったのか』というほうに焦点が当たる」
村井は、黙ってそのやり取りを聞いていた。
手元の報告案の文字が、少しにじんで見える。
あの日の記憶が、ぐいと蘇る。
用務員からの「体育倉庫で先生が倒れている」との知らせ。
駆けつけたときの、あの冷たい床と、成美の意識のない顔。
救急要請をためらう空気。
「大事にしたくない」という言葉。
「それより、もし手遅れになったほうが大事になる」という若手の声。
あのとき、“どちら側の言葉”を選びかけていたか。
村井は思い出すのが嫌で、無理やり考えを止めた。
「……村井先生は、どう思われます?」
若手教師が問いかける。
村井は、少しだけ肩をすくめてから、口を開いた。
「どうと言われてもな」
低い声だった。
「『体調管理不足』という言葉に引っかかる気持ちは、分かる。
ただ、現実問題として、教育委員会は“個人の健康状態”についても、きちんと触れてほしいと言っている。
山本先生が、睡眠薬を常用していたことも、通勤時間が長かったことも、事前に十分には共有されていなかった。
そこをまったく書かないのは、それはそれで事実の隠蔽になってしまう」
「共有していなかった、というより……」
佐川が、思わず口を挟む。
「共有しづらい空気だった、というほうが近い気がしますけど」
村井は、言葉を飲み込み、苦笑に似た表情をした。
「それも、そうだな」
「“無理なら言ってください”って人事課には言われましたけど……。
“無理だ”と言ったときに、本当に何かが変わるって思えるような雰囲気、ありましたか」
佐川の質問は、誰かひとりを責める調子ではなかった。
自分自身も、そこにいた“大人側”の一人として、問うている。
村井は、黙って視線を落とす。
合理的配慮。
採用前のオリエンテーションで、パワーポイントのスライドに踊っていた言葉。
“障がい者が働きやすい職場づくりを”
その理想と、山間の中学校の現実。
現場は、常に「今日、目の前のトラブルをどう乗り切るか」で手一杯だ。
長期的な仕組みづくりに手を回す余裕など、ほとんどない。
「……正直に言えば」
村井は、観念したように息を吐いた。
「“無理なら言ってくれ”と言ったとき、自分も“言われたらどうしよう”と思っていた」
佐川と若手教師が、驚いたように目を上げる。
「“無理だ”と言われたら、その分、誰がどの授業を持つか、どうやって穴を埋めるか、考えなきゃいけなくなる。
ただでさえ、ギリギリの人数なのに。
だから心のどこかで、“何も言わずに頑張ってくれたら助かる”と思っていた。
それが本音だったんだと思う」
言いながら、村井は苦笑を浮かべた。
「情けない話だがな。
そういう本音が透けて見えていたとしたら、“無理だと言いづらい空気”が生まれて当然だ」
黒瀬は、手元のペンを握りしめたまま、その言葉を聞いていた。
自分もまた、同じ穴の中にいる。
報告書の文言ひとつで、今後の扱いが変わる。
山本成美の“倒れ方”が、個人の問題として処理されるのか、組織の問題として扱われるのか。
その分かれ目が、自分のペン先に委ねられているような感覚があった。
「……では」
黒瀬は、ゆっくりと口を開く。
「“本人の体調管理及び服薬状況の不適切さ”という表現は、少し修正しましょうか。
たとえば――」
ペン先が、紙の上を滑る。
「“本人の体調不良及び睡眠障害の存在(十分な支援につながっていなかったこと)”」
書きながら、黒瀬は読み上げた。
「どうでしょう。“不適切さ”というニュアンスは、これでだいぶ弱まると思いますが」
若手教師が、紙を覗き込んでうなずいた。
「……そうですね。“不適切”というより、“支援につながっていなかった”と書いてくれたほうが、状況に近い気がします」
佐川も、小さく「ありがとうございます」と言った。
「あと、二行目の“自己申告不足”のところも……。
“本人からの負担感の訴えが限定的であった一方で、職場側も十分に拾いきれていなかった”とか。
双方の問題として書けないですか」
「“双方の”ね……」
黒瀬は、その言い方を心の中で転がしてみる。
“双方にコミュニケーション上の課題があった”
そうやってぼかすのか、それとも。
ペン先が、再び紙の上を走る。
「“業務負担に関する情報共有が十分とは言えず、本人・職場双方で負担の蓄積に気づくのが遅れた可能性”」
読み上げると、村井が「いいんじゃないか」とうなずいた。
「個人だけに責任を押しつけていない、ということは伝わるだろう」
「ありがとうございます」
若手教師が、素直に礼を言う。
黒瀬は、少しだけ肩の力を抜いた。
「ただし」
そこで、声のトーンをわずかに戻す。
「三行目、四行目の“職場全体としての業務量の多さ”“配慮のあり方の検討不足”については、あまり踏み込みすぎると、“学校全体の管理責任”という話になってきます。
このあたりは、教育委員会とすり合わせながら、表現を整える必要があるでしょう」
そう言いつつも、三行目の末尾に、さらりと一文を足した。
「“なお、当該事案は、山本教諭個人の資質・努力の問題ではなく、職場全体の業務体制および障がい者雇用の仕組みに起因する側面も大きいと考えられる”」
書き終えたところで、黒瀬はふう、と息を吐いた。
「ここまでは、私の責任で入れておきます」
その言葉に、村井が目を見開いた。
「本当に大丈夫ですか」
「大丈夫かどうかは、分かりません」
黒瀬は、自嘲気味に笑う。
「ただ、“全部、本人の体調管理不足でした”とだけ書く報告書に、私は判を押したくない。
それだけの話です」
その背中には、管理職としての苦さと、人間としての良心が、ぎりぎりの線で共存していた。
佐川は、黒瀬の横顔を見つめながら、胸の奥に小さな火が灯るのを感じていた。
それは、大きな炎ではない。
報告書ひとつで、学校が劇的に変わるわけでもない。
けれど、“何も感じないわけではない”大人が、この場にちゃんといる。
その事実は、確かに胸に残った。
◇
数日後。
市の教育委員会の会議室。
白い壁に時計が掛かり、長机がコの字型に並べられている。
端のほうに置かれたポットからは、まだ湯気が立っていた。
机の中央には、「山東第二中学校 職員健康・安全管理に関する報告書」と書かれたファイル。
担当指導主事の男が、それを開きながらページを繰っていく。
「……ふむ。“本人の体調不良および睡眠障害の存在(十分な支援につながっていなかったこと)”」
声に出して読み、眉をわずかに上げた。
「随分、丁寧な書き方をしてきましたね、黒瀬教頭」
対面に座る黒瀬は、背筋を伸ばしたまま、控えめにうなずく。
「事実関係として、医師からの見立てや、ご本人・ご家族から聞き取りした内容も踏まえております。
個人の問題としてだけ切り取るのは、適切ではないと判断しました」
指導主事は、「そうですか」と曖昧に微笑み、さらに読み進める。
「“業務負担に関する情報共有が十分とは言えず、本人・職場双方で負担の蓄積に気づくのが遅れた可能性がある”……」
そこで一度言葉を切り、最後の行に目を落とした。
「“なお、当該事案は、山本教諭個人の資質・努力の問題ではなく、職場全体の業務体制および障がい者雇用の仕組みに起因する側面も大きいと考えられる”」
指導主事は、軽く咳払いした。
「ここは……少し表現を弱めてもらうことはできますか」
「弱める、と言いますと」
「“起因する側面も大きい”ではなく、“起因する側面もある”程度に。
“大きい”と書いてしまうと、“体制のほうが悪い”というニュアンスが強くなりすぎます。
もちろん、業務体制に課題がないとは言いません。
ただ、この報告書は、“責任の所在”を一方的に示す文書ではなく、“改善の方向性”を共有するためのものですから」
言葉を選んでいるようでいて、実際には“ここまでは認めない”という線引きがはっきりしていた。
黒瀬は、内心で小さくため息をつく。
(……まあ、そう来るだろうと思っていた)
それでも、「ある」と「大きい」の差をめぐって、今ここで粘るかどうか。
瞬時に天秤を動かし、黒瀬は決めた。
「では、“側面もあると考えられる”に修正いたします」
「助かります」
指導主事は、ほっとしたように微笑んだ。
「全体としては、よく整理された報告書だと思います。
特に、“今後の再発防止策”の部分。
“業務量の見直し”“障がい者雇用教諭に対する配置・業務の明確化”“心身の不調に関する早期相談窓口の周知”――このあたりは、他校にも共通する課題ですね」
指導主事は、そこだけは素直に評価した。
「ただ、“残業時間の上限設定”については、現場の実情も踏まえる必要がありますので、文言を“上限設定を含めた検討”にとどめておきましょう。
いきなり“上限を超えさせないこと”と断言してしまうと、守れなかったときに、今度はそちらの責任追及が来てしまいますから」
黒瀬は、やや自嘲気味に頬を引きつらせた。
「“守れない約束は書かないほうがいい”と」
「そういうことです」
やりとりは、どこか事務的だった。
悪意というより、“この枠の中で何とかしましょう”という、役所独特の慎重さが漂う。
黒瀬は、その枠の狭さに息苦しさを感じながらも、現実的なラインを見極めていくしかないと、自分に言い聞かせた。
報告書は、やがて修正を反映したうえで正式な文書となり、ファイルに綴じられる。
そこに記された言葉は、山本成美の身体と心を本当に救うわけではない。
それでも――。
“個人の体調管理不足”だけで片づけられる一文にはならなかった。
“職場全体の業務体制”や“障がい者雇用の仕組み”という言葉が、薄墨のように、最後のページに残った。
◇
その頃、山間の中学校では、いつも通りの授業が続いていた。
生徒たちは、新しい体育教師が仮に入ったことを「代わりの先生」と呼び、山本成美の名前を口にする回数は、少しずつ減っていく。
職員室の机には、彼女の名札だけが、ぽつりと残っている。
昼休み、佐川はその名札の前を通るたび、心の中で小さく会釈をした。
報告書の最後の一文が、どこまで現場を変えるかは分からない。
けれど、少なくとも自分は――と佐川は思う。
誰かが「しんどい」と言ったとき、「お互いさまだから」と笑って済ませる大人にはなりたくない。
「休んだら迷惑」としか言えない職場に、これ以上、若い先生を送り込むようなことはしたくない。
その小さな決意もまた、どこかで誰かの“報告書”には残らない。
紙には記録されない、心の中だけの行方だ。
だが、そうした見えない行方のひとつひとつが、少しずつ世界の形を変えていくのかもしれない――と、彼女は信じたいと思っていた。




