第24話「診断:壊れていたのは世界の方」
目を開けたとき、いちばん最初に見えたのは、白い天井だった。
蛍光灯の枠と、天井の継ぎ目の細い線。
普段なら一瞥して終わるようなものが、今日はやけにくっきりと目に入ってくる。
次に、消毒液の匂いが鼻を刺した。
かすかにプラスチックとゴムの匂いもする。
体の下は固く、シーツがきゅっと張っている。
(……ここ、どこ)
喉が乾いて声にならない。
目だけをゆっくり動かすと、視界の端に、カーテンの端と、金属の点滴スタンドが見えた。
病院だ、と理解するのに、数秒かかった。
「……成美?」
掠れた呼び声に、視線をそちらへ向ける。
ベッドの脇に、母が座っていた。
さっきまで顔を伏せていたのか、目の周りは赤く、髪も少し乱れている。
「お母さん……?」
ようやく、かすれた声が出た。
自分の声が、思っている以上に弱々しい。
「よかった……気がついたのね」
母が笑おうとして、うまく笑いきれない顔をした。
そのまま、手を握ってくる。
冷たくも熱くもない、少し汗ばんだ手。
「ここ、病院?」
「そう。学校で倒れたのよ。救急車で運ばれて……。今は点滴とお薬で、体を休ませてるところ」
「ああ……」
そこで、ぶつぶつと途切れた記憶が、少しずつ繋がっていく。
眩しい教室。
黒板の文字がにじむ。
子どもの声が遠くなっていく。
三時間目。
チャイム。
倉庫。
暗い匂い。
体育用具の影。
床が近づいて――。
そこから先が、真っ白だ。
「どれくらい寝てた?」
自分でも驚くほど、呑気な質問が口をついた。
母は一瞬きょとんとして、それから小さく笑う。
「昨日の午後に運ばれて、一晩。今、午後の三時だから……丸一日と、少しかな」
「丸一日……」
そんなに、時間が飛んでしまったのか。
時計の針が、自分の知らないところで勝手に進んでいたことに、妙な置いてきぼり感を覚える。
そのとき、カーテンの向こうから軽くノックする音がした。
「失礼します。山本さん、少しお話、よろしいですか」
白衣の男性が入ってきた。
五十代くらいだろうか。髪に少し白いものが混じり、細縁の眼鏡をかけている。
手にはバインダーを挟んだカルテ。
「担当医の斎藤です。昨日、お母さまとも少しお話しましたが、ご本人が目を覚ましてから、あらためて説明しようと思いまして」
母が椅子から腰を浮かせかけると、「どうぞ、そのままで」と医師が軽く手を振った。
「……ご迷惑を……」
成美は、自分でもびっくりするくらい条件反射でそう言っていた。
倒れたのはこっちなのに、“迷惑をかけた”という言葉が先に出る。
医師は、その言葉に眉をわずかに寄せたが、責めるでもなく落ち着いた声で言った。
「迷惑ではないですよ。ここは、具合の悪い方が来る場所ですからね」
さらりと言われて、成美は一瞬、返事ができなかった。
「では、説明していきますね。……昨日、救急搬送されたときのことですが、意識レベルは低下しているものの、呼びかけには反応がありました。ただ、自力歩行はできない状態。脈拍は速く、血圧はやや低め。脱水も疑われました」
淡々とした説明が続く。
成美は半分は聞きながら、半分は医師の口元の動きだけをぼんやり眺めていた。
「検査の結果、幸い、頭のCTに異常はありませんでした。心電図も、致命的な不整脈などは見られません。ただ、血液検査では、明らかな疲労のサインがいくつも出ていました。鉄分も足りていないし、ホルモンのバランスも崩れている。いわゆる、自律神経ががたがたの状態ですね」
「自律神経……」
「簡単に言うと、体のオン・オフを切り替えるスイッチです。それが、ずっとオンのままになってしまっている。休むべきときに休めていない状態が続くと、こういうことが起きます」
医師はカルテをめくりながら、ちらりと成美を見た。
「それから、お母さまからもお聞きしましたが……睡眠導入剤を、ここ数週間、ほぼ毎晩飲まれていましたね? 市販薬とはいえ、量と頻度からすると、正直、かなり心配なレベルです」
母が申し訳なさそうに目を伏せる。
「……すみません。私、ちゃんと把握できてなくて」
「いえ。ご本人が『大丈夫、大丈夫』とおっしゃっていたのだと思いますから」
医師の言葉に、成美の胸がちくりとした。
図星だった。
眠れない夜が続いて、ドラッグストアで箱をまとめてカゴに入れた。
「大丈夫?」と店員に聞かれたらどうしよう、と少し期待して、少し怯えて。
けれど、誰にも何も言われなかった。
家でも、母に「ちょっと眠れないから」と軽く言って、箱を自室に持っていった。
そのときの母の不安そうな顔から、視線をそらしたのは自分だ。
「山本さん」
医師が、今度ははっきりとした口調で名前を呼んだ。
成美はびくりと肩を揺らす。
「今回の倒れ方は、“偶然”ではありません。複数の要因が重なって、いつこうなってもおかしくない状態が続いていた、その結果です。
まず、残業時間。月八十時間を超えていたと、勤務の記録を見せてもらいました」
母が「そんなに……?」と小さくつぶやいた。
「それから、通勤。片道一時間半ですね。往復で三時間。つまり、勤務時間に加えて、毎日三時間、慣れない車の運転をしていたわけです。
睡眠時間は、平均三時間半から四時間。入眠困難。途中覚醒あり。食事も、一日一食に近い日が多かったようです」
言葉が、針のように胸に刺さってくる。
医師はまとめるように言った。
「残業八十時間超。通勤片道一時間半。睡眠導入剤常用。加えて、もともとの体質としての虚弱さや、ASDの特性。これだけ揃っていれば――」
一拍置いて、はっきりと言う。
「倒れる理由は、十分すぎるほどあります」
成美は、枕の上で目を見開いた。
“倒れる理由”。
いつも自分に向けていた言葉は、その逆だ。
こんなことで倒れるなんておかしい。
みんなもっと頑張っているのに。
自分が弱いだけだ。
甘えているだけだ――。
医師は続けた。
「診断名としては、過労による自律神経失調症、それに重度のストレス反応。うつ状態も併発しています。あとは、生まれ持ったASD特性と、現在の職場環境とのミスマッチですね」
「ミスマッチ……」
「ええ。山本さんご自身が“悪い”わけではなく、山本さんの感じ方や、得意・不得意と、今の仕事のやり方が、あまりにも合っていない。
それに、過重労働や『休めない雰囲気』が上乗せされて、心身ともに限界を超えた、という理解です」
“悪いわけではない”という言葉に、成美の喉がきゅっと鳴った。
「……でも」
かすれ声で、やっと反論がこぼれる。
「私、頑張り方が下手で。要領も悪くて。ほかの先生たちは、同じような時間働いてても平気そうで……。倒れたの、私だけで……」
医師はきっぱりと首を横に振った。
「平気そうに見せているだけ、という可能性も高いですよ。昨日、学校側から事情を聞いたとき、『うちの教員はみんな疲れている』と、管理職の方もおっしゃっていました。
それに、“倒れなかったから平気”というわけでもありません。山本さんの場合は、たまたま身体のほうが先に悲鳴をあげた。それだけのことです」
母が、そこで初めて口を開いた。
「先生……。この子、もっと早く病院に連れてくるべきだったんでしょうか」
「結果論で言えば、そうですね」
医師は嘘をつかなかった。
「四月の段階で、眠れない、食べられない、仕事のことばかり考えてしまう、という症状が出ていたようですから。本来なら、その時点で心療内科や精神科に相談してほしかった。
でも、現実には、『忙しくて病院に行く時間がない』『周りに迷惑をかけたくない』という気持ちが勝ってしまうんですよね」
その言葉は、成美自身よりも、母の胸に刺さったようだった。
母は視線を落とし、「そうですね……」と絞り出すように言った。
「大事なのは、今からです」
医師は柔らかい声に戻した。
「今は、とにかく休むこと。心身ともに、『働く』というモードから一度離れてもらう必要があります。少なくとも数週間は、しっかりと休養を取っていただきたい。
そのうえで、心理士と一緒に、これからの働き方を考えていく。そういう流れになります」
「数週間……」
頭の中に、学校の風景がよぎる。
職員室。
山積みのプリント。
五月の行事予定。
部活。
テスト。
電話のベル。
あれもこれも、全部、自分抜きで進んでいくのだ。
そして、その穴を、誰かが埋めることになる。
胸がざわざわと騒ぎ始める。
「……休んだら、迷惑が」
言いかけたところで、医師が穏やかに遮った。
「その話は、あとで心理士ともじっくりしてみてください。
ひとつだけ、今お伝えしておきたいことがあります」
医師は椅子を少し成美のほうへ寄せ、視線の高さを合わせた。
「山本さん。
今回、壊れたのは、あなたではありません」
はっきりした声音だった。
「もちろん、身体や心の症状が出たのは、あなたのほうです。でも、それは“壊れていた場所”が悪いからです。
休んだら迷惑と言われる職場。残業が常態化している職場。特性上の不得手となる車の運転での通勤を片道一時間半、前提にしている配置。
そういったものを、私たちは『環境』と呼びます。
壊れていたのは、その環境のほうなんです」
“環境”という言葉が、ゆっくりと胸の中に沈んでいく。
「あなたは、その壊れたところに、たまたま置かれてしまった。
それでもなんとか頑張ろうとして、頑張りすぎて、今回はこうして倒れた。
だから、『自分が壊れている』『自分がダメだからこうなった』とは、どうか思わないでください」
あまりにも真っすぐに言われて、成美は思わず目をそらした。
その先に、母がいた。
母も泣きそうな顔で、うなずいていた。
「……そうだよ、成美。
あんた、ずっと自分を責めてたでしょう。
“向いてない”とか、“ごめんなさい”とか、いっぱい……」
言いかけて、母は言葉を飲み込んだ。
付箋のことを、ここで持ち出していいのか迷っているのが分かる。
医師はそれに気づいたのか、「心理士からも、詳しくお話を伺っています」とだけ言った。
「このあと、少し休んでいただいてから、心理士との面談の時間を取りたいと思います。今日は長くはしませんが、“これからどうするか”の入り口として、お話をしてみてください」
そう言って、医師は軽く会釈し、病室を出て行った。
カーテンがゆらりと揺れる。
ドアが閉まる音が、小さく響いた。
◇
しばらくして、今度はノックの音が二回、控えめに聞こえた。
「失礼します。臨床心理士の川島と申します。よろしいですか?」
入ってきたのは、四十代くらいの女性だった。
落ち着いた紺色のカーディガンに、首から職員証を下げている。
目尻に小さな笑い皺があり、柔らかい印象だ。
「先ほど先生からもお話があったと思いますが、山本さんの今までの状況や、これからのことについて、一緒に整理していければと思っています。
今日は、初回なので、簡単に。もししんどくなったら、途中でやめてもかまいませんからね」
「……はい」
成美は、まだ少しぼんやりした頭でうなずいた。
母は「私は外にいたほうがいい?」と聞いたが、川島は成美のほうを見る。
「どうしましょう。お母さまに一緒に聞いていてもらったほうが楽なら、それでもいいですし、二人でお話ししたければ、そのようにしますよ」
成美は少し考えて、「一緒にいて」と母に目で伝えた。
母はうなずいて、ベッドの脇の椅子に座り直した。
川島は、足元の丸椅子を引き寄せ、カルテらしきファイルを膝に乗せた。
「では、まずは……山本さん、今の率直な気持ちを聞かせてもらってもいいですか。
倒れたと聞いて、病院に運ばれて。“ああ、こうなっちゃったか”という感じなのか、“どうしてこうなったんだろう”なのか」
言葉が、喉のあたりで引っかかる。
成美は少し考えてから、ぽつりと言った。
「……迷惑、かけたなって」
川島の目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「学校に、ということですか?」
「はい。急に倒れて、授業もあるのに。代わりの先生が大変で。
もうすぐテストもあるし、部活の副顧問もいくつか兼任していて……。
みんな忙しいのに、私だけ休んでるんだって思うと」
「なるほど」
川島は、ゆっくりうなずいた。
「“私だけ休んでいる”という感覚は、今までもありましたか?」
「……いつも、です。
休んでないときも、“もし休んだら”って考えてました。
『私が休んだら、誰かの授業が増える』って、先輩にも言われて……。
だから、体調が悪くても、勝手に休んじゃいけないんだって」
ベテランの早川が笑いながら言ったあの言葉が、頭の中で反響する。
『車の中で“おえおえ”言いながらでも出勤してたわよ。教師はそういうもんよ』
あれは、武勇伝みたいな口調だった。
周りの先生たちも、苦笑いしながら聞いていた。
川島は、メモを取るペンを一瞬止め、成美を見た。
「“休んだら迷惑”って、誰に教わりました?」
「え……」
「学校に入る前から、そういう考え方はありましたか? それとも、働くようになってから、だんだん身についていった感じですか?」
唐突な問いに、成美は戸惑った。
「うーん……。
もともと、人に迷惑をかけたくないって気持ちは強かったと思います。
小さい頃から、“ちゃんとしなさい”って言われることが多くて。
でも、『休んだら誰かに迷惑』って、ここまで強く思うようになったのは……教師になってからかもしれません」
自分で言いながら、ああ、と胸の奥で何かが腑に落ちる感覚があった。
「前の職場でも、『休んだら迷惑』って感覚はありましたけど……。
でも、代わりの人がいたというか。体調を崩して辞めてしまっても、『次の人を入れますから』って言われたんです。
教師は……代わりがすぐに見つからなくて。
人手もギリギリで。
だから余計に、『私が抜けたら終わりだ』って……」
言葉がしぼんでいく。
川島は「そうですね」とうなずいた。
「学校って、“代わりのきかない仕事”という意識がとても強い現場ですからね。
誰かが休むと、その分の穴を、残った人たちで埋めなきゃいけない」
そこで一度言葉を切り、川島は穏やかに続けた。
「でも、本来は、『休めないほうが異常』なんです」
成美は、思わず川島の顔を見た。
「え?」
「風邪をひいたら休む。熱が出たら休む。心身ともに限界が近いなら、なおさら休む。
それが当たり前にできる職場が、“健康な職場”です。
“誰かが倒れるまで頑張る”ことを前提に回っている職場は、身体で言えば、ずっと熱を出し続けている状態。
つまり、“病的”なんです」
川島は、言葉を選ぶように、ゆっくり話す。
「さっき先生もおっしゃっていましたが、山本さんの体と心は、壊れてしまったというより、“壊れた場所に合わせて無理やり形を変え続けた結果、ひびが入った”というイメージに近いと思います。
元の材質が悪いわけじゃない。
ただ、はめ込まれた枠のほうが、そもそも無茶な形だった」
“枠”という言い方に、成美は、あの学校の風景を思い出した。
朝七時半には教室にいて、生徒を迎える“伝統”。
「みんな忙しいから」「お互いさまだから」と言われる空気。
「障がい者雇用だけど、最初は健常の先生と同じ配置で様子を見ますね」と笑っていた人事課の担当者。
あのときは、自分だけが特別扱いを求めているような気がして、申し訳なさが勝った。
でも今思えば、“様子を見る”という名目で、何ひとつ配慮が実行されなかっただけだ。
「……でも、ほかの先生たちも、同じ枠の中にいるんですよね」
成美は呟いた。
「みんな、残業も多くて。『精神科の薬増えちゃってさ』って笑ってる先生もいて。
それでも、誰も倒れてない。
そう思うと、やっぱり私だけが、弱いのかなって」
川島は、「弱い」という言葉を、そっと指先で机から拾い上げるような表情をした。
「“弱い”って、なんでしょうね」
「え?」
「山本さんにとって、“強い人”って、どんな人ですか?」
いきなりの問いに、成美は少し考え込んだ。
「うーん……。
どれだけ忙しくても、ちゃんと仕事をこなせる人。
体調を崩しても、あまり顔に出さない人。
残業しても平気そうな人。
……泣かない人」
言いながら、自分が思い描いている像が、佐川瑞希や村井主幹の顔に重なっていく。
仕事を抱えながら、笑顔で生徒に対応する佐川。
あちこちのトラブルに呼ばれ、走り回る村井。
彼らも、へとへとだと言いながら、それでも前に進んでいるように見えた。
川島は、小さくうなずいた。
「なるほど。
たしかに、そういう人は“頼もしい”かもしれませんね。
でも、その人たちの心と体の中を、全部見たことがありますか?」
「いえ……」
「ないですよね。
だから、『倒れていない=強い』『倒れた=弱い』と単純には言えないんです。
それに、山本さんの場合、“環境との相性”という要素がとても大きい」
「相性……」
「はい。
ASD特性のある方は、感覚が他の人よりも敏感だったり、同時にいくつもの情報を処理することが苦手だったりしますよね。
山本さんは、騒音や複数の会話が飛び交う場所がしんどい、と事前に伝えていたのに、実際には、職員室の真ん中に席を置かれていた」
成美は、職員室のざわめきを思い出して、思わず目を細めた。
電話の音。プリンターの音。誰かが机を引く音。
それらが全部、同じボリュームで襲ってくる。
「それって、“メガネをかけなければ黒板の字が見えない人に、メガネなしで授業をしろと言っているようなもの”なんです」
川島のたとえは、すっと腑に落ちた。
「メガネが必要な人にメガネを渡さないで、『なんで見えないの』『ほかの人は見えてるよ』と言う。
這ってでも黒板を見に行け、と。
そんなの、無茶ですよね」
成美の唇が、わずかに震えた。
「……無茶、ですよね」
「無茶です」
川島は、きっぱりと言った。
「“休んだら迷惑”と思わせる職場こそ、病的です。
“配慮が必要な人がいる”と分かっていながら、最初から健常者と同じ枠にはめこんで、“無理なら言ってくださいね”と責任を本人に丸投げする仕組みも、同じくらい病的です。
それは、個人の努力や根性の問題ではありません」
言葉を聞きながら、成美の目尻に涙がにじみ始めていた。
自分を責める言葉は、いくらでも浮かんでくる。
向いてない。
だめだ。
ごめんなさい。
でも、「環境のほうが壊れている」と、正面から言われたことは、今まで一度もなかった。
「もちろん、山本さんにも、これからできることはあります。
ご自身の限界を知ること。
“無理なものは無理”と、少しずつ言えるようになっていくこと。
働き方を選び直すこと」
川島は、そこで一度言葉を切り、柔らかく微笑んだ。
「でも、それは、“自分が壊れているから修理する”という話ではありません。
“自分をこれ以上壊さないために、壊れた世界との距離を変える”という話です」
壊れた世界。
ゴールデンウィーク。
SNSで友人たちの旅行写真を眺めながら、「普通に働いて、普通に休む人生」を想像した日。
その“普通”が、自分には与えられていないことを、なんとなく分かっていた。
でも、それを言葉にしてもらったのは、初めてだった。
母が、静かに涙を拭った。
「先生……。
この子、家ではあんまり弱音を吐かないんです。
仕事がどんなに大変か、ちゃんと聞こうとしなかった私たちにも、問題があったんだと思います」
川島は首を横に振った。
「ご家族を責めるつもりは、まったくありません。
さっきも申し上げましたが、こういうことは“誰かひとりのせい”ではないんです。
仕組みや文化がそうさせているところが大きい。
ただ、ご家族がこうして一緒に考えてくださるのは、とても心強いことです」
成美は、母の横顔を見た。
昨日の夜、あの付箋を剥がしながら泣いていたことを、彼女はまだ知らない。
けれど、母の目の赤さを見るだけで、何があったのか、なんとなく分かる。
「……お母さん、ごめん」
思わず、言葉が出た。
「私、ぜんぜん言えてなくて。
しんどいって。
死にたいって思うぐらい、つらいって」
母は、首を激しく横に振った。
「謝らなくていいの。
言えなかったのは、あんたが悪いんじゃない。
言わせてあげられなかった、こっちの問題でもあるから」
その言い方が、妙に母らしくて、成美は少し笑いそうになった。
笑った瞬間、涙が一粒、頬をつたった。
川島が、そっとティッシュを差し出す。
「今日は、ここまでにしましょうか。
たくさん話してくださって、ありがとうございます。
また数日後、あらためて時間を取りますので、そのときに“これから”の話を一緒にしていきましょう」
成美は、ティッシュで目元を押さえながら、うなずいた。
胸の奥には、まだ重たい石がいくつも転がっているようだったが、その隙間に、少しだけ空気の通り道ができた気がした。
自分だけが壊れているわけじゃない。
世界のほうにも、ひびが入っている。
そのことを、医師と心理士の言葉が、はっきりと示してくれた。
それでも、すぐに自責の声が消えるわけではない。
「迷惑をかけた」「向いてない」という呟きは、きっとこれからも頭をもたげるだろう。
けれど、そのたびに――。
残業八十時間。
片道一時間半の山道。
眠れない夜。
「休んだら誰かに迷惑」と笑って言う職場。
それらをひとまとまりにして、「壊れているのは、そっちだ」と言ってくれた人たちの顔を、思い出すのだろう。
ベッドの脇で、心電図モニターの音が一定のリズムを刻んでいる。
その音を聞きながら、成美はゆっくりと目を閉じた。
これから先のことは、まだ何も決まっていない。
職場に戻るのか、戻らないのか。
別の働き方を探すのか。
どれも、簡単に答えが出るものではない。
ただひとつだけ、はっきりしているのは――。
もう、「過労で倒れたい」と願いながら働く場所には、戻りたくない、ということだった。
ちなみに、ここまでお医者さんや心理士さんがヒアリングをしてくれるのかはケースバイケースだと思います。
あくまで自分の場合の一例ですが、実際過労で救急搬送されたときは、自力歩行もできない、意識朦朧状態のまま翌朝には帰宅しました。
「身体的には異常はないので、これ以上できる医療行為はありません。あとはとにかく自宅で休まれてください」とのことでした。
その件を受けて、「医療現場も大変そうだ」と思ったのを覚えています。




