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県初の障がい者教諭として赴任した結果、学校と自分がゆっくり壊れていく話  作者: 妙原奇天


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第23話 付箋を見つけた母

 電話が鳴ったとき、私はちょうど夕飯の下ごしらえを始めたところだった。

 まな板の上には、豚こまと玉ねぎ。フライパンには油を敷いて火をつけていた。


 固定電話のベルが、いつもより一本分だけ高く聞こえた気がした。


「はい、山本でございます」


 受話器を耳に当てると、少し上ずった、けれど丁寧に抑えた若い男性の声がした。


「わたくし、山東第二中学校の職員の者です。山本成美先生の……ご家族の方でいらっしゃいますか」


「はい、母です」


 瞬間、胸の奥がざわついた。

 “学校からの電話”というだけで、いい知らせではないのだろうと、どこかで分かってしまう。


「本日、山本先生が校内で体調を崩されまして……現在、救急で市内の総合病院に搬送されております」


 その先の言葉が、少し遠くなった。


 体調を崩して、救急で、搬送――。

 ひとつひとつの単語は理解できるのに、それが自分の娘の身体に起きたことだという実感だけが、頭に入ってこない。


「……え、救急……入院、ですか」


「はい、意識がもうろうとされている状態で、おそらく念のため検査と処置を行うとのことで。すぐに、ご家族の方に来ていただきたいと」


 受話器を持つ手に、じわりと汗がにじむ。

 さっきまでコンロの前に立っていたせいだけではない。


「病院の場所は――」


 職員の人の説明を聞きながら、私はメモ帳とペンを探した。

 けれど、指先が震えて思うように動かない。

 やっと引き出しからメモ帳を引っ張り出し、住所と病院名を書きとめた。


「それと、大変申し訳ないのですが……入院になる場合に備えて、着替えや身の回りのものを、いくつか持ってきていただけますでしょうか。病院からも『家族にお願いしてほしい』とのことでしたので」


「着替え……ですね」


「はい。できましたら、今から一時間以内くらいにお越しいただけると……」


「分かりました。すぐに準備します」


 電話を切ると、手のひらがじっとりと濡れているのが分かった。

 コンロに目をやると、フライパンの油が小さく煙を上げ始めている。


「あ……」


 慌てて火を消した。

 ガスのつまみを強くひねると、カチ、と乾いた音がして、部屋が急に静まり返った。


 さっきまで、何を作ろうとしていたんだっけ。

 豚こまと玉ねぎ。

 生姜焼きにでもするつもりだったのだろう。

 そんなことすら、もうどうでもよくなっていた。


     ◇


 まずは、病院に行く準備。

 そう思った瞬間、別の現実が立ち上がる。


 成美の着替え。下着。タオル。保険証。

 どこに何があったか、頭の中でたどりながら、私は廊下を歩いた。


 夫は今日は会議で遅くなると言っていた。

 連絡はあとでまとめて入れればいい。

 今は、とにかく娘だ。


 廊下の突き当たり、右側のドアが成美の部屋だ。

 大学に入ってから、ここはほとんど「成美の領域」になっていて、いつの間にか鍵までかけるようになっていた。私は掃除機をかけるときでも、一言断ってから入るようにしてきた。


 けれど、今日はそんな余裕も遠慮もなかった。

 十数年ぶりに使う合鍵を戸棚から取り出し、鍵を開ける。


「成美、入るよ」


 中にいるはずもないのに、いつもの癖でノックをする。

 返事がないことが、あらためて現実を突きつけてくる。

 胸の奥がきゅっと縮んだ。


 ドアノブを回し、そっと押し開ける。


 ふっと、独特の空気の層が変わる。

 若い人の部屋に特有の、柔軟剤と紙とインクと、少しだけ疲れたような匂い。


 カーテンの隙間から夕方の光が差し込んでいた。

 西日に照らされた埃が、空中で細かくきらめいている。


 ベッドの上には脱ぎかけのカーディガンが置きっぱなしで、机の上には教科書やノートが積み上がっている。

 その光景だけを見れば、「仕事熱心な教師の部屋」なのだろう。


 けれど、違和感はすぐに見つかった。


 壁だ。


 机の横の壁、窓の脇、棚の側面。

 目に入るところというところに、小さな四角い色がいくつも貼りついている。


 黄色。ピンク。黄緑。

 文房具店で売られている、ごく普通の付箋。

 それが、思っているよりもずっと多い数で、部屋じゅうに散らばっていた。


「……なに、これ」


 私の口から自然と声が漏れた。


 嫌な予感というものは、本当に背中をさわさわと撫でてくる。

 胸の内側がざわめき、喉が乾く。


 鞄を探すことも忘れて、私は一番近くの付箋に目を凝らした。

 黄色い四角の中心に、ボールペンの濃い線で、太く書かれている。


 死にたい。


 世界から、音が消えたような気がした。


 文字は、驚くほど乱れていない。

 丁寧に、けれど勢いよく、紙を貫くような筆圧で書きつけられている。


 冗談で書いたものじゃない。

 ノートの端に落書きするような軽さは、どこにもなかった。


 隣の付箋には、


 消えたい。


 またその隣には、


 向いてない。


 ごめんなさい。


 ごめんなさい。


 ごめんなさい。


 同じ言葉が、色と場所を変えながら、何度も何度も現れる。

 黄色の上に、ピンクが重ねられているところもある。

 古い付箋の端から、新しい付箋が少しずれてはみ出している。


 私はしばらく、その場から動けなかった。

 目の前の文字が、誰か別の子が書いたものであれば、と一瞬だけ思う。

 けれど、そうではない。


 この部屋の主は、成美ひとり。

 ここに貼られた言葉は、全部、あの子の手から出たものだ。


「……成美」


 名前を呼びながら、私は一歩、壁に近づいた。

 指先が勝手に伸びて、一枚の付箋に触れる。

 紙は思った以上に軽く、指先の熱でふわりと浮いた。


 剥がすつもりはなかった。

 ただ、確かめたかった。

 本当に自分の娘が、こんな言葉を、こんなにたくさん書いていたのかどうか。


 そっとつまみ上げた付箋の裏には、薄く黒いインクが透けていた。

 表にして、もう一度読む。


 死にたい。


 たった四文字。

 けれど、その四文字が鉛の塊になって、胸の奥に落ちていく感覚がした。


     ◇


 いつから、こんなものを書いていたのだろう。


 四月のはじめ。

 採用通知が届いて、家族でお祝いをしたあの日のことを思い出す。


 成美は封筒を開けながら、珍しく声を上げて笑った。


「合格だって。受かったよ、お母さん」


 その顔は、子どものころに戻ったみたいに輝いていた。

 私は心から嬉しくて、「よかったねえ」と何度も言った。

 テーブルの上に並べたいつもより品数の多い料理に、夫がビールを開けて、「乾杯」とグラスを合わせた。


 あのとき、私は少しだけ、不安だった。

 県で初めての「障がい者雇用教諭」という文字を見て、胸のどこかがざわついた。


 「大丈夫なのかしら」

 そう口に出しかけて、私は笑顔で飲み込んだ。


 今さら、そんなことを言っても、あの子の心に水を差すだけだ。

 “よかったね、おめでとう”だけを渡すのが、親の役目だと思った。


 ――でも、本当は。


 私はあのときから、小さく鳴り続けていた警報を、聞こえないふりをしていたのかもしれない。


 四月の初めの数日間。

 新学期が始まったばかりの朝、玄関先で成美の顔色を見たとき、「ちょっと痩せた?」と感じた。


「大丈夫? 顔、少し白いように見えるけど」


「うん、大丈夫。新年度だからちょっとバタバタしてるだけだよ」


 笑って、車のキーを握りしめて出て行った娘。

 「無理しないでね」と背中に声を掛けながらも、私はそれ以上踏み込めなかった。


 だって、あの子はいつも、「大丈夫」と言うから。

 小さいころから、手のかからない子だった。

 幼稚園の発表会でセリフを間違えても、家に帰って泣いたりしない。

 小学校でいじめられていないかと心配になって聞いたこともあったが、「平気だよ」とあっさり笑った。


 本当は、あのときからずっと、“我慢”をしてきたのだろう。

 自分のしんどさを、人にうまく説明できないまま、「迷惑をかけたくない」の一心で飲み込んできたのだろう。


 そう考えた瞬間、胸が締めつけられた。


「……ごめんね」


 誰にともなく謝りながら、私は床に膝をついた。

 さっきまで立っていた足が、急に自分のものではないみたいに震え出す。


 付箋に手を伸ばし、一枚、また一枚と剥がしていく。

 剥がすたび、裏側から別の付箋が顔を出す。


 古い紙は、角がめくれ、色も少し褪せている。

 新しい紙は、鮮やかな黄色やピンクだ。

 彼女は、一度貼った付箋の上から、また同じ言葉を書いた付箋を重ねていったのだろう。


 どれだけの夜を、この部屋で過ごしてきたのか。

 どれだけの回数、「死にたい」と書いてきたのか。


 そのたびに、私は一階の寝室で寝ていたり、リビングのソファでテレビを見ていた李、キッチンで夕飯を作っていたりしたのだ。


 その事実が、今さらながらに重くのしかかる。


「ごめんね……本当に、ごめんね……」


 声が震えて、そこから先の言葉が続かない。


 剥がした付箋を、私は一枚一枚、手のひらに重ねていった。

 気づけば、小さな紙の束になっている。

 指先で挟むと、その厚みに驚く。


 こんなに。

 こんなに、たくさん。


 それでも、娘は一度も「死にたい」と私には言わなかった。

 「疲れた」と弱音を吐くことも、ほとんどなかった。


 あの子は、優しすぎる。

 いつも人に気を遣いすぎる。

 私や夫に心配をかけたくなくて、自分の部屋と壁と紙にだけ、本当の気持ちを打ち明けていたのだ。


「どうして、こんなになるまで……言ってくれなかったの」


 気づけば、その言葉が口からこぼれていた。


 でも、本当は分かっている。

 「どうして言ってくれなかったの」ではなく、本当は、


 どうして私は、ちゃんと聞かなかったの――なのだ。


 玄関で顔色が悪いと感じた朝も。

 食卓で、ほとんど箸が進まないのに「おいしいよ」と笑っていた夜も。

 深夜にこっそり玄関で靴を脱ぐ成美に「今日は何時間くらい仕事だったの?」と聞いたとき、「たぶん、そんなでもない」と話をそらしたあの時も。


 何度も、気づけるチャンスはあった。

 そこで私は、「たぶん大丈夫なんだろう」と、自分に都合よく解釈した。


 “娘を信じる”という名目で、娘の「助けて」を見逃してきたのだ。


 こんな付箋を貼らなくてもいいようにしてあげるのが、親の役目だったんじゃないか。

 それなのに私は、壁に向かってひとり言葉を書くほど追い詰められた娘に、何一つ気づけなかった。


 胸の奥から、熱いものが逆流してくる。

 あふれ出た涙が、頬をつたって、剥がした付箋の束にぽとりと落ちた。


 紙がじわっと濡れて、インクがにじむ。

 「死にたい」の「た」の文字が、滲んで読めなくなった。


 それでも、意味は消えない。

 どれだけ文字が崩れても、そこにこびりついた感情だけは、くっきりと残っている。


     ◇


 何枚剥がしたのか、分からなくなったころ。

 私は、ふっと力が抜けて、その場に座り込んだ。


 壁にはまだ、いくつもの付箋が残っている。

 全部剥がすには時間が足りない。

 病院に行く準備もしなければならない。


 それでも、少なくとも一部だけはこの手で外さなければならないような気がした。

 この黄色い紙たちが、娘をひとりで囲い込んでいたその輪を、少しでも壊したかった。


 私は深く息を吸い込み、額の汗をぬぐった。

 手の甲にも涙の跡がついている。


 部屋の外では、何も知らない世界がいつも通りに動いているのだろう。

 近所の子どもたちの笑い声、遠くを走る車の音。

 夕方のニュースのテーマソング。


 成美の学校でも、きっといまごろ、授業の後片づけや部活動の指導が続いているのかもしれない。

 彼女を救急車に乗せたあの学校で、誰かが連絡帳を書き、誰かが明日のプリントを印刷している。


 誰も、悪気があって彼女を追い詰めたわけではないのだろう。

 校長先生も、教頭先生も、同僚の先生たちも。

 きっとみんな、自分の仕事に追われながら、「なんとか回さなきゃ」と必死だったに違いない。


 それは、分かる。

 夫だってそうだ。

 ここ数年、毎日のように「今日も残業でさ」と言いながら、疲れた顔で帰ってくる。

 私だって、パート先と家事の両立でいっぱいいっぱいになって、「最近、世の中は働きすぎだ」とこぼしたことがある。


 社会全体が、どこかおかしい。

 誰かひとりを責めれば済む話ではない。


 だけど――。


 だからといって、この黄色い紙の一枚一枚の重さが、軽くなるわけではない。


 「誰も悪者じゃない」と言いながら、

 その誰でもない“何か”が、確かに娘を少しずつ削っていったのだ。


 そう思ったとき、胸の奥で静かな怒りが膨らんだ。

 学校に対しても、社会に対しても、そして何より、自分自身に対して。


「成美……」


 私はもう一度、娘の名前を呼んだ。


「もう頑張らなくていいから。

 生きて帰ってきてくれたら、それでいいから。

 あとは、お母さんがどうにかするから」


 そんな約束を、勝手に口にした。

 現実には、私ひとりに何ができるかなんて分からない。

 学校や制度を変える力なんて、きっと持っていない。


 それでも、

 娘がこれ以上、ひとりきりで「死にたい」と書かなくていいようにすることなら、

 今からでも、何かできるはずだ。


 最低でも、二度とこの部屋の壁が付箋だらけにならないように。

 どんなにみっともなくても、しつこい母親だと思われても、

 あの子の「大丈夫」を、そのまま信じて流さないように。


 私はゆっくりと立ち上がった。

 足元には、剥がした付箋の束。

 手には、成美の着替えを詰めるためのトートバッグ。


 タンスから、パジャマを二組。下着を数枚。タオルと、洗面用具のポーチ。

 保険証と診察券の入ったカードケースを引き出しから取り出し、鞄に入れる。


 どこに何があるか、私はちゃんと知っていた。

 何年もこの家で暮らしてきたのだから、当たり前だ。

 ただ、その持ち主の心の中を、私は何ひとつ知らなかった。


 玄関に向かう途中、私は一度だけ振り返った。


 西日が傾いた部屋の中で、剥がし損ねた数枚の付箋が、まだ壁にしがみついている。

 その黄色い小さな四角が、胸に痛いほど焼きついた。


「帰ってこようね、ちゃんと」


 誰にともなくそう言って、私は玄関のドアを開けた。


 外の空気は、すこしひんやりしていた。

 夕方と夜の境目の匂いがした。


 ドアを閉めるとき、頭のどこかで思う。


 これは、きっとこの家族の“やり直し”の始まりなのだと。

 そして同時に、どこかの学校で、どこかの職場で、同じような付箋を壁に貼っている誰かの物語でもあるのだと。


 私はトートバッグの持ち手をぎゅっと握りしめ、

 病院へ向かうために、一歩、外へ踏み出した。

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