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県初の障がい者教諭として赴任した結果、学校と自分がゆっくり壊れていく話  作者: 妙原奇天


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第22話 裏口のサイレン

 救急車が校舎の裏手に滑り込んだのは、六時間目の始まりを告げるチャイムが鳴ってまもなくだった。


 窓の向こうの山の稜線は、午後の光を受けてやわらかくかすんでいる。

 教室の中では、黒板に白いチョークの文字が増えていき、生徒たちは、その一字一字をノートに写していた。


 ——この校舎のどこかで、ついさっき一人の教師が救急車に乗せられようとしていることなど、

 ほとんどの子どもは知らない。


     ◇


「生徒を動揺させないために、サイレンは消して、教室から見えない裏口に止めてください。

 正門側は、できれば通らないルートで」


 電話口でそう告げたのは、黒瀬教頭だった。


 救急隊員は短く「了解しました」と答えたが、その声色には、かすかな戸惑いが混じっていた。

 電話を切ったあと、隊員同士での小さな会話が交わされる。


「正門じゃなくて裏口指定か。まあ、学校だと子どもたちが騒ぐからな」


「にしても、こっちは一分一秒が勝負なんだけどな。遠回りだと到着が遅くなる」


「指示は指示だ。最短ルート、裏から探すぞ」


 彼らにとっては、こうした要望は初めてではない。

 ショッピングモールでの搬送時、「お客さんが驚くから裏通路から」と頼まれたこともある。

 そのたびに、「いま優先されるべきものは何か」を自分たちに言い聞かせてきた。


 サイレンの音量を絞り、学校裏手に続く細い坂道へハンドルを切る。

 フロントガラス越しに、古びた二階建ての校舎が見えてきた。

 山の斜面にしがみつくように建つその姿は、どこか心細げだ。


「ここが、裏門みたいですね」


 隊員のひとりが指差す先には、小さな鉄製の門と、「関係者以外立入禁止」と書かれたプレート。

 運動場の隅に面した、通用口だ。


 救急車がそこで止まり、サイレンが完全に消える。

 あたりは一気に静まり返り、エンジン音だけがかすかに響く。


     ◇


 体育倉庫の前で、村井は腕時計を見た。

 短針が「3」を少し過ぎている。


「六時間目、始まりましたね」


 ぽつりと言うと、黒瀬がうなずいた。


「……そうだな。各教室には、まだ何も伝えないでおこう。授業は予定通り進めてもらわないと」


「わかりました。さっき、各学年主任には『山本先生が少し体調を崩したので、今は保健室あたりで対応中』とだけ伝えてあります」


 言いながら、自分でもその表現の曖昧さに気づき、胸の奥がちくりとした。

 「少し」どころではないことは、扉の向こうの光景が物語っている。


 黒瀬は、体育倉庫の扉に背中を預けるようにもたれ、深く息を吐いた。

 頭の中には、いくつもの「もし」が渦を巻いている。


 もし、もっと早く残業時間を見直していれば。

 もし、「障がい者雇用だから」と特別な枠組みを本気で整えていれば。

 もし、朝の会議で「最近、山本先生の顔色が悪い」と一言でも話題にしていれば。


 だが、そのいずれも、もう過ぎてしまった時間の話だ。


 倉庫の中では、養護教諭の斎藤が、成美の傍らにしゃがんでいた。

 額に当てていたタオルを取り替え、呼吸の様子を確認する。

 浅い呼吸が、かろうじて胸元を上下させている。


「山本先生、もうすぐ救急車が来ますからね。大丈夫、大丈夫ですよ」


 返事はない。

 けれど、声をかけずにはいられなかった。


 そのとき、倉庫の外から、複数の足音が近づいてくる。

 靴底が廊下の床を叩く、早足の音。


「救急です。こちらでよろしいですか?」


 裏口から回ってきた救急隊員たちが、体育館の横を抜け、倉庫の前に現れた。

 手にはストレッチャーと救急バッグ。

 制服の胸には、いくつものペンと小さなライトが並んでいる。


「お待たせしました。倒れているのは——」


「中にいます。意識はなくて、呼吸は浅い状態です」


 斎藤が倉庫から顔を出して答える。

 救急隊員はうなずき、迅速に中へと入っていった。


     ◇


 一方、その頃。


 三年二組の教室では、佐川が数学のプリントを黒板に貼っていた。

 倒れた成美の代教で、総合学習から数学の授業に変更になったのだ。


「じゃあ、この関数の問題、三番までをペアで相談しながら解いてみて。

 どうしても分からなかったら、手を挙げて聞いてね」


 子どもたちがざわりと席を動かし始める。

 椅子がこすれる音、ペンケースを開ける音。

 教室には、いつもと変わらない六時間目の空気が流れていた。


 だが、佐川の胸の奥には、微かなざわめきが残っている。


 ——体育倉庫で倒れていたって、本当に大丈夫なんだろうか。


 さっき廊下で聞いた噂は、まだ「一部の先生たちだけが知る情報」のままだ。

 生徒たちには何も伝えないように、という指示が出ている。


 プリントを配りながら、佐川は教室の窓の外に目をやった。

 角度的に、裏門の様子は見えない。

 金網の向こうに広がるのは、体育館の壁と、その上に切り取られた空だけだった。


 もし、サイレンの音が鳴り響いていたら、この教室の空気はきっと一変していた。

 子どもたちは不安げに顔を見合わせ、「誰が運ばれたのか」とざわついただろう。

 教師たちは、説明に追われただろう。


 けれど今は、そのどちらも起きていない。


 それは「子どもを守るため」の静けさなのか。

 それとも、「学校の外側に事情が漏れないようにするため」の静けさなのか。


 佐川自身、うまく答えの出せない問いが胸の中で膨らみ、行き場をなくしていた。


     ◇


「サイレンはこちらで止めておきます。裏口からの搬入でお願いします」


 裏門付近で、大野が救急隊員に頭を下げた。

 黒瀬の指示を、そのまま伝える。


 隊員のひとりが、ほんのわずか眉をひそめる。


「正門からだと、生徒さんたちが見える位置なんですか?」


「ええ……ちょうど教室の窓に面していて。

 できれば、動揺させたくないので……」


 言いながら、大野は自分の口から出た言葉に、どこか違和感を覚えていた。

 動揺させたくないのはもちろん本当だ。

 しかし、その裏側に「騒ぎにしたくない」「保護者に変に噂されたくない」という大人側の事情も混じっていることを、薄々感じている。


 救急隊員は深呼吸をひとつしたあと、短くうなずいた。


「わかりました。道が少し狭いですが、ストレッチャー入りますかね」


「体育倉庫までは、なんとか……。こちらです」


 大野が先導し、隊員たちがそのあとに続く。

 通路には、体育祭で使う道具や、古い机が一部積まれていて、ストレッチャーの通り道はぎりぎりだ。


 それでも隊員たちは慣れた手つきで障害物を避け、倉庫前にたどり着いた。


     ◇


 救急隊員が体育倉庫に入ると、ひんやりとした空気が制服の袖を撫でた。

 薄暗がりの中に、白いシャツと紺のスラックスがぼんやりと浮かび上がる。

 足元には体育マットと縄跳びの束。


「倒れているのはこの方ですね」


 隊員がしゃがみ込み、成美の顔と胸元を確認する。

 もうひとりが救急バッグから血圧計と心電図モニターを取り出した。


「意識レベル、JCSで……刺激に反応なし。

 血圧……上が八十切りそうです。脈は細くて速い。ショック状態の可能性があります」


 専門用語が淡々と飛んでいく。

 そのたびに、斎藤の心拍数が自分まで上がっていく気がした。


「搬送優先します。酸素入れます。学校の方、ご家族には連絡済みですか?」


「これから職員室で緊急連絡先を確認して、すぐに連絡を……」


 村井が答える。

 自分が「これから」しなければならないことの多さに、わずかに息が詰まった。


 救急隊員は、成美の鼻と口に酸素マスクをあてがう。

 ゴムのバンドが頬にかかり、透明なプラスチックの向こうで唇の色がいくぶんましに見える気がした。


「では、ストレッチャーに移します。頭と首の支持、お願いします」


 斎藤と村井が、それぞれ指示された位置に手を添える。

 成美の身体は、思っていたより軽い。

 数週間で、確実に体重が減っているのだと分かる。


 ストレッチャーに移される瞬間、成美の眉がほんのわずか動いた。

 眉間に小さな皺が寄る。


 意識が戻ったわけではない。

 身体が何かを訴えかけるような、ほんの微かな反応。


「……山本先生。大丈夫ですからね」


 斎藤が、思わずその手を握りしめる。

 握り返されることはなかった。


 ストレッチャーが倉庫から出ていく。

 通路の蛍光灯の下に、その姿が晒される。


 黒瀬は、その背中を見送りながら、ふと周囲を見回した。

 幸い、この通路には生徒の姿はない。

 授業中だから当然だ。

 だからこそ、今この瞬間の異常さは、大人たちだけのものになっている。


     ◇


 六時間目の教室は、それぞれの「いつも通り」で満ちていた。


 一年生の教室では、英語のアルファベットを声に出して練習している。

 二年生の教室では、社会科の教師が歴史の年号を語呂合わせで教えている。

 二組を除いた三年生の教室では、高校進学の話を折に触れて持ち出しながら、総合学習の授業と進路指導が同時に行われていた。


 窓から差し込む光は同じ。

 黒板に書かれる文字も同じ。

 子どもたちの笑い声も、ため息も、同じ高さで響いている。


 その校舎の裏側で、ひとりの教師がストレッチャーに乗せられ、救急車へと運ばれていく。


 救急隊員の背中越しに、黒瀬は小声で尋ねた。


「サイレンは……このまま、音を上げずに出発してもらうことは……」


 言いながら、自分でもその言葉に罪悪感を覚えた。

 それでも、口から出てしまう。


 救急隊員は、ほんの少しだけ目を細めた。

 あからさまな非難ではない。

 ただ、「それどころじゃないだろう」という思いが、わずかに滲んでいる。


「搬送優先ですので、出発したら安全が確保できる場所まで通常通りサイレンを鳴らします。

 ここを出るまでは、できる限り音を抑えるようにしますが」


「あ、はい……お願いします」


 自分が何を「お願いします」と言ったのか。

 子どもたちを守ることなのか。

 学校の評判を守ることなのか。

 どちらなのか、黒瀬本人も判然としなかった。


 救急車の扉が閉まる。

 金属同士がぶつかる音が、静かな校舎の裏手に響く。


 エンジン音が高まり、車体がゆっくりと動き出す。

 門を抜けるまでは、サイレンは鳴らない。

 校舎からは、その姿は見えない。


 ただひとり、トイレ帰りに廊下を歩いていた男子生徒が、

 フェンスの隙間から救急車の後ろ姿をちらりと目にした。


「あれ、救急車? どこ行くんだろ」


 彼の呟きは、風にさらわれて、誰の耳にも届かなかった。


     ◇


 数分後。


 三年二組の教室に、六時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。

 子どもたちは一斉に顔を上げ、ざわめきが大きくなる。


「はい、じゃあ今日はここまで。プリントは明日集めます。

 宿題は、最後の問題だけもう一回やり直しておいてね」


 佐川がそう告げると、「えー」と言いながらも生徒たちはノートや教科書を片づけ始める。


 机の間を歩きながら、瑞希は窓の外に視線を滑らせた。

 山の向こうの空は、少しずつ夕方の色に近づいている。

 救急車の姿は、どこにも見えない。


 ——本当に、さっきの話は現実だったんだろうか。


 教室と体育倉庫。

 救急車とノートの鉛筆の線。

 それらが同じ校舎の中で同時に存在していたという事実が、どこか信じがたかった。


「佐川先生、これ、質問してもいいですか」


 声に振り向くと、前の席の男子がプリントを持ち上げていた。

 佐川は一瞬だけ現実に引き戻される。


「うん、ごめんね。どこが分からなかった?」


 黒板のそばで説明を始めながらも、頭の片隅では別のことを考えていた。


 ——山本先生、今どこまで運ばれているんだろう。

 ——病院に着いたら、誰が付き添っているんだろう。

 ——明日の朝、この教室で何を話せばいいんだろう。


 その問いに答えを出せる大人は、まだ誰もいない。


     ◇


 救急車は、学校から少し離れた県道に出たところで、ようやくサイレンの音量を上げた。

 赤い回転灯が、山の木々の間にちらちらと映える。


 車内では、成美の心電図の波形が小さな画面に映し出されている。

 規則的ではあるが、山が低い。

 血圧の数値も、決して安心できるものではない。


「意識レベルは変わらず。血圧、もう少し上げたいな。

 ○○ミリのボーラス、投与します」


 隊員同士のやり取りが続く。

 ストレッチャーに横たわる成美は、酸素マスク越しに細い呼吸を繰り返しているだけだ。


 意識の遥か遠くで、かすかな振動と揺れを感じていた。

 身体が左右に揺さぶられるたび、何か硬いものに背中が触れる。

 その感触だけが、かろうじて「まだ生きている」という実感に繋がっていた。


 ——ああ、動いてる……。


 どこへ向かっているのかは分からない。

 自分が誰に運ばれているのかも、よく分からない。

 ただ、暗い倉庫の冷たい床から離れつつあることだけは、なんとなく分かる。


 「これで少し休める」と、倉庫で倒れる直前に思ったあの感覚が、

 遠くでぼやけたまま残っていた。


     ◇


 その頃、職員室では。


 黒瀬と村井、数人の教師が、妙に落ち着かない動きを見せていた。

 机の上には、山本の出勤簿と健康観察カード、連絡網の控え。

 斎藤から渡された山本の緊急連絡先が、メモ用紙に書き写されている。


「ご家族には、こちらから学校として事情を説明したほうがいいですね」


「はい……。黒瀬先生から、お母様に」


 村井の言葉に、黒瀬は小さくうなずいた。

 電話をかけるために、受話器を手に取る。


 耳に当てる前に、一度だけ深く息を吸う。

 胸の中に、「どこまでを、どう伝えるべきか」という迷いが渦巻く。


 ——救急車で運ばれたこと。

 ——体育倉庫で三時間近く気づかれなかったこと。

 ——最近の勤務状況。


 全部話せば、相手は当然、学校を責めるだろう。

 だが、責められて当然だという思いも、同時に湧いてくる。


 最初のコール音が鳴り始める。

 黒瀬は目を閉じた。


 外では、さきほどまでと同じように、帰りの会の歌声が流れている。

 山の夕暮れは静かで、どこまでも穏やかだった。


 その静けさの裏側に、サイレンの残響だけが、いつまでも耳の奥にまとわりついていた。

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