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県初の障がい者教諭として赴任した結果、学校と自分がゆっくり壊れていく話  作者: 妙原奇天


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第21話 3時間、誰も気づかない

 体育倉庫の扉の前で、用務員の大野はふう、と小さく息をついた。

 五時間目の途中。清掃時間前にモップとバケツの数を確認しておこうと思い立って、用具を収納してある倉庫に向かってきたところだった。


 重い鍵束から、倉庫の鍵を探し出す。

 指先に金属の冷たさがまとわりつく。

 鍵穴に差し込み、ひねる。

 カチリ、と小さな音がした。


 この瞬間までは、いつもと同じ日常だった。

 倉庫の扉は、開けば当然そこにモップや用具が並んでいて、

 大野はその数を数え、足りないものを確かめるだけ。


 だが、扉を引いた瞬間、その「当たり前」は音もなく崩れた。


 ひやりとした空気が、薄暗い中から流れ出す。

 鼻をくすぐるのは、いつものゴムとほこりの匂い。

 しかし、その手前に、見慣れない形が床に横たわっていた。


「……え?」


 声にならない声が、喉の奥で引っかかる。

 黒い長袖のTシャツと、紺のスラックス。

 片腕を頭のほうへ投げ出すようにして、女性が横向きに倒れていた。


 山本成美だ、と理解するまでに、数秒かかった。


「山本先生……?」


 名を呼びながら、身体が勝手に走り寄る。

 近づくほどに、異常さがはっきりした。


 頬は紙のように白い。

 唇はうっすらと紫がかっている。

 まぶたは閉じられたまま、睫毛が頬に影を落としていた。


 耳を近づけると、かすかに呼吸はある。

 けれど、胸の上下は頼りないほど小さくて、今にも途切れそうだった。


「……おい、山本先生、聞こえるか?」


 肩に手をかけて揺らす。

 反応はない。


 大野は、一度ごくりと唾を飲み込んだ。

 心臓が、急に早鐘を打ち始める。

 頭の中で、何をどうすればいいかが一瞬真っ白になり、それから怒涛のように流れ込んできた。


 ——誰か呼ばなきゃ。

 ——教頭先生か、保健室か。

 ——これは、まずい。


 とにかく、ひとりでは抱えきれない。

 大野は倉庫から飛び出すと、そのまま体育館横の通路を走り、校舎内へ駆け込んだ。


     ◇


「今日の給食、山本先生、また来なかったよね」


 三年二組の教室で、女子生徒のひとりが、プリントを配りながらぽつりと言った。

 五時間目の数学の授業中、佐川瑞希が小テストの丸つけをさせているときだった。


「最近ずっとじゃない? 職員室で食べてるんでしょ」


 隣の席の男子が、当たり前のことのように答える。

 そのやり取りを耳にして、瑞希の手が一瞬だけ止まった。


「はい、そこ、しゃべってないで。丸つけ終わった人は、次のページ開けて待ってて」


 声をかけながら、心のどこかに小さな棘が刺さる。


 ——最近ずっと。

 ——そういえば、そうだ。


 山本が教室で生徒と一緒に給食をとらなくなったのは、ゴールデンウィーク前頃からだ。

 最初は、「今日は職員室で作業しながら食べるね」と笑っていた。

 忙しいのだろうと、誰も深く考えなかった。


 けれど「最近ずっと」と言われるほど続いていたのだと、生徒の言葉で改めて気づかされる。


 三時間目の後、廊下ですれ違ったときの山本の顔を、佐川は思い出した。

 白っぽくて、目の下にうっすらとクマができていた。

 声をかけようとして、チャイムが鳴り、そのまま自分の教室に戻ってしまった。


 ——あとで様子、聞こうかな。

 ——終わったら、職員室で。


 そう考えていた矢先、教室のドアががらりと開いた。


「佐川先生、ちょっといい?」


 廊下側の扉から顔をのぞかせたのは、隣のクラスの担任だった。

 いつも穏やかな表情の中年男性が、そのときばかりは、どこか顔をこわばらせていた。


「すみません、ちょっと席を立ちます。みんな、丸つけ続けててね」


 教室に声をかけ、廊下へ出る。

 扉を閉めるか閉めないかのうちに、低い声が飛んできた。


「体育倉庫で、山本先生が倒れてるって。用務員さんが……。今、教頭先生たちが向かってる」


 時間が、一瞬止まったように感じた。


「えっ……」


 声が出ない。胸の中で言葉が崩れ落ちる。


 倒れてる——その単語だけが、やけに大きく響いた。

 疲れて座りこんでいるとか、貧血でしゃがみこんでいるとか、そういう「軽さ」を伴わない響きだった。


「保健室の先生も行ったみたいだけど、ちょっと授業見ててくれない? こっちは俺がカバーするから」


「あ、はい……」


 佐川は、自分の声がどんな音で出たのかさえ、わからなかった。


 教室に戻ると、子どもたちはまだテスト用紙と格闘していた。

 さっきと何も変わらない日常がそこにある。

 誰も、体育倉庫のことなど知らない。


 ——どうか、無事で。


 心の中でそう願いながら、佐川はチョークを握り直した。


     ◇


 体育倉庫の前には、すでに数人の大人が集まっていた。


 大野に呼ばれて駆けつけた黒瀬教頭、主幹教諭の村井、養護教諭の斎藤。

 それぞれが息を切らし、顔色を変えながら倉庫に足を踏み入れる。


 薄暗い空間の奥に、跳び箱とマットの影。

 その手前に、山本成美が横たわっている。


「……山本先生!」


 村井が駆け寄り、肩を支えるようにして仰向けにしようとする。

 養護教諭の斎藤が、慌てて制止した。


「ちょっと待って。頭打ってるかもしれないから、そのまま、そのまま……。呼吸は……?」


 斎藤が膝をつき、頬に手を近づける。

 耳を口元へ寄せ、胸の動きを見る。


「……浅いけど、あります。でも、かなり弱いです」


 額に触れる手が、わずかに震えた。

 冷たい。汗で湿っているはずの肌が、異様に冷たく感じられる。


 黒瀬教頭は、倉庫の入り口に立ったまま、しばらく動けなかった。

 目の前の光景を現実として飲み込むのに、時間がかかっていた。


 朝の打ち合わせで、山本が「少しめまいがする」と笑っていたこと。

 最近、残業時間の報告に「二十二時十五分」「二十二時十五分」と書かれているのを見ていたこと。

 ここ数週間、休み時間にも印刷室と職員室を走り回っていた姿。


 それらの断片が、一気につながる。


「……とりあえず、保健室に運べないか」


 そう口に出した瞬間、斎藤がきっぱりと首を振った。


「この状態で動かすのは危険です。教頭先生、救急車を呼んだほうがいいと思います」


「きゅ、救急車……」


 その言葉に、黒瀬の喉がひくりと動いた。

 頭の中で、いくつもの懸念が一度に膨らむ。


 生徒への影響。

 保護者対応。

 教育委員会への報告。

 新聞、地域の噂。

 「県で初の障がい者雇用教諭」が倒れた、という見出し。


 こんな山間の学校でも、ニュースは一気に広まるだろう。


「まず……まず、保健室で様子を——」


「教頭先生」


 その言葉を遮ったのは、村井だった。

 いつもより低く、固い声だった。


「これは、“様子を見る”段階じゃないです。呼吸も弱い、顔色も悪い。意識も戻っていない。これは救急案件です」


「でも……」


 黒瀬の言葉に、今度は斎藤が重ねる。


「ここで救急要請をためらって、もし万が一のことになったら、そっちのほうがよほど問題になります。これは医療が必要な状態です」


 倉庫の薄暗さが、三人の間に緊張を詰め込んでいく。

 誰かを責めるための言葉ではない。

 ただ目の前の命を優先すべきだという、ごく当たり前の主張。

 それなのに、「大事にしたくない」という思いとぶつかり合う。


 黒瀬は、唇をかみしめた。


 教師は、常に「子どもたちの前で落ち着いていること」を求められてきた。

 その習性が、咄嗟の判断を鈍らせる。

 生徒たちを動揺させたくない。

 騒ぎにしたくない。

 まずは校内でできる範囲で——。


 そうやって、いつも何かを後回しにしてきた。


 ——これは、その延長で考えてはいけない。


 ようやく、そのところまで意識が辿り着く。


「……わかった。救急車を、呼ぼう」


 決断の言葉は、思ったよりも掠れていた。

 直後、胸の奥に小さな恐怖が湧き上がる。

 救急要請の電話をするということは、「この事態の責任を、組織として引き受ける」と宣言することでもあるからだ。


 それでも、いま目の前にいるのは、「県初の障がい者教諭」という肩書きではなく、

 ただひとりの倒れている人間だ。


 黒瀬は、ポケットからスマートフォンを取り出した。

 指先が汗ばんでいる。

 市外局番のあとに続けて「119」を押し、通話ボタンをタップする。


「……はい、○○市消防本部です。火事ですか? 救急ですか?」


 受話器越しの落ち着いた声に、黒瀬は息を吸い込んだ。


「き、救急です。中学校の体育倉庫で、教員が倒れています。意識がなく、呼吸も弱い状態で——」


 状況を説明するあいだも、斎藤は成美の状態を確認しつづけていた。

 脈は細く、数えるのが難しいほど。

 額の冷や汗を、タオルでそっと拭う。


「大丈夫ですからね、山本先生。もうすぐ救急車が来ますから」


 そう声をかけても、まぶたはぴくりとも動かない。

 返事を期待しているわけではなかった。

 それでも、声をかけずにはいられなかった。


 村井は、倉庫の入り口に立ち、深く息を吐く。

 顎に手をあて、頭の中で校内の動きをシミュレートしていた。


「教頭先生、救急車が来たら、どこに入ってもらいますか?」


 黒瀬が電話を切るのを待って、村井が問いかける。

 黒瀬は、一瞬言葉に詰まったあと、眉間に皺を寄せた。


「……正門から入ると、生徒たちに全部見えてしまう。授業中とはいえ、窓から見えるし……。裏門から入ってもらおう。サイレンは……消してもらうように頼んでくれ」


 その判断にも、善意と恐怖が入り混じっていた。

 子どもたちを動揺させたくない気持ち。

 騒ぎが大きくなることへの不安。

 どちらも、完全に間違いだとは言い切れない。


 だが、その選択は同時に、「現場の何が危険だったのか」を隠してしまう危険もはらんでいる。


 ——ここは学校で、子どもたちの場所だから。


 黒瀬は心の中でそう言い訳しながらも、自分でもその理屈にどこか苦味を覚えていた。


     ◇


 その頃、別の教室では、何気ない会話が続いていた。


「ねえ、今日の総合、山本先生だよね? 昼から見てないけど」

「六時間目は自習にならんかなー」

「誰か代わりに来るんじゃない?」

「げー」


 子どもたちの声は、小さな波紋となって教室の中で広がる。

 けれど、それ以上深く踏み込む者はいない。

 「大人がどうにかしてくれるはず」という無意識の前提が、子どもたちを日常の枠の中に縫いとめている。


 職員室でも、同じような空気が漂っていた。


「山本先生? 見てないな」


 誰かが言う。

 別の誰かが、書類から顔も上げずに答える。


「四時間目から見てない。でも、給食、教室にはいなかったらしいから……印刷室か保健室じゃない?」


 誰も、「おかしい」とは口にしない。

 そう口にした瞬間、自分たちの働き方の異常さまで照らし出されてしまうと、知っているからだ。


 机の上には、積み上がったノートの束。

 未処理の書類。

 着信履歴の残る電話。


 それぞれの机に「自分の火事」がある。

 だから、誰かの火事にすぐ気づくことは難しい。


     ◇


「救急車、到着までおよそ二十分とのことです」


 電話を終えた黒瀬が、息を整えながら言った。

 村井が腕時計を見る。

 五時間目は、半分ほど過ぎている。


「生徒たちには……どう説明しますか」


 村井の問いかけに、黒瀬は答えを出せずにいた。

 説明するべきなのか、しないべきなのか。

 長年「事を荒立てない」ことを優先してきた思考回路が、ここにきて自分の足を引っ張る。


「とりあえず、今は授業を止めないようにしましょう。生徒が怖がるとよくない。詳細はあとで職員会議で」


 そう答えるのが精一杯だった。


「わかりました。……僕、いったん職員室に戻って、授業の穴が出ないように調整してきます」


 村井は立ち上がり、倉庫の外へ向かう。

 足を踏み出す前に、一度振り返った。


 冷たい床の上で、山本が静かに横たわっている。

 ほんの数週間前まで、教室でぎこちなく笑いながら「初任で」と言っていた女性。


 ——なんで、もっと早く気づけなかったんだろうな。


 自分に向けられたその問いを飲み込んだまま、村井は扉を出た。


 倉庫の中には、黒瀬と斎藤、そして用務員の大野が残る。


「大野さん、入り口のほうで救急車が来たらすぐ分かるように待機していてください」


「わかりました」


 大野は頷き、駆け足で倉庫をあとにする。

 あとに残った静けさが、いっそう濃くなる。


 斎藤は成美の手を握った。

 冷たい。

 それでも、指を包むようにして掌を重ねる。


「山本先生、聞こえますか。大丈夫ですよ。あなたが悪いんじゃないからね」


 その言葉は、倒れている本人に向けると同時に、自分自身に向けてのものでもあった。

 「頑張りすぎたほうが悪い」「体調管理が甘い」という言い方で、どれだけ多くの人を追い詰めてきたか。

 そのたびに、自分も「仕方ない」と飲み込んできたこと。


 倉庫の奥に積まれたマットの影が、ゆらりと揺れたように見えた。

 気のせいだろう。

 けれど、そこに、誰かの疲れや諦めが溜まっている気がしてならない。


「……生きて、戻ってきてほしいな」


 思わず漏れた本音に、黒瀬がわずかに目を伏せた。


 ——戻ってきてほしい。

 ——でも、この職場に、また戻していいんだろうか。


 相反する思いが、胸の中でぶつかる。

 今この瞬間は、とにかく命をつなぐことだけを考えなければならない。

 その先のことまで考える余裕はないはずなのに、意識は勝手に未来を想像する。


 そのとき、校舎の外から、かすかなサイレンの音が聞こえ始めた。

 遠くの国道を走る車の音と重なり合いながら、だんだん近づいてくる。

 そして、学校付近でその音はふっと消えた。

 黒瀬が要請したとおりに。


「……来ましたね」


 黒瀬は、胸の奥に重く沈んでいた決断の重さを改めて噛みしめた。

 この音を呼んだのは自分だ。

 この音が鳴るまで、誰も本気で「異常だ」と言わなかった。

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