第20話 倉庫でひとり、倒れる
廊下をさまよい、休める場所を探していると耳慣れた音が聞こえてきた。
四時間目のチャイムだ。
それが鳴った瞬間、成美の身体は勝手に動いた。
廊下にいたはずの自分が、いつの間にか三年フロアでふらふらしている。
あれほど胸の奥で鳴りつづけていた警告音が、もう言葉にもならないほど濁っている。
「せんせー、次って理科室移動?」
背中で生徒の声が揺れたが、もう返事をする余裕はなかった。
笑ってごまかす、という最低限の振る舞いすら形にならない。
視界の端が白くくもり、廊下の直線が波を描いた。
階段の手前で立ち止まると、胸の奥をつかむような痛みが走る。
呼吸が浅い。吸っても吸っても、肺のどこにも空気が届かない。
「……っ……、だめ、これ……」
今日だけは、誤魔化しきれない。
けれどーー
「教室で倒れたら、生徒の前で迷惑をかける」
「職員室で倒れたら、誰かの仕事を奪う」
「廊下で倒れたら、通行のじゃまになる」
そんな考えが、反射のように湧きあがってくる。
それが自分をどう追い詰めているかなんて、考える余裕はない。
ただ、“迷惑にならない場所”を本能的に探していた。
目の前に、体育倉庫へつづく細い渡り廊下があった。
あそこなら、誰も来ない。
給食準備の時間でも、体育館の授業でもない。
誰にも見つからず、誰の手も煩わせず、ただ少しだけ横になれる。
その「少し」が、どれほど渇望した時間だったのか。
成美は思い知りながら、自分を追い立てるように足を運んだ。
倉庫の鉄扉に手をかけた瞬間、指先の震えが明確になる。
鍵はかかっていない。
中に入ると、薄暗さと湿った土の匂いが広がる。
マット、ボール、跳び箱。
部活の生徒が置いていったらしい水筒が一本、転がっている。
成美は、扉をそっと閉めた。
それだけで、肩が大きく上下した。
呼吸が乱れ、膝が笑う。
視界が近づいたり遠ざかったりして、奥行きの感覚が消える。
「ここなら……大丈夫……。少し……、少しだけ、座れば……」
けれど、座る動作はもうできなかった。
しゃがもうとした足が、支える力を失っている。
成美は、跳び箱の影へ手を伸ばそうとしたが、腕が空を切った。
そのとき、不思議な感覚があった。
ああ、やっと休める。
ほんの一瞬だけ、胸の奥がふっと軽くなる。
これまで四六時中まとわりついていた、あの重たい圧迫が溶けるように引いていく。
ほかの誰にも迷惑をかけず、叱られず、責められず、
ただこの倉庫で、動かない身体をそっと横たえるだけでいい——
その事実が、救いに思えてしまう。
「もう……いい、よね……。少し……休んでも……」
囁いた声は、自分でも驚くほど柔らかかった。
次の瞬間、膝が折れた。
床がゆっくりと近づく。
跳び箱の角が視界の端をかすめ、
指先が冷たいコンクリートに触れた。
「……っ……」
息が、そこで途切れた。
落ちる、とも違う。
沈む、とも違う。
ただ、すべての筋肉の電源が唐突に切れたように、
重力だけが確かな実体をもって成美の身体を引き寄せた。
横向きに倒れた。
手のひらが冷たく、頬に触れる床のざらつきがやけに鮮明だった。
遠くで、リコーダーが鳴っている。
リコーダーのテストらしき音色が、倉庫の外で跳ね返っていた。
私も明日の漢字テストの準備をしなければいけない。
けれど、もう立ち上がることはできない。
「……やっと……少し……」
そこまで言いかけて、意識が途切れた。
倉庫の薄暗闇が深くなる。
世界がゆっくりと遠ざかる。
久しく感じていなかった“無”が、ようやく訪れる。
迷惑も、仕事も、明日の授業も、
どれも、今は存在しない。
ただ静かに、成美の呼吸だけが、
細く、細く、倉庫の奥で続いていた。
どれほど時間が経ったのか、成美にはわからなかった。
暗い倉庫の空気は、一定の温度を保っているようで、身体の感覚だけがじわじわと薄れていく。
コンクリートの冷たさに触れる左頬のしびれも、最初こそ痛みに似ていたが、次第に距離のあるものへ変質していった。
——遠い。
その一言だけが、意識の底に浮かんでは沈んだ。
遠くなっていくのは、痛みだけではない。
声も、光も、義務も、感情も。
なにもかもが輪郭を失い、つかめなくなる。
まるで、浅い海で波に浸されながら、砂ごと身体が沈んでいくようだった。
けれど、その“沈み”は恐怖ではなかった。
——誰にも叱られない。
——誰の邪魔にもなっていない。
——怒鳴られない。
——「ミスした」と責められない。
——今日のプリント漏れも、日誌の書き忘れも、誰も知らない。
そんな安堵が、薄く、淡く、ゆっくり混ざりあって、成美の意識を包んでいく。
その安堵がどれほど危ういものなのか、当の本人は理解していない。
ただ、久しく味わっていなかった“静けさ”に身体が溶けていく。
倉庫の外では、給食の準備が始まっていた。
給食委員が張りつめた声で、
「エプロン忘れないようにね」
「取りに戻る人は今のうち」
と廊下を走る。
金属バットがぶつかり合うような声が、倉庫の隙間からこぼれ、
誰かが用具室の前を通りかかった気配がする。
だが、倉庫の扉は開かれない。
この場所はふだん、授業でも部活でもほとんど使われない。
それを、誰よりも成美自身が知っていた。
扉の向こうで、給食のワゴンが運ばれるキャスターの音が遠ざかる。
教室の方からは、子どもたちの弾む声が混じった。
「今日カレーだって!」
「えー、パンのときがいい」
そんな軽い会話が、わずかな隙間を通って揺れてくる。
その声さえ、もうどこか現実味を失っている。
身体の奥では、脈拍だけがひたすら規則を乱していた。
ときおりドン、と胸を強く打つ。
そのたびに、半ば沈んだ意識の底に小さな波紋が広がる。
——起きなきゃ。
——でも起き上がれない。
——少しだけ……もう少し休めば……。
そう思いかけて、また沈む。
その繰り返しが、どれほど続いたのか、時間の感覚も曖昧だ。
一方で、学校の時間は止まらない。
佐川が、
「山本先生、今日の給食指導、どうするんだろう」
と職員室で小声を漏らした頃。
教務主任は会議資料を抱え、
「四時間目空きだったけどな、まだ戻ってきていない? トイレか印刷室じゃないか」
と軽く受け流した。
誰も“異常”と判断しない。
異常を異常として扱う余裕が、この場所にはなかった。
成美が給食を教室で食べなくなった理由を知る者もいない。
「職員室で食べる」と毎回笑って言う成美を、不自然に思う者もほとんどいなかった。
職員室に戻らない日があっても、みな自分のことで精一杯だった。
その間、倉庫の中では、成美の呼吸が浅く、少なくなっていく。
かすれるような空気の出入りが、ピンポン玉ほどの軽さで胸を押し返す。
手は冷たく、指はかすかに丸まっている。
口元は半開きで、乾いた空気が触れるたびに唇がひび割れた。
——お母さんに、連絡……。
——しなきゃ、いけなかった……?
——いや……迷惑になる……。
——休んじゃ、だめ……。
心のなかで言葉が転がるが、もはや思考と呼べるほどの形はない。
浮かんでは消え、白い靄となって散っていく。
「山本先生、今日印刷室混んでます?」
職員室の誰かが問いかける声がした。
「山本先生、今いないよー」
「さっきまではいたみたいだけど……違うか、三時間目には戻ってきた?」
「いや見てないな」
「給食のあと来るんじゃない?」
そんな会話が職員室の机の間を通り過ぎていく。
誰も、気づかない。
倉庫の薄闇の中で、跳び箱の角に反射した光がかすかに揺れる。
成美の頬にかかった髪が床に貼りつき、身体の周囲に沈黙が積もっていく。
視界はもうほとんど閉ざされていた。
わずかに残った意識の端で、成美は、自分の心音を聞いている気がした。
ドン、ドン、と大きくなる瞬間。
ふっと消えてしまいそうなほど弱まる瞬間。
その揺れが、もはや“生きている”証なのかどうかさえわからない。
——なんで、こんなに……苦しくなったんだろう。
——ほんとは、ただ……仕事してただけなのに。
最後に浮かんだその思いは、悲鳴というより呟きだった。
自分を責める声も、追い立てる声も、倉庫の中ではもう響かない。
残っているのは、深い静寂だけ。
その静寂の奥へ、成美の意識は吸い込まれていく。
外では、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。
倉庫の扉は、まだ開かれない。
昼休みが終わったことを告げるチャイムが、校舎のあちこちに染み込んでいった。
上靴の音が一斉に動き出し、教室へ向かう子どもたちのざわめきが広がる。
三年一組の教室では、佐川瑞希が出欠簿を片手に立っていた。
黒板の隅には、今日の日直が書いた大きな丸文字の「五月」の文字。
それを何気なく見つめながら、佐川はふと職員室で交わした短い会話を思い出す。
「……山本先生、さっきから見てないな」
配膳のとき、廊下でほかの教師とすれ違ったときにそう言ったが、
「トイレじゃない?」
と返され、そのまま流れてしまった。
クラスの子どもたちが席につき始める。
机と椅子のこすれる音が重なり合うなか、
「号令お願いね」
と佐川は日直に声をかけた。
日直の男の子が、張りのある声で立ち上がる。
「起立、礼」
「お願いします」
低くそろった声が教室に響く。
ただ、その声の奥に、さっきの違和感が微かに残った。
——山本先生、今朝、顔色悪かったな。
打ち合わせのときも、どこか上の空で、目の焦点が合っていないように見えた。
職員室の隅に置かれた山本のマグカップ。
中身の冷めきったインスタントコーヒー。
その横に伏せられた日誌。
頭の中に浮かんだ断片を、佐川は首を横に振って追い払った。
今は、目の前の授業を回さなければならない。
保護者からの電話がまた入っているというメモも、机の上に置きっぱなしだ。
ぎりぎりで回している日々のなかで、「なんとなく気になる」という感覚だけで動けるほど、余裕はない。
「じゃあ、今日はここから四ページね。教科書出して」
佐川は黒板にチョークを走らせる。
薄く白い粉が指に付く。
その感触は、いつもと変わらないはずなのに、どこか遠く感じられた。
校舎の反対側では、さまざまな五時間目が始まっていた。
一年生の教室からは、音読の声が重なって聞こえる。
理科室のほうからは、ガスコンロの点火音と、教師の注意する声が漏れ出していた。
体育館には、まだ誰もいない。
薄暗い空間に、午後の光が高い窓から斜めに差し込んで、床に細長い四角を描いている。
その体育館の隣に、倉庫がある。
厚い鉄扉の向こうで、時間だけが、ゆっくりと積もっていく。
成美の身体は、さっきと同じ姿勢のまま動かない。
わずかに上下していた胸の動きも、さっきよりさらに小さくなっていた。
額ににじんでいた汗が、冷えて乾く。
指先の色は薄くなり、頬の血の気はとうに引いている。
それでも、周囲には誰もいない。
耳鳴りなのかどうかもわからない高い音が、意識の奥に細く残っていた。
キーンというその響きが、いつから続いているのか、成美自身にも分からない。
——四時間目が、終わって。
——チャイムが鳴って。
——廊下を、走って。
——ここに、来て。
そこまで辿ると、記憶は途切れる。
その先は、まっ白だ。
まるで誰か別の人間の一日を、遠くから眺めているみたいだった。
「……やま……もと、先生?」
ふっと、誰かの声を聞いた気がして、意識が水面に浮かびかける。
けれど、それは現実の声ではなかった。
思い出のなかの声だ。
採用通知を受け取った日、母の呼ぶ声。
「よかったねえ、成美」と笑った顔。
職員室で、佐川が差し出した飴。
「糖分、大事ですよ」と笑った顔。
教室で、小テストを配るときに目が合った生徒。
「先生、この問題おもしろい」と笑った顔。
それらが、泡のように浮かんでは消えていく。
どの顔にも、怒りはない。
責める声もない。
ただ、みんなが誰かのために余裕を削っているだけだった。
——誰も悪くない。
心のどこかで、その言葉だけが、はっきりと輪郭を持った。
けれど、その「誰も悪くない」現場の真ん中で、
誰かひとりの身体が、いま静かに限界を超えている。
校務員室では、用務員の男性が、壁に貼られた今日の清掃当番表を眺めていた。
「……あれ、モップ、一本足りないな」
独り言のようにつぶやき、立ち上がる。
誰がどこに持って行ったのか、すぐには思い出せない。
清掃時間の前に、用具をそろえておかなければならない。
廊下に出ると、窓の外の山が午後の光を浴びていた。
柔らかな緑のグラデーションが、風にそよいでいる。
その穏やかさと、校舎の中に流れる張り詰めた空気との落差が、いつものことながら不思議に思えた。
「体育倉庫、だったかな」
用務員は鍵束を手に取り、ゆっくりと歩き出す。
生徒たちの声が遠くから届く。
笑い声、注意する声、教科書をめくる音。
どれもが、日常の一部だった。
体育館の前に立つと、床板の匂いがかすかに鼻をくすぐる。
その横の細い通路を抜けると、倉庫の重い扉が見えてきた。
用務員は足を止める。
扉は閉まっている。
鍵穴に鍵を差し込もうとして、一瞬だけ、何か言葉にできない予感のようなものが胸をかすめた。
しかし、それが何なのかを考える前に、
慣れた手つきで鍵を回し始める。
——この扉の向こうに、山本成美が倒れていることを、
まだ誰も知らない。
五時間目の授業は、いつも通りに進行していた。
黒板には新しい日付が書かれ、ノートのページがめくられていく。
世界は、何ごともなかったかのように、前へ前へと進んでいく。
ただひとつ、その小さな倉庫だけが、時間から取り残されていた。




