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県初の障がい者教諭として赴任した結果、学校と自分がゆっくり壊れていく話  作者: 妙原奇天


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第2話「人事課の甘い言葉」

 県庁の建物は、思っていたよりも無機質だった。

 ガラス張りのエントランス、灰色のタイル、金属の手すり。

 新卒の頃にも何度か来たことはあるはずなのに、今日のそれは別の場所のように見える。


 採用前オリエンテーション。

 通知書に印刷されたその言葉を何度も読み返しながら、成美は案内板の「大会議室はこちら」という矢印を追った。


 エレベーターの扉が開くと、新卒~20代中盤くらいのスーツ姿の男女が数人、同じ方向へ歩いていく。

 新採用の教師たちだろう。賑やかな声が少し先で弾んでいる。


「何校あるんだっけ、うちの県の中学校って」

「希望出したの通るかなあ」


 そんな会話が聞こえてきた。

 成美は、少し距離を置いて後ろを歩く。


 自分だけが、「同じ新任」でも別枠の人間のような気がして、輪の外に立ってしまう。

 それは、勝手にそう感じているだけなのだと分かっていても、歩幅は自然と一歩引いてしまう。



 大会議室のドアを開けると、既に前方のスクリーンにはパワーポイントのタイトルが映し出されていた。


 「令和×年度 教員採用 事前オリエンテーション」

 その下に小さく、「障がい者雇用教諭の皆さんへ」という文字も見える。


 机がコの字に並べられた部屋の一角に、「障がい者雇用枠」の名札がふたつ用意されていた。

 その席に腰を下ろすと、同じ札を前にした男女が二人、すでに座っているのが見えた。


「……あ、こんにちは」


 隣の席の、左耳に補聴器をした女性が、緊張した笑みを向けてきた。三十代前半くらいだろうか。

 成美も慌てて会釈する。


「こんにちは」


「私、吉岡です。高校の特別支援学校に行くって聞いてます」


「山本です。配属先は、まだ聞いてなくて……」


「そうなんですね。なんか、緊張しますよね」


「はい……」


 言葉を交わしながらも、成美は机の上に置かれた資料に目を落とした。

 表紙には太いゴシック体で、「障がい者雇用教諭の皆さんへ」と書かれている。


 ページをめくると、「県における障害者雇用の現状」「合理的配慮とは」といった見出しが並んでいた。


 少し遅れて、人事課の職員たちが入ってくる。

 四十代半ばくらいの男性がマイクを握り、前に立った。


「それでは、時間になりましたので、採用前オリエンテーションを始めます。本日は、お忙しい中お集まりいただきありがとうございます」


 マイクを通した声が、広い部屋にすっと広がる。

 彼の背後では、パワーポイントが次のスライドに切り替わった。


 「本県における障がい者雇用の推進」。

 青い背景に白い文字が並んでいる。


「まず、皆さんの採用にあたりまして、本県の障がい者雇用の現状を簡単にご説明いたします」


 人事担当の男性は、慣れた口調で話し始めた。

 スクリーンには棒グラフや円グラフが立ち並び、「法定雇用率」「達成状況」といった言葉が飛び交う。


「ご存じの通り、地方公務員にも障害者雇用促進法に基づく法定雇用率が定められております。本県教育委員会では、その達成とさらなる推進のために──」


 言葉は滑らかだった。

 目標値、プラン、数値の推移。

 ところどころに「多様性」「インクルージョン」といった耳慣れた言葉が挟まれる。


 成美は資料の同じページを見ながら、「自分もこの“達成率”の一つとして数えられるのだな」と、少し現実味のない気持ちで聞いていた。


 グラフの棒が一本伸びるたびに、その後ろに一人ひとりの暮らしや、しんどさや、喜びがあるはずなのに、ここではそれはすべて色付きの帯に変換されてしまう。


 悪意があるわけではないのだと分かっている。

 数字で示さなければ、予算も、ポストも動かない世界がある。


 それでも、「自分が一本の棒グラフになっていく感覚」は、どこか心をきしませた。



「続きまして、『合理的配慮』について、ご説明します」


 スライドが切り替わると、一枚の画面に大きく定義が映し出された。


 「合理的配慮とは──障害のある人が他の人と平等に機会を得られるよう、個別の状況に応じて必要かつ適当な変更・調整を行うこと」


 その下に、「過重な負担にならない範囲で」と小さく書かれている。


 担当者はその一文を指し示しながら、ゆっくりと説明した。


「皆さんの働きやすさを確保するためには、職場全体の協力と理解が不可欠です。一方で、学校現場には、児童生徒数や職員数など、さまざまな制約もございます。その中で、『過重な負担にならない範囲で』合理的配慮を行っていくことになります」


 言い回しは、教科書どおりだった。

 成美は、唇の内側をそっと噛む。


 過重な負担にならない範囲。

 それを判断するのは、一体誰なのだろう。


 自分が「これは負担だ」と感じる前に、周りが「これくらい平気だろう」と決めてしまうことはないのか。


「具体的な配慮の例としては、こうしたものが考えられます」


 スライドには、箇条書きが並ぶ。


「聴覚障害の先生の電話応対の免除」「肢体不自由の先生へのスロープ、エレベーターの整備」「肢体不自由の先生への給食指導の免除」「視覚障害の先生への授業補助」「精神障害の先生への業務の優先順位の明確化」「情報提供のタイミングの調整」「静かな作業スペースの確保」「相談窓口の明示」──。


 成美が面接で話した内容と重なる項目もあった。

 「ちゃんと聞いてくれていたんだ」と、少しだけ胸が緩む。


 だが、その次の担当者の言葉が、すぐにその感覚を凍らせた。


「ただし、配慮の内容は、皆さんそれぞれの状況と、配属校の実情を踏まえて、個別に検討していきます。身体障碍をお持ちの先生方への合理的配慮を除きまして、まずは、健常の先生方と同じ配置で様子を見させていただき、そのうえで、無理な部分が出てきたら、そこを変えていく。そういう形で進めていきたいと考えています」


 健常の先生と同じ配置。

 様子を見る。

 無理な部分が出てきたら。


 言葉は丁寧だった。

 それでも、成美の胸の奥には、冷たい感覚がすっと降りてきた。


 ──つまり、最初は「健常の先生と同じ量」をやるところから始まる、ということだ。


 様子を見るために。

 無理があるかどうかを見極めるために。


 でも、無理かどうかは、体がいちばんよく知っている。

 そこまでいって初めて、「ああ、無理だったんだ」と認定されるのだとしたら、そのときにはかなり傷ついている可能性がある。


 胸の中で言葉が浮かぶ。

 それって、「無理をして倒れてから考える」っていうことじゃないですか。


 喉まで上がってきたその一言は、しかし空気に触れる前に溶けて消えた。


 質問の時間ではない。

 今ここで反論したら、場の空気を乱してしまうかもしれない。

 「面倒な人」と思われるかもしれない。


 そんな考えが、長年の経験から自然と立ち上がってくる。


 隣の席の吉岡が、小さくペン先を止めたのが見えた。

 彼女も、何か引っかかるものを感じているのかもしれない。



「質問などがあれば、このあと個別にお受けしますので」


 人事担当が一通りの説明を終え、場は少し柔らいだ雰囲気になった。

 スクリーンには、「配属校決定の流れ」というスライドが映っている。


「配属校につきましては、皆さんの居住地やご希望、通勤手段なども考慮しつつ、こちらで総合的に判断いたします。ただし、ご希望に沿えない場合もございますので、その点はご了承ください」


 その言い回しの中に、「配慮」と「現実」が同居しているのが分かる。


「交通の便に関して心配のある方は、このあと、担当までお声がけください。運転免許の有無なども含めて伺います」


 その言葉に、成美の心臓が小さく跳ねた。


 免許。

 現在は持っていない。

 電車とバスで通える範囲なら、問題ない。けれど──。


 「山間部は少し通いづらいかもしれませんが、その場合は、できるだけ配慮を考えます」


 担当者はさらりとそう付け加えた。

 “できるだけ”という言葉が、今度は胸に引っかかる。


 この人自身に悪意があるわけではない。

 むしろ、限られた条件の中で、なるべく柔軟にしようとしているのだろう。


 でも、学校の数も、教員の数も、予算も限られている。

 誰かにとっての配慮は、誰かにとっての負担になる。


 その板挟みの中で、「まずは同じ配置で様子を見る」という結論に落ち着いてしまうのは、ある意味では自然なことなのかもしれない。


 分かっている。

 分かっているけれど、胸の中の不安は消えてくれなかった。



 オリエンテーションは、休憩を挟みながら続いた。

 服務規程、セクハラ・パワハラ防止、情報保護、SNS利用に関する注意……。


 どれも重要な話だ。

 けれど、成美の意識はときどき遠のきそうになる。


 資料の文字を追いながらも、頭のどこかで別のことを考えている。


 ──「無理な部分が出てきたら」って言うけど、その前に誰かに相談する余裕はあるのだろうか。


 「無理です」と言うためには、自分の中で、すでにかなり追い詰められている必要がある。

 軽い違和感の段階で声を上げられる人は、そんなに多くない。


 ましてや、新参者で、“配慮される側”という立場の自分が、現場で「これはできません」と言えるだろうか。


 「迷惑をかけたくない」という思いが、口を塞ぐ未来が、容易に想像できてしまう。


 講義がひと段落し、休憩に入ったとき、吉岡が手を挙げて質問した。


「あのう、合理的配慮って、どこまでお願いしていいのか、線引きがよく分からなくて……」


 人事担当は、一瞬だけ考えるように視線を宙に泳がせ、それから答えた。


「そうですね。まずは、皆さんが『これがあると助かる』『ここがしんどい』と感じられる点を、校長先生や管理職にきちんとお伝えいただくことが大事です。そのうえで、学校側と話し合いながら、できる範囲の調整をしていくことになると思います」


「できる範囲……」


「はい。たとえば、業務量自体を大きく減らすことは難しくても、業務の種類を調整したり、負担の大きい時間帯を避けたりする工夫は可能かもしれません。個別のケースごとに検討していきましょう」


 吉岡は、「ありがとうございます」と頭を下げた。

 その表情には、納得と、わずかな不安が同居している。


 きっと彼女も、「どこまでがお願いしていいラインなのか」を測りかねているのだろう。

 それは本人だけで決められるものではない。

 現場の空気、周囲の余裕、見えない圧力、そういったものにも左右される。


 「言ってください」と言われることと、「言える雰囲気があること」は、まったく別の問題だ。


 成美は、そのことを誰よりもよく知っていた。

 これまでの職場で、何度も言葉を飲み込んできたから。



 オリエンテーションが終わり、会議室の椅子がガタガタと引かれる音が一斉に響いた。

 人事担当が「何かあれば個別に」と呼びかけ、参加者たちは三々五々、部屋を出て行く。


「山本さん、どうします?」


 隣の席の吉岡が、少し不安そうな目で尋ねた。


「交通のこと、相談に行きます?」


「うーん……私は、とりあえず様子見ようかな。まだ配属先聞いてないし」


 自分でそう答えながら、「様子見」という言葉が、先ほどの人事担当の口癖と重なるのを感じて苦笑する。


「吉岡さんは?」


「私は、配属校もう聞いているけど……運転免許を持ってないから、3年後の異動でも公共交通機関で通えるところが良くって。耳が悪くても免許は取れるんですけど、自分が運転するとなると不安で取ってないんです、免許」


「そうなんですね」


「でも、なんか、あんまり細かいこと言ったら、『じゃあ他の人にしたほうが良かったかな』って思われそうで、怖くないですか?」


 吉岡の声は、かすかに震えていた。


 成美は、その気持ちが痛いほど分かった。


「分かります」


 短くそう答えたあと、一拍置いて付け加える。


「でも、本当は、今言っておいたほうがいいのかもしれないですよね。後から『なんで早く言わなかったの』って言われるパターン、よくあるし」


「そうですよね……」


 分かっている。

 頭では、充分に分かっている。


 それでも、足がすぐには動かない。


 会議室の前に立つ人事担当の男性は、忙しそうに誰かと話をしていた。

 スマートフォンが震え、机の上の資料が山のように積まれている。

 複数の案件を同時に抱え、時間に追われているのが見て取れる。


 彼も、決して余裕のある立場ではない。

 そのことが分かるからこそ、「自分のことばかり言っていいのだろうか」という躊躇いが生まれる。


 結局その日、成美は、「交通については後日相談する」という小さなメモをアンケート用紙に書き込むだけで、会議室を後にした。


 廊下に出ると、窓の向こうに県庁の敷地内の桜が見えた。

 まだ蕾がふくらみはじめたばかりの枝先が、薄く色づいている。


 春は、もうすぐそこまで来ている。

 新しい生活も、同じように近づいている。


 エレベーターを待ちながら、成美は胸の奥をそっとなぞった。


 希望と、不安と、そのどちらにも名前をつけきれない感情。

 さっき聞いた言葉が、耳の奥で反芻される。


 まずは、健常の先生と同じ配置で様子を見ます。

 無理な部分が出てきたら、そこを変えていきます。


 ──無理な部分が出てきたとき、自分はちゃんと「無理です」と言えるだろうか。


 その問いに、明確な答えは返ってこない。


 ただ、心のどこかで、小さな違和感が静かに積もり始めている。


 それはまだ、誰にも見えないほどの薄い層だ。

 けれど、この先の日々の中で幾度となく降り積もり、やがて成美の心を押し潰す重みに変わっていく。


 エレベーターの扉が開いた。

 乗り込んだ箱の中、鏡に映った自分の顔は、少しこわばっている。


「大丈夫。大丈夫だから」


 誰に向けたのか分からない言葉を、口の中でそっと転がす。


 その言葉が、どれほど脆いおまじないだったのかを知るのは、山間の学校で迎える四月の朝になってからだ。

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