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県初の障がい者教諭として赴任した結果、学校と自分がゆっくり壊れていく話  作者: 妙原奇天


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第19話「3時間目、違和感」

 五月も三週目に入ったとはいえ、山あいの朝はまだ冷える。

 それでも、三時間目の始まるころになると、教室の窓から差しこむ陽の光が、黒板の端にうっすらと白い帯をつくる。


 山本成美は、教卓の前に立ちながら、その白い帯の上に自分の影が落ちるのを、妙に遠くから見ているような感覚にとらわれていた。


 胸の奥が、朝からずっと重たかった。

 息を吸うと、肺のどこかに空気が引っかかっているような違和感。

 頭の芯はぼんやり熱をもっていて、考えようとすると、考える前に霧がかかるように思考が止まる。


 でも、授業は待ってくれない。

 チャイムとともに、生徒たちが一斉に席につき、ざわざわとした音が収まっていく。


「はい、三時間目、始めます。今日は前回の続きで——」


 声を出した瞬間、喉がひゅっと細くなるのを感じた。

 言葉が少し遅れて、自分の口から出てくる。


 教室の空気が、ふだんより重たく感じられた。


「先生、これプリント?」

「前のやつ、もう一枚ちょうだい」


 生徒たちが両手を挙げて呼ぶ。

 成美はうなずき、配布用のプリントに手を伸ばした。


 そのとき——。


 指先の温度が、急に半分ほど消えた。

 触っているはずの紙の感触が、遠い。


 おかしい、と気づく前に、視界の右の端がふっと白く濁った。

 砂をかきまぜた水のように、ゆらゆらと白い膜がかかる。


 黒板の文字が、ところどころ欠けていく。


 なんだろう……。


 瞬きをしても、白いノイズは消えない。

 むしろ範囲が広がり、教室がゆっくりと、霞の中に沈んでいくように見えた。


「先生?」


 一番前の男子が、眉をひそめてこちらを見た。


「先生、なんか……顔、真っ白だよ?」


 その声がやけに遠く響いた。

 教室全体の音が、水の膜を一枚隔てた向こう側から聞こえてくるように小さくなる。


「あ、大丈夫。ちょっとね……」


 笑おうと口角を上げた瞬間、頬の筋肉が重くて、思ったように動かない。


 プリントを渡し終えようと歩くと、床のタイルの色が一瞬だけ飛んだ。

 視界の奥がまた白く揺れる。


 体の芯に、一本の糸が通っていたとして、その糸がぷつぷつと切れかけているような感覚があった。


 でも——。


 でも、三時間目さえ終われば、今日は空き時間が二コマ続く。


 そこで、少し座って呼吸を整えれば……。

 それだけで大丈夫になる。

 そう決めつけるように、成美は深呼吸をした。


「ここ、読めないんですけど」

「先生、進むの早い」


 生徒たちの声は聞こえている。

 聞こえているけれど、脳に届くまでほんの一拍、遅れる。


「あ、ごめんね。じゃあ、ゆっくりやるね」


 そう返しながら黒板に目を向けた瞬間——

 文字が、ほんのわずかに波打った。


 黒板全体が、遠い海の底から見上げているように、ゆらゆらと揺れる。


 それでも、チョークを手に取る。

 「書かなきゃ」と体が勝手に動こうとする。


 だって——。


 授業だけは、絶対に落としたくない。

 どんなに苦しくても、どんなに失敗が続いても、「授業だけは頑張っている先生」でいたい。


 それが、最後の支えみたいになっていた。


「先生、本当に大丈夫? 手、震えてる……」


 クラスの後ろから、心配そうな女子の声がした。


「大丈夫。三時間目が終わったら、空き時間だから」


 その「大丈夫」は、これまでの人生で、いちばん嘘に近い言葉だった。


 黒板の前に立つと、足の裏からじわじわと力が抜けていく。

 床が坂になっているのかと思うほど、体が前に傾く。


 手の中のチョークが汗で湿っていた。

 握りしめすぎて、親指に白い跡がついている。


 それでも、成美は授業を続けた。

 続けようとした。


 教室のざわめきが、またひとつ遠ざかる。


 視界の端で、窓の外の光が白く滲んだ。

 その白さが、少しずつ、教室の中に侵入してくるように拡がる。


 ——おかしい。


 ここ数日のめまいとは、明らかに違う。

 違う、と分かるのに、動くことをやめられない。


 やめた瞬間、何かが崩れそうで。


 だから、前に進むしかなかった。

 黒板に向かいながら、呼吸だけを頼りに立ち続ける。


 チョークを黒板に当てた瞬間、視界が白く跳ねた。


 たったそれだけで、体の奥がぎゅっと縮むような危険なサインを出しているのが分かった。


 それでも、成美は——やめなかった。


 授業だけは、どうしても終えたかったから。


 黒板に書くはずだった単語が、頭の中からすぽっと抜け落ちた。


 単語の並びは思い出せるのに、意味が出てこない。

 さっきまでプリントで説明していた内容なのに、黒板の前に立った途端、紙の上の文字と、口から出すべき日本語が切り離されてしまう。


「……ええと」


 思わず間をあけると、教室の空気がそこだけ真空になったみたいに静まる。


 沈黙が怖い。


「じゃあ、この部分の登場人物の心情曲線、書いた人?」


 成美は、咄嗟に質問にすり替えた。

 指名して、生徒に黒板に書かせて「そうだね」と頷いて繋ぐ。


 自分の頭の中の空白を、生徒の声で埋めていく。


「じゃあ、この文を一緒に読んでみようか。前から順番に、一人一文ね」


 教科書を開かせて、リレー読みを始める。

 声を出してもらっているあいだ、成美は机の角に手を置いて、さりげなく体を支えた。


 足の裏が、紙の上に立っているような頼りなさだった。

 ふとしたはずみで、すべり落ちてしまいそうな感覚。


 教室の一角で笑い声があがる。

 誰かの読み方が少しおかしくて、周りがつられて笑ったのだろう。


「はい、そこ笑わない。よく読めてたよ」


 注意する声だけは、普段どおりに出た。

 それを確認して、成美は少しだけ安心する。


 声がちゃんと出る。

 言葉も、まだつながっている。


 大丈夫、大丈夫。

 三時間目さえ終われば。


 そう自分に言い聞かせながら、教卓の上のタイマーに目をやる。


 残り十五分。


 十五分ぐらいなら、持つ。

 そう思い込もうとした瞬間、教科書の文字がふっとひとつぶれた。


 黒いインクの行間に、白い霧が差し込んでくる。


 まるで、紙の上にだけ薄い霧が降りているような、あり得ない見え方だった。


「……じゃあ、次の問題、ペアでやってみようか。隣同士で」


 黒板に問題を書き出す代わりに、教科書の練習問題を指定する。

 ペアワークに切り替えれば、生徒たちの視線は互いに向かう。

 そのあいだに、自分は少しだけ深呼吸ができる。


 ざわざわと、小さな話し声が教室中に広がった。


「ここって、こうだっけ?」

「いや、それひっかけじゃね?」


 生徒同士のやりとりが飛び交う。

 その音が、いつもより遠く、そしてくぐもって聞こえる。


 耳の奥に、またキーンという高い音が立ち上がった。

 扇風機のモーター音のような、細く長い音。


 頭の奥がぐらりと揺れて、教卓の縁をつかむ手に力が入る。


 そのとき、教室の後ろの扉が静かに開いた。


「どう? 進み具合」


 顔をのぞかせたのは、学年主任の男性教師だった。

 三時間目の巡回で、様子を見に来たらしい。


「大丈夫です。今、ペアで演習問題を解いてもらってます」


 成美は笑って、いつもの調子を装う。


 主任は教室を一瞥し、「うん、いい雰囲気じゃない」と短く言った。

 そして、ふと成美の顔を見つめる。


「……山本先生、ちょっと疲れてる?」


「えっ」


「目の下、クマ。まあ今の時期はみんなそうだけどね」


 冗談めかして笑い、さほど深くは踏み込んでこない。


 その軽さに、ほっとしたような、肩透かしを食らったような感情が同時に湧いた。


 「大丈夫?」と言われたら、たぶん「大丈夫です」としか答えられない。

 だったら、最初から深く聞かれないほうが楽だ。


 でも同時に、どこかで「誰かに止めてほしい」とも思っている。


 このまま進むのが危ないと、自分では分かっているのに、自分でブレーキをかけられない。

 だから、誰かに「今日はもう帰りなさい」と言ってほしい。


 そんな勝手な願いが、頭の片隅でちろちろと燃えている。


 けれど主任は、ペアワークの様子をざっと眺めると、「じゃ、続きお願いね」と言って教室を出ていった。


 ドアが静かに閉まる音が、やけに大きく聞こえた。


 ──誰も止めない。


 それは、見捨てられたという意味ではなく、

「ここまでは普通だ」と判断された、ということなのだろう。


 それがかえって、成美の足を前に進ませる。


 普通。

 まだ、普通の範囲。


 だったら、自分がしんどいと感じるのは、きっと甘えなのだ。


 そう思ってしまう。


「はーい、そろそろペアでの話し合い、終わりにしようか」


 声をかけると、生徒たちが名残惜しそうに教科書から顔を上げる。


「じゃあ、この問題を、何人かに発表してもらおうかな。……じゃあ、後ろの列の人」


 指名して、当てて、答えを板書していく。


 黒板に向かうたびに、足元のタイルが少し斜めになったように感じる。


 それでも、チョークを動かす。

 板書の仕方は、体に染みついているから、頭がぼんやりしていても、ある程度までは手が勝手に仕事をしてくれる。


「いいね。その答えで合ってます」


 笑顔を向ける。

 生徒のうち何人かは、返すように微笑んだ。


 そのやりとりだけが、ぎりぎり現実につながっているような感覚だった。



 チャイムが鳴ったとき、成美は自分の肺の奥に、溜めていた空気をすべて吐き出したい衝動にかられた。


「じゃあ、三時間目はここまで。続きは、明日の授業でやります。プリント、なくさないでね」


 そう言いながら、教卓の端をつかんだ。

 チャイムの音が遠く響いている。


「起立、礼!」


 号令係の声に合わせて、生徒たちが椅子を引く。

 席を立つざわめきが、一気に教室中にひろがった。


「先生、プリントもう一枚」

「先生、ノートこれで合ってる?」


 何人かが列を作って前に来る。

 その一人ひとりに返事をしている間、成美は自分の呼吸がどんどん浅くなっていくのに気づいた。


 胸が十分に膨らまない。

 空気が、肺の手前で渋滞している。


「先生、ほんとに大丈夫? 手が冷たい……」


 教科書を胸に抱えた女子生徒が、再び顔を覗き込んだ。


 さっきと同じ子だ。


「大丈夫。ありがとう、心配してくれて」


 口が勝手にそう答える。


 本当は、「大丈夫じゃない」と言ってみたかった。

 言って、どんな反応が返ってくるのかを確かめたかった。


 でも、その一言を発する勇気がない。


 それを言った瞬間、すべてが崩れるような気がして。


「先生も、ちゃんと休んでね」


 女子生徒はそう言って、教室を出ていった。


 扉が閉まると同時に、教室のざわめきが廊下へと流れ出ていく。


 ひとり残った教室で、成美は、すっと膝から力が抜けるのを感じた。


 教卓の椅子を引き、どさっと腰を落とす。


 座った途端、世界がぐるりと一回転した。


 頭の中で、何かがずれる。

 視界の端が白く煙り、その向こうで、黒板と窓が、少しずつ位置を変えて見える。


 椅子の背もたれを、ぎゅっとつかんだ。


 今ここで倒れたら、どうなるんだろう。


 そんな考えが、一瞬、脳裏をよぎる。


 でもすぐに、「六時間目の総合学習の準備が」とか、「職員室に戻らなきゃ」という具体的なタスクが、その考えの上に覆いかぶさってくる。


 倒れるより、やるべきことのほうが先。


 それは、教師になってからというより、この社会で働き始めてからずっと刷り込まれてきた順番だ。


 倒れるのは「失敗」で、働き続けるのが「正解」。


 そんな簡単な二択で裁かれてしまう世界で、成美は長く生きてきた。


 だから、「今倒れてもいい」という選択肢は、どれだけ身体が悲鳴を上げていても、本気で選ぼうとは思えない。


 立ち上がる。

 足元ががくんと揺れる。


 廊下に出ると、生徒たちは慌ただしく移動教室の準備をしていた。

 その横を逃げるように抜け、休める場所を探す。


 調理室の前を通り過ぎたとき、熱いスープの香りがふわっと鼻をくすぐった。

 それなのに、胃のあたりは、石を詰め込まれたみたいに重い。


 職員室に戻ると、何人かの先生たちが円になって難しい顔をしていた。

 どこかのクラスで生徒指導案件があったのかもしれない。


「あ、山本先生。今日の五時間目の会議、出られる? 空き時間当たってるから」


 進路担当の男性教師が、プリントをひらひらさせながら声をかけてきた。


「会議……ですか?」


「うん、進路指導の件で。ほら、全学年の空きの先生、みんな出ることになってるやつ」


 その言葉が、体のどこに落ちていくのか、最初は分からなかった。


 会議。


 午後、空き時間が一コマあるはずだった。

 自分が「座っていられる時間」として、さっきから支えにしていたコマだ。


 三時間目の授業中、「三時間目が終わったら二連続で空き時間だから」と自分に言い聞かせた、あの午後の時間。


「……あ、はい。分かりました」


 口が勝手に返事をしていた。


「ごめんね、急で。でも、全体で共有しておきたいって話になったから」


「いえ、大丈夫です」


 大丈夫ではない。


 けれど、「無理です」とは言えなかった。


 今ここで、「その時間だけは休ませてください」と言ったらどうなるか。

 「障がい者雇用だからって、特別扱いはちょっと」と、誰かの心の中でささやきが生まれるかもしれない。


 言葉にならなくても、視線の重さとして、確かにそこに存在するかもしれない。


 それを想像するだけで、喉がまたひゅっと細くなった。


「山本先生どこ行くの?」

「ちょっと教室に忘れ物を取りに」

「倒れないでよ」


 その言葉が、冗談にも本気にも聞こえた。


 どちらにせよ、「倒れないでよ」という願いは、たぶん彼にとっては善意から出たものだ。


 しかし、「今ここで横になりたい」と心の底から思っている自分を見透かされたような気分になった。


 ここで倒れるわけにはいかない。

 どこか、どこか休める場所は。


 成美は、顔をひきつらせた笑顔を浮かべながらすっと職員室を後にした。

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