第18話「心と身体の限界サイン」
黒板の前に立つと、視界の端が、すこしだけ波打っている。
いつもの三年三組の教室。
窓の外には、うすく雲のかかった山の稜線。
生徒たちの机が縦横にならび、そのあいだから、椅子を引きずる音や、小さな私語が漏れてくる。
それらすべてが、今日はいつもより遠く、そして重く感じられた。
「じゃあ、ここからが今日のまとめです」
山本成美は、いつもどおりのトーンでそう言って、黒板の左側に移動した。
チョークを一本つまみ上げる。
その瞬間、指先が、かすかに震えていることに気づく。
白い棒を持った親指と人差し指が、わずかに力を入れるたびに、小刻みに震動する。
胸の奥で、どくん、と一拍、脈が大きく跳ねた。
深呼吸。
そう心の中で指示を出し、肺に空気を入れようとする。
けれど、吸い込んだ空気は、胸のあたりで引っかかるような感覚を残すばかりで、楽にはならない。
とりあえず、板書を終わらせなければ。
成美は、黒板の上部に向かって手を伸ばした。
その動きに合わせて、視界が、ゆっくりと右に回転した。
……あれ?
教室の窓枠が、水平ではなく、ほんのわずかに斜めに傾いたように見える。
チョークの先を黒板に当てようとした瞬間、指先の力がふっと抜けた。
カラン、と乾いた音を立てて、白い棒が床に落ちて砕ける。
それは、教室全体に、思った以上によく響いた。
数人の生徒が、顔を上げる。
「あ、ごめんね」
そう言おうとして、声が出なかった。
代わりに、黒板の前で、数秒間、動けなくなる。
頭の中で、なにかが遠ざかる。
生徒たちのざわめきが、水の底から聞こえてくるように遠くなった。
自分が何をしていたのか、一瞬だけ、すとんと抜け落ちる。
何を書こうとして、どこまで書いて、あと何分残っているのか。
情報がばらばらになって、指先に伝わってこない。
教室の後ろのほうから、小さな笑い声があがった。
「先生、チョーク粉々」
「粉砕した! 備品壊したらいけないんだー」
誰かが、半分ふざけるように言う。
それを合図にするみたいに、くすくすと笑いが広がる。
その笑いは、からかいというより、「いつもの先生とのやりとり」の延長線上にあるようにも聞こえた。
ただの、たまたまのミス。
先生も、ドジなところがあるんだね。
そんな、軽い笑い。
なのに、成美の耳には、その笑いが、妙に鋭く、刺さるように響いた。
コツン、と板書用のマグネットが指に当たって、そこでようやく我にかえる。
「あ、ごめんね。えっと……そうだね、この続きだよね」
自分でも驚くほど明るい声が、口から出た。
落ちたチョークの残骸を拾おうとして、腰をかがめる。
その動きで、また視界がふらりと揺れた。
床と天井が、ゆっくりと入れ替わるような感覚。
でも、時間は止まってくれない。
残り五分。
板書を終わらせて、今日のポイントだけは言い切らなければ。
教卓の上に置いていた予備のチョークをつかみ、無理やり手を動かす。
書いている文字が、少し震えている。
黒板の上の白い線が、波打ったような字になっていくのを見て、「あとで消せばいい」と自分に言い訳した。
◇
チャイムが鳴り終わるころには、手の震えは少しおさまっていた。
「じゃあ、ノートのそのページ、今日の宿題になるからね。連休のあとに漢字テストするから、ちゃんと見直しておいてください」
いつものフレーズで授業を締めくくる。
生徒たちがいっせいに椅子を引き、ノートを閉じ、教科書を鞄にしまい始める。
教壇に立つ成美の足は、まだ軽く揺れていた。
「先生、顔、白くない?」
帰りがけに、前の席の女子がふと立ち止まって言った。
「え?」
「さっきから、なんか……。大丈夫ですか」
「ああ、大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」
反射的に、いつもの言い訳が口をついて出る。
女子生徒は、それ以上は踏み込んでこなかった。
「無理しないでくださいね」
それだけ言って、教室を出ていった。
その背中を見送りながら、「無理してるから今こうなってるんだけどね」と、心の中で自嘲気味につぶやく。
でも、声には出さない。
出したところで、何かが変わるわけでもないから。
◇
職員室に戻ると、蛍光灯の光と、コピー機の低い唸りが迎えてくれた。
昼前のこの時間帯は、どの席もだいたい埋まっている。
誰かが電話に出ていて、誰かがプリントをホチキス止めしていて、誰かが保護者対応について同僚に相談している。
音が多すぎて、どれに耳を向ければいいのか分からない。
それでも、ここが自分の居場所なのだと、自分に言い聞かせる。
席に腰を下ろした途端、椅子の背もたれが、ありがたいほどに体重を受け止めてくれた。
背中を預けると、少しだけめまいが軽くなる気がする。
机の上のペン立てが、わずかに二重に見えていた。
一本のボールペンが、二本にずれて、また一つに戻る。
耳の奥で、キーンという高い音が鳴っているような感覚。
誰かが横で、ビニール袋をくしゃくしゃと丸めているのかと思ったが、そんな音はしなかった。
耳鳴りだ、と気づくのに、数秒かかった。
「山本先生、大丈夫? なんか、さっきからぼんやりしてるけど」
向かいの席の佐川瑞希が、心配そうに覗き込んでくる。
彼女の声だけは、なぜかはっきりと届いた。
「あ、すみません。ちょっと、目が回ってて」
「低血圧? 朝ごはん食べてる?」
「食べてます、たぶん」
たぶん、という言い方に自分で苦笑しそうになる。
ビスケットを一枚かじって、慌てて家を出てきた朝を思い出した。
あれを「食べた」と言っていいのかどうか、よく分からない。
「保健室、行く?」
佐川は半分本気で聞いてくる。
成美は首を横に振った。
「大丈夫です。次の時間、三組があるので」
「じゃあ、せめて少し座ってて。コピーとかだったら、私やるから」
「いえ、コピーなら大丈夫です。座ってできるから」
そう言って立ち上がろうとした瞬間、足元がふわりと浮くような感覚がした。
椅子から腰を上げた状態で、ほんの一秒ほど、身体の重心が行き場を失う。
天井が近づいたような気がした次の瞬間、床がすっと遠のく。
くらっとバランスを崩しかけて、慌てて机に手をついた。
「わっ、大丈夫!?」
佐川の声。
「だ、大丈夫。ちょっと立ちくらみしただけ」
笑いながら言うと、佐川は、明らかに納得していない表情をした。
「無理しないでね。本当に。最近、顔色ずっと悪いよ」
「ありがとうございます」
そう言って、コピー機に向かう。
一歩歩くごとに、足元の床板が、ほんのわずかに沈むように感じる。
実際には沈んでいないのに、身体のほうが勝手に揺れる。
コピー機の蓋を開け、プリントの原稿をセットする。
ボタンを押す。
機械が動き出すと同時に、その低い振動音が、耳鳴りと混ざった。
世界のどこまでが本当の音で、どこからが自分の耳の中のノイズなのか、その境界が曖昧になる。
でも、「病院に行こう」という発想は、頭の中に浮かんでこなかった。
浮かびかけても、すぐに、別の声がかぶさってくる。
──そんな時間ないでしょ。
──休み明けのテスト、作った?
──部活の保護者会、プリントどうするの。
タスクの一覧が、すぐに「受診」の上に積み上がる。
「あと少しだけ頑張れば何とかなる」と、何度も自分に言ってきた、その延長線上にいる感覚。
だから、まだ「限界」という言葉は、頭の辞書から削除されていた。
◇
その日の夜。
久しぶりに夕食の食卓に座ると、味噌汁の湯気の向こうに、父と母の顔がぼんやりと見えた。
「今日はずいぶん早かったね」
父が、新聞をたたみながら言う。
「うん、トラブルも保護者対応もなかったから」
「連休もなかったし、大変ね」
母・静江がそう言いながら、成美の茶碗によそったごはんを少し減らす。
「最近、あんまり食べないから。これくらいから始めなさい」
「うん、ありがとう」
一口、白米を口に入れる。
咀嚼すると、こめかみのあたりに鈍い痛みが走るような気がした。
飲み込むと、胸の奥がつかえたような感覚になる。
味がしない。
「成美、ちゃんと寝てるの?」
母が、箸を止めて聞いてきた。
「寝てるよ。ちゃんと」
「目の下、くまができてるわよ」
「あら、ほんとだ」
父が、興味深そうに顔を覗き込む。
「若いんだから、もう少し無理がきくんじゃないのか」
冗談めかして言われたその一言に、胃がきゅっと縮む。
「お父さん、そういう言い方しないの」
母が軽く睨むような目を向ける。
「今の子たち、昔と違って大変なんだから」
「いやいや、俺たちの頃も大変だったぞ。残業代も出ないのにさ」
夫婦の軽い言い合いが、いつもの調子で始まる。
成美は、その会話から少し距離を置いて、味噌汁をすすった。
湯気の向こうで、両親の輪郭が揺れている。
揺れているのは、湯気のせいなのか、自分の目のせいなのか、よく分からない。
箸を持つ指先に、昼間と同じ震えが戻ってきた。
茶碗の縁に、箸の先が軽く当たって、カチ、と音を立てる。
「やっぱり、どこか悪いんじゃない? 病院、行ってきたら」
母の声が、さっきより少しだけ真剣な色を帯びていた。
成美は、反射的に首を振る。
「大丈夫。本当に。五月下旬には少し落ち着くと思うから」
「でもねえ……。六月に入ったらすぐ期末テストがあるんでしょ?」
「あるけど、テスト問題の大枠は作ってあるから」
「そういう問題なのかしら」
母は納得しきれない様子で眉をひそめた。
父は、「若いんだからすぐ良くなるよ」と、相変わらず根拠のない楽観を口にする。
二人とも、本当に成美のことを心配している。
それは分かっている。
だからこそ、「大丈夫じゃない」とは言えなかった。
心配させたくなくて、自分の状態を小さく見積もる。
それが習慣になってしまっている。
病院に行くと言ったら、「仕事は?」「部活は?」という話になるだろう。
診断書をもらって、休職をすすめられるかもしれない。
そうなったとき、学校はどうなるのか。
クラスは、部活は、同僚たちは。
その先の想像が、いちいち重たくのしかかってきて、「病院」の二文字は、頭の中の隅に追いやられていく。
ご飯茶碗のごはんは、半分以上残っていた。
「ごめん、おなかいっぱい……せっかくの久しぶりのご飯なのにごめんね」
そう言って箸を置くと、母は心配そうな顔をしたものの、無理には勧めなかった。
「じゃあせめて、果物だけでも食べる?」
「あとで大丈夫」
あとで、と言っておいて、その「あとで」はたいてい来ない。
◇
その夜。
布団に体を横たえると、天井のシミが、わずかに回転しているように見えた。
身体の向きを変えようと、右に寝返りを打った瞬間、世界がぐるっと回った。
「っ……」
思わず吐息が漏れる。
遊園地のコーヒーカップに乗って、急に回転を強められたみたいな感覚。
目を閉じると、暗闇の中で、天井と床が入れ替わり続ける。
目を開けても、閉じても、揺れが止まらない。
胸のあたりで心臓がばくばくと跳ね、耳の奥のキーンという音が、さっきよりも大きくなった。
手を伸ばして、枕元のスマホを探る。
画面をつけると、その光が、さらに目を刺激した。
残像が尾を引いて、画面の文字が二重に見える。
それでも、「めまい 原因」「ストレス めまい 治る」といった言葉を検索窓に打ちこんだ。
表示されたページには、「良性発作性頭位めまい症」「自律神経の乱れ」「過労」といった文字が並んでいる。
病院に行ったほうがいい、と書いてある。
できれば耳鼻科か、内科か。
「……そうだよね」
小さくつぶやいて、画面を閉じた。
明日、行く時間はあるだろうか、と考える。
一時間目から授業が詰まっていて、昼休みには保護者への電話。
放課後は部活。
耳鼻科は、十八時で受付終了。
学校を出るだけで、山道を下って一時間半。
「無理だね」
つぶやいた声が、闇の中で自分に返ってくる。
じゃあ、いつ行けばいいのか。
土曜日も部活がある。
日曜は、残務整理か、なかったとしてもたぶん倒れるように寝ている。
あるいは、週のどこかで、本当に倒れてしまったら、そのときは救急車で運ばれて、病院に「強制的に」連れて行かれるのかもしれない。
そこまで考えて、慌てて思考を止めた。
倒れることを前提にしている自分に、ぞっとする。
むしろ「休めるならそれも悪くない」と思っている自分がいるからなおさらだ。
心と身体のあいだに、ずれができている。
身体は、もうとっくに「限界だ」とサインを出しているのに、心のほうが、それを見ないふりをして、黙らせている。
「社会人なんだから」「先生なんだから」「迷惑をかけちゃいけない」という言葉で、上から塗りつぶす。
そうして、サインはどんどん強くなっていく。
めまい。
耳鳴り。
胸の痛み。
指先の震え。
それらは、本当はすべて、「もう無理です」という身体からの叫びなのに。
成美は、それを「ちょっと疲れてるだけ」と訳しなおして、明日の時間割を頭の中で確認した。
朝の会。
一時間目、三年三組の国語。
二時間目、三年一組の国語。
三時間目、三年四組の国語。
四時間目と五時間目は空き。
六時間目、三年二組の総合学習。
──行ける。
そう結論づけるまでに、数分かかった。
揺れる天井を見つめながら、「行ける」と自分に言い聞かせる。
言い聞かせたところで、身体がついてくるかどうかは別問題なのに。
いつの間にか、眠りと覚醒の境目を行ったり来たりしながら、夜が過ぎていく。
そのたびに、寝返りを打つたびに、世界が横に回転する。
そのたびに、「病院」という言葉が頭に浮かび、「時間がない」という言葉が上からかぶさる。
心と身体の限界サインは、確かにそこにあった。
ただ、それを「限界」と認める役目を持つはずの本人だけが、その意味を、意図的に読み飛ばしていた。
読み飛ばしたまま、次のページに進もうとしている。
そのページの先で何が起きるのかを、まだ、はっきりとは知らないまま。




