表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
県初の障がい者教諭として赴任した結果、学校と自分がゆっくり壊れていく話  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/26

第18話「心と身体の限界サイン」

 黒板の前に立つと、視界の端が、すこしだけ波打っている。


 いつもの三年三組の教室。

 窓の外には、うすく雲のかかった山の稜線。

 生徒たちの机が縦横にならび、そのあいだから、椅子を引きずる音や、小さな私語が漏れてくる。


 それらすべてが、今日はいつもより遠く、そして重く感じられた。


「じゃあ、ここからが今日のまとめです」


 山本成美は、いつもどおりのトーンでそう言って、黒板の左側に移動した。


 チョークを一本つまみ上げる。


 その瞬間、指先が、かすかに震えていることに気づく。


 白い棒を持った親指と人差し指が、わずかに力を入れるたびに、小刻みに震動する。


 胸の奥で、どくん、と一拍、脈が大きく跳ねた。


 深呼吸。


 そう心の中で指示を出し、肺に空気を入れようとする。


 けれど、吸い込んだ空気は、胸のあたりで引っかかるような感覚を残すばかりで、楽にはならない。


 とりあえず、板書を終わらせなければ。


 成美は、黒板の上部に向かって手を伸ばした。


 その動きに合わせて、視界が、ゆっくりと右に回転した。


 ……あれ?


 教室の窓枠が、水平ではなく、ほんのわずかに斜めに傾いたように見える。


 チョークの先を黒板に当てようとした瞬間、指先の力がふっと抜けた。


 カラン、と乾いた音を立てて、白い棒が床に落ちて砕ける。


 それは、教室全体に、思った以上によく響いた。


 数人の生徒が、顔を上げる。


「あ、ごめんね」


 そう言おうとして、声が出なかった。


 代わりに、黒板の前で、数秒間、動けなくなる。


 頭の中で、なにかが遠ざかる。


 生徒たちのざわめきが、水の底から聞こえてくるように遠くなった。


 自分が何をしていたのか、一瞬だけ、すとんと抜け落ちる。


 何を書こうとして、どこまで書いて、あと何分残っているのか。


 情報がばらばらになって、指先に伝わってこない。


 教室の後ろのほうから、小さな笑い声があがった。


「先生、チョーク粉々」

「粉砕した! 備品壊したらいけないんだー」


 誰かが、半分ふざけるように言う。


 それを合図にするみたいに、くすくすと笑いが広がる。


 その笑いは、からかいというより、「いつもの先生とのやりとり」の延長線上にあるようにも聞こえた。


 ただの、たまたまのミス。


 先生も、ドジなところがあるんだね。


 そんな、軽い笑い。


 なのに、成美の耳には、その笑いが、妙に鋭く、刺さるように響いた。


 コツン、と板書用のマグネットが指に当たって、そこでようやく我にかえる。


「あ、ごめんね。えっと……そうだね、この続きだよね」


 自分でも驚くほど明るい声が、口から出た。


 落ちたチョークの残骸を拾おうとして、腰をかがめる。


 その動きで、また視界がふらりと揺れた。


 床と天井が、ゆっくりと入れ替わるような感覚。


 でも、時間は止まってくれない。


 残り五分。

 板書を終わらせて、今日のポイントだけは言い切らなければ。


 教卓の上に置いていた予備のチョークをつかみ、無理やり手を動かす。


 書いている文字が、少し震えている。


 黒板の上の白い線が、波打ったような字になっていくのを見て、「あとで消せばいい」と自分に言い訳した。



 チャイムが鳴り終わるころには、手の震えは少しおさまっていた。


「じゃあ、ノートのそのページ、今日の宿題になるからね。連休のあとに漢字テストするから、ちゃんと見直しておいてください」


 いつものフレーズで授業を締めくくる。


 生徒たちがいっせいに椅子を引き、ノートを閉じ、教科書を鞄にしまい始める。


 教壇に立つ成美の足は、まだ軽く揺れていた。


「先生、顔、白くない?」


 帰りがけに、前の席の女子がふと立ち止まって言った。


「え?」


「さっきから、なんか……。大丈夫ですか」


「ああ、大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」


 反射的に、いつもの言い訳が口をついて出る。


 女子生徒は、それ以上は踏み込んでこなかった。


「無理しないでくださいね」


 それだけ言って、教室を出ていった。


 その背中を見送りながら、「無理してるから今こうなってるんだけどね」と、心の中で自嘲気味につぶやく。


 でも、声には出さない。


 出したところで、何かが変わるわけでもないから。



 職員室に戻ると、蛍光灯の光と、コピー機の低い唸りが迎えてくれた。


 昼前のこの時間帯は、どの席もだいたい埋まっている。


 誰かが電話に出ていて、誰かがプリントをホチキス止めしていて、誰かが保護者対応について同僚に相談している。


 音が多すぎて、どれに耳を向ければいいのか分からない。


 それでも、ここが自分の居場所なのだと、自分に言い聞かせる。


 席に腰を下ろした途端、椅子の背もたれが、ありがたいほどに体重を受け止めてくれた。


 背中を預けると、少しだけめまいが軽くなる気がする。


 机の上のペン立てが、わずかに二重に見えていた。


 一本のボールペンが、二本にずれて、また一つに戻る。


 耳の奥で、キーンという高い音が鳴っているような感覚。


 誰かが横で、ビニール袋をくしゃくしゃと丸めているのかと思ったが、そんな音はしなかった。

 耳鳴りだ、と気づくのに、数秒かかった。


「山本先生、大丈夫? なんか、さっきからぼんやりしてるけど」


 向かいの席の佐川瑞希が、心配そうに覗き込んでくる。


 彼女の声だけは、なぜかはっきりと届いた。


「あ、すみません。ちょっと、目が回ってて」


「低血圧? 朝ごはん食べてる?」


「食べてます、たぶん」


 たぶん、という言い方に自分で苦笑しそうになる。


 ビスケットを一枚かじって、慌てて家を出てきた朝を思い出した。


 あれを「食べた」と言っていいのかどうか、よく分からない。


「保健室、行く?」


 佐川は半分本気で聞いてくる。


 成美は首を横に振った。


「大丈夫です。次の時間、三組があるので」


「じゃあ、せめて少し座ってて。コピーとかだったら、私やるから」


「いえ、コピーなら大丈夫です。座ってできるから」


 そう言って立ち上がろうとした瞬間、足元がふわりと浮くような感覚がした。


 椅子から腰を上げた状態で、ほんの一秒ほど、身体の重心が行き場を失う。


 天井が近づいたような気がした次の瞬間、床がすっと遠のく。


 くらっとバランスを崩しかけて、慌てて机に手をついた。


「わっ、大丈夫!?」


 佐川の声。


「だ、大丈夫。ちょっと立ちくらみしただけ」


 笑いながら言うと、佐川は、明らかに納得していない表情をした。


「無理しないでね。本当に。最近、顔色ずっと悪いよ」


「ありがとうございます」


 そう言って、コピー機に向かう。


 一歩歩くごとに、足元の床板が、ほんのわずかに沈むように感じる。


 実際には沈んでいないのに、身体のほうが勝手に揺れる。


 コピー機の蓋を開け、プリントの原稿をセットする。


 ボタンを押す。


 機械が動き出すと同時に、その低い振動音が、耳鳴りと混ざった。


 世界のどこまでが本当の音で、どこからが自分の耳の中のノイズなのか、その境界が曖昧になる。


 でも、「病院に行こう」という発想は、頭の中に浮かんでこなかった。


 浮かびかけても、すぐに、別の声がかぶさってくる。


 ──そんな時間ないでしょ。


 ──休み明けのテスト、作った?


 ──部活の保護者会、プリントどうするの。


 タスクの一覧が、すぐに「受診」の上に積み上がる。


 「あと少しだけ頑張れば何とかなる」と、何度も自分に言ってきた、その延長線上にいる感覚。


 だから、まだ「限界」という言葉は、頭の辞書から削除されていた。



 その日の夜。


 久しぶりに夕食の食卓に座ると、味噌汁の湯気の向こうに、父と母の顔がぼんやりと見えた。


「今日はずいぶん早かったね」


 父が、新聞をたたみながら言う。


「うん、トラブルも保護者対応もなかったから」


「連休もなかったし、大変ね」


 母・静江がそう言いながら、成美の茶碗によそったごはんを少し減らす。


「最近、あんまり食べないから。これくらいから始めなさい」


「うん、ありがとう」


 一口、白米を口に入れる。


 咀嚼すると、こめかみのあたりに鈍い痛みが走るような気がした。


 飲み込むと、胸の奥がつかえたような感覚になる。


 味がしない。


「成美、ちゃんと寝てるの?」


 母が、箸を止めて聞いてきた。


「寝てるよ。ちゃんと」


「目の下、くまができてるわよ」


「あら、ほんとだ」


 父が、興味深そうに顔を覗き込む。


「若いんだから、もう少し無理がきくんじゃないのか」


 冗談めかして言われたその一言に、胃がきゅっと縮む。


「お父さん、そういう言い方しないの」


 母が軽く睨むような目を向ける。


「今の子たち、昔と違って大変なんだから」


「いやいや、俺たちの頃も大変だったぞ。残業代も出ないのにさ」


 夫婦の軽い言い合いが、いつもの調子で始まる。


 成美は、その会話から少し距離を置いて、味噌汁をすすった。


 湯気の向こうで、両親の輪郭が揺れている。


 揺れているのは、湯気のせいなのか、自分の目のせいなのか、よく分からない。


 箸を持つ指先に、昼間と同じ震えが戻ってきた。


 茶碗の縁に、箸の先が軽く当たって、カチ、と音を立てる。


「やっぱり、どこか悪いんじゃない? 病院、行ってきたら」


 母の声が、さっきより少しだけ真剣な色を帯びていた。


 成美は、反射的に首を振る。


「大丈夫。本当に。五月下旬には少し落ち着くと思うから」


「でもねえ……。六月に入ったらすぐ期末テストがあるんでしょ?」


「あるけど、テスト問題の大枠は作ってあるから」


「そういう問題なのかしら」


 母は納得しきれない様子で眉をひそめた。


 父は、「若いんだからすぐ良くなるよ」と、相変わらず根拠のない楽観を口にする。


 二人とも、本当に成美のことを心配している。


 それは分かっている。


 だからこそ、「大丈夫じゃない」とは言えなかった。


 心配させたくなくて、自分の状態を小さく見積もる。


 それが習慣になってしまっている。


 病院に行くと言ったら、「仕事は?」「部活は?」という話になるだろう。


 診断書をもらって、休職をすすめられるかもしれない。


 そうなったとき、学校はどうなるのか。

 クラスは、部活は、同僚たちは。


 その先の想像が、いちいち重たくのしかかってきて、「病院」の二文字は、頭の中の隅に追いやられていく。


 ご飯茶碗のごはんは、半分以上残っていた。


「ごめん、おなかいっぱい……せっかくの久しぶりのご飯なのにごめんね」


 そう言って箸を置くと、母は心配そうな顔をしたものの、無理には勧めなかった。


「じゃあせめて、果物だけでも食べる?」


「あとで大丈夫」


 あとで、と言っておいて、その「あとで」はたいてい来ない。



 その夜。


 布団に体を横たえると、天井のシミが、わずかに回転しているように見えた。


 身体の向きを変えようと、右に寝返りを打った瞬間、世界がぐるっと回った。


「っ……」


 思わず吐息が漏れる。


 遊園地のコーヒーカップに乗って、急に回転を強められたみたいな感覚。


 目を閉じると、暗闇の中で、天井と床が入れ替わり続ける。


 目を開けても、閉じても、揺れが止まらない。


 胸のあたりで心臓がばくばくと跳ね、耳の奥のキーンという音が、さっきよりも大きくなった。


 手を伸ばして、枕元のスマホを探る。


 画面をつけると、その光が、さらに目を刺激した。


 残像が尾を引いて、画面の文字が二重に見える。


 それでも、「めまい 原因」「ストレス めまい 治る」といった言葉を検索窓に打ちこんだ。


 表示されたページには、「良性発作性頭位めまい症」「自律神経の乱れ」「過労」といった文字が並んでいる。


 病院に行ったほうがいい、と書いてある。


 できれば耳鼻科か、内科か。


「……そうだよね」


 小さくつぶやいて、画面を閉じた。


 明日、行く時間はあるだろうか、と考える。


 一時間目から授業が詰まっていて、昼休みには保護者への電話。

 放課後は部活。


 耳鼻科は、十八時で受付終了。


 学校を出るだけで、山道を下って一時間半。


 「無理だね」


 つぶやいた声が、闇の中で自分に返ってくる。


 じゃあ、いつ行けばいいのか。


 土曜日も部活がある。


 日曜は、残務整理か、なかったとしてもたぶん倒れるように寝ている。


 あるいは、週のどこかで、本当に倒れてしまったら、そのときは救急車で運ばれて、病院に「強制的に」連れて行かれるのかもしれない。


 そこまで考えて、慌てて思考を止めた。


 倒れることを前提にしている自分に、ぞっとする。


 むしろ「休めるならそれも悪くない」と思っている自分がいるからなおさらだ。


 心と身体のあいだに、ずれができている。


 身体は、もうとっくに「限界だ」とサインを出しているのに、心のほうが、それを見ないふりをして、黙らせている。


 「社会人なんだから」「先生なんだから」「迷惑をかけちゃいけない」という言葉で、上から塗りつぶす。


 そうして、サインはどんどん強くなっていく。


 めまい。

 耳鳴り。

 胸の痛み。

 指先の震え。


 それらは、本当はすべて、「もう無理です」という身体からの叫びなのに。


 成美は、それを「ちょっと疲れてるだけ」と訳しなおして、明日の時間割を頭の中で確認した。


 朝の会。

 一時間目、三年三組の国語。

 二時間目、三年一組の国語。

 三時間目、三年四組の国語。

 四時間目と五時間目は空き。

 六時間目、三年二組の総合学習。


 ──行ける。


 そう結論づけるまでに、数分かかった。


 揺れる天井を見つめながら、「行ける」と自分に言い聞かせる。


 言い聞かせたところで、身体がついてくるかどうかは別問題なのに。


 いつの間にか、眠りと覚醒の境目を行ったり来たりしながら、夜が過ぎていく。


 そのたびに、寝返りを打つたびに、世界が横に回転する。


 そのたびに、「病院」という言葉が頭に浮かび、「時間がない」という言葉が上からかぶさる。


 心と身体の限界サインは、確かにそこにあった。


 ただ、それを「限界」と認める役目を持つはずの本人だけが、その意味を、意図的に読み飛ばしていた。


 読み飛ばしたまま、次のページに進もうとしている。


 そのページの先で何が起きるのかを、まだ、はっきりとは知らないまま。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ