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県初の障がい者教諭として赴任した結果、学校と自分がゆっくり壊れていく話  作者: 妙原奇天


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第17話「ゴールデンウィークの空白」

 職員室の壁に貼られた大きな年間行事予定表の、四月と五月の境目。


 そこには、赤いマジックで囲まれた「GW」の文字と、斜線で強調された祝日が並んでいる。


 その上から、黒いペンで書き込みが増えていく。


 四月二十九日 吹奏楽部 強化練習

 五月三日 地区合同練習会

 五月四日 部活動保護者説明会

 五月五日 自由参加(ただし大会メンバーは出席)


 気づけば、カレンダー上の「連休」は、ほとんど埋まっていた。


 山本成美は、その予定表を、少し離れた席から眺めていた。


 彼女の席からは、紙全体はよく見えない。

 見えるのは、ちょうど「五月」の部分だけだ。


 赤い数字と黒い数字が交互に並ぶ中で、三日から五日までの「3・4・5」の部分だけが、やけにごちゃごちゃして見える。


 書き込みが増えすぎて、何が元の印刷で、何があとから書かれた字なのか、境界が分からない。


 成美は、ペンを持ったまま、息を小さく吐いた。


「先生、三日と五日って、やっぱり両方来たほうがいいんですか?」


 隣の席から、吹奏楽部の二年生の女子が顔をのぞかせる。

 部活動の連絡に来ていたのだろう。

 成美は文化部の副顧問を複数担当していた。


「あ、えっと……三日は全員で合わせる練習の日だから、できるだけ来てほしいかな。五日は、部長たちと相談して決めようか」


 テンプレートのような答えを返しながら、自分でも、自分の言葉がどこまで本心なのか分からない。


 本音だけを言えば、「どの日も来なくていいよ」と言いたい。


 もちろん、生徒に対してではない。

 自分自身に対してだ。


 どの日も、学校に来なくていい。

 家にいてもいい。


 ついそう呟きたくなる。


「そっかあ……。分かりました」


 女子生徒は、それでも嬉しそうに笑った。


「休みなのに学校で友だちに会えるの、ちょっと楽しみで」


 その無邪気な一言が、胸の奥に、じくりと刺さる。


 この子にとって、「学校に来る」は、まだポジティブな意味で使われている。


 でも、自分にとってはどうだろう。


 ゴールデンウィーク。


 世間が、「どこに行こうか」「何をしようか」と浮き足立つ期間。


 連休の旅行プラン特集がテレビで流れ、SNSには、海外旅行やテーマパークの写真が並ぶ季節。


 今年の自分の予定は、ほとんどすべて、「学校」と「部活動」と「採点」で埋め尽くされている。


 その事実を思い浮かべると、胃のあたりがぎゅっと縮む気がした。



 四月の最終週。


 「連休前だから」と、学校の業務は加速する。


 連休前に出しておくべきプリント。

 連休明けすぐにあるテストの問題作り。

 部活動の大会に向けた事務処理。


 ただでさえぎゅうぎゅう詰めの一週間に、「休みの前だからこれも」「休みの前にあれも」と、みんなが少しずつ荷物を足していく。


 成美の机の上には、小さな紙の山ができていた。


 国語の小テストの束。

 連絡帳のチェック。

 保護者へのお知らせプリントの原稿。


 その上に、吹奏楽部の部員名簿と、大会要項のコピーが乗っている。


 目の前の紙の山を前にして、何から手をつければいいのか分からなくなる。


 「一個ずつ」


 そう言い聞かせて、目の前のテストを一枚手に取る。


 丸をつけ、点数を書き込む。

 間違いの多かった問題には、赤で印をつけて、“次の授業で補足説明”とノートにメモする。


 ふと気づくと、その作業をしながら、頭の片隅では部活動の段取りを考えている。


 連休初日は基礎練習にあてて、三日は合奏、四日は部分的に分かれて練習……。


 「でも、あんまり詰め込むと、生徒も疲れるし」


 じゃあ、どこかで休みを入れたほうがいいのか。


 ただ、その「休み」は、誰のための休みなのだろう。


 生徒のためか。

 副顧問である、自分のためか。


 答えが出ないまま、手だけは動かし続ける。


 気づいたときには、窓の外はとっくに暗くなっていた。



 連休初日。


 世間では、「大型連休スタート」とニュースが流れていた。

 高速道路の渋滞情報や、観光地の混雑予想が、朝から画面をにぎわせている。


 成美は、そのニュースを見ないようにして、テレビを消した。


 長袖のTシャツの上にジャージを羽織り、いつもより少しだけ遅い時間に家を出る。


 連休中は「七時半までに出勤」ではなく、「部活開始の九時に間に合うように」でいい。


 それでも、家を出るのは七時前だ。


 山道の途中で事故があれば遅れる。

 途中のコンビニで、部員用のスポーツドリンクを買う時間も考えなければならない。


 カーナビに表示される道は、いつもと同じ。


 ただ、周りの車の雰囲気が少し違う。


 屋根にキャリアをつけたワゴン車。

 県外ナンバー。

 後部座席の窓から、子どもの顔が貼りついて、外を楽しそうに眺めている。


 その横を、学校の駐車場へ向かう成美の軽自動車が、淡々と走る。


 対向車線の渋滞を横目に見ながら、無意識に、ハンドルを握る手に力が入っていた。


「連休なのに大変だなあ、先生たちは」


 前に、誰かがそう言っていた。


 それは、ねぎらいのつもりの言葉だったのだと思う。


 大変だね。

 お疲れさま。


 そういったニュアンスを含んだ、好意的な言葉。


 でも、その言葉を思い出すたびに、成美の胸は、少しだけざわつく。


 「連休なのに大変」なのは、「連休じゃないのに大変」なときとは、意味が違う。


 カレンダー上は「休み」と書いてあるのに、実態は「仕事」であるという矛盾が、精神的なダメージを増幅させるからだ。



 体育館に入ると、すでに何人かの部員が楽器を取り出し、音出しを始めていた。


 トランペットの高い音。

 クラリネットの細い音。

 チューニング前の不安定な音が、体育館の天井にぶつかって混ざり合う。


「おはようございます!」


 一斉に飛んでくる挨拶に、成美も「おはようございます」と返す。


 副顧問としての自分は、できるだけ明るく振る舞おうと心がけている。


 部活は、「しんどい場所」ではなく、「好きなことができる場所」であってほしい。


 少なくとも、生徒たちにとっては。


「今日は基礎を中心にやるからね。ロングトーンと、音階、それから、曲の最初の部分を合わせたいです」


 具体的なメニューを伝えると、部員たちの表情は、ほんの少し引き締まる。


 この部活が好きで来ている子もいれば、「なんとなく」で入った子もいるだろう。


 理由はどうあれ、連休の朝にこうして学校に来ている時点で、彼らの生活は「普通の中学生」のそれとは少し違っている。


 その事実が、よくも悪くも、この部活の空気を作っているのだと思う。


「先生も一緒に吹かないんですか?」


 フルートの一年生が、きらきらした目で聞いてくる。


「先生はね、今日は指揮に集中しようかな」


 笑顔でそう答えながら、ほんの少しだけ視線を逸らした。


 本当は、フルートを吹く体力がない。


 立ったまま長時間息を使い続けると、頭が重くなる。

 視界の端が、にじむこともある。


 だから、指揮に徹する。


 指揮なら、体全体を使うけれど、息は使わない。


 そうやって、小さな工夫を積み重ねながら、「普通の顧問」として振る舞う。



 午前の練習が終わる頃には、体育館の空気がほんのりと熱を帯びていた。


「じゃあ、お昼を食べてから、午後は合奏を中心にします。午後から来るって言ってた人は、時間に気をつけてね」


「はーい」


 生徒たちは、体育館の隅に集まり、それぞれ持ってきたお弁当を広げ始める。


 成美は、部員たちから少し離れた、ステージ脇の椅子に腰を下ろした。


 鞄から取り出したのは、小さなパンと、ペットボトルのスポーツドリンク。


 食欲は、やはりほとんどない。


 でも、「何も食べない」のはさすがにまずいという自覚はある。


 だから、パンをひと口かじり、もそもそと噛む。


 口の中でパンがなかなか溶けず、水で流し込む。


「先生、そっちで一緒に食べてもいいですか」


 気づくと、部長の女子が、弁当を持って近づいてきていた。


「あ、うん。どうぞ」


 隣に座った部長は、ふたを開けた弁当箱を嬉しそうに見せてくる。


「お母さんが、今日もがんばってねって。連休も部活あるから、ちゃんと食べなきゃって」


「いいお母さんだね」


「……はい」


 少し照れたように笑うその顔を見て、胸の奥に、小さな温かさと痛みが同時に湧いた。


 この子の母親にとっては、「連休に部活がある」ということは、少なくとも「がんばる理由」になっている。


 同じ出来事が、見る立場によって、全然違う意味を持つ。


 成美にとって、その「がんばり」は、じわじわと体力と気力を削るものだった。


 でも、部員たちの笑顔を見ると、その削られた部分を、ほんの少しだけ補填してもらっている気もする。


 だから、簡単に「連休くらい休みにしてほしい」とは言えない。


 言えないまま、パンをもうひとかじりする。



 その日の練習が終わったのは、夕方近くになってからだった。


 体育館を閉め、戸締まりを確認し、部員たちを見送る。


「先生、ありがとうございました!」


「先生も連休楽しんでね!」


 口々にそう言って頭を下げる生徒たちに、「こちらこそ」と笑顔を返す。


 「連休」という言葉に、わずかな引っかかりを覚えながらも、それを表に出さないように、意識して口角を上げる。


 部員たちが帰ったあと、職員室に戻る。


 連休の学校は、平日よりも静かだ。


 それでも、何人かの先生は出勤している。


 部活の顧問。

 行事の準備をする人。

 成績処理に追われている人。


 みんな黙々とそれぞれの仕事に取りかかっていて、雑談の声はほとんど聞こえない。


 連休の静けさは、「休みだから静か」なのではなく、「声を出す余裕がないから静か」なのだと、成美は思う。



 その夜。


 自宅のベッドに寝転びながら、成美はスマホを手に取った。


 何も考えたくない。


 そう思う一方で、「何も考えない」を続けていると、「また明日も同じ一日が始まる」という事実が急に重くのしかかってくる。


 だから、頭を空っぽにする代わりに、他人の生活でいっぱいにする。


 SNSのアプリを開くと、タイムラインには、連休初日を楽しむ人たちの写真が、すでにいくつも流れてきていた。


 空港のロビーで撮った家族写真。

 テーマパークのキャラクターとのツーショット。

 友人同士でバーベキューをしている様子。


 成美と同じ歳くらいの友人が、「久しぶりに学生時代の仲間と集まった」「子どもを連れて初ディズニー」などとコメントをつけている。


 画面の中の彼らは、みんな笑っている。


 夕焼けを背景にしていたり、広い空の下だったり、テーブルの上に美味しそうな料理が並んでいたりする。


 そのどれもが、「連休らしい連休」の象徴のように見えた。


 いいね、を押す指が、一瞬だけ止まる。


 押さなければ、「嫉妬してる」と自分で認めてしまうような気がして、結局、ほとんどの投稿に機械的にハートマークをつけていく。


 心の中は、動いていない。


 ただ、「人とのつながり」という表札が、形式的にドアの前に掲げられているだけだ。


 投稿をひと通り流し見ていると、高校時代の友人からのストーリーが目に入った。


『夫の実家に帰省中~』


 その文字とともに、広い庭と、大きなこいのぼりが映っている。


 画面の端には、友人の笑顔と、小さな子どもの後ろ姿。


 その光景は、別世界のように思えた。


 成美も、本当は、そういう「普通の人生」を送るはずだったのかもしれない。


 大学に行き、就職し、誰かと出会い、結婚して、子どもが生まれて。

 連休には、家族でどこかへ出かけたり、実家に帰ったりして。


 そういう未来も、どこかの分岐点では、確かに存在していた。


 けれど、その未来は、いつの間にか別の道に分かれ、今の自分とは遠く離れた場所に行ってしまった。


 「私も“普通に働いて、普通に休む”人生を送るはずだったのに」


 成美は、誰に聞かせるでもなく、小さくつぶやいた。


 声に出してみると、その言葉が、思っていたよりも重く、古びた感じがした。


 まるで、何度も何度も心の中で繰り返し唱えてきた呪文のように。


 普通に働く。

 普通に休む。


 その「普通」が、こんなにも難しい場所が、日本のどこかに存在している。


 しかも、その場所は「特別なブラック企業」ではなく、「公立学校」という、ごく当たり前の公共の場だ。


 そう考えると、胸の奥に、じわりとした怒りのようなものが湧いてくる。


 でも、その怒りは、誰に向ければいいのか分からない。


 校長にか。

 教育委員会にか。

 国の制度にか。


 あるいは、「そんな場所を選んだ」自分自身にか。


 矛先を定められない怒りは、そのまま自分の内側にとどまり、少しずつ重さを増していく。



 スマホの画面を消すと、部屋は一気に暗くなった。


 カーテンの隙間から漏れる、外の街灯のわずかな光だけが、輪郭をかろうじて浮かび上がらせる。


 視線を横に向けると、壁の付箋の群れが、うっすらと影になっていた。


 昼間に見たときほど、文字ははっきり読めない。


 でも、「死にたい」の輪郭だけは、なぜか真っ先に目に飛び込んでくる。


 連休中の部活。

 成績処理。

 教材研究。


 それらがびっしりと書き込まれたカレンダーと、「死にたい」と書かれた付箋は、同じ線の上にある。


 カレンダーの「休み」の上に、黒い字で「部活」と書き込むたびに、壁の「死にたい」にインクが足されているような気がする。


 このまま、その線を延ばしていった先に、何があるのか。


 成美は、まだ考えないようにしていた。


 考えてしまったら、戻れなくなりそうで。



 翌日も、その次の日も、カレンダーの「休み」は、部活と仕事で埋まっていった。


 吹奏楽部の顧問として、成美は、できるだけ生徒たちの前では笑顔で立つ。


 新しいフレーズがうまく合わせられたとき、自然と拍手が起こる。


 その瞬間は、確かに嬉しい。


 音がひとつにまとまる感覚。

 生徒たちの、「できた」という表情。


 それらは、暗い海の中に差し込む、一瞬の光のようだった。


 けれど、その光が消えたあとの暗さは、前よりも濃くなる。


 光が強ければ強いほど、影もまた濃くなるように。


 家に帰れば、また壁の付箋と向き合う夜が来る。


 「死にたい」と書かれた紙の隣に、ふと、「休みたい」と書きかけて、手が止まった。


 休みたい。


 その言葉は、「死にたい」よりも、ずっと具体的で、ずっと現実的な願いだ。


 でも、「休みたい」と書いてしまったら、次はきっと、「じゃあ、どうやって休むか」を考えなければならない。


 誰に何を言って、どのくらいの期間。


 その計算をするだけの力が、今の自分にはない。


 だから、ペン先を付箋から離す。


 代わりに、別の付箋に、いつもの言葉を書く。


 「ごめんなさい」


 誰に対してかは、やっぱり分からないまま。



 ゴールデンウィークが終わったころ、ニュースでは、「行楽地のにぎわい」や「Uターンラッシュ」の映像が流れていた。


 画面の向こうで渋滞している車の列を眺めながら、成美は、職員室でテストの採点をしていた。


 カレンダー上の連休は、とっくに過ぎている。


 でも、彼女の感覚の中では、「休み」と呼べる時間は、一秒たりとも存在しなかったように思えた。


 ただ、「連休」と書かれた期間に、「仕事」を詰め込んだだけ。


 そこに残ったのは、「空白」という名前の予定だった。


 何も書かれていないはずのスペースに、びっしりと目に見えない仕事と疲労と自己否定を塗り込めた、そんな連休。


 いつかどこかで、「普通に休む生活」を取り戻したい。


 その淡い願いが、今の成美にとって、唯一の、かろうじて前向きな感情だった。


 けれど、その願いを叶えるために、何をどう変えればいいのか。


 それを考える余裕もなく、目の前の答案用紙に赤ペンを走らせる。


 今日もまた、カレンダーの「空白」は、静かに仕事と自己犠牲で埋められていくのだった。

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