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県初の障がい者教諭として赴任した結果、学校と自分がゆっくり壊れていく話  作者: 妙原奇天


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第16話「付箋だらけの部屋」

 部屋のドアを開けた瞬間、外から持ち帰ってきた学校の匂いが、ふっとほどける。


 体育館の埃っぽさと、チョークの粉と、生徒たちの汗と、職員室のインスタントコーヒー。

 一日中まとわりついていたそれらが、玄関から部屋へとたどり着くあいだに、少しずつ薄まっていく。


 山本成美の部屋は、六畳のフローリングに、小さな机と本棚とベッドがひとつ。

 間取りだけなら、ごく普通の部屋だ。


 ただ、ひとつだけ普通でないのは、壁一面に貼られた付箋だった。


 黄色、ピンク、水色。

 百均で売られている、ごくありふれたサイズの付箋が、まるで何枚もの鱗のように、机の上の壁から、ベッドの横、クローゼットの扉にまで広がっている。


 その一枚一枚に、太いペンで、短い言葉が殴り書きされていた。


 「死にたい」

 「消えたい」

 「向いてない」

 「ごめんなさい」


 そのどれもが、書いた瞬間には確かに「本音」だった。


 けれど、日々新しい付箋が貼られていくうちに、古いものの上に新しい紙が重なり合って、最初のほうの言葉は、もう読み取れなくなっている。


 成美は、靴下を脱ぎ捨て、鞄を床に置くと、その光景を一瞥した。


 驚きも、ショックも、もう何も感じない。


 最初に一枚目を貼ったときは、さすがに少し手が震えた。


 「こんなことを書いてしまっていいのだろうか」と迷ったし、「自分で自分に呪いをかけるようなものではないか」とも思った。


 けれど、二枚目、三枚目と増えていくうちに、その行為は、仕事帰りの歯磨きや、スマホの充電と同じくらい、当たり前のルーティンになっていった。


 今日もまた、机の引き出しから付箋の束を取り出す。


 座る前に、成美はキッチンのほうへ行き、ペットボトルの水を一口だけ飲んだ。


 食欲はない。

 晩ご飯らしい晩ご飯を食べたのは、いつが最後だっただろう。


 両親もそれに慣れてしまっていた。

 朝は両親が起きる前に家を出て、夜は両親が寝静まった後に帰宅する。


 父が母に言っていたらしい。


「成美は彼氏でもできたんじゃないか」

「じゃなければ、これだけ家を空けるなんて、普通じゃない」


 早朝でも深夜でも、コンビニのレジ横に積まれているおにぎりやパンに、手を伸ばすことはできる。

 でも、レジを出るころにはもう、「これを食べるだけの元気がない」と思ってしまう。


 だから最近は、最初から買わない。


 そのかわり、ペットボトルの水と、ドラッグストアで買った睡眠導入剤だけは、切らさないようにしている。


 机の上に、ペンと付箋の束と、その小さな銀色の箱が並ぶ。


 成美は椅子に腰をおろし、深く息をついた。



 付箋に何を書くかは、その日の気分で決まる。


 と言っても、選択肢はさほど多くない。


 死にたい。

 消えたい。

 向いてない。

 ごめんなさい。


 この四つの言葉のどれか、あるいは組み合わせ。


 時々、「全部」と書く日もある。


 今日は、何にしようか。


 成美は、ペン先を付箋の端に軽く当て、少しだけ宙を見上げた。


 今日、学校であったことを、巻き戻すように思い出す。


 朝六時二十分。

 職員室の電気をつけ、誰もいない静かな部屋で、今日の時間割を確認した。


 一時間目から三時間目まで授業が続き、四時間目は生徒指導の呼び出し対応、昼休みは給食巡回と廊下の見回り。

 放課後は部活の指導と、クレーム気味の保護者への電話。


 「先生、うちの子、最近元気がないんですけど」


 その声の裏に、「学校で何かしてないですよね」という疑いを勝手に感じてしまって、言葉がうまく出てこなかった。


 電話を切ったあと、「対応が悪かったのではないか」と自分を責める。


 帰りの山道では、いつものように、自分自身に向かって罵声を浴びせた。


「今日の三時間目の注意の仕方、最悪だった。あれじゃ伝わんねぇよ、この無能」

「連絡帳、二人分書き忘れてた。気づけよ、馬鹿」

「なんであそこで笑ってごまかしたんだよ。教師向いてねぇよ、やめちまえ」


 罵倒のレパートリーは、日を追うごとに増えていく。


 「役立たず」

 「迷惑」

 「この障がい者」


 自分が一番言われたくない言葉を、誰よりもよく知っているのは、自分自身だった。


 だからこそ、的確に心を抉る。


 運転中に吐き出したその言葉の残りかすが、今も舌の奥に張り付いている気がした。


 成美は、ペン先を紙に落とす。


 「ごめんなさい」


 今日最初の一枚は、その言葉に決めた。


 誰に対して謝っているのか、自分でもよく分からない。


 生徒たちに。

 保護者に。

 同僚に。

 母に。


 そして何より、自分自身に。


 本当は守らなければいけない自分を、今日も守れなかったことへの謝罪。


 書き上げた付箋を指先でつまみ、壁の一角に貼る。


 その下には、薄く色あせた別の付箋が貼ってあった。


 「ごめんなさい」と書かれた、別の日の自分の字。


 上から重ねてしまえば、もうその日付の「ごめんなさい」は読めなくなる。


 けれど、読めなくなったからと言って、なかったことにはならない。


 ただ、重なっていくだけだ。



 二枚目の付箋を手に取る。


 今度は、迷いなく書けた。


 「向いてない」


 その言葉は、最近、仕事中にも頭の中に頻繁に浮かぶようになっている。


 授業中、板書しているとき。

 生徒に注意しているとき。

 保護者と電話で話しているとき。


 うまくいかない瞬間に、「向いてない」の五文字が、ふっと視界の端に現れる。


 ――この仕事は、本来、誰か別の人がやるべきだった。


 そう思えば思うほど、「でも、採用されたのは自分だ」という事実が、足に絡みつく重りになる。


 採用試験の合格通知。

 「県で初の障がい者雇用教諭」という言葉。


 それらは、本当なら誇らしい肩書きだったはずだ。


 なのに今は、「お前は特別扱いされてここにいるんだから、結果を出さなきゃいけない」と、自分を追い立てる鞭になっている。


 付箋に「向いてない」と書くことは、その矛盾を一時的に棚上げする行為だ。


 向いてない。

 だから、うまくできなくても仕方ない。


 そう書いて貼ることで、少しだけ、自分を許せるような気がする。


 ……そのはずなのに、貼った直後から、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。


 「向いてない」と書いた自分を、別の自分が責める。


 ――向いてないなら、最初から挑戦するな。

 ――他にもっと適した人がいたはずなのに。


 許そうとして、また責めている。


 その堂々巡りを、目に見える形にしたのが、この付箋たちだ。


 壁に新しい一枚を重ねるたびに、部屋の空気が少しずつ重くなっていく。



 三枚目は、「死にたい」。


 この言葉だけは、最初に書いたとき、手が本当に震えた。


 「死にたい」と書いてしまったら、何か取り返しのつかないラインを越えてしまうのではないか。


 紙の上の四文字に、そんな迷信めいた力を感じていた。


 けれど、一度書いてしまえば、そのラインもまた、すぐに日常に飲み込まれた。


 今では、歯を磨きながらでも、テレビをつけっぱなしにしながらでも、淡々と書けてしまう。


 今日も、泣いているわけではない。

 嗚咽を漏らしているわけでもない。


 ただ、仕事のメモを書くときと同じ調子で、ペン先を走らせる。


 「死にたい」


 書き終えた付箋をしばらく指で撫で、そのままベッドの横の壁に貼る。


 貼りながら、ふと思う。


 本当に死にたいのかどうか、自分でもよく分からない。


 車を運転していて、崖の道でハンドルを切り損ねそうになったとき、心の底から「怖い」と思った。

 そのとき感じた恐怖は、本物だった。


 だから、自分の中には、まだ「生きたい」という感覚も残っているのだと思う。


 それでも、「死にたい」と書かずにはいられないのは、「今のまま生き続けるのは無理だ」と、どこかで知っているからだ。


 今の働き方のまま、今の責任の背負い方のまま、この先何年も生きていくことはできない。


 でも、「やめたい」とは言えない。

 「休みたい」とも言えない。


 だから、その代わりに、「死にたい」と書く。


 そのほうが、ずっと楽な言い方に感じてしまう。



 壁の付箋を、少し離れた位置から眺めてみる。


 色とりどりの紙の中には、こんな言葉も混ざっていた。


 「ありがとう」

 「がんばったね」


 まだ余力があった頃、自分を励ますために書いたものだ。


 今日一日、なんとか乗り切ったときに、「よくやった」と自分に言ってやりたくて。


 けれど、今はその二枚も、ほかの暗い言葉の影に埋もれて、ほとんど見えなくなっている。


 上から重ねた「死にたい」と「ごめんなさい」が、明るい言葉の上に覆いかぶさっている。


 まるで、自分の中のポジティブな部分に、わざと布をかけて、見えなくしているようだ。


 成美は、その事実に気づきながらも、貼り方を変えようとは思わない。


 「ありがとう」や「がんばったね」が視界に入りやすい位置にあれば、少しは気持ちも変わるのかもしれない。


 でも、今の自分には、それを真正面から読むだけの余裕がない。


 「ありがとう」と書かれた紙を見たら、「いや、全然ありがとうに値しない」と思ってしまう。


 「がんばったね」を見たら、「もっとがんばらなきゃ」と自分を追い立ててしまう。


 だから、自動的に目につく場所には、責める言葉だけを置いている。


 それは、苦しくなるための工夫であり、同時に、「苦しい自分」を確認する儀式でもあった。



 机の上には、小さな卓上カレンダーが置かれている。


 四月のページは、びっしりとペンで埋め尽くされていた。


 授業の予定や会議、行事のメモに混ざって、ところどころに、短い感想が書き込まれている。


 「疲れた」

 「しんどい」

 「今日は泣かなかった」


 その隣に、「6:20―22:15」といった勤務時間が、小さな字で添えられている。


 数字だけ見れば、「頑張っている証拠」だ。

 誰かに見せれば、「こんなに働いているの」と驚かれるかもしれない。


 でも、その数字と、壁の付箋を一緒に見ると、まるで「壊れかけている機械の稼働記録」にも見えてくる。


 一日何時間稼働させたか。

 どこまで負荷をかけたか。


 「死にたい」という表示がちらついているのに、なお電源を切らず稼働させ続けている機械。


 成美は、自分のことを、時々、本当に人間ではなく機械のように感じる。


 朝になるとスイッチが入り、職場に行く。

 決められた動きをこなし、夜になったら電源が落ちる。


 「痛い」「苦しい」といったアラートは、ちゃんと上がっているのに、そのアラートを担当部署が握りつぶしているような感覚だ。


 ……その「担当部署」が、自分自身なのが、やっかいなのだけれど。



 ペンを置き、成美は椅子から立ち上がった。


 カーテンを少しだけ開けると、外には、アパートの向かいの家の窓の明かりが見える。


 リビングのテレビの光がちらちらと揺れ、小学生くらいの子どもの笑い声が、わずかに漏れてくる。


 夕飯の匂いが風に乗って漂ってきた。

 炒め物と味噌汁の、温かい匂い。


 その匂いに、胃がきゅっと縮む。


 お腹が空いているのか、気持ち悪いのか、もう分からない。


 窓を閉め、カーテンを戻す。


 部屋の中には、さっきまでと同じ、静かな空気が戻ってきた。


 静かすぎて、逆に落ち着かない。


 だから、壁の言葉に頼る。


 「死にたい」

 「消えたい」

 「向いてない」

 「ごめんなさい」


 そのどれもが、「今ここにいる自分」を説明してくれているように感じる。


 世界のどこにも居場所がないような気がするとき、少なくともここには、自分の感情が貼り付けてある。


 誰も知らない、誰も見ていない、ただ一人のための掲示板。


 成美は、ベッドの端に腰を下ろし、壁を正面から見据えた。


 色の洪水の中で、「死にたい」の文字が特に目に飛び込んでくるのは、やはり脳がそれを危険信号として認識しているからだろう。


 危険だと分かっているのに、その看板を外そうとはしない。


 それどころか、新しい看板を増やし続けている。


 「ここはもう、かなり危ない場所です」と、自分で自分にアナウンスしているのに近い。


 そうしておかないと、どこまでが限界なのか、自分で分からなくなってしまうから。



 スマホが震えた。


 画面を見ると、「母」の文字が表示されている。


 一瞬、出るかどうか迷った。


 けれど、いつまでも無視するわけにもいかない。

 成美は、小さく咳払いをしてから、通話ボタンを押した。


「もしもし」


『あ、成美? もう家?』


 聞き慣れた声が、少しだけ心をほどく。


「うん。なんで電話?」


 部屋の時計を見る。二十四時を過ぎていた。


『いや……帰ってきてなかったらどうしようって』


「さすがにこの時間には帰ってるよ」


 一階の寝室からかけているのだろう。

 同じ家にいるのに電話でやりとりをしているのが、少し可笑しかった。


『朝ご飯と夜ご飯、本当に食べてるの?』


 その問いには、即答できなかった。


「……ぼちぼち」


 曖昧な言葉でごまかす。


 本当のことを言えば、「ペットボトルの水と、コンビニのスープでなんとか生きてる」だ。


 でも、そんなことを言えば、母は心配しすぎてしまう。


『同じ家にいるのに、なるみの顔見たの、最後いつだろうね。……あんまり無理しないでね』


「うん」


『職場はどう? みんな、優しくしてくれてる?』


 優しい。


 そう答えるしかない。


 実際、誰も成美に「死ね」とか「辞めろ」とか言ってこない。

 むしろ、「大丈夫?」「無理しないで」と声をかけてくれる人もいる。


 それでも、「優しい」と言い切るには、職場の空気はあまりに尖っていた。


「……うん。みんな、忙しそうだけど」


『あんたもでしょ』


 母は、少し笑う。


『前に言ってたじゃない。「みんな、いつも走ってる」って』


「ああ……うん」


『前の会社のときとは、やっぱり違う?』


 ASDの診断がつく前に働いていた事務職のことだ。


 そこでも、成美は結局、短期間で辞めてしまった。

 電話応対や、急な仕事の指示が苦手で、ミスを繰り返し、自信を失っていった。


「違う……かな。前より、やりがいはあるよ。子どもたちの顔、見えるし」


 それは、本音だった。


 教室で生徒たちが笑ったりむくれたりしているのを見ると、「この仕事を選んでよかった」と思う瞬間も、確かにある。


 ただ、その「よかった」と感じる時間は、一日のうちほんの数分で、残りの何時間も、「苦しい」「しんどい」に占められているだけの話だ。


『でも、あんまり自分を責めないでね』


 母の言葉に、成美の胸がどきりとした。


「……なんで、そう思うの」


『声、聞いてたら分かるよ。あんた、小さい頃から、すぐ自分のせいにするでしょ』


 小さなころ、学校で何か嫌なことがあると、「自分が我慢すればいい」と言って、あまり人に相談しなかった。


 その性格が、今も変わっていないのかもしれない。


 この部屋の壁一面に貼られた「ごめんなさい」が、その証拠だ。


『まあ、何かあったら、いつでも言いなさいよ。お母さん、別に何もしてあげられないかもしれないけど』


「そんなことないよ」


『話くらいは聞けるから。……って言っても、なかなか会えないけどね、休み時間にラインでもメールでも、ね……ってそんな余裕もないのか』


 母は寂しそうに笑った。


「……うん」


 電話を切ったあと、しばらくスマホを握ったまま、成美は動けなかった。


 母の声を聞くと、ほんの少しだけ、「生きていたい」と感じる自分がいる。


 その感覚が、壁の「死にたい」と矛盾して、胸の中でぶつかり合う。


 生きたい自分と、死にたい自分。

 どちらも、嘘ではない。


 だからこそ、どちらか一方を選ぶことができないまま、宙ぶらりんになっている。



 ふと、机の上の付箋の束が残り少なくなっていることに気づいた。


 これがなくなったら、また買いに行かなければならない。


 「死にたい」と書くために、新しい文房具を買うという行為に、薄い滑稽さを感じる。


 けれど、その滑稽さに気づいても、行動は変わらない。


 今のところ、成美にとって、この付箋は、「まだギリギリ言葉で済ませている」という証でもある。


 紙の上に吐き出せているうちは、現実の行動には移していない。


 だから、付箋があるかぎり、かろうじてこのバランスは保たれているのかもしれない。


 そのバランスがどれほど危ういものなのかを、成美自身は、まだ正確には分かっていない。


 ただ、「ここはもう、かなり危険な場所だ」という感覚だけが、壁一面に貼られた色紙の向こうから、じわりと滲み出している。


 成美は、もう一度だけ壁を見渡し、ふっと小さく笑った。


 笑いながら、「この光景を、もし誰かが見たら、どう思うだろう」と想像する。


 きっと、母が見たら泣くだろう。

 佐川が見たら、絶句するだろう。


 でも今のところ、この部屋に入ってくるのは、自分だけだ。

 不在時には鍵をかけている。


 だから、誰も泣かないし、誰も絶句しない。


 泣きもせず、絶句もせず、淡々と付箋を貼り続ける自分だけが、この部屋にいる。


 その事実が、何よりも静かに、成美の心を追い詰めていた。


 そして数日後――

 この壁を、別の誰かが目にする日が来ることを、今の成美はまだ知らない。

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