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県初の障がい者教諭として赴任した結果、学校と自分がゆっくり壊れていく話  作者: 妙原奇天


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第15話「過労で倒れたい」

 四月も終わりに近づくころには、「疲れた」という言葉を口にする気力さえ、もう残っていなかった。


 朝七時に校門をくぐり、夜十時前にようやく車に乗り込む。

 そのリズムが、数日続いただけで、体は簡単に悲鳴を上げるはずなのに――人間は意外と、壊れる直前までは動けてしまうらしい。


 タイムカード横に備え付けられた出退勤簿の欄には、「7:05出勤」「21:55退勤」という文字が、最近ずっと並んでいる。


 最初に二十時台を書いた日は、さすがにためらいがあった。

 退勤時間の欄に「20:40」と書きながら、「こんな遅くまでいるなんて、怒られないだろうか」と考えた。


 けれど、その上の段には、村井の「21:20」があり、その横には、佐川の「20:55」があった。


 誰も何も言わない。

 それどころか、朝の打ち合わせでは、主幹の村井が「昨日も遅くまでお疲れさまでした」と、軽い調子で笑ったりする。


 だから成美も、それ以上遅い時間を書くことに、少しずつ抵抗が薄れていった。


 七時五分に押された赤いスタンプと、二十一時五十五分に押された赤いスタンプ。

 そのあいだに、授業と会議と部活と採点とプリント印刷と保護者対応と、いくつもの「今日じゃなくてもいい仕事」と「今日じゃないといけない仕事」がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。


 それでも、どこにも「休む」の二文字はない。



 転機になったのは、ある日の昼休みだった。


 四時間目が終わり、チャイムが鳴ると同時に生徒たちが一斉に立ち上がる。

 ガタガタと椅子が動く音と、机を寄せる音と、給食当番の号令が入り混じる。


「いただきます」


 声が重なり合う瞬間、成美はふらりと視界が揺れた。


 黒板の端に手をついて、なんとか立っている。


 足元がふわふわする。

 床と自分の靴のあいだに、薄いゴムマットが敷かれているみたいだ。


「先生、顔色やばいよ」


 前列の男子が、心なしか楽しそうな顔で言う。


「先生、給食食べないの? また職員室?」


 別の女子が首をかしげた。


「ああ……私は、あとで職員室で食べるから。みんなは、しっかり食べて」


 いつもの台詞を口にしようとして、自分の声がいつもよりワンテンポ遅れて出てくるのを感じる。


 生徒たちがわいわいとトレイを持って席につくのを見届けると、成美は教室の後ろの扉から、そっと廊下に出た。


 その瞬間、世界の色が一段階、薄くなった気がした。


 蛍光灯の白さがやけに強くて、廊下の床のラインテープが、妙にはっきりと見える。


 ――ここで、倒れたらどうなるんだろう。


 そんな考えが、不意に頭をよぎった。


 倒れる。

 その言葉を、これまで成美は「恐れるべき事態」として捉えていた。


 実際、保健体育の教科書でも、「倒れる前に対策を」と書いてあった。

 ニュースでも、「過労で倒れた」という見出しは、悲劇として消費される。


 けれど今、その言葉は、どこか甘い響きを帯びて耳に届いた。


 ここで、廊下の真ん中で、がくんと膝から崩れ落ちたら。

 誰かが駆け寄ってくるだろう。


 保健室に運ばれて、ベッドに寝かされて、熱を測られて、安静にしているようにと言われる。


 そのあいだだけは、きっと誰も、「なんで休むの」とは言わない。


 それどころか、「無理してたんだね」と、優しい言葉をかけてくれるかもしれない。


 そう想像した瞬間、胸の奥で何かがひどく揺れた。


 ――それは、許された休みだ。


 自分から「休ませてください」と申し出るのではなく、体が勝手に止まってしまった結果として与えられる、免罪付きの休み。


 廊下の壁に軽く背を預けながら、成美は、自分の思考が危ない方向に滑り始めているのを感じた。


「ここで、倒れたら……」


 口の中で、そっとその言葉を転がしてみる。


「休んでも、怒られないかな」


 誰に聞かせるでもない独り言が、廊下の空気に溶けていく。


 その一文を口に出してしまったことで、これまで「ありえない」と思っていた選択肢が、一気に現実味を帯びてしまった。



 その日から、成美のタイムスケジュールは、さらにおかしくなっていった。


 これまでも十分おかしかったが、それでも、二十時台に帰る日も、たまにはあった。


 けれど、「過労で倒れたい」という考えが頭のどこかに根を下ろしてからは、「早く帰る」という選択肢が、意識の中からほとんど消えた。


 朝七時に学校に着くのは、もう習慣になっている。

 そこから授業の準備をし、朝の会、午前中の授業、昼休みの巡回、午後の授業、職員会議、部活。


 生徒たちが帰ったあと、ようやく教室は静かになる。


 普通ならそこで、「今日も一日終わった」と帰り支度をするのだろう。


 しかし成美は、そこからが本番だとばかりに、プリントの束を抱えて職員室に戻る。


 四クラス分の小テストを採点し、記録を入力し、翌週の授業の教材を考える。

 連絡帳に書くコメントを一人ひとり分、下書きしておくこともある。


 気付けば、時計の短針は二十一時の数字を過ぎている。


 タイムカードを押すころには、手帳の日誌欄に、その日一日の出退勤時刻を記録するのも、いつの間にか習慣になっていた。


 六時二十分出勤。

 二十二時十五分退勤。


 その数字を並べて見て、ふと、胸の奥にじんわりとした感覚が広がる。


 誇らしさと呼ぶには、あまりに苦い。


 けれど、「ここまで頑張っている」という証拠を、自分に見せつけているような気持ちになる。


 ――これだけ働いているんだから、倒れてもおかしくない。


 ――これだけ削っているんだから、いつか本当に壊れても、誰も文句は言えない。


 そんな歪んだ理由付けが、日誌に書かれた数字の上を、薄いフィルムのように覆っていく。



 ある夜、残っている教員が三人だけになった。


 職員室には、コピー機の低い唸りと、パソコンのキーボードを叩く音が響いている。


「山本先生、帰らないの?」


 プリントをトレーに揃えながら、川島が声をかけてきた。


「もうすぐ二十二時半ですよ。うちの学校、夜二十三時以降いると、次の日事務局から電話来ますよ」


「そうなんですか」


「一応、県から『長時間残業やめましょう』って通達は来てるから。見回りがゆるいだけで」


 川島は冗談めかして笑った。


「でも、山本先生、最近ずっと『六時二十分―二十二時十五分』ですよね。日誌に書いてるの、ちらっと見えちゃって」


「あ……はい」


 見られていたのか、と少し恥ずかしくなる。


「すごいよね。俺には無理だわ」


 川島の「すごい」は、純粋な称賛とも、呆れともつかない響きだった。


「でも、体、気をつけてくださいね。倒れられたら困るし」


 最後の一言は、冗談っぽく付け足された。


 「倒れられたら困る」。


 それは、脅しでもなんでもない。

 事実だ。


 誰かが倒れれば、その分、誰かの仕事が増える。

 保護者への説明も、教育委員会への報告も、全部、誰かが引き受けることになる。


 それでも――成美の頭の片隅では、「倒れたら、やっと休める」という考えが、しつこくしつこく残っていた。


 困らせると分かっていても、その困らせ方でしか、自分を止められない気がしてしまう。



 そんなある日、午後の授業の合間に、ふと廊下で目の前が真っ白になった。


 プリントの束を抱えて歩いていた成美は、立ち止まって、壁に手をついた。


 耳鳴りがする。

 キーンという音が、遠くから近づいてきて、頭の中で弾ける。


 廊下の先にある掲示板の文字が、一瞬、読めなくなった。


 心臓が早鐘のように打ち始める。

 なのに、体は冷えていて、指の先がじんじんと痺れている。


 ――今、ここで、膝を折れば。


 思考が、また同じ場所に戻っていく。


 プリントの束を床に落として、そのまま意識を手放せば。

 誰かが「大変だ」と駆け寄ってくる。


 教頭が呼ばれて、救急車の要請が検討される。

 搬送されてしまえば、しばらくは自動的に休みになる。


 その間の業務は、誰かが担ってくれる。


 「誰かが」を思い浮かべた瞬間、胸がきゅっと痛んだ。


 佐川の顔が浮かぶ。

 村井の顔も浮かぶ。

 早川の、「吐きながらでも出勤してた」という笑い声も浮かぶ。


 その人たちの空き時間が消えて、また「今月八十時間だわ」と笑うのだろうか。


 そう思うと、足を折ることもできない。


 結局、成美は、壁に額を軽くつけたまま、深呼吸を繰り返した。


 吸って、吐いて。

 吸って、吐いて。


 息を整えながら、心の中で別の答えを探す。


 ――ここで倒れられないなら、もっと削ればいい。


 その考えに行き着いたとき、自分でもぞっとした。


 「もっと削る」という発想は、本来なら危険信号だ。


 けれど今の成美にとっては、「より早く倒れるための近道」に見えてしまう。


 倒れたい。

 倒れることでしか、休めない。


 そんな逆転したロジックが、自分の中でひどく合理的に感じられる。



 その夜の帰宅は、いつも以上に遅くなった。


 生徒の一人が、放課後に教室で泣き出し、保護者への連絡と対応に時間を取られたのだ。


 保護者は電話口で、「いつもお世話になってます」と丁寧に言ったあと、「でも、うちの子からすると先生の言い方がきついみたいで」と、遠回しに不満を伝えてきた。


 成美は、頭の中で言葉を選びながら、ひとつひとつ対応した。

 電話を切ったあと、ぐったりと椅子にもたれたくなったが、目の前には明日のプリントが積まれている。


 全て片づいたときには、時計は二十一時半を回っていた。


 職員室を出る前に、日誌の自分の欄を見て、成美はペンを走らせる。


 出勤時間の欄には、すでに朝の「6:20」が書かれている。

 退勤時間の欄に、「22:15」と書き込む。


 その数字を眺めているうちに、ふと、違和感が強まった。


 ――普通なら、これは「異常」と言うのではないか。


 六時過ぎから二十二時過ぎまで学校にいるということは、一日十六時間、拘束されているということだ。


 通勤時間を入れれば、十八時間。

 残りの六時間で、入浴・夕食・睡眠・家事・翌日の準備を全部詰め込んでいる。


 そう計算した瞬間、「過労死ライン」という言葉が頭をよぎった。


 ニュースでよく見る、あの言葉。

 残業時間が何時間を超えると危険、と報じられるたび、自分とは関係のない、遠い世界の話だと思っていた。


 いつの間にか、その「遠い世界」の数字の中に、自分の生活がすっぽり収まってしまっている。


 日誌の数字は、そのことを無言で証言していた。


 ――こんなに働いているんだから。


 ――こんなに無理をしているんだから。


 ――倒れても、仕方がないよね。


 そんな声が、どこからともなく聞こえてくる。

 それが誰の声なのか、自分自身なのか、社会の価値観なのか、もう判別がつかない。



 帰りの山道を車で走りながら、成美は、ハンドルを握る手を見つめた。


 細くて、節ばった手。

 チョークの粉が染み込み、赤ペンのインクがところどころ指先についている。


 その手を見下ろしながら、またあの言葉を思い浮かべる。


 ――ここで、倒れたら。


 アクセルを緩め、ブレーキを軽く踏んでカーブを曲がる。


 山の斜面には、街灯がほとんどない。

 ヘッドライトの光だけが、アスファルトの道を白く浮かび上がらせる。


 その光の帯の外側は、真っ黒な闇だ。


 この光の中にいる限りは、進むしかない。

 アクセルを踏み続けるか、ブレーキを踏んで停まるか。


 けれど、「ハンドルから手を離す」という選択肢を、頭の中で何度もシミュレーションしてしまう。


 離したら。

 どうなるのか。


 過去にトンネルの出口で感じた、あのぞっとする感覚がよみがえる。


 本当に死にたいわけではない。

 そこだけは、何度考えても変わらない。


 ただ、「過労で倒れた」と言えば、誰も成美を責めないのではないかと、心のどこかで信じてしまっている。


 それくらい仕事していれば、倒れても当然だよね。

 そう言ってもらえるくらい、自分を追い込んでおきたい。


 「倒れたい」という願望は、死への願望ではなく、「責められずに休みたい」という願望の裏返しだ。


 なのに、その線引きは、自分の中で少しずつ曖昧になっていく。


 倒れることと、死ぬこと。

 その差は、本来なら決定的に大きいはずなのに、疲れ切った頭には、その距離が妙に近く感じられる。



 家に着いて、部屋の灯りをつける。


 壁には、色とりどりの付箋が貼られている。


 「死にたい」

 「消えたい」

 「向いてない」


 先日貼ったメモの隣に、成美は新しい付箋を一枚貼った。


 そこには、勢いのある字で、こう書かれている。


 「倒れたい」


 それは、「死にたい」よりも、少しだけ現実的で、少しだけ安全そうな言葉に思えた。


 けれど、本質的には、同じ方向を向いている。


 日誌の「6:20―22:15」と並んで、その付箋もまた、成美が自分の限界を超え続けている証拠として、壁に残り続ける。


 ベッドに倒れ込むように横になりながら、成美は天井を見つめた。


 「過労で倒れたい」という願いは、自分を救うはずのものだった。


 責められずに休むための、苦し紛れの出口。


 けれど、その出口に向かう道は、今いる場所よりもさらに暗く、さらに危うい足場でできている。


 そのことに、成美自身も薄々気づいていた。


 それでも、「普通に『休ませてください』と言う」ための勇気が、自分には決定的に欠けている。


 だから今日も、日誌には「7:05―21:55」と記される。


 明日も、きっと同じような数字が並ぶだろう。


 いつか、その数字の積み重ねが、体を止める日が来る――。


 その未来を、望んでいるのか、恐れているのか。


 自分でも判然としないまま、成美は、睡眠導入剤のパッケージから一錠を取り出した。


 白い錠剤を水で飲み下し、ゆっくりと目を閉じる。


 意識が薄れていくその直前まで、「明日はもう少し、早く倒れられるかもしれない」と考えている自分に、気づかないふりをしながら。

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