第14話「休めない呪い」
その朝、目が覚めた瞬間に、体が「今日は無理だ」と言っていた。
喉の奥が焼けるように痛い。
鼻の奥がずきずきする。
関節という関節に、重たい鉛が詰め込まれたみたいに力が入らない。
枕元のスマホを手に取ろうとして、成美は一度、布団の中に手を引っ込めた。
腕を伸ばす、その小さな動きでさえ、体が「やめて」と抗議してくる。
熱があるのだと、はっきり分かる。
寝ぼけた頭で、昨日の夜に書いた黒板の予定表を思い浮かべる。
一時間目、二年一組。
二時間目、三年二組。
三時間目、学年集会。
四時間目は月に一度まわってくる、一年のクラスでの道徳。
給食を挟んで、五時間目、三年一組。
すべて、今日しかない授業。
代わりに誰かがやることになれば、その人の空き時間はひとつ消える。
布団の中で、スマホの画面だけがやけに明るく感じられた。
時間は、午前五時二十二分。
欠勤の連絡を入れるなら、今だ。
もう少し遅くなれば、「もっと早く言ってくれれば」と誰かを困らせてしまう。
成美は、教頭の番号を呼び出して、指を止めた。
頭の中で、昨日の職員室の会話が再生される。
――昨日も欠席者が出て大変だった。
――空きコマ、全部つぶれてさ。
――誰かが休むと、ドミノ倒しなんだよね。
その「誰か」の中に、自分が入るのだと思うと、指先が固まってしまう。
電話をかけて、「すみません、今日は休ませてください」と言う。
それだけのことが、途方もない裏切りのように思えてしまう。
枕元のティッシュを一枚取って鼻をかむと、粘っこい音がした。
熱でぼうっとする頭の中で、「これは本当なら休むべき体調だ」と冷静に判断している自分もいる。
けれど、その冷静さより先に、別の声が口を挟んでくる。
――あなたが休んだら、その分、誰かの授業が増えるの。わかる?
先週、廊下で立ち話になった先輩の女性教員の声だ。
◇
それは、一週間ほど前の夕方だった。
その日も、誰かが体調不良で休んでいた。
代教の紙が職員室のコピー機の横に貼り出されていて、成美の名前も、小さくひとマス増えていた。
「山本先生、ごめんね。急に一時間目、二年の英語お願いしちゃって」
英語科の田所が頭をかきながら謝ってくれた。
「いえ……。私の空き時間だったので」
「でも、空きが一個減るって、ほんと地味に効くんだよね。自分の授業準備、押すしさ」
そう言いながら、田所は笑った。
その会話を聞いていたのが、同じ学年の先輩・佐川だった。
「昨日も、一人休んだんですよね?」
成美が恐る恐る聞くと、佐川はコピー用紙の束をトントンと揃えながら、苦笑いを浮かべた。
「そう。年度初めって、慣れない環境で体調崩す先生も多いからね。……まあ、しょうがないんだけど」
しょうがない、と言いながらも、職員室の空気には、薄い緊張が漂っていた。
そこへ、給湯室からマグカップを片手に現れたのが、再雇用のベテラン教員・早川だ。
顔色は悪くないのに、どこか「古傷が疼いている」ような笑い方をする人だ。
「最近の先生たちは、よく休むようになったわねえ」
マグカップを自分の机に置きながら、早川は何気ない調子で言った。
「私たちの若い頃なんて、熱があっても来てたわよ」
その言葉に、周りの数人が、冗談とも本気ともつかない笑みを返す。
「本当ですか」
成美が思わず聞き返すと、早川は待ってましたと言わんばかりに身振りをつけた。
「本当よ。私なんて、一回、車の中でおえおえ言いながら出勤したことあるんだから」
「おえおえ……」
「そう。胃腸炎っぽくてねえ。信号待ちのたびに、ビニール袋抱えて。さすがにそのときは、午前中で早退させられたけど」
その場に小さな笑いが起きた。
「それ、完全にアウトじゃないですか」
佐川が苦笑しながら突っ込む。
「アウトよねえ。でも、そのとき思ったの。『ここで休んだら、生徒、どうなるんだろう』って。テスト前で、授業詰まってたから」
「……」
「今の先生たちが楽してるとか、そういうつもりはないのよ。ただね、『少々具合が悪くても、出てくるのが当たり前』って空気でやってきた世代だから。最近の、休みやすくなった世の中を見ると、『ああ、時代は変わったのねえ』って思うわけ」
早川は、どこか懐かしむような目をした。
そこには、自分の過去を美化したい気持ちと、「今の先生たちには同じ苦労をさせたくない」という複雑な感情が入り混じっているように見えた。
けれど、聞かされる側の成美の耳には、その武勇伝が、そのまま「基準」として刻み込まれてしまう。
――車の中でおえおえ言いながらでも来てた。
――それが、教師という仕事。
冗談混じりの会話で飛び交う言葉ほど、無意識に心の奥に沈んでいく。
◇
さらに追い打ちをかけたのは、その翌日の朝だった。
その日も代教の紙が貼られていて、三人の教師の名前が欠席欄に並んでいた。
「今日、代教、やばいね」
佐川が、ホワイトボードを見ながら顔をしかめた。
「三人も休んでると、空き、ほぼ消えるな」
数学の川島がため息をつく。
「誰か一人休むと、その人の授業時数分だけ、どこかの空きが消える。ドミノ倒しだよね」
「まあ、『お互いさま』なんだけどさ」
そう言いながら、三人はそれぞれの時間割表に赤ペンを走らせていた。
その横で、佐川がふっと成美のほうを振り向いた。
「山本先生」
「はい」
「これ、脅しとかじゃなくてね」
佐川は、言葉を選びながら続けた。
「あなたが休んだら、その分、誰かの授業が増えるの。わかる?」
「……はい」
「先生たちもみんなギリギリで回してるから、誰か一人欠けると、一日中バタバタになる。だからって、『休むな』って言いたいわけじゃないんだけど……」
そこで佐川は、少しだけ言葉を切った。
「自分の体調と、現場の状況と、両方見ながら、『この日はどうしても出る』『この日は本当に無理だから休む』って線引き、ちゃんと自分でやらないと、誰もやってくれないから」
言っていることは正論だ、と成美は思った。
「無理でも来い」とは言っていない。
「ちゃんと休め」と言っているわけでもない。
ただ、「あなたがいないと、その分誰かが苦しくなる」という事実だけを、静かに伝えている。
それが、忠告として心に残ると同時に、呪いのようにも染み込んでいった。
◇
そんな会話の記憶が、布団の中の成美の頭の中をぐるぐると回っていた。
スマホの画面は、まだ教頭の番号を表示したままだ。
通話ボタンに置いた親指は、少し震えている。
「休みます」と言えばいい。
「熱があるので」と言えば、誰も責めないはずだ。
けれど、その一言を言うことで、今日一日、誰かの空き時間が全部消えてしまう。
誰かが、六時間授業をこなしたあとに、部活の指導をして、記録を書いて、ぐったり帰ることになる。
そう考えた瞬間、「自分の体調」と「誰かの苦労」が、天秤の両側に二つの重りのように乗せられる。
その天秤を、自分の意志で「自分側に傾ける」ことが、とても恐ろしく感じられた。
「……行こう」
成美は、小さく呟いて、通話画面を閉じた。
枕元の目覚ましを止め、ゆっくりと体を起こす。
視界が一瞬ぐらりと揺れた。
熱のせいで、世界の輪郭がいつもより少し滲んでいる。
足を床につけたとたん、ぞくぞくと悪寒が這い上がってきた。
それでも、制服に袖を通す。
髪をひとつにまとめる。
洗面所で冷たい水を顔に当てる。
鏡の中の自分は、思った以上に青白かった。
「大丈夫、大丈夫」
口に出してみる。
そう言わないと、足が玄関へ向かわない気がした。
◇
車に乗り込むとき、春の朝の空気がやけに鋭く感じられた。
アクセルを踏む足に、いつものような力強さはない。
それでも、山道に向かってハンドルを切る。
カーブのたびに、視界の端がちらちらと白く瞬いた。
エンジン音と、タイヤがアスファルトを擦る音だけが、車内を満たしている。
「今日一日だけ、がんばろう」
自分にそう言い聞かせる。
今日を乗り切れば、明日は少し楽になるかもしれない。
明日もだめだったら、そのときこそ休もう。
そうやって、「休む日」を一日先に延ばすことが、ここ最近の成美の癖になっていた。
◇
学校に着くと、タイムカードの横にある体温計を手に取る教員が何人かいた。
「なんか、だるくってさ」
「熱はないんだけどねえ」
そんな声が、行き交う。
成美も、同じように体温計を手に取ろうと一瞬思ったが、やめた。
数値として「熱がある」と確認してしまえば、本当に休むべきなのだと突きつけられる気がしたからだ。
タイムカードを押し、「おはようございます」と声を出す。
いつもより少し掠れたその声に、自分で驚いた。
「山本先生、声どうしたの?」
佐川が気づいて、眉をひそめる。
「ちょっと、喉が痛くて」
「熱は?」
「測ってないんですけど、多分、微熱くらい……」
「無理しないでくださいよ」
そう言いながらも、佐川の手はすでに自分の時間割表を見ている。
ここで「帰ります」と言えば、その表に赤ペンが走ることになる。
その想像だけで、成美の喉は、さっきよりきゅっと塞がれた気がした。
「今日は……一日くらいなら、大丈夫だと思います」
それは、自分にも、佐川にも向けた言い訳のような言葉だった。
◇
一時間目。
教室に立つと、熱で火照った顔に、生徒たちのざわめきがじかにぶつかってきた。
「起立、礼」
号令係の声が響き、生徒たちが一斉に椅子を引く。
その音が、いつもより大きく耳に刺さる。
板書をしようと黒板の前に立つと、チョークを握る手に力が入らなかった。
文字の線が、ところどころ震える。
「先生、字、いつもより小さくない?」
後ろのほうから、そんな声が飛んだ。
「そうかな。見えにくい?」
「だいじょーぶでーす」
明るい声が返ってくる。
その明るさに救われる一方で、体の中の違和感は増していく。
途中で、何度か咳き込んだ。
咳をするたび、喉の奥がざらざらと擦り切れていくような痛みが走る。
二時間目が終わる頃には、頭の中の思考が一枚薄い膜に包まれたようにぼやけていた。
◇
休み時間、職員室の自分の椅子に座ると、全身の力が抜けた。
椅子の背にもたれ、天井を見上げる。
このまま、ここで目を閉じてしまいたい。
そう思うほどの倦怠感が押し寄せてくる。
「山本先生、大丈夫?」
声をかけてきたのは、早川だった。
「顔色、悪いわよ。どうしたの」
「ちょっと、熱があるみたいで……」
「あらあら」
早川は、少しの間、成美の顔をじっと見つめた。
「休めばいいのに」
意外な言葉だった。
「車の中でおえおえ言いながらでも来てた」という武勇伝を話していた本人から、「休めばいい」と言われるとは思わなかった。
成美が戸惑っていると、早川は苦笑いを浮かべる。
「今だから言えるけどね。あの頃の私たちは、『休む』って選択肢を自分から消してたのよ。誰も、そうしろなんて言ってないのにね」
「……」
「でも、現実問題として、誰かが休むと、その分、誰かが大変になる。それは変わらないの。山本先生だって、こないだ代教、入ってくれたでしょ」
早川の視線には、責める色はない。
ただ、事実を並べているだけだ。
「だから、休むときはね、『誰かに迷惑をかける』ってことも含めて、決断しなきゃいけないのよ」
「決断……」
「そう。自分の体を守るために、誰かに負担を預けるって決めること。優しい人ほど、それができないのよね」
その言葉は、慰めにも聞こえたし、皮肉にも聞こえた。
優しいから、休めない。
優しいから、自分を削る。
それが褒め言葉に聞こえてしまう時点で、どこかがすでに歪んでいるのだと分かっていても、胸の奥が少し誇らしくなる自分もいる。
――優しいから、私は頑張っている。
その物語を、自分自身に語り聞かせることで、「今日も休まなかった自分」を正当化してしまう。
「本当に無理だと思ったら、保健室行きなさいね」
早川はそう言い残して、自分の席に戻っていった。
「本当に無理」というラインがどこなのか、自分でもよく分からないまま。
◇
三時間目の学年集会では、体育館のざわめきが、熱を持った頭の中で反響した。
マイクの声、椅子のこすれる音、体育館シューズの足音。
それらが、ひとつの音の塊になって、成美の耳に押し寄せてくる。
壇上で話す村井が、「連休中の過ごし方について」と淡々と話している。
「夜更かしをして生活リズムを崩さないこと。SNSのトラブルに巻き込まれないこと」
その言葉を聞きながら、「大人のほうがよほど生活リズムを崩しているのではないか」と、成美はぼんやり思った。
夜遅くまで採点をし、早朝から部活に出て、休みの日にも教材研究をしている教師たち。
子どもに「規則正しく」と説くことと、自分たちがそうあれないことのギャップを、誰も口に出さない。
出してしまったら、どこから崩れていくか分からないから。
◇
四時間目の道徳では、教科書に載っている「思いやり」や「助け合い」の話を扱った。
生徒たちに、「困っている友達がいたらどうするか」を考えさせる時間。
黒板には、生徒たちの意見がチョークで並んでいく。
「声をかける」
「先生に相談する」
「無理をしているようだったら止めてあげる」
その文字を読みながら、成美は、ふと自分の姿を俯瞰で想像した。
このクラスの誰かが、今の自分のような状態だったら、きっと「休ませてあげたい」と思うだろう。
「無理をしないで」
「先生に相談して」
そう言葉をかける。
けれど、教師である自分自身には、その言葉がうまく向けられない。
そもそも、「無理をしないで」という選択肢が、職員室の空気の中では、薄く霞んで見えてしまう。
それどころか、「無理をしていること」自体が、半ば当然の前提になっている。
――私もそんなに寝てないよ。
――そのくらい、みんなやってる。
そういう言葉で、お互いの無理を「普通」に上書きして生きている。
それが、休めない呪いの正体かもしれない、と成美は思った。
◇
五時間目の授業が終わる頃には、もはや自分が何を話しているのか、ところどころ記憶が抜けていた。
教室を出た瞬間、膝から力が抜けそうになる。
廊下の壁に手をつき、深く息を吸い込む。
肺に入ってくる空気が熱っぽい。
頭の芯が、じんじんと痛む。
「山本先生?」
いつの間にか隣に立っていた佐川が、心配そうに覗き込んでいた。
「すごい顔してますよ。保健室、行きましょう」
「大丈夫、です……。今日はもう、授業も終わりましたから」
「終わったから、ですよ」
佐川の声は、いつになく強かった。
「授業が終わったからこそ、倒れる前に休まないと。ここで無理して、そのまま倒れたら、それこそ誰にも得ないです」
「でも……」
「『でも』じゃないです」
きっぱりと言い切られて、成美は言葉を飲み込んだ。
「私が保健室まで付き添います。教頭には、私から言いますから」
佐川は、それ以上反論させないように、成美の腕をそっと取った。
その手の温度に、少しだけ涙がにじみそうになる。
休むことを「悪いこと」としか捉えられなくなりかけていた自分に、「これは決して悪ではない」と教えてくれる、細い糸のような感触。
それでも、心のどこかで、別の声がまだささやいていた。
――あなたがここで横になるあいだ、誰かが残業する。
――あなたが帰るあいだ、誰かが代わりに電話を受ける。
その声は、すでに呪いとなって、成美の中に根を張っている。
たとえ今日、保健室のベッドに横になったとしても。
一日休んだとしても。
「誰かに負担を預けることへの罪悪感」は、消えることなく、これから先もずっと成美を追いかけるだろう。
休むべきときに休めない。
休んでも、自分を責めてしまう。
そんな思考の癖を、「優しさ」と呼んでしまう世界で、教師たちは今日も働いている。
誰も悪者ではなく。
誰も、好きで誰かを追い詰めているわけではないのに。
ほんの少しだけ傾いた天秤が、毎日少しずつ、確実に人をすり減らしていく。
保健室のベッドに横になりながら、成美は天井の白い板をぼんやりと眺めた。
体の奥の熱と、胸の奥の罪悪感が、同じ温度でじわじわと広がっていく。
あのとき、朝の布団の中で電話をかけていれば――。
そう思う自分と、どのみち同じように自分を責めていただろう自分が、心の中で静かに向かい合っていた。




