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県初の障がい者教諭として赴任した結果、学校と自分がゆっくり壊れていく話  作者: 妙原奇天


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第12話「食べられない教師」

 朝の味噌汁の匂いが、こんなにきついと感じるようになったのは、いつからだっただろう。


 茶碗から立ちのぼる湯気が、ふわりと鼻の奥に届いた瞬間、成美の胃のあたりがぎゅっと縮む。

 おいしくなさそう、というのとは違う。

 味を感じる前に、身体のほうが拒否してしまう。


「なるみ、冷めちゃうわよ」


 台所から、母の声が飛んできた。

 テーブルには、いつもの朝食が並んでいる。

 白いご飯と、豆腐とわかめの味噌汁。

 小さな焼き鮭と、きゅうりの漬物。


 どれも、これまで何度も食べてきた「普通の朝ごはん」だ。

 嫌いなものなんて、ひとつもない。


 それなのに、箸を手に取る指先が、重い。


「……うん」


 返事をして、ご飯を一口だけ口に運ぶ。

 咀嚼して、飲み込む。


 その一連の動作だけで、胸のあたりに妙な疲れが残る。


 味が、よく分からない。

 舌に乗っているはずなのに、舌が鈍くなっているみたいだ。


「最近、あんまり食べてないんじゃない?」


 母が、少し心配そうな目を向けてくる。

 成美は、慌てて笑顔をつくった。


「朝からたくさん食べると、おなか、もたれるから」


「若いくせに何言ってるの。山道通うんだから、ちゃんと食べなさいよ」


「うん、分かってる。……あとで、パンか何か食べるから」


 本当は、「あとで食べる」という約束も、守れる自信がない。

 でも、ここで「もう入らない」と言ってしまったら、母の表情に不安の影が濃くなるのが目に見えている。


 それが怖くて、いつも「あとで」「大丈夫」という言葉を選んでしまう。


 結局、その朝も、ご飯を三分の一ほど残したまま食卓を離れた。

 味噌汁はほとんど手つかずだ。


 食器を片づけている母の背中を横目に見ながら、成美は心の中で「ごめん」と呟いた。



 学校の給食室から漂ってくる匂いは、いつも決まっている。

 カレーの日は、廊下の奥までスパイスの香りが押し寄せるし、シチューの日は、牛乳とバターのまろやかな匂いが教室の扉の隙間から染み込んでくる。


 かつての成美なら、その匂いで少しお腹が鳴ったり、「今日は何かな」と楽しみになったりもしていた。


 今は、違う。


 チャイムが鳴り、「給食の準備をしましょう」と声をかける時間が近づくと、成美の胃のあたりは、期待ではなく、重たい石を飲み込んだみたいな感覚になった。


「今日、なに?」


 配膳当番の女子が、ワゴンにかぶせられた布をそっとめくりながら、隣の友だちに尋ねる。


「えっとね、カレイのムニエルと、ポトフだって」


 献立表を見て、嬉しそうな声をあげる子もいる。


 教室は、ざわざわっとにぎやかになっていく。

 机をくっつける音、椅子を引く音、食器が触れ合う音。


 そのざわめきの中で、成美は、黒板の前に立って、いつものように声を出した。


「はい、じゃあ、配膳中は立ち歩かないこと。マスクはしっかりつけてね」


 口では指示を出しながら、自分の胸のあたりの重さを、どうにもできないでいた。


 給食が並び、子どもたちが「いただきます」の挨拶をする。


「先生も、一緒に食べるの?」


 近くの席の男子が、何気なく聞いてきた。


 その問いかけが、ここ最近、じわじわと増えている。


 最初の一週間は、学期の始まりもあって、先生と一緒に食べること自体がイベントになっていた。

 先生の分のトレーを、当番の子が張り切って用意してくれた。


 でも、ある日を境に、成美は「あとで職員室で食べるから」と言うようになった。

 教室で、子どもたちの視線を浴びながら食べることが、どうにもつらくなってしまったからだ。


 食べるスピードが極端に遅くなっていることを、自分でも自覚していた。

 一口を飲み込むのに時間がかかる。

 それを、子どもたちの前で見せるのが怖かった。


「先生、最近一緒に食べてくれないね」


 別の女子が、スプーンを持った手を止めて言う。


 その声には責める響きはない。

 ただ、純粋な寂しさが滲んでいた。


 成美は、慌てて笑顔をつくる。


「私はね、大人だから、別で食べるの。職員室で、他の先生と一緒に」


「ふーん。なんか、いいなあ」


「大人は大人で、大変なんだよ。みんなも、しっかり食べて、大きくなってね」


 定型文みたいな言葉を並べながら、自分でも「嘘をついている」という感覚が喉に引っかかる。


 トレーの上には、先生用に取り分けられた分がある。

 それを、どうするか。


「先生の分、職員室まで運んでおくね」


 気を利かせた男子が、そう言って立ち上がる。


「あ、ありがとう。でも、自分で持っていくから、そのまま置いておいてくれる?」


「はーい」


 トレーにラップをかけ、生徒たちが食べ始めたのを見届けてから、成美はトレーを両手で持ち上げた。


 ほんの数メートル歩くだけなのに、腕に力が入らない。

 食欲がないだけでなく、全身の筋肉が少しずつ細くなっているような感覚があった。


 廊下に出ると、いくつもの教室から、楽しそうな笑い声と食器の音が漏れてくる。

 その中を、成美は、トレーを胸の高さに抱えたまま職員室へ向かった。



 職員室の扉を開けると、いつものように、そこだけ別の時間が流れているように感じる。


 生徒たちのいる教室とは違う静けさ。

 とはいえ、決して静寂というわけではない。


 コピー機の動く音。

 書類をめくる紙の音。

 どこかの机から聞こえる、ペンが走るかすかな音。


 そして、ところどころから聞こえる、小さなため息。


「お疲れさまです」


 成美が声をかけると、近くの机に座っていた早川が、顔を上げた。


「あら、給食?」


「はい。教室だと、落ち着いて食べられなくて」


「まあ、最初はねえ。私も若いころは、教室で食べると子どもたちが話しかけてきて、全然口に入らなかったわよ」


 そう言いながら、早川は自分のトレーの上のパンを、手際よくちぎって口に運んでいく。

 動きに迷いがない。

 もう何十年も、こうして給食を「仕事の合間」に詰め込んできたのだろう。


 成美は、職員室の隅の空いている席にトレーを置いた。


 椅子に腰を下ろし、スプーンを手に取る。

 目の前のポトフには、柔らかく煮えたじゃがいもと人参、それにソーセージが入っている。


 一口すくって、口まで運ぶ。


 スープの香りが鼻に届いた瞬間、また胃がきゅっと縮んだ。


 口に入れれば、きっとそこまで強い味ではない。

 でも、そこまで運ぶのが難しい。


 スプーンを、そっと皿に戻す。


 周囲を見渡すと、他の教員たちは、驚くほどの速さで食べていた。


 佐川は、教務机の端にトレーを置き、プリントを片手でめくりながら、もう片方の手でパンをかじっている。

 黒瀬教頭は、書類に目を通しながら、五分もかからずにスープを飲み干し、席を立ってどこかへ行ってしまった。


 誰も、「おいしいね」とか「今日は何だっけ」とか、食べ物の話をしていない。

 ただ、時間に追われるように、口の中に押し込んでいる。


 その光景を見ていると、「食べる」という行為が、自分だけ別のルールで進んでいるように感じられた。


 一口も飲み込めない人間と、五分で全部を胃に流し込む人たち。

 同じ職場で働いているのに、まるで時間の密度が違う。


「山本先生、食べないの?」


 いつの間にか、向かいの席に座っていた村井が、ちらりと目を上げた。

 彼のトレーは、すでに半分以上空になっている。


「あ、これから、少し」


「今日、午後から会議入ってるの知ってました? 二年の対応の件で」


「はい、聞きました」


「じゃ、早めに食べちゃったほうがいいですよ。午後、長くなりそうだから」


「……そうですね」


 分かっている。

 分かっているけれど、箸もスプーンも動かない。


 栄養が足りないから、体力も出ない。

 体力が出ないから、食べること自体がおっくうになる。


 悪循環の真ん中にいる自覚はあるのに、どこから手をつけていいのか分からない。


 結局その日も、成美は、パンを小さくちぎって一口だけ口に入れただけで、箸を置いてしまった。

 牛乳には手をつけられなかった。


 時間になり、トレーを片づけに来た事務の職員が、成美の席の前で一瞬動きを止める。


「あれ、山本先生、ほとんど食べてない?」


「ごめんなさい。ちょっと、胃の調子が悪くて」


「ああ……。じゃ、給食室にはそのまま返しておきますね」


 職員は、それ以上何も言わず、空になっていないトレーを他のものと一緒に重ねていった。


 給食室に戻った冷えたパンとスープがどう処理されるのか、成美は知らない。

 「残食」として集計されているのかもしれない。

 そこに「大人の分」が含まれていても、数字の上では、「今日の子どもたちの残り」と一緒にされるのだろう。


 それを想像すると、申し訳なさがじわりと広がる。


 子どもたちには、「残さず食べようね」と言っているのに。

 自分が一番、残している。



 給食を教室で一緒に食べなくなってから、生徒たちの間に、じわじわと小さな違和感が広がっていくのを感じていた。


 ある日の昼休み、廊下で女の子たちの会話が耳に入った。


「ねえ、山本先生ってさ、なんで一緒に食べないのかな」


「大人だからじゃない? 職員室で何か仕事あるんでしょ」


「でも、他の先生は教室で食べてるよ」


「うーん……。忙しいんじゃない?」


 悪意のない会話だ。

 でも、その「なんで」という言葉の裏に、見えない「心配」の芽があるように成美には思えた。


 教室でも、時々、誰かがぽつりと言う。


「前の先生、給食一緒に食べてくれてたよ」


 その一言に、「今の先生は違う」というニュアンスが混ざる。

 比べられている、という意識が、胸の奥で小さく痛む。


 もちろん、彼らに悪気はない。

 子どもは、見たことをそのまま言葉にする。


 「なんで?」と思ったことを、「なんで?」と口にする。


 それが、できない大人のほうが、むしろ不自然なのかもしれない。


「ごめんね。先生、ちょっとね、給食の時間は職員室でやらなきゃいけないことが多くて」


 ある日、正面からそう説明してみた。


 嘘ではない。

 給食の時間に、連絡帳を書いたり、午後の配布物を整理したり、会議資料に目を通したりしているのは事実だ。


 でも、それが本当の理由のすべてではない。


 本当は、「みんなと一緒に食べると、食べられない自分が目立ってしまうのが怖い」のだ。


 その核心には、まだ触れられない。

 触れたら、自分の弱さがむき出しになる気がして。


 子どもたちは、「ふーん」と言って、それ以上深くは尋ねてこなかった。


 それがありがたいような、さびしいような。



 食べられない日々は、じわじわと体を変えていく。


 朝、鏡の前に立つと、頬が少しこけて見えた。

 元々細いほうではあったが、最近は、頬骨のラインがはっきりしてきている。


 3月末に仕事着として購入したストレッチパンツも、ウエストのところにほんの少し余裕ができた。

 嬉しい、という感情は湧かなかった。


 ただ、「これ以上減ったら、立っているだけでもつらくなるかもしれない」という、かすかな危惧だけがあった。


 廊下を歩くとき、ふくらはぎに力が入らない。

 階段を上がるとき、息が上がるのが早くなっている。


 授業中、黒板に字を書いていると、腕がだるくて、チョークを持つ手を一瞬下ろしたくなる。


「先生、字、小さくなったね」


 ある生徒がそう言った。


 そう言われて初めて、自分の板書が以前よりも控えめになっていることに気づく。

 大きくはっきり書こうとすれば、それだけ腕に力を入れなければならない。

 細く小さく書いていれば、動きも少なくて済む。


 そんな小さな「省エネ」が、無意識のうちに増えていた。



 職員室での給食風景も、毎日ほとんど同じだ。


 タイムカードの横に置かれた給食のワゴンから、それぞれが自分の分を取り、空いているスペースに置いて食べる。

 その間も、誰かがコピーを取りに来たり、電話が鳴ったりする。


 ゆっくり味わう余裕なんて、どこにもない。


 佐川は、ある日、パンをほおばりながら、苦笑いした。


「この前、家でゆっくりご飯食べてたら、変な感じしました」


「変な感じ?」


「誰にも呼ばれないから、ゆっくり噛めるんですよ。『あ、噛んでる』って意識しちゃって。普段、飲み込んでるんだなあって」


「ここだと、そうなりますよね」


「先生たちの給食シーン、ドラマにしたら、きっと誰も見たくないですよ。夢も希望もないですもん」


 そう言いながらも、佐川は、どこか笑いを交えようとしていた。

 重くなりすぎないように、冗談に逃している。


 成美は、その笑いに合わせて、「ですね」と頷くだけで精一杯だった。


 佐川のトレーは、いつもほぼきれいに空になる。

 「飲み込んでいる」と本人は言うが、それでもちゃんと栄養を摂っているのは確かだ。


 その横で、自分のトレーには、ほとんど手つかずのポトフと白いパンが残っている。


 同じように「忙しい」のに、誰かは食べられて、誰かは食べられない。

 その違いを、自分の「弱さ」と短絡的に結びつけてしまう癖が、また顔を出す。


「こんなふうだから、倒れるんだよ」


 心の中で、自分にそう言う声がする。

 それでも、スプーンはやっぱり動かない。



 給食室に戻されたトレーは、日ごとに微妙な違いを見せる。


 ある日は、パンだけが残っている。

 またある日は、スープとサラダがほぼ丸ごと残っている。


 給食担当の栄養教諭は、返却されたトレーを見て、子どもたちの食べ残しの傾向をチェックしている。

 「今日はカレイが不人気だったね」とか、「スープはみんな飲んでくれたね」とか。


 その中に、明らかに大人の分と思われるトレーが紛れていても、誰もいちいち「これは誰のか」とは聞かない。


 仕事が立て込んでいると、個々の事情にまで目が行き届かないのは当たり前だ。


 誰も悪くない。


 そう頭では分かっていても、自分の残したパンやスープが、誰にも知られないまま廃棄されていくことを想像すると、心のどこかがじくじくと痛んだ。


 ただでさえ、役に立てている実感が少ない毎日だ。

 せめて「食べる」という行為だけでも、きちんとこなしたい。


 でも、それすらできない。


 その事実が、「自分は教師としてだけでなく、人間としての最低限もできていないのではないか」という極端な考え方に繋がっていく。



 ある日、給食を取りに行こうと廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。


「山本先生」


 振り返ると、三年二組の女子が二人、立っていた。

 トレーを抱え、少し不安そうな顔をしている。


「どうしたの?」


「えっと……。先生、最近、給食あんまり食べてないよね」


 一人が、そう切り出した。

 もう一人も、小さく頷いている。


「こないだ、給食室の先生が、『先生の分、よく戻ってくるね』って言ってて……。山本先生のことかなって」


 心臓が、どきりとした。


 子どもたちの視線が、まっすぐに自分に向いている。


 言い訳を考える時間は、ほとんどない。

 でも、何かしら言葉を返さなければ、その沈黙がかえって彼女たちの不安を増幅させてしまう。


「そうだね。……最近、ちょっと胃の調子が悪くて。食べられるときは職員室で少しずつ食べてるんだけど」


「病気なの?」


「大きな病気とかじゃないよ。ただ、疲れてると、食べられなくなっちゃうことがあるから。みんなも、緊張したりしたらご飯入らなくなったりしない?」


「あー、テストの日とか」


「そうそう。それとちょっと似てるかな」


 自分で話しながら、「似ている」と言ってしまっていいのか迷う。

 テストの緊張と、今の自分の状態は、きっと質が違う。


 でも、今ここで、教師と生徒の間にある「経験の差」を持ち出しても、彼女たちには届かないだろう。


「先生、倒れたりしない?」


 もう一人の女子が、不安そうに聞いた。


 その質問に、胸が詰まる。

 未来のことなど、自分でも分からない。


 それでも、ここで「分からない」とは言えない。


「倒れないように、ちゃんと病院にも行くし、早く寝る努力もしてるよ。……だから、心配してくれてありがとう」


 できる限り、柔らかい声でそう言う。


 二人は、ほっとしたように笑った。


「先生、あんまり無理しないでね」


「先生がいないと、国語分かんなくなるし」


 その言葉は、あたたかさと重さを同時に持っていた。


 嬉しい。

 でも、「いないと困る」と言われることは、そのまま「倒れちゃいけない」というプレッシャーにもなる。


 ありがとう、と言いながら、成美は内心でその重さをそっと持ち上げた。


 持ち上がったのかどうか、自分でもよく分からないまま。



 家に帰ると、母が夕食の支度をしていた。


「今日はね、から揚げにしたの。好きでしょ」


 揚げ物の匂いが、部屋中に広がっている。

 油と醤油と生姜の混ざった香りは、本来なら食欲をそそるはずだ。


 でも、成美の胃は、またきゅっと固くなった。


「……おいしそう」


 言葉と、身体の反応が噛み合わない。


 テーブルに並べられたから揚げは、こんがりときつね色に揚がっている。

 外はカリッとしていそうで、中はジューシーそうだ。


 レモンが添えられ、キャベツの千切りが山盛り盛られている。


 箸を伸ばして、から揚げを一つつまむ。

 口まで運んだところで、手が止まる。


 噛んだら、油が口の中に広がる。

 それを、きちんと飲み込めるだろうか。


 不安が、先に来る。


「どうしたの。冷めちゃうわよ」


「……うん」


 小さく口に入れて、よく噛む。

 味は、ちゃんとおいしい。

 でも、それを味わう余裕より先に、「飲み込む」という行為そのものがしんどくなってしまう。


 ひとつ飲み込んだところで、箸が止まる。


「なるみ、最近食が細いわねえ」


 テレビから、料理番組の音が流れている。

 画面の向こうでは、芸人たちが「おいしい!」と笑顔で料理を頬張っていた。


 同じ日本のどこかで、「食べること」を楽しんでいる人たちがいる。

 その当たり前が、自分のところからだけ抜け落ちている感じがする。


「疲れてるんだと思う。……仕事、忙しいから」


「忙しいのは分かるけどね。食べないと、体もたないわよ」


「うん」


 そう言いながら、フトンの中にこっそり隠す子どものような罪悪感が胸に溜まっていく。


 母の言葉は正しい。


 食べないと、体はもたない。

 頭では、痛いほど分かっている。


 でも、「食べる」という行為にたどりつくまでの距離が、日増しに伸びている。


 その距離を縮めるための力が、今の自分には足りない。



 日記帳の片隅に、その日の夜、成美は小さな字で書き込んだ。


「最近、食べられない。食べようとすると、胸が苦しくなる。味は分かるのに、身体が拒否する。ちゃんとしなきゃ、と思えば思うほど、箸が動かない」


 書きながら、「こんなことを書いたからといって、明日急に食欲が戻るわけではない」とも思う。


 それでも、言葉にしておかないと、この感覚が完全に霧の中に消えてしまいそうだった。


 霧の中で迷子になるくらいなら、「ここにいる」と印をつけておきたい。


 そうやって自分の状態を記録しながらも、どこかで、「これは一時的なものだ」と信じたかった。


 忙しい時期だから。

 新学期だから。

 山道の運転にまだ慣れていないから。


 理由はいくつでも挙げられる。


 そのどれもが間違っているわけではない。

 でも、本当の理由の一番深いところ――体と心の両方が、すでに限界に近づいていること――だけは、まだ直視できないでいた。


 食べられない日々は、この先の「倒れる日」へと、静かに繋がっている。

 けれど、その線の先に何が待っているのかを、この時の成美は、まだ具体的な形として想像していなかった。


 ただ、「また明日も、給食の時間が来る」とだけ思っていた。

 そして、そのときもきっと同じように、教室で笑ってごまかし、職員室で冷めたパンを前に手を止めるのだろうと。

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