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県初の障がい者教諭として赴任した結果、学校と自分がゆっくり壊れていく話  作者: 妙原奇天


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第11話「『死ねよ』が口癖になる夜」

 四月二十日。


 放課後の職員室に、コピー機の動く音と、椅子が引かれる音と、誰かの笑い声が混ざっていた。

 外はまだ明るいはずなのに、窓際のブラインドは半分ほど下ろされていて、部屋の中は妙に灰色っぽい。


 成美は、自分の机の上に積まれたプリントの山を、ただ見つめていた。


 三年一組の漢字テストの採点が半分。

 三年二組のワークチェックは、まだ手付かず。

 連絡帳は、今日だけで七冊。


 視線を少し横にずらすと、隣の佐川の机には、色とりどりの付箋が貼られたファイルが積み上がっている。

 その向こうで、佐川が電話に頭を下げていた。


「はい、はい、申し訳ありません。こちらでも指導いたしますので……。いえ、そんなつもりでは決して」


 相手の声は聞こえない。

 けれど、「申し訳ありません」という言葉の繰り返し方で、先の見えないクレームだと分かる。


「……ふう」


 深く息を吐いて、成美は目を閉じた。


 今日だけで、何度ため息をついただろう。

 数えるのも疲れるくらい、何度も。


 朝の会では、提出物の出し忘れが相次いだ。

 注意したはずなのに、「聞いてない」「知らなかった」と平然と返される。


 二時間目、教室の後ろで男子二人が押し相撲のようなことを始め、机が一台倒れた。

 慌てて止めに入ったとき、背中に走った妙な寒気が、まだ残っている。


 お昼の給食の時間、スプーンをふざけて投げた生徒がいて、別の子のトレーに味噌汁が飛び散った。

 泣き出しそうな顔と、ふざけた本人の「そんなつもりじゃなかった」という言葉。

 そのどちらにも、どう言葉をかけるべきか迷っているうちに、時間だけが過ぎていった。


 放課後には、保護者から電話があった。


「うちの子、最近学校に行くのがしんどいって言ってて。先生、ちゃんと見てくださってますか」


 その問いに、「はい、見ています」と胸を張って言えなかった。

 もちろん、見ているつもりだ。

 でも、「見えていないところがどこかにある」と、誰よりも自分が知っている。


 電話を切ったあと、受話器を置いた手がしばらく震えていた。


 そんな一日の終わり。


「……そろそろ、帰ります」


 自分に言い聞かせるように呟いて、タイムカードを押す。

 打刻された時間は、二十一時を少し回っていた。


「お疲れさまです」


 通りすがりの誰かと挨拶を交わしながら、職員室を出る。

 廊下の蛍光灯が、まぶたに刺さるように明るい。


 玄関で外靴に履き替えると、校庭の向こうに民家の明かりがわずかに滲んで見えた。

 山の稜線が黒く切り取られている。


 駐車場で車に乗り込み、シートベルトを締め、エンジンをかける。

 窓ガラスに映った自分の顔は、心なしか前よりも青白い。


 学校の敷地を出て、山道に入る。


 ここからが、「夜」の始まりだ。



 ライトの届く範囲だけが、世界のすべてになる。

 その外側は、ただの黒い塊だ。


 右に曲がれば谷。

 左には重たそうな木々。


 何度も通った道なのに、成美は毎回、最初の数分、ハンドルを握る指先を意識してしまう。

 慎重に、慎重に。


 今日も、助手席には鞄が置かれている。

 連絡帳と、未採点のプリントと、予備のプリント。


 職員室を出るとき、「今日は職場に全部置いていこう」と思ったはずなのに、最後の最後で手が伸びた。

 「もしもの時のために」と。


 アクセルを踏む足裏に、じわじわとしただるさがまとわりついている。

 眠気とは違う、疲労の重さ。


「今日は、ちゃんと授業できてたか?」


 ぽつりと、言葉がこぼれた。


 誰もいない車内。

 聞いているのは、自分だけ。


 返事が返ってくるはずもないのに、自分で問いかけて、自分で答えを探す。


 すぐに頭の中に浮かぶのは、「できていたところ」ではなく、「できなかったところ」ばかりだ。


 板書が少しごちゃごちゃしていたこと。

 注意したはずの生徒が、また同じことを繰り返していたこと。

 保護者からの電話に、うまく言葉を返せなかったこと。


「……できてねえなあ」


 さっきよりも、ほんの少しだけ低い声になっている。


「下手くそ。ほんと、下手くそ」


 前にも自分にそう言ったことがある。

 でも、この日は、その言葉のあとに、妙な空白が生まれた。


 下手くそ。

 向いてない。


 いつものレパートリーだ。

 その先に、もっと強い言葉があることを、成美は知っている。


 普段なら、心の中で止めている言葉。

 テレビドラマの中で、誰かが吐き捨てるような台詞。


 それが、喉の奥までせり上がってきていた。


「……死ねよ」


 ほとんど、囁きに近い声で言った。


 言葉が口を出た瞬間、胸の中で何かがざわっと動いた。


 でも、不思議なことに、嫌悪感や恐怖はそれほど強くなかった。

 むしろ、「ああ、とうとう言ってしまった」という妙な納得のようなものがあった。


 窓の外には、相変わらず闇と山しかない。

 対向車もいない。

 この言葉を聞いているのは、本当に、自分しかいない。


「死ねよ」


 さっきより、少しだけはっきりとした声で繰り返す。


「こんなミスばっかりして。死ねよ。教師に向いてないんだよ」


 口に出すたび、胸の中にたまっていた澱のようなものが、少しずつ剥がれていく気がした。


 もちろん、本気で車を崖に突っ込もうとしているわけではない。

 ハンドルはしっかり握っている。

 ブレーキとアクセルの踏みかえも、いつも通りだ。


 ただ、「死ねよ」という言葉の鋭さが、頭の中を埋め尽くしていたざわめきを、一瞬だけ切り裂いてくれる。


 自分で自分を殴るみたいな感覚。

 手のひらに感じる痛みで、胸の奥の痛みをごまかすような。


「死ね、死ね、死ね」


 連続で言ってみる。


 口の中で同じ音を繰り返すうち、それが、もはや言葉というより音の列のように感じられてくる。


 意味よりもリズム。

 自分で発して、自分で聞く、その反響。


 その間だけは、「今日の授業」「保護者の顔」「プリントの山」といった具体的な映像が、少し薄れる。


 それが、楽だった。



 次の日も、その次の日も、帰り道の車内で同じことが繰り返された。


 最初はためらいがあった「死ねよ」が、少しずつ、ためらいなしに口から出るようになる。


「今日もダメだったな。はい残念、死ねよ」

「そんな説明もまともにできないで、教師失格。はい、死ねよ」

「もっとできる人、いっぱいいるのに。まずは死ねよ」

「なんでお前が先生なんかやってんの。人にもの教えられるような人間かよ、はよ死ね」


 言いながら、自分でも矛盾していることは分かっていた。


 本当に死にたいわけではない。

 死んでしまったら、仕事も、生徒も、母も、全部投げ出してしまうことになる。


 それだけは絶対にしてはいけない、と、どこかで思っている。


 でも、その「絶対にしてはいけないこと」を、自分の口から敢えて口にしてみることで、限界スレスレに張り詰めている心の糸を、無理やり緩めている。


 言葉にするだけなら、まだ現実にはならない。


 心のどこかで、そう信じている。


 学校では、そんな言葉は絶対に使わない。

 生徒にも、同僚にも、自分にも。


 だからこそ、車の中だけが、「禁句」を解放できる場所になっていた。


 山道を走りながら、成美の頭の中には、昼間の光景がちらつく。


 会議で、「残業時間が増えていますが、各自、自己管理をお願いします」と言われたときの、なんとも言えない空気。

 誰もが疲れた顔で頷きながら、「これ以上何を減らせと言うのだろう」と心の中でつぶやいているような沈黙。


 早川が休憩時間に、「私が若いころなんて、終電逃すくらい働いて、それでも翌日普通に来てたわよ」と笑いながら話していたときの、佐川の乾いた笑い。


「今の先生たちは大変ねえ」と言いつつ、「でも、そういうもんだから」と軽く片づける言葉。


 誰も、悪意があって言っているわけではない。

 それだけが、余計に堪える。


 悪者がはっきりしていれば、その人を責めればいい。

 でも、この職員室には、分かりやすい悪者なんていない。


 みんな、それぞれ疲れていて、言い訳も、反論も、もう口に出す気力が残っていないだけだ。


 だから、責める矛先が、自然と自分自身に向かう。


 その矛先の先端が、「死ねよ」という言葉になって現れている。



 四月二十三日。


 その日、授業はいつも以上に慌ただしかった。


 朝から、欠席の生徒が多かった。

 連絡帳に家族の事情や体調不良が書かれている。


 その一方で、教室には元気すぎる生徒もいる。

 バランスが崩れる分、トラブルも起こりやすくなる。


 三時間目、ちょっとしたことで口論になった男子二人を止めに入ったとき、成美は足を軽くひねった。

 痛みはたいしたことがなかったので、そのまま授業を続けたが、放課後になっても違和感は残っていた。


 職員室に戻る時間も遅くなり、書類の山もいつも以上に高く見えた。


「今日は、ちょっとだけ早く帰ったほうがいいですよ」


 佐川がそう言ってくれたが、「大丈夫です」と笑ってプリントを抱えた。


 本当は、大丈夫ではない。

 でも、「大丈夫じゃない」と口にしたところで、仕事が減るわけではないことを、成美はもう知っている。


 タイムカードを押したのは、二十一時半近くだった。


 外は、すっかり暗い。

 校舎の窓に映る自分の姿は、薄い影のようだ。


 駐車場に向かう足取りが、いつもより重い。

 足首の違和感も、じわじわと広がっている気がする。


 それでも、車に乗り込む。

 帰らなければ、明日も来られない。


 エンジンをかけ、学校を後にする。


 山道に入ると、いつものように、言葉が口から漏れた。


「今日も、何もできなかったなあ。この無能がよお! 死ねよ、ほんと」


 ハンドルを握る手に力を込めながら、前方の道だけを見つめる。


「死ね死ね死ね。お前なんか消えろ」


 口に出した言葉は、もはや自分で自分に向けたものというより、頭の中のぐちゃぐちゃを一時的にシャットダウンするための呪文みたいになっていた。


 声に出している間だけ、何も考えなくて済む。

 今日の失敗も、生徒の表情も、保護者の言葉も、すべて音の向こう側に追いやられる。


「死ね。死ね。死ね」


 何度目かの「死ね」を言いながら、成美はトンネルに入った。


 狭いトンネルの壁が、ライトに照らされてオレンジ色に光る。

 車のエンジン音が、いつもより響いて聞こえる。


 その中で、「死ね」という言葉の反響だけが、耳の内側で何度も跳ね返った。


 トンネルの出口が見えてくる。

 その先には、右側に緩やかにカーブを描く崖道がある。


 何度も通った風景だ。

 頭では分かっている。


 でも、その日、成美は、おそろしいほどはっきりと想像してしまった。


 もし、今、ハンドルをほんの少しだけ切り損ねたら。


 ガードレールを擦って、そのまま外側に飛び出して。

 暗闇の中に車ごと落ちていったら。


 どうなるだろう。


 そのイメージが、映像として頭の中に唐突に再生された。


 歪んだライト。

 割れるガラス。

 ひっくり返る車体。

 この高さだ、たぶん、爆発する。


 自分の体がどうなるかまでは、リアルには浮かばない。

 でも、「ここで本当に死ねてしまう」という感覚だけは、妙に生々しく胸を掴んだ。


 ハンドルを握る手に、汗がじわっとにじむ。


「……やだ」


 思わず、声が漏れた。


 さっきまで「死ね」「消えろ」と繰り返していた口から、今度は全く逆の言葉がこぼれた。


 やだ。


 本当に死ぬのは、絶対に嫌だ。


 ガードレールに視線を向ける。

 金属の柵がライトを弾いて、白く光っている。

 その向こうは、真っ暗な谷だ。


 この道を通り始めてから一ヶ月近く、何度もここを走ってきた。

 そのたびに、「気をつけなきゃ」「落ちたら大変だ」とは思っていた。


 でも、「落ちるかもしれない自分」をこんなにはっきり想像したのは初めてだった。


 さっき口にしていた「死ね」という言葉が、急に重く感じられる。


 冗談でも、比喩でもなく、本当に命に届いてしまうかもしれない重さ。


 その重さに気づいた瞬間、心臓がどくん、と強く打った。


「死にたくなんてない」


 今度は、はっきりと声に出して言った。


 その言葉が、トンネルから出たあとの夜の空気に、薄く溶けていく。


 その瞬間、成美は、自分がさっきまで口にしていた「死ね」という言葉が、本心ではないことを、はっきり意識した。


 死にたいわけではない。


 ただ、楽になりたいだけだ。

 何も考えずに眠れる夜がほしいだけだ。

 誰にも責められず、誰も責めずにいられる場所がほしいだけだ。


 でも、その「楽になりたい」を、どう表現していいか分からなくて。

 気づいたら、一番極端な言葉を選んでしまっていた。


 死ね。


 その一語で、全部をまとめてしまおうとしていた。


「……ごめん」


 誰にともなく、そう呟く。


 それが、自分自身への謝罪なのか、車なのか、山なのか、うまく分からない。


 とにかく、さっきまで軽々しく使っていた言葉が、途端に居心地の悪いものになった。


 ハンドルを握る手に、力を入れ直す。

 背筋を伸ばし、前方の道路に視線を固定する。


 慎重にカーブを曲がりながら、成美は、心の中で言葉を探した。


 死ね、と言わないで済む別の言葉。

 でも、今のこの苦しさを、まるごと隠してしまわない言葉。


 見つからない。


 結局、その夜の帰り道、成美は、それ以上、自分を罵る言葉を口にしなかった。


 代わりに、ずっと、呼吸の回数を数えていた。


 一回吸って、一回吐いて、「一」。

 また吸って、吐いて、「二」。


 自分の声の代わりに、呼吸の音だけを車内に満たしていく。


 「死ね」と繰り返していたときと同じように、頭の中は一時的に静かになった。

 ただ、その静けさの質は、少し違う。


 さっきまでの静けさは、暴力的な言葉で他の雑音をかき消しているような感じだった。

 今の静けさは、不安定な板の上にぎりぎり立っているような、心もとない静けさだ。


 どちらも、長くは続かない。


 でも、「死ね」という言葉のすぐ横に、本当に命が途切れてしまう可能性があることをはっきり意識してしまった今、もうさっきのようには言えない。



 家に着く頃には、足首の違和感はさらに強くなっていた。

 車から降りるとき、軽く顔をしかめる。


「おかえり。遅かったわね」


 台所から、母の声がした。

 成美は、足を引きずらないよう気をつけながら、ただ「うん」とだけ返事をする。


 「死ね」と自分に言い続けてきたことを、母に打ち明けることなどできない。

 そんなことを話すと、余計な心配をかけてしまう。


 だから、一日の終わりに口にする言葉は、いつもと同じだ。


「ただいま」


 それだけ。


 自室のドアを閉めると、ようやく一人になる。


 机の上には、いつものように手帳とプリントがある。

 ベッドの横の蓋つきの棚には、市販の睡眠導入剤の箱が整然と並んでいる。


 箱を見ると、心のどこかがほっとする。

 夜になれば、この薬が、「眠れない時間」を飛び越える手助けをしてくれる。


 さっきまで車の中で口にしていた危うい言葉と、この小さな錠剤の存在が、頭の中で奇妙につながる。


 どちらも、「今の自分では抱えきれない苦しさ」を、一時的に遠ざけるための道具だ。


 ひとつは、言葉。

 もうひとつは、薬。


 どちらも、本質的な解決にはなっていない。

 でも、今の成美には、それ以外の手段が見つからない。


 ベッドに腰を下ろし、しばらく天井を見つめる。


「……本当は、死にたくなんかないし」


 ぽつりと、昼間の山道で言えなかった言葉を、もう一度、声に出す。


 その言葉が、部屋の薄暗い空気に溶けていく。


「ただ、楽になりたいだけなんだよね」


 誰に聞かせるでもなく、自分にだけ聞こえるくらいの声で続ける。


 死ね、という言葉の鋭さは封じた。

 でも、その代わりに出てくる言葉は、まだ見つかっていない。


 その空白を埋めるように、成美は、その夜も睡眠導入剤の箱を開けた。


 錠剤を口に含み、水で流し込む。


 ベッドに横たわると、今日もまた、頭の中で山道のカーブとトンネルの光景が再生された。


 ガードレールの向こうの暗闇。

 その手前で、ぎゅっと握ったハンドル。


 ハンドルを離さなかった自分を、成美は心のどこかで、ほんの少しだけ褒めた。


 死ね、という言葉に飲み込まれずに済んだこと。

 本当は死にたくない、と自分に言えたこと。


 それは、ほんの小さな、小さな踏ん張りにすぎない。

 けれど、その小ささが、今の彼女にはぎりぎりの大きさだった。


 眠りに落ちていく直前、彼女の頭の中には、まだかすかに「死ね」という音の残響が続いていた。


 それは、これから先もしばらく、彼女の口癖として残る。

 車の中で、付箋の上で、心の中で。


 それが、本当に危険な領域に足を踏み入れる前触れであることに、成美自身は、まだはっきりとは気づいていなかった。

崖の話は実話です。

「いつでも死ねますよ」って言われたみたいでぞっとした。

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