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県初の障がい者教諭として赴任した結果、学校と自分がゆっくり壊れていく話  作者: 妙原奇天


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第1話「前例のない採用通知」

登場人物紹介


山本 成美やまもと・なるみ/34歳

県初の「障がい者雇用教諭」として山間部中学校に赴任したASD当事者。

感覚過敏とマルチタスクの苦手さを抱えながらも、「迷惑をかけたくない」一心で限界まで働き続ける。通勤は慣れない車で片道1時間半。休めない空気と、自分で自分を責める癖に追い詰められ、ゆっくり壊れていく主人公。


佐川 瑞希さがわ・みずき/28歳・若手教諭

明るく気さくで、生徒人気の高い女性教員。成美を気にかけ、さりげなくフォローするが、自身も過重労働とクレーム対応に追われて心身を削っている。“助けたいのに助けきれない”側の苦しみを体現する存在。


村井 信之むらい・のぶゆき/40代後半・主幹教諭

現場の火消しと管理を一手に担う多忙な中間管理職。成美の特性は理解したいと思っているが、「人も時間も足りない」現実の中で、結局は健常教員と同じ配置を押し付けてしまう。加害者であり被害者でもある立ち位置。


黒瀬 教頭くろせ/50代・教頭

責任と事務仕事に押し潰されそうな管理職。問題を「大事にしたくない」意識が強く、倒れた成美の扱いでも組織防衛を優先しそうになるが、そのたびに揺れる。


早川 春代はやかわ・はるよ/62歳・再雇用教諭

「昔は吐きながらでも出勤してた」と語る昭和型の武勇伝教師。“根性論”世代の価値観を体現し、無自覚に成美を追い詰める。


山本 静江やまもと・しずえ/60代・成美の母

採用を喜びつつも、どこか不安を抱いていた母親。倒れた後、成美の部屋で「死にたい」と殴り書きされた付箋の山を見つけ、娘の本当の限界を知ることになる。

 自分の名前が印刷された白い封筒を見つめながら、山本成美は息をひとつ吸い込んだ。指先が少し震えている。嬉しさというより、こわさに近い感覚だった。


 県教育委員会。

 その差出人を見た瞬間から、喉の奥がざわつきはじめている。


 合格しているのか。落ちているのか。

 結果はどちらにせよ、もう今の暮らしには戻れない気がしていた。


 リビングにいた母が気付き、顔を上げる。


「来たのね」


 声は弾もうとして弾みきれず、微妙に揺れていた。母は昔から、何かを心配しているとき、言葉の上に薄い膜のような震えが乗る。成美はそれをよく知っていた。


 封筒の端をゆっくりと裂く。紙の擦れる音が、やけに大きく聞こえる。

 折り畳まれた書類を開いた瞬間、視線は自然と活字に吸い寄せられた。


「採用……」


 口の中で転がした声は、乾いていた。


「ほんとうに? 成美、よかったじゃない」


 母が立ち上がり、そっと肩に手を置いた。父は夕食の支度を手伝いながら、皿を持つ手を止めた。


「やったな。頑張ったもんな」


 祝福の言葉がぽつぽつと並ぶ中で、成美だけがどこか取り残されたような気持ちで書類を見つめ続ける。

 文章の途中にあった一文が、どうしても胸の奥に引っかかっていた。


 県で初となる障がい者雇用教諭として採用する。


 たったそれだけの文言なのに、紙面からじわりとにじむ違和感を抑えられなかった。


 初めて。

 前例がない。

 誰も歩いたことのない道を、自分が先頭で行く。

 そこに伴走してくれる人は、本当にいるのだろうか。


 父が受話器を取って親戚に知らせようとするのを見て、成美は「まだ言うの早いよ」と慌てて手を伸ばした。


 嬉しさよりも先に、何かが胸に沈んでしまう。

 自分の中に、うっすらとした影が落ちていくのがわかった。


 ──思えば、ここに至るまでの数年間は、影の連続だった。


 大学を卒業し、一般企業の事務職に就いたが、長く続いた職場は一つもなかった。資料作成をしている横で、電話が鳴り、誰かが話しかけ、急な指示が飛ぶ。

 それらが同時に重なると、思考が固まってしまい、何をすべきか分からなくなる。


 「これ、頼める?」

 「さっきの件、どうなってる?」


 声が重なるたび、胸の奥がざらりと削れていく感覚があった。


 ミスが続けば、申し訳なさと自己嫌悪で夜も眠れない。

 辞める頃には、いつも体が動かなくなっていた。


 そんな生活が続く中、三十歳の年にようやくASDの診断が出た。

 感覚過敏、環境調整の必要性、一度に複数の作業を処理しづらい脳の特性。


 診断名は、救いだった。

 「怠けているわけじゃなかった」とわかったことが、少しだけ心を軽くした。


 そして、障害者手帳を取得したとき、相談員に言われた。


「配慮のある職場なら、力を発揮できる人はいくらでもいますよ」


 その言葉が、心の奥に灯りをともした。

 配慮のある職場。

 理解のある人たち。

 自分に合った場所でなら、誰かの役に立てるかもしれない。


 そんな希望を胸に、県が新設した「障がい者枠教員採用試験」を知ったとき、迷いながらも願書を出した。

 試験勉強は大変だったが、教科知識よりも、「これなら働けるのかもしれない」と思える未来のほうが、背中を押してくれた。


 面接では、勇気を振り絞って特性を説明した。


 感覚過敏で、騒音が続くと集中が難しいこと。

 急な業務変更に弱いこと。

 同時に二つ三つの作業を求められると、順序が混線すること。


 面接官は穏やかに頷きながら聞いていた。


「大丈夫ですよ。合理的配慮は当然しますから。前例がない分、いっしょに形を作っていきましょう」


 その言葉に、成美は少しだけ救われたような気がした。

 まぶしいほど明るい笑顔だった。


 けれど今、合格通知を手にすると、その笑顔に微かな空洞があったことに気付きそうになる。

 “前例がない”という言葉は、希望にも聞こえたし、不穏にも聞こえた。


「成美、どうしたの? 嬉しくないの?」


 母の声で我に返る。

 成美は慌てて笑みを作った。


「ううん。嬉しいよ。まだ実感がないだけ」


「そっか。お祝いしなきゃね」


 母はそう言いながらも、どこか視線を彷徨わせていた。

 まるで、これから降りていく坂道の先に、霧が立ちこめているのが見えているかのように。


 その表情に気付いて、成美の胸の奥で小さな痛みが跳ねた。

 自分の未来を心配してくれる人がいるということは、ありがたい。

 けれど同時に、その心配が正しいのではないかという予感が、静かに背中を冷やしていく。


 封書を閉じると、成美はそっと自分の部屋へ戻った。

 静かな空気が広がる。

 机に合格通知を置き、椅子に腰を下ろした。


 喜びよりも先に、疲労のようなものが押し寄せてくる。


 前例のない採用。

 合理的配慮。

 いっしょに形を作る。

 どれも美しい言葉なのに、触れるとひんやりしている。


 窓の外に目をやると、春の光が差し込んでいた。

 その明るさを、今はまだうまく受け取れない。


 この仕事で、本当にやっていけるのだろうか。

 胸の奥で、問いだけが静かに息をしていた。


 机の上の書類に、もう一度視線を落とす。


 採用通知の文章は、どこまでも事務的だ。

 合格を告げる定型文。任用予定日。必要書類。健康診断の案内。


 そして、やはり途中で目が止まる一文がある。


 「本県における初の障がい者雇用教諭として採用する」


 文字はただのインクのはずなのに、そこだけ黒さが濃いように見えた。


 初。

 最初。

 他に同じ立場の人はいない。


 県庁のどこかで、この文言を入れるかどうか議論した人たちがいるのかもしれないと想像する。

 「誇らしいじゃないか」と言う人。

 「わざわざ書かなくても」と首をかしげる人。

 結局、紙の上では「お祝いの言葉」に見える形で採用された、その一文。


 それを読む自分の胸の内までは、きっと想像されていない。


 ノックもなく、コンコンと軽い音を立てて母がドアを開けた。


「入っていい?」


「うん」


 母はトレーに紅茶を二つ載せて入って来た。湯気の立つカップの香りが、張り詰めた空気を少しだけ和らげる。


「もう一回、ちゃんと読んだ?」


「うん。読んだよ」


「難しいこと、たくさん書いてある?」


「まあ、普通かな。手続きのこととか」


 なるべく軽く答える。

 本当は、普通ではない一文が胸に刺さったまま抜けない。


 母はカップをそっと置き、成美の隣の椅子に腰を下ろした。

 紅茶の表面に、自分の顔がゆらゆらと揺れて映っている。


「よかったね。本当に、よかった」


 その言葉に嘘はない。

 けれど、母の指先がカップの取っ手を握りしめる力が、ほんの少し強い。


「……うん。ありがとう」


 どう反応するのが正解か分からず、成美は合格通知を指先でなぞった。紙の端がひんやりと冷たい。


「前から言ってたじゃない。配慮してもらえる職場があれば、まだまだ働けるって。先生のお仕事なら、人の役にも立てるし」


「うん」


「県がちゃんと制度つくってくれたんだから、大丈夫よね」


 大丈夫。

 その言葉に、母自身が縋っているようにも聞こえた。


 成美は紅茶を一口飲み込んだ。あたたかさが喉を通り過ぎるのに、胃のあたりは相変わらずきゅっと固いままだ。


「あのさ」


 母が少し声を落とした。


「もし、しんどくなったらね。無理しないでいいから。採用決まったからって、命がけでしがみつくようなものじゃないから」


「そんな大げさな」


「大げさじゃないよ。成美は、頑張りすぎるから」


 それ以上は言葉にせず、母は視線を紅茶に落とした。

 さっきリビングで見せた笑顔とは、少し違う横顔だった。


 その表情を見てしまうと、胸の奥がきゅっと痛む。


 ──大丈夫だと、言ってあげなきゃ。


 そう思って、成美は小さく笑う。


「ちゃんと考えるよ。配慮ってどこまでしてもらえるのかとか、面接で話したこと、忘れられてないかとか。人事課の人にももう一回聞こうと思ってる」


「そうね。ちゃんと聞かないとね」


「だから、お母さんはそんなに心配しなくていいよ。私、今回はちゃんと、自分のこと隠さないで話したから」


 それは本当だ。


 初めての面接の日のことを、成美は思い返す。


 県庁の会議室。長机を挟んで三人の面接官が並んでいた。人事課の職員らしいスーツ姿の男性と、教育委員会の管理職風の女性、そして特別支援教育関係と紹介された男性。


「では、山本さん。ご自身のご病気や特性について、差し支えない範囲で教えていただけますか」


 穏やかな声だった。言葉の表面には、配慮の意志がちゃんと置かれているように思えた。


 けれど、その瞬間、喉の奥まで涼しい汗が流れたような気がした。

 ここでどこまで話していいのか。

 どこから先は、「採用をためらわせる材料」になるのか。


 迷いながらも、嘘をつくのが一番危ないと分かっていた。


「私は、ASDの診断を受けています」


 そう告げたとき、三人の視線が一斉にこちらに向いた。驚きというより、情報を受け止めようとする視線だった。


「感覚が少し過敏で、騒がしい場所や、いろんな音が一度に入ってくる環境が続くと、頭が真っ白になってしまうことがあります。それから……」


 成美は言葉を選びながら続けた。


 急な予定変更があると、パニックに近い状態になること。

 同時にいくつもの作業を指示されると、「どれからやればいいか」が分からなくなり、固まってしまうこと。

 でも、一つひとつ順番に伝えてもらえれば、きちんとこなせること。


 面接官たちはメモを取りながら頷いていた。

 少なくとも、その場であからさまな困惑は見せなかった。


「具体的には、どのような配慮があると働きやすいと考えていますか」


 女性の面接官がそう尋ねた。


「できるだけ、事前に情報を共有していただけると助かります。急な授業変更があるときは、その日の朝ではなく、分かる段階で教えてもらえると……頭の中で準備する時間がほしくて」


「なるほど」


「それから、職員室などで、どうしても音がつらいときに、一時的に静かな場所に移れるようなスペースがあれば……」


 そこまで言って、自分がわがままを言っているような気持ちになり、言葉が尻すぼみになる。


 沈黙が落ちるかと思ったが、特別支援の男性が口を開いた。


「分かりました。合理的配慮は当然のことですから」


 彼は柔らかく笑った。


「今のご希望が、すべてすぐに叶えられるかどうかは、正直に言えば分かりません。学校によって人員配置も、施設の状況も違いますから。ただ──」


 人事課の男性が言葉を引き取る。


「前例がない分、山本さんといっしょに形を作っていきたいと思っています。現場の先生方とも相談しながら、無理のない働き方を探していきましょう」


 「前例がない」という言葉は、そのときたしかに希望に聞こえた。

 自分の存在が、同じような特性を持つ誰かの道を拓くかもしれない。

 そう考えると、胸の奥が少しだけ熱くなった。


 ただ、その熱のすぐ隣に、言葉にできない不安も同居していた。


 ──本当に、そんなふうに“いっしょに”考えてくれる人たちが、現場にもいるのだろうか。


 その疑問は、面接が終わると同時に胸の奥底へ押し込められた。


 今は、とにかく「ここで決めたい」。

 それが何よりも強い願いだった。



 診断を受けた日のことも、まだ記憶に新しい。


 三十歳を過ぎた頃。

 数社目の職場を、体調不良で辞めた直後だった。


 朝起きられなくなり、布団から体が持ち上がらない。

 それでも無理に出勤してはミスをし、怒られ、帰宅してから泣きながら履歴書を書き直す。

 そんな繰り返しに、母が耐えかねたように言った。


「一回、ちゃんとお医者さんに相談してみよう」


 紹介状を手に訪れたクリニックの待合室は、静かだった。

 壁には優しい色のポスターや、子どもの絵が飾ってある。


 心理テストのようなチェックシートに丸をつけ、子どもの頃の様子を聞かれた。

 母が同席して、学校の連絡帳に「忘れ物が多い」「集団行動の切り替えが苦手」と書かれていたことや、運動会や発表会で音に圧倒されて泣き出していたことを話した。


 診察室で医師は、淡々と、それでいてどこか温かさのある声で言った。


「山本さんの場合、もともとの脳の特性としてASDの傾向が強いですね」


 診断名が口にされる瞬間、成美の心臓がドクンと跳ねた。


「これは病気というより、発達の仕方の違いです。治すものではなく、付き合い方を考えていくもの。得意なこと・苦手なことの凸凹が大きいイメージです」


 医師は図を描きながら説明してくれた。


「音や光に敏感なこと、急な変化が苦手なこと。今まで“自分だけ人より疲れやすい”“合わせられない”と感じてこられたでしょう。でも、それは怠けているわけでも、努力が足りないわけでもありません。特性です」


 その一言で、視界が少し滲んだ。

 涙を見られたくなくて、成美は俯いた。


 長年胸に貼り付いていた「できない自分への怒り」が、じわじわと溶けていく感覚があった。


「配慮があれば、十分に働いていける方もたくさんいます。ただ、山本さんの場合は、今まで“配慮のない環境”で無理を続けすぎて、心身ともに疲弊しています。まずは休息が必要ですね」


 その後、障害者手帳の取得を勧められ、役所で申請した。

 窓口の職員は淡々と書類を確認し、必要事項を説明する。


「こちらが手帳になります。有効期限は……」


 硬質なビニールカバーに入ったカードを受け取った瞬間、その重み以上のものが掌に乗ったように感じた。

 これで、正面から自分の特性を名乗っていい。

 その代わり、「普通」という言葉からは、少し離れていく。


 母は帰り道で、「これがあれば、ちゃんと配慮してもらえるところを探せるのね」と言った。

 その声には、心からの安堵と、言葉にできない切なさが入り混じっていた。



 そうして見つけたのが、障がい者雇用教諭の募集だった。


 就労支援センターの掲示板に、A4のチラシが貼られていた。

 「教員免許をお持ちの方へ」「配慮ある職場づくりを目指す新規事業」といった売り文句が並んでいる。


 大学時代に取得した中学校教諭免許は、ずっとペンケースの奥にしまい込んだままになっていた。

 教育実習は楽しかったが、体力への不安や、職員室の忙しさに圧倒されて、教職の道を選べなかった。


 けれど──。


 配慮という言葉が、チラシの中で何度も繰り返されていた。


「正直、教員って、ブラックって聞くし……」


 家でチラシを見つめながら呟くと、母は少し困った顔をした。


「たしかに、大変なお仕事よね。ニュースでもよく見るし。でも、県がこうやって制度をつくるってことは、本気で変えようとしてるのかもしれないでしょ?」


「かな」


「少なくとも、今までの職場みたいに、“配慮してくれって言い出しにくい”雰囲気ではないんじゃない?」


 母の言葉を、そのとき成美は信じたかった。


 誰かに「安心していい」と言ってほしかった。

 自分ひとりの判断で飛び込むには、あまりにも怖かったから。


 だから、願書を書いた。

 履歴書の「障害の有無」の欄に、初めて迷わず「有」と記入した。

 添付した自己PR文には、自分の特性と、それでも活かせると思う強みを書いた。


 丁寧に、何度も推敲して提出したその紙が、今、合格通知という形で戻ってきている。



「配属先は、まだ書いてないの?」


 母が通知を覗き込みながら尋ねる。


「ああ、ここには“詳細は後日通知する”って。人事課でオリエンテーションがあって、そのとき説明されるみたい」


「そう……。通える範囲だといいわね」


 通える範囲。

 当然の願いなのに、その「当然」が本当に守られる世界なのかどうか、成美には判断がつかない。


 県内には、海辺の街もあれば、山間部の小さな集落もある。

 どこに配属されるのか分からない。

 面接のとき、「通勤の負担も考慮していただけると助かります」と控えめに伝えたが、その言葉がどこまで届いているのかは、誰にも分からない。


「大丈夫だよ」


 自分に言い聞かせるように、成美は笑った。


「県庁の人たち、ちゃんと話聞いてくれたし。“いっしょに形を作りましょう”って言ってたし」


「そうね。そう言ってもらえたなら、きっと」


 母はそう言いながらも、合格通知から目を離さない。

 文字を追っているというより、そこに何か見落としがないか確かめているような、慎重な視線だった。


 心配性の母。

 昔から、成美が新しい環境に入るたびに、少し離れた場所からじっと様子を見ていた。

 応援したい気持ちと、「やめておいたほうがいいのでは」という直感と、そのどちらも抱えたまま。


 今、その視線がまた自分に向けられているのを感じる。


「お父さんにも、ちゃんと話しておくね。どんな特性があるかって」


「うん。でも、言いたくなかったら無理に言わなくても」


「もう隠すの疲れちゃったし」


 笑いながら言った言葉に、自分で少し驚く。

 本音だった。

 隠して働き続けた結果が、今までの短期離職の山だったのだから。


 時計を見ると、もうすぐ夕食の時間だ。

 リビングからは、父がテレビのリモコンをいじる音が聞こえてくる。


「行こうか。お祝い……になるのかな」


「するわよ。お祝い。ちゃんとね」


 母は立ち上がりながら、もう一度だけ成美の顔を見た。

 嬉しさと、不安と、祈りと。

 いろんな感情が混ざり合って揺れている目だった。


 その視線は、やがて何度も思い出すことになる。

 もっと強く引き止めてほしかったと、後になって思う日も来る。


 けれど今は、まだ知らない。


 この一枚の紙が、どこへ自分を連れて行くのか。

 その先にどんな風景が待っているのか。


 成美は合格通知をクリアファイルにしまい、机の端にきちんとそろえた。


 山間に沈みかけた夕日が、窓の外でゆっくりと色を変えている。

 明日も、明後日も、同じように日が昇って沈むのだろう。


 その当たり前のサイクルの中に、自分の新しい生活がすべり込んでいくのだと信じていた。


 数週間後、自分が配属先の地図を見て固まることになるとは、このときまだ想像もしていなかった。


 夕食の席には、久しぶりに穏やかな空気が流れていた。

 テーブル中央に置かれた唐揚げの皿から、父が箸を伸ばしながら言う。


「これで、いよいよ教員か。立派なもんだ」


「まだ、赴任してないけどね」


 成美が苦笑すると、父は「まあ、そうだけど」と照れたように笑った。


「山本家から先生が出るなんて、すごいことよ」


 母も明るく言ったが、どこか、その明るさが薄い紙をかぶせたように揺れていた。


「頑張りすぎなければいいけどね。昔の学校とは違うだろうし」


「今の学校は忙しいっていうもんなあ」


 父がテレビのニュースの話に続けようとしたとき、成美は唐揚げをひとつ口に運んだ。

 熱いはずなのに、味がよく分からない。

 心がどこか少し遠いところに浮かんでいるようだった。


 食卓では家族の会話が続いている。

 けれど成美の頭の中では、別の音が鳴っていた。


 “前例がない”

 “いっしょに形をつくる”

 “合理的配慮は当然しますから”


 その三つの言葉が、まるで淡いシャボン玉みたいに浮かんでは破れ、また形を変えて浮かび上がる。

 どの言葉もきれいに聞こえるのに、掴もうとするとするりと逃げる。


 自分は、どこまで期待していいのだろうか。

 どこから不安を抱えていいのだろうか。


 判断の軸が、ふわりと揺れている。



 食事を終え、風呂に入り、部屋へ戻ると、視界の隅に置いてあった採用通知が目に入った。

 さっき母に見せるために取り出したままだ。


 成美は机に向かい、改めて書類を広げた。


 採用通知書の下部には、翌週行われるオリエンテーションの時間と場所が記載されている。

 「業務説明」「任用手続き」「配属校発表」。


 その三つの項目のうち、「配属校発表」の字面だけが心臓に引っかかるようだった。


 配慮されるはずの通勤距離。

 静かな環境を求める特性。

 急な変更が苦手だという話もした。


 全部がきちんと考慮された上で、配属先が決まるのだろうか。

 それとも──。


 そのとき、不意にスマートフォンが震えた。

 大学時代の友人、美月からメッセージが届いている。


「採用おめでとう! すごいじゃん!」


 嬉しさがにじむ、明るい文面だった。


 成美は返信しようとスマホを手にしたまま、少しだけ迷った。


 本当は、誰かに聞いてほしかった。

 「期待していいの?」

 「不安が消えないのは、私だけ?」

 そう尋ねたら、美月なら親身に答えてくれるだろう。


 けれど、指は画面の上で止まってしまった。


 いざ文字を打とうとすると、胸の奥にある不安が形を持ちすぎてしまい、声に出すのが怖くなる。

 弱音を吐いた時点で、何かが折れてしまう気がした。


「ありがとう! 配属先がどこかまだわからないけど、がんばるね」


 当たり障りのない返事を送ると、画面を伏せた。


 弱さを隠す癖は、長い年月の間に深く根を張ってしまっている。

 「迷惑をかけたくない」という気持ちが、気付けばいつも先に立ってしまう。


 その癖が、この先どれほど自分を苦しめるか、今はまだ知らない。



 寝る準備をしてベッドに横たわると、天井の模様が淡くゆらいで見えた。

 静かな部屋。

 遠くで車が通る音。


 目を閉じると、面接官の笑顔が浮かび上がった。


「合理的配慮は当然しますから」


 本当に、そうなるだろうか。

 現場の忙しさを想像すると、申し訳なさのほうが先に立つ。


 「すみません、これは苦手で……」

 そう言う自分の姿を思い浮かべただけで、胸が痛んだ。


 特性を開示したのに、実際には配慮されなかったらどうなるのか。

 いや、配慮しようがないほど、現場がすでに逼迫していたら。

 誰かの負担を増やす立場になるのではないか。


 考えれば考えるほど、胸の奥に冷たい水が溜まっていく。


 でも──。


 希望がなかったわけではない。

 今日、合格通知を開いた瞬間、胸の奥でふっと明かりが灯った感覚があった。


 「自分にも、働ける場所がある」

 「新しい一歩を踏み出していい」

 そんな確かさが、一瞬だけ、心を温めてくれた。


 不安と期待が背中合わせにある。

 どちらが大きいのか測れないまま、成美はそっと布団を引き寄せた。


 これから始まる日々が、どんな形をしているのか。

 想像もつかないけれど、ひとつだけ自分に言い聞かせる。


「大丈夫。私だって、努力してきた。できるところまで、やってみよう」


 そう呟き、ゆっくりと目を閉じた。



 翌朝、郵便受けから新聞を取り出した母が、そっと成美の部屋を覗いた。


「おはよう。今日は一日ゆっくりしなさいね」


「うん。ありがとう」


 母は言いかけて、少しだけ口をつぐんだ。

 そして微笑んだが、その笑みの輪郭はかすかに曇っていた。


「本当に、よかったんだけどね……あんまり無理しないでね」


「大丈夫だよ」


 そう返しながら、成美は胸の奥に小さな痛みを覚えた。

 母の不安は、根拠のない心配ではなかった。

 直感の鋭い人だったからこそ、何かを感じ取っていたのかもしれない。


 ただ、その不安が現実になるまでに、あとどれくらい時間があるのだろう。


 合格通知を封筒に戻しながら、成美はそっと息を吐いた。


 新しい世界の扉は、もう開きかけている。

 そこが光なのか、闇なのかは、まだわからない。

 ただ一つ確かなのは、前例のない道を、自分が最初に歩くということ。


 窓の外には、春の陽射しがやさしく差し込んでいた。

 その光の向こう側に広がる未来に、成美はまだ希望を見ようとしていた。


 それが、地獄の入口だったことを知るのは、もう少し先の話だ。



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