雨宿りストーカー
朝からずっと雨がジトジト降り続く。気が滅入るような一日だった。
お気に入りのシュシュで髪を束ねてみても、気分転換にもならないほどだ。
お天気アプリによれば、そろそろ小降りになるはず。そのタイミングで、コンビニまで食べ物を買いに行ってこよう。
そう思って確認のため、カーテンを開けて窓の外を見てみると……。
「あら。まだまだみたいね」
相変わらず空は厚い雲に覆われて、降り落ちる雨も激しかった。
すぐに再びカーテンを閉じようとしたけれど、視界の端に違和感を覚えて、その手が止まる。
「……? あんなところで何やってるのかしら」
通りの反対側にある喫茶店。その入り口に、人影が見えたのだ。
背格好から判断すると、おそらく男性。カーキ色のパーカーを羽織って、白い帽子を被っている。野球帽と呼ばれるような、前だけが出っ張った形の帽子で、しかも目深に被っているものだから、ほとんど顔は隠れていた。
これが営業中のお店ならば何の不思議もないが、そこは一ヶ月前に閉店したところだ。現在は空きテナント状態で、まだ改装工事も行われておらず、外観は喫茶店のまま。
そんな入店できないお店の前で、ずっと立って待っているのは不自然ではないか……?
私は疑問に思ってしまうけれど、それも一瞬。その疑問に対する答えが、すぐに頭に浮かんできた。
「ああ、わかった! きっと雨宿りしてるのね!」
傘は持っていないようだし、パーカー程度ではレインコートの代わりにならず、すぐに濡れてしまうだろう。
なるほど雨宿りならば、民家や営業中のお店の前では迷惑かもしれず、少し心苦しい。それよりも潰れてしまった喫茶店の軒下の方が、気兼ねなく雨宿り出来る。
あの野球帽の男は、そう考えたに違いない。私は勝手に納得して、再びカーテンを閉めたのだが……。
ちょうどそのタイミングで、彼がこちらを向いたように見えた。ただし相変わらず帽子で隠れていたため、私と目が合ったのかどうかまでは、私にはわからなかった。
――――――――――――
今はそういうシーズンなのだろう。翌日も雨の一日だった。
ふと窓の外を見れば、今日も廃店舗の軒下で、野球帽の男が雨宿りしている。帽子だけでなくカーキ色のパーカーまで同じであり、昨日の男と同一人物なのは間違いなかった。
ただ一点、昨日と異なるのは、彼の顔の向き。ずっとこちらを、私の部屋の方を向いているように見えたのだ。
「あら、やだ。なんだか気持ち悪いわ。それに……」
白い野球帽とカーキ色のパーカー。その組み合わせに、強烈な既視感を覚える。
深い馴染みがあるような、でも思い出してはいけないような、だから記憶に蓋をしているような……。
そこまで考えが至った瞬間、その「記憶に蓋」が開いてしまう。
「……ああ、わかった! あれって、タカシくんの格好だわ!」
タカシくんというのは、高橋タカシ。高校時代に私が付き合っていた彼氏だ。
ちょっと不良に片足突っ込む感じもあったけれど、その粗暴さが当時の私には「男らしい!」と魅力的に見えていた。
高校卒業後、彼は就職。私が女子大生として一人暮らしを始めると、私の部屋に入り浸るようになった。
そんな生活の中、趣味や価値観の違いなどが浮き彫りになっていく。それまでは気にならないどころか、むしろギャップを楽しめていた「違い」が、鼻につくような不快感へと変わっていったのだ。
そして、ちょうど昨日や今日みたいな雨の日。
私の不満が爆発した。最後の引き金になったのは確か、彼が雨で濡れたまま部屋に入ってきたことだと思う。
しかし、すっかり冷めていた私とは異なり、まだ彼は気持ちが残っていたらしい。別れるのを拒絶した挙句、台所から包丁を持ち出して……。
私の部屋で暴れ回る彼。
慌てて110番したけれど、警察は間に合わなかった。
いや、こうして私は今でも生きているのだから、たとえ大怪我はしても「間に合った」と感謝するべきか。
いずれにせよ、最後に覚えているのは、滅多刺しにされる光景。
その場面を最後に、私は意識を失ってしまう。
――――――――――――
次に気づいた時は、病院のベッドの上だった。
私は上半身を起こした格好で、部屋の隅では、母が看護師らしき病院スタッフと何やら話をしていた。
そちらに向かって「ここは病室? 私、助かったの?」と声をかけると、母は驚いた顔で振り返った。
「涼子! お前、正気に返ったのかい!?」
ポイントは、母の言葉が「意識を取り戻した」ではなく「正気に返った」だったこと。
なんと、この時点であの事件から既に8年が経過。しかも、私は8年間ずっと意識不明だったわけではなく、事件の数日後には目が覚めていたという。
ただし、意識はハッキリしているものの、意味不明な言葉を吐き出すだけで会話は成り立たない。いわゆる心神喪失の状態に陥っていたらしい。
しかし「意識はハッキリしていた」と言われても、私にその記憶はなかった。心神喪失から回復したというよりも、8年間の記憶喪失みたいな感覚だ。
「記憶喪失……。まあ、そうだね。でも色々と大変だったことだし、無理に思い出す必要はないだろう?」
と、周囲は優しく対応してくれた。
両親の説明によると、事件直後は何度も警察の方々が訪ねてきたらしい。私から証言を聞き出そうとしたが、その試みは無駄に終わった。
それでも十分な状況証拠は揃っていたようで……。
「もう安心していいよ、涼子。お前を刺したあの男は、きちんと逮捕されて、今は刑務所の中だからね」
「ああ、二度と涼子の前に顔を出すことはない。その点は大丈夫だ」
二人とも、そう言って私を慰めてくれた。
母の「もう安心していい」という言葉や、父の「大丈夫」発言とは裏腹に、どちらの表情にも悲壮感が漂っているように見えてしまう。
それは少し気になったものの、事実としては二人の言葉通り、確かに彼はその後二度と私の前に現れなかった。私の頭からも徐々に彼のことは消えていき、それから3年が経過した現在、もう完全に忘れていたのだが……。
――――――――――――
「あのタカシくんと同じ格好だなんて……。なんだか嫌な偶然ね」
独り言と同時に、私はブルッと体を震わせる。
いや、これは「嫌な偶然」と決めつけて、自分を安心させたいだけかもしれない。
考えてみれば、同じ人物が二日続けて同じ場所で雨宿りしているだけでも不自然ではないか。そもそも雨が降って当然の時期なのに、なぜ雨具なしで外出を続けているのか。
何よりも場所が場所だ。私の部屋の真ん前であり、特に今日なんて、こちらを見張っているように見えるのだから……。
「あれって『タカシくんの格好』どころか、タカシくん本人? もう出所してきて、ストーカー化したのかも!?」
恐ろしい考えに至った私は、スマホを取り出す。
指先は微妙に震えて、思いのほか時間がかかったけれど、それでも110番に電話することは出来た。
「もしもし、警察ですか? 助けてください! うちの前に不審な男が……。おそらくストーカーが立っています! 11年前に私を刺して、逮捕された男です!」
――――――――――――
警察が来てくれるまで、体感時間としては長かったけれど、実際には十数分。
その時には既に、野球帽の男は姿を消していた。
「では、あそこの店の前に立っていたのですね?」
「はい、間違いありません。昨日と今日、二日連続です」
カーテンを開けて、窓の外を指し示しながら説明する。
私の言葉に対して頷いたのは、二人組の制服警官のうち年上の方。続いて彼は、若い方に指示を出していた。
「よし、お前は聞き込みに行ってこい」
「了解です、部長! 家の窓からその男を見かけた近隣住民、他にもいるかもしれない……ってことですよね?」
若い警官がいなくなると、残った一人は穏やかな笑みを浮かべて、改めて私に向き直る。
「では、詳しい話を聞かせてください。通報では『11年前に私を刺して』と言っていたようですが……?」
「はい、11年前は包丁で……。ちょうど雨の日で……」
こういう場合、理路整然と説明するのは難しいものだ。自分でも「これでは伝わらない」と思いながらも、どう話すべきなのか、よくわからなかった。
「まあまあ、落ち着いてください。とりあえず深呼吸して……」
と、相手の警官からも言われてしまう。
「……それから、最初から順序立てて話しましょうか? そうですね、まずは、その男の名前を教えてください。
「はい、すいません。彼は高橋タカシといって、私の高校時代の知り合いで……」
――――――――――――
年長者の言葉に促されて、私も少しは気分が楽になり……。
ある程度まで話が進んだところで、若い警官が戻ってくる。
「部長、ちょっといいですか? どうも様子が……」
私から離れて、二人でコソコソと言葉を交わす。
小声ではあったものの、それでも「目撃証言が合わなくて」とか「そんな男は立っていなかったという話も」みたいな言葉は聞こえてしまう。
警官たちの表情が険しくなる中。
ちょうど警察本部から連絡が入ったらしい。
年長者の方が、制服の肩に付いていた無線のマイクみたいな器具を手に取り、無線の向こう側と話し始めた。
どうやら11年前の事件の記録について、確認しているようだ。
それならば、むしろ私の拙い説明よりも、公式記録の方が細部まで確実なはず。そう思って、私がホッと安心したのも束の間。
一人が私の方に戻ってきて、思い詰めたような顔で告げる。
「本部にも問い合わせましたが……。あなたの言っている高橋タカシという方は、既に亡くなっていますね。11年前、痴話喧嘩の末に刃傷沙汰を起こして、でも返り討ちにあって。ですから……」
警官の言葉が遠くなり、その先は耳に入ってこなかった。
聞こえていた部分だけが、私の頭の中で反芻される。
特に「返り討ち」という言葉だ。それが意味するところは……。
突然、当時の滅多刺しの光景が、改めて脳裏に蘇る。
ああ、そうだ。あの光景には、妙に引っかかる点があった。
私自身の全身像は本来、私には見えないはず。滅多刺しにされる姿なんて、刺された当人が目に焼き付けるのは無理なはずだった。
にもかかわらず、映像としてそれを私は覚えている。刃物が体に突き刺さる瞬間の、一つ一つまで鮮明に覚えている。だからあの時、何度も何度も刺されていたのは……。
(「雨宿りストーカー」完)




