風の帰る場所【後編】
春の風が、村の小さな学校に新しい季節の匂いを運んでくる。校庭の隅では白い花が咲き始め、まだ肌寒い空気の中で、子どもたちの笑い声がかすかに木々を揺らしていた。
古びた校舎は相変わらずだが、壁には新しく塗り直された箇所があり、机や椅子もどこか整えられている。午前の授業が始まる時刻。朝陽は斜めから教室の窓を通って差し込み、埃が柔らかな光の帯となって空中に浮かんでいた。
教壇の前に立つ一人の若い女性――リルムはまだ背の低い体をまっすぐに保ち、緊張を隠すように深く息をついた。彼女の黒髪は肩でそろえられ、制服ではなく質素な青いワンピースに身を包んでいる。手には革表紙の教科書を持っていた。
窓の外では、かつての自分が走り回っていた頃と変わらない風景が広がっている。畑の向こうには相変わらず穏やかな山の稜線があり、鶏の鳴き声と、風に揺れる麦の葉のざわめきが教室にまで届いていた。
教壇の上から子どもたちを見渡したリルムの瞳が、少しだけ和らぐ。その目の奥には、五年前のある人物の影が、淡く映っていた。
――カイ先生。
あなたが教えてくれたように、今、わたしも誰かの心に何かを灯せるだろうか。
リルムは小さく、しかし確かな声で最初の言葉を発した。教室が静まり返り、子どもたちの目が彼女に向けられる。
外では、春風が新しい葉をそっと揺らしていた。
診療所の扉が、ゆっくりと閉まる。木の蝶番がぎしりと鳴り、小さな鈴が控えめに音を立てた。
「じゃあ、また来週ね」
イリナは笑みを浮かべて手を振る。玄関先で背を丸めた老婦人が軽く会釈を返し、よろよろと歩いていく。その背中を見届けてから、イリナはようやくため息をついた。
夕陽が傾きかけた村に、風が吹いていた。麦畑が金色に染まり、木々がさざ波のように揺れている。診療所の庭では、小さな子どもたちの笑い声が通り過ぎていき、飼い犬が一声だけ遠くで吠えた。
イリナは白衣を脱ぎながら、窓際の椅子に腰を下ろす。村でたった一人の医師となって、もう五年が経った。
――あの日、カイが村を発ってから。それからの月日は、ゆっくりと、確かに積み重なっていった。
戦況の知らせは断片的にしか届かず、カイの名を見つけることも、見つけられないことも慣れてしまった。けれど、日常は流れる。子どもは育ち、年寄りは歩みをゆるめ、季節は変わっていく。
窓の外では、リルムが教科書を抱えて通りを歩いていく姿が見えた。笑い声を交わす子どもたちの中に、かつての自分や、カイの教え子たちの影がかすかに重なる。
――平和は、続いている。それは決して当たり前のものではないと、イリナは誰よりも知っていた。
静かに立ち上がり、診療所の戸締まりを始める。空は橙色に染まり、夕焼けが村を柔らかく包んでいた。今日もまた、何事もなかった。それが、何よりの贈り物のように思えた。
村長の家は、相変わらず古びた石造りの家屋だった。広くはないが、応接に使われている部屋には手入れの行き届いた調度が並び、薪の香りと古い紙の匂いが微かに漂っていた。
その一角に、男たちが静かに腰を下ろしている。村の幹部たちだった。議会に出ることもなく、外の喧騒からも離れて、今はただ、机の上に置かれた一通の封書を囲んでいた。
蝋が割られた封には、王国の紋章が刻まれている。緊張が部屋を満たしていた。誰も言葉を発しないまま、村長が手袋を外し、丁寧にその封を開ける。
羊皮紙の文面を黙読する彼の額に、深い皺が刻まれていく。読み終えたあと、ゆっくりと手を下ろした。
「……終わった」
誰かが息を呑む音が聞こえた。
「戦争は、終結したと記されている。国は多大な損失を受けながらも、侵略軍を食い止めたそうだ。……この村には、これ以上の召集は来ない」
小さな安堵が部屋の隅をかすめた。しかし、すぐに別の重苦しさがその空気を押し戻す。
「……それで、うちから行った若者たちは?」
誰かが口を開く。けれど、村長は首を振った。
「……記載はない。生存者の一覧も、帰還予定の通知も、ない」
静けさが戻った。風が窓の外で木々を揺らしている。遠く、村の広場では祭りの名残のような子どもたちの声がかすかに響いていた。
村長は手にした羊皮紙を、折り目を正して丁寧に畳む。その仕草に、祈るような思いと、諦めきれない気持ちが滲んでいた。
「……知らせがないというのは、何も終わっていないということだ」
誰も、言い返すことはできなかった。あの日、夜の闇に送り出したあの背中が、今も村のどこかに刻まれている。そんな気がした。
午後の陽がやや傾き始めた頃、村長は執務机を離れ、窓辺に立っていた。磨かれた木枠の窓からは、村の診療所が見える。かつて学び舎だった建物の一角を改装して使われているその場所には、今や村の命が静かに息づいていた。
診療所の扉が軽く開き、一人の若い女性が入っていく。栗色の髪を緩く束ねた、明るい印象の女性。村長はすぐにそれがカレンだと気づいた。彼女の実家は村の薬屋を代々営んでおり、診療所への出入りは日常のことだった。
ガラス越しに、カレンが診察室の扉を軽くノックして中へ入る姿が見えた。
診療室の中では、イリナがカルテを閉じて椅子から立ち上がっていた。
「あ、カレン。おつかれさま。今日は納品?」
「ううん。今日は報告しに来ただけ」
カレンはにっこりと笑いながら、肩から提げた籐のかごを下ろす。そこには乾燥させたハーブや包み紙にくるまれた薬草が無造作に詰められていたが、どうやらそれは口実だったらしい。
「報告……?」
イリナが怪訝そうに首をかしげると、カレンは少し恥ずかしそうに頬を染めながら、指先で髪をくるりと巻いた。
「ね、びっくりしないでよ。……リオネルに、プロポーズされたの」
「……!」
「で、返事しちゃった。承諾。ふふっ」
一瞬驚いた表情を見せたイリナだったが、すぐに顔を綻ばせた。カレンは照れ笑いを浮かべたまま、診察台の端に腰かける。
「だからこれから、ティリアのところにも報告に行こうと思ってる。あの子、こういう話好きでしょ」
イリナは軽く笑って頷いた。
「うん……絶対、泣くと思う」
「うん。泣かせてくる」
二人の声は小さく、外までは届かない。だが、窓の外から眺める村長の表情はどこか和らいでいた。終戦の報を受け取った今でも、村に生まれるささやかな未来の兆しに、救われるような思いが胸に広がっていた。
昼を少し過ぎた頃、食堂には一段落した心地よい喧騒が残っていた。
陽の光が白く反射する窓から差し込んで、木のテーブルを柔らかく照らしている。天井に吊られた扇風機が、ゆっくりと羽を回し、厨房からは香ばしい出汁の匂いがふわりと漂ってくる。
「はい、お待たせっ! お会計はあっちでお願いしまーす!」
カウンターの内と外を何度も行き来するティリアは、今日も明るく、誰よりも元気に働いていた。腰まで伸びる髪はきゅっとまとめられ、白いエプロンの裾をひらりと揺らしながら、小さな体で店中を飛び回る。声には張りがあり、笑顔には遠慮がない。客たちはその様子に、自然と笑顔を浮かべて会話を続けている。
「ティリア、器返すよー」
「ありがと、また来てね!」
大人たちも、子どもたちも、村の誰もがこの店と、ティリアの笑顔をよく知っていた。忙しないはずの店の中で、彼女だけが自然体で、それでいて誰よりも頼もしかった。
「まったく、あの子はよく動くわね……」
入口からその様子を眺めていたカレンが、思わず漏らす。隣ではイリナがくすりと笑ってうなずいた。
「ほんとにね。昔は少し心配してたけど……今はもう、大丈夫みたい」
二人はそっと店に足を踏み入れた。客足がやや落ち着いたこともあり、ティリアの母が目ざとく二人の姿に気づいて手を振った。
「あら、イリナちゃんにカレンちゃん。ちょうどよかった、ティリア、もう休憩にしなさい!」
「えっ、でもあと片付けが――」
「いいの、いいの。さっきからずっと動きっぱなしだったでしょう。ほら、行ってらっしゃい」
背中をぽんと押されて、ティリアは困ったように笑いながら、エプロンの前で手を拭いた。そして少しはにかんだ様子で、イリナとカレンのいる席へと歩み寄る。
「……ふたりとも、わざわざ来てくれたの?」
「そりゃあね。たまには息抜きも必要でしょ」
カレンがそう言って席を詰め、ティリアを座らせた。
窓の外では、小さな風車がくるくると風に踊っている。通りを歩く人の笑い声、厨房で食器を洗う水音、どれもが穏やかな午後をかたちづくっていた。
ティリアはふうっと小さく息を吐き、ようやく落ち着いたように背もたれに身を預けた。そこにカレンがぽつりと伝える。
「リオネルから、プロポーズされて。……受けることにしたわ」
一瞬の静寂。
「…………」
「…………え?」
ティリアの目が、ぱちぱちと瞬く。まるで理解が追いつかないように目を丸くし、それから、「うわあぅぇぇぇぇん! お姉ちゃんが! お姉ちゃんがぁぁぁ! ついにお嫁にぃぃぃっ!!」絶叫と共に、テーブルに顔を突っ伏して号泣し始めた。その肩は感動の波に揺れ、まるで洗濯機の中のタオルのようにぐるんぐるんと上下に揺れている。
「……あんたのお姉ちゃんじゃないからね!?」
カレンが額を押さえて半眼になるが、ティリアには届かない。
「小さいころから一緒にいてぇぇぇぇ! どんな話も全部してくれてぇぇぇ!」
「それは事実だけども!」
「いつか誰かに奪われると思ってたけどぉぉぉ! ついにこの日がぁぁぁっ!」
「誰も奪ってないし、リオネルは押し切られた側だし!!」
カレンのツッコミもむなしく、店内にいた常連客たちがざわめき始めた。
その様子を見て、ティリアの両親が奥からひょっこり現れた。
「まあまあ……それはめでたい!」
「そうよ、カレンちゃん、おめでとう!」
娘のことのように目尻を下げ、両親も満面の笑みで祝福する。
やがて、その空気は店内にじわじわと伝播していった。常連客の老人たちは手を叩き、隣の席の母子がほほえましく笑い、いつしか全員で「おめでとう!」の大合唱となる。
――しかし。
「……マジかよ……あいつ……」
入口近くのテーブルに陣取った村の若い男たちは、呆然と天井を仰いでいた。笑顔と祝福に包まれる店内の空気の中で、彼らのまわりだけが真冬の吹きさらしのように冷えきっている。
「地味で、無口で、特に取り柄もないのに……なんでリオネルなんだよ……」
「おまけに眉毛も薄いし、趣味が畑仕事だぞ。そんなやつが、よりによってカレンさんを……!」
「あいつ、昔なんて呼ばれてたか覚えてるか? “物置小屋の精霊”だぞ……! 存在感ゼロって意味で!」
「俺なんか去年、カレンさんの畑仕事手伝ったぞ!? スコップで穴掘ってたのに、穴掘られたの俺の心のほうだったってか!? ははっ……」
震える手で水を口に運んだ男の隣では、別の男がぼそりと呟いた。
「……どうせ夜道で足滑らせて、崖から落ちてくれねぇかな……」
「やめろって、そういうこと言うなよ。……もっとだ。もっとこう……国から召喚状が届いて、異世界で働くことになって、帰ってこられないとか……」
「いや、もういっそ“カレンの実家の犬と入れ替わった”って話でも納得するレベルだわ……!」
それぞれが言葉のナイフを手に、見えないリオネルという的に向かって突き刺し続けていた。ティリアの泣き声と客たちの拍手喝采が響く中、彼らだけが、祝福の裏で地を這うような嘆きと呪詛の宴を続けていた。
じりじりと照りつける陽射しの下、リオネルはいつも通り畑の畝を丁寧にならしていた。土の匂い、乾いた風、小さく聞こえる虫の声。いつもと変わらぬ平和な午後のひととき――の、はずだった。
「……っ!」
突然、背筋を電気が走ったような感覚に襲われた。
反射的に鍬を止め、身をこわばらせる。
まるで、誰かにじっと見られているような、あるいは…見知らぬ何かに呪われているような……。
リオネルはゆっくりと顔を上げ、畑の周囲をキョロキョロと見回した。が、畦道にも、小道にも、誰一人としていない。どこかの草むらから「ミーンミーン」とセミの声だけがのんびり響いている。
「……風邪、かな」
自分にそう言い聞かせながらも、背中にはうっすらと汗。だがそれは熱のせいではなく、**祝福と呪詛と嫉妬と怨念が混じった見えざる“食堂の渦”**が、遠く離れたこの畑まで届いていたせいだった――などと、リオネルが知る由もない。
「……今日は早めに切り上げようかな」
鍬を土に立てかけると、手ぬぐいで額をぬぐいながら、作業道具を片づけ始める。空は晴れているのに、どこかひんやりとした風が吹き抜け、リオネルの肩をそっと撫でていった。
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濃緑の木々を縫うように、獣道を踏みしめる足音が響く。背負った皮袋には、朝から仕留めた獲物がずっしりと詰まっていた。鹿に兎、野鳥に、それから――ちょっとした山の恵み。狩人アシュリオにかかれば、森も畑も同然だった。
太い腕から汗が滴り落ちる。無精髭の下の口元は険しいが、どこか晴れやかだった。狩りの手応えも、収穫の手応えも、今日のそれは申し分ない。
「よし。今日の夕飯は……村ごと抱えても余るな」
満足げに鼻を鳴らしながら、腰に下げた獲物袋を軽く叩いた。だが、その歩みがふと緩む。
高台から見下ろすように、遠く村の屋根が見える。畑が広がり、川が流れ、そして――あの診療所の白い建物がぽつりと目に入った。
そこに、彼女はいる。
イリナ。
俺にはきつく、冷たく、無愛想なのに、なぜだか夢に出てくるときだけは、あの瞳が優しく笑っていた。何度振られても、何度無視されても、諦めることなんざ一度も考えたことはない。けれど、彼女の胸にある「誰か」がもうこの世にいないことだけは、薄々感じていた。
「……今年こそ、一緒に祭り、回れたら……」
そんな自分の呟きに、アシュリオは思わず照れたように鼻をこすった。誰にも見られていないはずなのに、なぜか不意に恥ずかしさがこみ上げる。
風が吹いた。木々がざわめき、鳥が一羽、枝から飛び立った。アシュリオは深く息を吸い込み、獣のような重たい足取りでまた歩き出す。
肩の荷は重くとも、心の奥にある想いはただ一つ。粗野な男の、まっすぐでぶっきらぼうな、でも誰よりも誠実な恋心は、今日もまた静かに村へ向かっていた。
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教室の中は、鉛筆が紙を滑る微かな音だけが満ちていた。 古びた窓から差し込む陽光が、木製の机の上に柔らかい影を落としている。試験中の子どもたちは、緊張と集中の狭間でそれぞれの問いに向き合っていた。
教壇の前で立ち尽くすリルムは、静かに深呼吸をした。視線を一人ひとりに移していくたびに、胸の奥に小さな痛みが広がる。どの子も一生懸命だった。額に汗を浮かべる子、唇をかみしめながら文字を書く子。だが、その頑張りが必ずしも結果に結びつかないことを、リルムは知っている。
その中の一人――何度も注意を払ってきた子の姿が、彼女の視線をとらえた。
鉛筆を持つ手は、止まることなく答案用紙を埋めている。けれどその動きは、正確な理解に基づくものではなかった。解こうという気持ちは伝わってくる。だが、そこに見えるのは、正解への確信ではなく、「とにかく書いてみるしかない」という焦りに近いものだった。
時おり表情がわずかに曇る。眉間に皺を寄せ、ちらりと隣の子の筆の動きを見そうになる瞬間があったが、ぐっと我慢してまた自分の答案に向かい直す。その健気さが、かえってリルムの胸を締めつけた。
静かな教室の空気の中で、リルムの心は波立っていた。教えることの意味を、自分に問いかけながら。
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診療所の扉を開けると、ほのかに乾いた薬草と消毒液の匂いが鼻をかすめた。外の陽射しがまだまぶしい昼下がり。村を歩く風が、白いカーテンを静かに揺らしていた。
イリナはティリアの食堂での昼食を終え、午後の準備のためにひと足先に診療所へ戻っていた。白を基調とした淡いブルーの上衣を身にまとい、髪は仕事用にすっきりと結い直されている。あの華やかな祭りの日とはまた違う、実直で清潔感のある姿だったが、それでも彼女の凛とした美しさは隠しきれなかった。
棚には整然と並んだ薬瓶、簡素な木の机の上には聴診器と検査用の器具が揃えられていた。イリナはカルテに目を通しながら、必要な器具をひとつひとつ専用の鞄に収めていく。スチールの器具が触れ合うたびに、小さな金属音が診療所に響いた。
外からは、通りを歩く誰かの笑い声と、遠くで飛び跳ねる子どもたちの声がかすかに届く。
彼女はそれに一度だけ顔を上げ、そっと目を細めた。午後からは、あの子たちの健康を確かめに行く――
机の隅には、折れかけた鉛筆が無造作に置かれていた。おそらく先日、子どもの手当てに来たときに誰かが忘れていったものだろう。イリナはそれを手に取り、ふっと小さく笑った。
鞄の留め具をしっかりと閉じ、立ち上がる。外の空は澄み渡り、午後の訪問にはうってつけの気候だった。
午後の陽射しは柔らかく、村の石畳を金色に染めていた。イリナは診療所を出て、小さな鞄を肩にかけながら、学校への道をゆっくりと歩き出す。風が頬を撫で、裾をさらりと揺らした。春の匂いが、どこか懐かしく鼻腔をくすぐる。
この道を歩くのは、何度目になるだろう。だが、ひときわ記憶に濃く残っているのは――あの、5年前のことだった。
道の端で咲いていた花に気づいて足を止めたカイの姿。何か言いたげな顔で、それでも何も言わなかった自分。遠くで鳥が鳴いていた。風が、髪をふわりと持ち上げていた。
そのとき感じた胸のざわめきは、今でもはっきりと思い出せた。
イリナは立ち止まり、小道の脇に目をやった。あの日と同じ花が、今年も変わらず咲いている。白く、小さく、目立たない花。けれど、それは確かにそこにあった。カイが「きれいだな」とつぶやいたのを、今も覚えている。
彼が傍にいた日常――
もう戻ってこないと思っていたのに。ふと、胸の奥が熱くなる。けれどその感情の名を、イリナは口にしなかった。
足元の土はやわらかく、春の雨を吸っていた。再び歩き出す。目の前には、変わらぬ木造の校舎が、小さく見え始めていた。
午後の教室には、穏やかな陽が斜めに差し込んでいた。窓の外からは、子どもたちの笑い声が風にのって届いてくる。跳ね回る足音や、鬼ごっこの掛け声が、遠く近くに響いていた。
リルムは一人、教卓の上で答案用紙の束と向き合っていた。木の机の上に並べた赤鉛筆とルーズリーフ。椅子の軋む音が、静けさの中でやけに大きく感じられる。ページをめくるたびに、紙の擦れる音が乾いた空気をかすかに揺らす。
窓の外では、風に揺れる枝の葉がさやさやと音を立てていた。教室の中も、わずかにその風が抜けていく。カーテンがふわりと膨らみ、陽射しの輪郭をぼやかす。季節は春の終わり、夏の始まりを思わせる匂いを含んでいた。
リルムは静かに息をついた。答案を一枚、また一枚と捲りながら、慎重に丸をつけていく。数字のずれ、計算の飛ばし、惜しいミス――思わず唇を引き結び、目を細める。
最後の一枚。彼女はその紙に、他のよりも少し長く視線を落とした。書かれた字は少し曲がっていて、ところどころ薄れていた。数字の桁も、やや不揃いだ。だが、それでも――その筆跡には、あきらめずに最後まで解こうとした跡が確かに刻まれていた。
リルムは赤鉛筆を持ったまま、しばし手を止めた。静かな教室に、ふいに「コン、コン」と柔らかな音が響いた。
扉が、丁寧にノックされたのだった。
リルムはゆっくりと顔を上げた。教室の空気が、ほんのわずかに揺れたように感じられた。
外ではまだ、子供たちの笑い声が弾んでいた。
教室の扉がそっと開き、木枠の影にふわりと白衣の裾が揺れた。午後の陽が傾きかけ、窓から差し込む光の中に立つイリナの姿は、いつもより柔らかく見えた。肩口できゅっとまとめた髪の隙間からのぞく耳元には、風にそよぐ髪がやさしく触れている。
教卓ではリルムが、答案用紙に視線を落としたまま、ぴくりとも動かない。その表情に気づいたイリナが、くすっと笑う。
「そんな顔して……珍しく全問正解でもしてた?」
リルムは、目だけでイリナをちらりと見ると、小さく首を振った。「まさか。でも……」
イリナは教卓のそばまで歩くと、軽く身をかがめた。
「健康診断、これからね。元気に遊んでたから、たぶん大丈夫だとは思うけど」
「ありがとう、お願いします。えっと……終わったら、声かけてもらえますか?」
「もちろん。外で捕まえるわ、ちびっこたち」
そう言ってイリナは軽く手を振り、教室を出ていった。彼女の足音が遠ざかると、リルムはふたたび答案用紙に目を戻した。
ページの端に並ぶ、たどたどしい字。擦れた筆跡に指をなぞるようにして、もう一度読み込む。確かに、そこには正しい答えが書かれていた。不恰好な文字。だが、それは確かに“理解”にたどり着いた子どもの記録だった。
リルムは小さく息を飲んだ。それは、今日いちばん嬉しい驚きだった。
村の小さな学校の庭先に、涼やかな風が吹いていた。
診療用の折りたたみ机の上に聴診器と体温計が並び、イリナは一人ずつ子供たちの体を丁寧に診ていた。風に揺れる木の葉と、子供たちの笑い声が重なって、穏やかな午後の空気に包まれている。
次にやってきたのは、少し小柄な男の子だった。イリナがしゃがんで目線を合わせると、彼は胸を張って座り、袖をまくって腕を差し出した。
「調子はどう?」
イリナが微笑むと、男の子は目をきらきらさせて答えた。
「すっごく元気! 今日ね、テストだったんだよ」
「そうなんだ、頑張ったんだね」
男の子はうんうんと勢いよく頷いた。
「いつもはぜんぜんわかんないんだけど、今日は大丈夫だったんだ。優しいお兄ちゃんが、昨日いっぱい教えてくれたから!」
「優しいお兄ちゃん?」とイリナが首をかしげると、男の子はにこにこしながら言った。
「今日テストがあるってリルム先生が言ってたから、昨日広場で頑張って勉強したんだ!そしたら、お兄ちゃんが偉いねって言ってくれて、それで――なんか、すごく優しくて、静かで……頭いい人だったんだよ。ぼくのノート、ずっと見てくれてた」
イリナは聴診器を当てる手を一瞬だけ止めた。視線の奥が、風に揺れる木漏れ日を一瞬だけ追いかけた。
「へえ……それは、よかったわね」
男の子はうん、と頷きながら、すぐに立ち上がって走り去っていった。イリナはその背中を見送りながら、ふと、胸の奥に温かいざわめきを感じていた。
午後の陽が傾きかけた教室は、少し肌寒くなり始めた秋の気配を感じさせていた。窓から差し込む陽光が木の机を柔らかく照らし、紙の上に影を落としている。
イリナが戻ると、リルムは一人、教師用机に向かい筆を走らせていた。髪を耳にかけ、真剣な顔つきで、丁寧に文字を綴っている。
「リルム?」
声をかけると、リルムは驚いたように振り返った。
「あ……すみません、ちょっと手紙を書いていて」
机の上には、生徒の名前が書かれた答案用紙と、便箋が広げられていた。
「いつも勉強が苦手だった子が――試験、満点だったんです」
イリナの目がわずかに見開かれる。
「ほんとうに?」
「はい。見直しましたけど、間違いはありませんでした。いつもは、途中であきらめちゃうのに。今日は、全部やりきって、しかも正解してたんです」
声に混じるのは、教師としての驚きと、何よりも喜びだった。
「それで、ご両親に知らせたくて……ちょっと時間がかかってしまいましたけど、ちゃんと手紙にして渡そうと思って」
イリナは微笑みながら、そっと椅子に腰を下ろす。
「昨日、優しいお兄ちゃんが教えてくれたって言ってた子がいたわ。いつもいないのに、急に現れて、ノートを見てくれたって」
リルムの手が止まった。ペン先が紙の上に揺れたまま、彼女はゆっくり顔を上げた。
「……誰かが……教えてくれたんですね?」
イリナは目を伏せて、そっと微笑んだ。
「ええ。きっと、誰かが」
教室には、あたたかな沈黙が流れた。遠くで子供たちの笑い声が聞こえ、風がカーテンを揺らしている。
今、この村に教師はリルムひとり。それでも――誰かが、また教室に戻ってきたのかもしれない。
胸の奥が、どくんと音を立てる。イリナは立ち上がり、教室の窓の外に目を向けた。
どこかで、彼がこの風景を見ている気がしてならなかった。もう一度、あの背中に、あの優しい声に、会えるかもしれない――。
小さな予感が、確かな希望へと形を取り始めていた。
学校の門をくぐると、イリナは振り返ることなく歩き出した。夕刻に差しかかる村の道には、柔らかな金色の光が注いでいる。子どもたちの声が遠くに響き、畑を抜ける風が麦の穂を揺らしていた。
足早に、だが確かな歩幅で進んでいく先は、かつての教え子たちの、そして彼女自身の、大切な記憶が眠る場所――カイの家だった。
少年が言っていた。優しいお兄ちゃんが、わからないところを全部教えてくれた、と。それが誰か、わからないはずがない。教えることにかけて、あれほど優しく、粘り強い人を、他に知らない。
戻ってきている。きっとそうだ。なのに、なぜ声をかけない。なぜ黙っている。待っていた。ずっと。たくさんの季節が巡っても、あの日の背中を忘れたことは一度もなかったのに。
伝えたいことがあった。あの日の涙も、あの約束も、すべては彼に向かっていた。無事だったことを、誰よりも先に知りたかったのに――。
それでも、胸の奥が痛むのは、怒りではなかった。帰ってきてくれた。そう思えることが、ただ、嬉しかった。たとえ、彼が何も語らずに戻ってきたのだとしても、彼は――この村に、そして自分たちの世界に、再び足を踏み入れてくれた。
木造の家が見えてきた。静かに、けれど確かにそこに佇むその家に向かって、イリナはためらわずに歩みを進めた。心は、言葉にならない感情の奔流に押し流されながらも、迷いなくその扉の前へと向かっていた。
カイの家の前に立ったイリナは、そっと足を止めた。夕暮れの光が傾き、家の影が細く地面に伸びている。
そこにあるのは、あまりにも見慣れた風景だった。木製の門、錆びた郵便受け、風でわずかに揺れる洗濯綱。畑の端には、春に植えたままのハーブが少し伸びて、季節の移ろいを静かに示している。
この場所には、幾度となく立ち寄った。仕事帰りに、ほんのわずかな期待を胸に――もしかしたら今日こそ、帰ってきているかもしれないと。けれどその度に、扉は固く閉ざされ、庭の空気は誰にも乱されず、沈黙だけが出迎えてくれた。
今日も同じだった。
昨日と、そして一昨日と何も変わっていない風景。掃き清められたまま、しかし足跡ひとつ増えていない土の上。夜風に揺れるカーテンの影も、灯るはずのないランプも――すべてが「変わらなかったこと」を雄弁に語っていた。
イリナは扉に手をかけることもなく、ただ立ち尽くしていた。記憶に刻まれたこの家の隅々までが、今はひどく冷たく感じられた。そこに誰の温もりもなかった。彼は、まだ帰ってきていない。
風が、頬をなでて通り過ぎた。イリナは小さく息を吸い込み、目を伏せると、そっと背を向けた。足音だけが静かに、帰り道を刻んでいった。
夕暮れの風が土道に沿って吹き抜け、草の葉を優しくなでていた。イリナは診療所へ戻る道を、少しうつむきながら歩いていた。カイの家の静けさが、まだ心の奥に残っていた。
曲がり角を抜けた先で、ひとりの老人が立ち止まっていた。村長だった。手には小さな書状が握られており、目元のしわが、夕日の影で深く刻まれて見えた。
「イリナさん……」
声に気づき、イリナは立ち止まった。村長は彼女に歩み寄り、静かに言葉を紡いだ。
「戦が、終わったそうだ」
短く、しかし重みのある言葉だった。イリナは目を見開いたが、すぐにまぶたを伏せた。口を開こうとしたが、言葉は出てこなかった。
「正確には、だいぶ前に終わっていたんだろう。中央は混乱していて、地方まで通知が回るのに時間がかかっていたようだ」
村長はそう続け、手に持っていた書状を軽く振った。紙はすでに読まれたようで、折り目が柔らかく、何度も開かれた形跡があった。
「……でも、徴兵された者たちの消息は、記されていなかった。カイ君も……まだ、わからん」
その言葉に、イリナはそっと顔を上げた。目に宿った光は揺れていたが、涙ではなかった。
「……ただな」
村長はそこで言葉を止め、少しだけ柔らかな表情を浮かべた。まるで昔のことを思い出すように、遠くを見る目で続けた。
「生きてるやつほど、報せってのは遅れてくるもんだよ。死んだ者には、早々に届くのが世の常さ」
風がまた吹いた。イリナの髪が揺れ、白衣のすそが草のささやきを拾った。彼女は微笑んでみせた。それはほんの少しの笑みだったが、たしかにそこには、希望の色が灯っていた。
「……ありがとうございます、村長さん」
「礼なんていらん。わしらはただ、信じるしかないんだよ」
村長は背を向け、ゆっくりと歩き出した。イリナもまた、診療所へと足を進める。胸に灯った小さな光を頼りに。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
昨日、健康診断に行って、村長にあった。
カイが戻ってきているかもしれないと淡い期待を抱いたがそれは杞憂だった。
診療所の扉が勢いよく開いた。
「いだいぃぃぃぃっ……!」
叫びながら飛び込んできたのはティリアだった。片手を大げさに押さえ、目には涙をいっぱいに浮かべている。
その後ろから、少しだけバツが悪そうな顔をしたカレンがついてくる。
「ほんっと、指先ちょっと切っただけなんだから……」
「ちょっとじゃないもんっ! 血が出たもんっ! このまま利き手が使えなくなって、看板娘引退とかになったらどうすんのよぉぉ!」
イリナは小さく吹き出しそうになりながらも、手際よく診察台の前にティリアを促す。傷は浅く、ほんの少しの止血と消毒で済むものだった。だが、ティリアの嘆きは止まらない。
「私、もう料理できない体になっちゃうかも……カレン、どうしよぉぉ……!」
「知らないわよ。あんたが包丁持ってるときに歌なんか歌ってるからよ。しかも替え歌で……」
「だって、サビの部分がぴったり合うんだもん……」
カレンがあきれてため息をつく。ほっといたら良かったと言わんばかりだ。
「お姉ちゃんなんだから、ついてきてよぉ! 泣いてる妹を見捨てるの!?」
と、強引に腕を引っ張られた。
その裏にあるのは、ほんの少しの甘えと、ほんの少しの嫉妬。カレンを旦那に取られたという自覚のないもやもやを、こんな形でぶつけてくるあたり、ティリアはやはり変わらない。
「はい、終わり。ちゃんと乾燥させておけばすぐ治るわ」
イリナが包帯を巻き終えると、ティリアはしばらく神妙な顔をしていたが――
「ふっかぁぁぁぁつ!! また厨房に立てるぅぅぅっ!!」
両手を突き上げて叫び、診療所の空気が一気に賑やかになった。
カレンは軽く額を押さえ、
「……ほんと、心配して損したわ」
と呟きつつも、どこかほっとした表情で妹を見ていた。
そのやり取りを見ていたイリナは、静かに笑った。
――いつも通りだ。
昨日、心の中に芽生えた希望が、現実によって一度はしぼんだ。けれど、この二人のやり取りが、何も変わらない日常が、その希望をそっと包んでくれる。浮かれすぎず、沈みすぎず、ちょうどいい場所に、心を戻してくれる。
「さ、帰ろうティリア。厨房で仕事が待ってるわよ」
「はーい、包丁の女神、再降臨~!」
バタバタと賑やかな足音とともに、二人は診療所を後にした。
イリナは静かになった部屋で、ひとつ深呼吸をする。窓の外には、変わらぬ午後の日差しが降り注いでいた。
ティリアとカレンが去ってからしばらくして、診療所の扉が再び開いた。ゆっくりとした足取りで入ってきたのは、村の誰もが顔見知りの“おばあちゃん”――エナだった。
「イリナ先生、いるかねぇ?」
顔を覗かせるようにして入ってくると、ニコニコと人懐こい笑顔を浮かべている。
イリナは立ち上がりながら、静かにうなずいた。
「こんにちはエナさん。いつものお薬ね?」
「あぁ、それそれ。あたしのアレよ。心臓がびっくりしないやつ」
「血圧のお薬ね」
「そうそう、それそれ。あたしの心臓、ちょっと驚きやすいからねぇ。まるで若い頃の恋みたいに……うふふ」
そう言って笑うエナに、イリナも釣られて微笑んだ。
調剤室へ向かうイリナの背中に、エナがぽつりと話しかけた。
「そういえば昨日ね、あたし来たんだけど、診療所閉まってたわ」
イリナは手を止めて振り返る。
「昨日? 午後はちゃんと診察してたと思うけど……」
「そうなのよぉ。おかしいわねぇ。あたしの時計が壊れてたのかしら……でもそのとき、誰か男の人が来てたのよ」
「男の人……?」
「うん、名前は忘れたけど、なんかこう、まじめそーな……でもちょっとお茶目な顔してたような? うーん……思い出せないわねぇ」
エナは首をひねりながら、どこか遠くを見るような目をした。
「もしかしたら、夢だったかもしれないけど。うふふ」
イリナは、ふと胸がざわつくのを感じながらも、優しく応じた。
「もしまたその人が来たら、私にも教えてね」
「はいはい、もちろんよぉ。あたしの目は節穴じゃないからね。たぶん……きっと……えーと、何の話だったかしら?」
イリナは微笑みながら、エナの手に薬の袋をそっと渡した。
それを受け取ったエナは「ありがとねぇ、イリナ先生は優しいから大好きよ」と嬉しそうに言い、ゆっくりとした足取りで診療所を出て行った。
その背中を見送りながら、イリナは一瞬、心の奥に沈んだ小さな石を感じた。“まじめそうで、少しお茶目な男”――そんな人を、自分はひとりしか知らない。
陽が少し傾きかけ、診療所の窓辺に斜めの光が差し込む。柔らかな光が棚の薬瓶に反射して、壁に小さな虹を作っていた。
イリナは受付の帳簿に目を落としながら、ふと息をついた。ついさっき聞いた、エナの言葉が胸の奥に残っている。
――まじめそうで、少しお茶目な顔。
それは、封じていたはずの記憶の引き金になった。五年という時間は、感情を完全に消すには長すぎず、忘れるには短すぎる。思い出を棚に仕舞う技術は身に着けても、ふとした拍子に風が吹き、扉が軋む。
あの人を思い出す機会が増えたのは、きっと偶然じゃない。この村の空気のせいか、それとも、自分のどこかが――まだ待っているのか。
いけないー-気を引き締めるように、帳簿を一つめくる。期待をしても、何も変わらない。ただ、傷が深くなるだけだ。その理屈を、もう幾度となく繰り返してきた。
そんな思考の渦の中――
「……こんにちは」
扉が軋み、小さな鈴が鳴った。
イリナは顔を上げる。青年がひとり立っていた。
旅装束を思わせる、くたびれたコート。日焼けした肌に、薄く埃をかぶった髪。年齢は、自分と同じくらいか、あるいは少し下だろうか。
だが、その姿にはどこか見覚えのある輪郭があり、空気があった。
イリナの心に、蓋をしていたはずの何かが、再び軋み始める。
扉がわずかに開かれたまま、春の風がそっと室内に入り込む。外の陽光が斜めに差し込み、埃が柔らかな金色の粒となって漂っていた。その中に、影が一つ、静かに立っていた。
イリナの目は、その影をただ見つめていた。呼吸の仕方を一瞬忘れたように、まばたきすら止まっている。視線は動かず、ただ目の前の男の輪郭を、少しずつ焦点を合わせるように追っていく。
最初は知らない人のように思えた。長い旅路を感じさせる衣服。焼けた肌。痩せた頬に、うっすらと伸びた髭。
けれどその瞳にだけは――あの、変わらない静けさが宿っていた。
「……カイ?」
声にならない声が、唇の内側でこぼれた。
その名前を呼んだ瞬間、張り詰めていた表情が、わずかに崩れる。目元が震え、口元に微かに笑みが宿る――が、それもすぐに消えた。次に浮かんだのは、疑いと困惑。夢を見ているのではないかというように、もう一歩も動けない。
カイは何も言わず、ただそこにいた。光を背負いながら、いつも通りの、少し気の抜けた顔をして。静かに、まるで帰る場所を確かめるように、イリナを見つめていた。
外では鳥がさえずり、村の午後が何事もなかったように流れている。だが、この小さな診療所の空気だけは――ぴたりと、時間が止まっていた。
沈黙のなかで、イリナは一歩踏み出した。その足取りは最初、恐る恐るだった。幻に触れてしまいそうで。けれど次の瞬間には、全身を感情が突き動かしていた。
彼女は走り出し、音も立てずにカイの胸に飛び込んだ。
カイの身体がわずかに揺れる。けれど、それだけだった。彼は驚いた様子も見せず、自然にその腕を伸ばし、イリナの背中をしっかりと抱きとめた。その動きに迷いはなかった。
イリナの肩が震える。指がカイの服を掴み、離れない。顔は胸元に埋もれて見えないが、全身で伝えるように――「戻ってきたんだね」と語っていた。
カイは何も言わない。ただ、腕に込める力がわずかに強くなった。その瞳は、静かにまぶたを閉じたイリナの横顔を見つめ、少しだけ柔らかく細められる。
二人の影が、床に長く重なって落ちていた。診療所の窓からは、午後の陽光がやわらかく射し込み、再会の抱擁を静かに照らしていた。
「で、いつ帰ってきたのよ?」
診察室の空気が一変した。笑顔を湛えていたイリナの顔は、一瞬で尋問官のそれになっていた。
「えっと、一昨日?」
口に出した瞬間、カイは自分のミスに気づいたようだった。イリナの眉が跳ね上がり、頬がぴくりと動いた。
「一昨日っ!?」
診療所の壁が小さく震えた。カイは手近な椅子を盾にしようと半歩身を引く。
「なんでそのとき来なかったの!?」
「いや、ちょっとこう……長旅だったし、まず寝ようかなって」
「それで寝たの!? 布団と再会して満足しちゃったの!?」
「ぐっすりだった。夢の中でも平和だった」
「平和の意味履き違えてない!?」
カイは口を開きかけ、しかし再び閉じる。言えば言うほど沼に沈むのは、さすがに理解しているらしい。
「で、昨日は?」
「来たよ、診療所に。昼頃だったかな」
イリナの目が細くなる。
「私、いなかったんだけど?」
「エナばあさんがいたから、ちょっと世間話して帰った」
「……エナさん、あんたの顔覚えてたの?」
「“あんた誰だい”って聞かれたから、“カイです”って答えたよ」
「で?」
「“へぇ、そうかい”って言って、診療所が潰れとるってつぶやいてどっか行った」
イリナは診察机に手を置き、額をぐりぐりと押さえる。肩が震えていたが、怒りか笑いかは判別しにくかった。
「潰れてない!!エナさんの記憶が風に舞ってる!」
「うん。でも、俺の名前も言ったし、顔も見せたし、ちゃんと来たよ」
「それ、来たうちに入らないから!」
「ええ……」
カイは若干ふてくされたように椅子に座った。イリナは一つ、深く深く呼吸した。
「……じゃあ次からは、最初に私のとこに来なさい」
「うん、次からは……って、それまた戦争行くの前提?」
「ツッコミいらない!!」
診療所の壁に、今日一番のツッコミが反響した。
「……で、一昨日は?」
イリナの声に、空気がピキリと張りつめた。さっきまでの再会ムードは、まるでなかったかのように霧散している。カイは、咳払いひとつしてから口を開いた。
「家、出たのは昼過ぎだったんだよ」
「ふむ」
「そっちに行こうと思って」
「ふむふむ」
「……でも、いなかったんだ、家」
「そりゃ昼間は診療所にいるでしょ?」
「知らなかったんだってば! 俺がいた頃は、まだ村の診療所なんて影も形もなかったし!」
イリナの目がギロリと光った。
「で、どうしたの?」
「家の前で立ち尽くしてたら、近くで縄跳びしてた子がいてさ。あの子、俺のこと見て“あ、もしかして探してるのイリナ先生?”って言ってくれて」
「……へぇ、気が利く子ね」
「“診療所で働いてるよ”って言われて、ちょっと衝撃だった。イリナ先生!? って」
「で、診療所には来なかったのよね?」
「行こうと思ったんだけど……」
「“だけど”?」
「もう一人子どもがいてね?なぜか地べたで勉強してたんだよ。暑いのに」
「……?」
「“わかんないとこある?”って聞いたら、“ぜんぶ”って言われてさ」
「……」
「“じゃあ一緒にやろうか”って、ちょっとだけ教えてたら……気づいたら空がオレンジでさ……」
「……」
「ほら、さすがにその時間に診療所行ったら迷惑かなーって……」
「……」
「で、その子を家まで送って、帰って、寝た」
「寝た」
「寝た」
「寝たのね」
「……はい」
カイは妙に素直な顔でうなずいた。イリナは、白衣のポケットの奥で手を握りしめた。どこかに、壁に投げつけられる小石でも入っていればよかったのに。
「つまり、昼に村に戻ってきて……午後ずっと私の近くにいたのに……来なかった、と?」
「……何もしてないわけじゃないよ?努力はしてるでしょ?」
「努力は他人が評価することよ!私は認めない!評価しない!」
「きびしいっ!」
カイが目を見開く。イリナの頬はぷくっとふくらんだまま、しばらくふくれっ面を崩さなかった。けれど、そんな彼女の表情の奥に――わずかに浮かんだ安堵の色を、カイは見逃さなかった。
陽が少し傾きかけた午後の村には、柔らかな光が満ちていた。茅葺きの屋根の影はゆっくりと伸び、土の道には木漏れ日が斑に踊っている。道端では、小さな花々が揺れ、どこからか鶏の鳴き声が遠く響いた。
カイとイリナは、村の中心から少し離れた、ゆるやかな坂道を並んで歩いていた。言葉はなかったが、それは沈黙というより、心地よい静けさだった。すぐそばにいるという実感だけで、充分だった。
すれ違った老婆が、「おかえり」と一言、微笑みながら声をかけていく。イリナがそっと会釈し、カイは少し照れたように頭をかいた。
畑の向こうでは、風に揺れる麦の穂がさわさわと音を立てていた。鳥の羽ばたきが上空を駆け抜けると、カイがふと空を見上げた。その視線に気づいて、イリナも見上げる。夏の終わりを思わせる、少し淡くなった空。そこには、かつて二人で見上げた景色が、何も変わらずに広がっていた。
村長の家の門が、すぐ先に見えてきた。木造の塀に絡まる蔦が、陽を浴びて静かにゆれている。カイは立ち止まり、イリナの方をちらと見た。イリナは前を向いたまま、小さくうなずく。
二人は、そろって足を進めた。軋む門扉の音が、静かな午後にやさしく響いた。
村長の家の玄関をくぐると、懐かしい木の香りと共に、涼やかな風が吹き抜けた。奥の部屋では、村長が書物に目を通していたが、顔を上げるなり目を見開き、立ち上がった。
カイは深く頭を下げた。
「ただいま戻りました」
その一言に、村長は一瞬言葉を失った。重ねて言葉を出そうとしたが、かすれた喉がすぐには動かなかった。やがてゆっくりと歩み寄り、カイの肩に手を置いた。
「……よう戻ってきてくれた」
すぐに、村長は家人に声をかけ、村の幹部たちに集まるよう伝令を飛ばした。一時間も経たぬうちに、数人の年配の男女が集まり、囲炉裏を囲むようにして座った。その輪の中央に、カイは静かに腰を下ろしていた。
皆、カイの顔を見つめながら、それぞれに言葉をかけた。「無事で何よりじゃ」「やせたなぁ……」「五年もか……」そのどれもが、心の底からの安堵と祝福を含んでいた。
やがて村長が口を開いた。
「……他の者たちのこと、なにか情報はあるか?」
その問いに、カイは一度目を伏せ、短く答えた。
「数日以内に、国の役人と一緒にこの村へ戻ってくる予定です。僕以外にも、まだ生きている者はいます」
場の空気が、一瞬止まったかのように静まり返った。次の瞬間、小さく漏れる歓声と共に、囲炉裏のまわりに安堵と喜びが広がっていく。
その喜びの中に、まだ見ぬ顔を待つ、不安と願いが、静かに混じっていた。
囲炉裏の火が、赤く低く揺れていた。先ほどよりも人は減り、部屋には村長とカイ、そして数人の幹部だけが残っていた。村長が、湯呑をそっとカイの前に置いた。
「……よう、戻ってきてくれたな。おまえの顔が見られて、ほんとうに、ほんとうに嬉しい。」
その声には、言葉では言い尽くせない思いが染み込んでいた。カイはうなずき、湯呑に口をつけると、胸の前にある革袋を手に取った。
「……この村から徴兵された者たちの中には、戻れなかった者もいます。」
その言葉に、囲炉裏を囲んでいた者たちが一斉に息を呑む。カイは革袋から、包みに包まれた小さな木彫りのペンダント、折れた櫛、血で染まった布の端などを一つひとつ取り出していった。それらには名前の書かれた札が添えられていた。
「これは、仲間たちの遺品です。最後まで家族の名を口にしていました。……どうか、それぞれの家族のもとに届けてください。」
村長はゆっくりとそれらを手に取り、深く頭を下げた。
「……おまえに、こんな重荷を背負わせてしまったのか。」
カイは首を横に振った。
「僕が背負ったものなんて、ほんの一部です。……戦場は、地獄でした。生きて帰ることだけを考えていました。でも、それだけじゃどうにもならない理不尽が、そこにはありました。」
囲炉裏の火が、再びぱち、と小さく音を立てる。その音が、誰もが飲み込めなかった重さを、わずかに溶かしたようだった。
「生き残ったことに、理由はありません。ただ、僕は帰ってきた。……だからこそ、伝えなければならないと思いました。」
誰もが黙ったまま、頭を垂れていた。村長の目には、かすかに光るものが浮かんでいた。長い夜の中、炎の灯りだけが、言葉にできぬ想いを照らしていた。
囲炉裏の火が、赤黒く沈んでゆく。誰も言葉を発さないまま、しばしの沈黙が落ちた。
カイは、膝の上に置いた手を見つめていた。ひび割れた指先、固くなった手のひら。何度も泥にまみれ、血を拭い、仲間の体を抱えたこの手が、今はただ静かに震えていた。
「……彼らは、みんな……勇敢でした。」
ぽつりと、呟くように口を開いた。
「自分よりも、仲間や村のことを先に考えて、命をかけて……」
言葉が途中で詰まる。喉の奥が焼けるように熱くなり、肩が震えた。カイは拳を固めて、膝の上でぎゅっと握りしめた。
「……僕は、臆病者なのかもしれない。」
声はかすれ、囁くようだった。誰かが否定しようとしたが、その前にカイが続ける。
「それでも……それでも、生きて帰りたかった。あの場所で終わりたくなかった。誰かのことを思って、誰かに会いたいと思って……ただ、それだけで……」
堪えきれず、ぽろりと一筋の涙が頬を伝った。
誰も、何も言わなかった。言える言葉はなかった。
カイは俯き、手で顔を覆った。長い戦場の記憶、目を閉じるたびに浮かぶ顔、失われた声。そのすべてが、夜の静けさのなかで、一滴ずつあふれていく。
囲炉裏の火が、再び小さくはぜた。その音が、カイの涙の音に静かに寄り添っていた。
囲炉裏の火が落ち着き、室内には静かな余熱が残っていた。涙を拭い、顔を上げたカイの瞳には、弱さではなく新たな光が宿っていた。
「僕は……教育者として、この戦争を伝えていこうと思います」
静かだけれど、揺るぎのない声だった。
「誰が正しいとか、間違っているとか、そんなことより――何が起きたのかを、次の世代に伝えること。それが、僕にできることだと思うんです」
イリナが隣で、そっと微笑んだ。
「それが、カイらしいと思う。きっと、たくさんの子たちが、あなたの言葉で未来を考えられるようになる。……私も応援する」
その言葉に、カイは小さく笑った。だが、どこかにまだわずかに残る迷いの影を、村長は見逃さなかった。
老いた村長は湯呑を置き、静かにカイに向き直った。
「臆病者か……」
カイは目を伏せたまま、黙って頷いた。
「いいか、カイ。真の臆病者というのはな――怖さから目を背け、何も考えずに済ませようとする者のことを言う。お前のように、自分の過去を見つめ、涙を流し、それでも何かを遺そうとする者を、人は臆病者とは言わん」
その声には、語りかけるような優しさと、重みがあった。
「お前が戦場から持ち帰ったものは、生き延びたという事実だけではない。その心だ。その記憶だ。それを語ることができる者こそが……次の世代の希望なんだよ」
カイは、ゆっくりと顔を上げた。
「……ありがとうございます」
言葉にしがたい思いが、胸に染み込んでいく。イリナがそっと彼の背を押し、微笑んだ。
カイの中にもまた、新しい一歩の音が静かに鳴り始めていた。
村長の家を後にした二人の背に、木戸の軋む音が小さく重なった。日がすっかり傾き、空は茜色から群青へと境目なく溶けていく最中だった。道の脇に並ぶ家々の窓からは、早くも灯りが漏れ始めており、誰かの影が障子越しにゆらりと揺れた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「灯りの位置が、少し変わったな」
カイがぽつりとつぶやく。かつて馴染んだ道は、ところどころで小さな変化を見せていた。朽ちかけていた柵が新しくなり、畑の境界に花を植える家が増え、道端の水路には清らかな水がさらさらと流れていた。
イリナは黙ったまま歩きながら、その一つひとつにカイの目が留まっていく様子を見ていた。変わってしまったものと、変わらずにあるもの。彼の目はその両方を丁寧に確かめていた。
道の先から、笛の音が聞こえてきた。祭りで使われる素朴な調べが風に乗り、遠くから届いてくる。曲に合わせるように、子どもたちのはしゃぐ声や、屋台の店主が客に呼びかける威勢のいい声が重なる。
「祭りって、こんなに賑やかだったか?」
カイがふと漏らした言葉に、イリナは少し笑った。
「あなたがいた頃は、静かだっただけよ。戦争で心に余裕のない人が多かったから。いまは……きっと、ようやく笑えるようになったのよ」
そう言うイリナの表情には、どこか安堵の色が浮かんでいた。
やがて、学校の屋根が見えてくる。薄暗い空の下、古びた校舎は小さくも堂々と、村のはずれに静かに佇んでいた。門の前で足を止めた二人の前には、もう灯りの落ちた校舎の窓が並んでいた。中にいる気配はない。今は誰もいない、けれど、確かにここには子どもたちの声と夢が満ちていた。
カイは校門に手をかけながら、ほんの一瞬だけ遠くを見るように目を細めた。イリナの横顔には、あの頃の教室の風が通り過ぎたような柔らかい気配があった。
教室の扉を開けると、きぃ、と静かな軋みが耳に触れた。誰もいないはずの空間に、わずかな埃と、懐かしい木の匂いが漂っていた。
机と椅子は整然と並び、黒板には午後の光が斜めに差し込んでいる。どこかで風が通ったのか、掲示板に留められた紙がふわりと揺れた。
カイはゆっくりと教室の中央を歩き、かつて自分が立っていた講壇の前へ向かった。そして、窓際に立つと、音を立てないように窓を開けた。
夕暮れの風が、彼の髪と裾をやさしくなぶった。外では、祭りの準備を終えた村人たちのざわめきが微かに聞こえる。屋台の灯りが揺れ、誰かの笑い声が、遠くで弾ける。
カイは、その風景を目に焼き付けるようにしばらく見つめていた。けれど、そこに映っているのは今の村ではなかった。
――この窓の外を眺めるたび、彼の胸に浮かぶのは、イリナのことだった。
怒った顔、笑った顔、あきれた顔。何気ない日常の中で、何度この窓からその姿を見送っただろう。彼女が診療所へ向かう背中。教室へ訪ねてきたときの白衣の裾。そのすべてが、まるで昨日のことのように胸の奥に蘇ってきた。
窓枠に手をかけ、カイはそっと目を伏せた。どれだけ時間が流れても、この風景と、この教室は、イリナとともに記憶に在り続けるのだと、静かに実感していた。
教室の窓際に立つカイの背に、イリナはゆっくりと歩み寄った。窓から入り込む風が、彼女の髪を揺らす。夕暮れの光は赤みを増し、教室の中にやさしい影を落としていた。
「ねえ、カイ――」
イリナの声は、風に溶けてしまいそうなほど静かだった。それでも、彼にははっきりと届いていた。
「覚えてる?」
イリナは、言葉を探すように視線をさまよわせながら、それでも確かな声で続けた。
「帰ってきたら、伝えたいことがあるって……私、そう言ったよね?」
カイはすぐには返事をしなかった。ただ、窓の外に目を向けたまま、小さくうなずいた。それだけの仕草に、迷いも、曖昧さもなかった。
イリナはその背中を見つめた。言葉よりも確かに、想いが伝わってくる気がした。ほんの少し、口元が緩む。
沈黙の中、風がまた教室を通り抜けた。そこにはかつてと変わらぬ静けさと、今のふたりだけが知る新しい鼓動があった。
夕映えの中、教室に沈黙が降りる。カイは窓辺から目を離し、ゆっくりとイリナの方へ向き直った。
その瞳に迷いはなかった。けれど、言葉を選ぶように、口を開くまでに少しだけ時間がかかった。
「……あのとき、言えなかったことがあるんだ」
低く、穏やかな声だった。
「約束って、簡単にしてはいけないと思ってた」
イリナはじっとカイの言葉を待っていた。
「“必ず帰ってくる”って、言えたらよかった。でも、それは――できない約束だった」
カイの拳が、ごくわずかに震えているのをイリナは見逃さなかった。
「それでも、ずっと心にあったんだ。戦争がどんなに酷くても、生きて戻らなきゃって思ってた。……戻ってきたら、どうしても伝えたいことがあるって、ずっと、それだけは忘れなかった」
夕陽が二人を包む。
それは、五年という歳月の重みと、ようやく交わされる言葉の温もりとを、そっと抱きしめるような光だった。
教室の窓から差し込む夕暮れの光が、二人をそっと照らしていた。静かな空間に、カイの声が重みを持って落ちた。
「――イリナ。結婚してほしい」
その言葉が空気を揺らした瞬間、イリナの目が見開かれた。驚きが表情を走り抜ける。次の瞬間には、まるで何かがゆっくりとほどけていくように、頬が紅く染まり始めた。
彼女の唇が微かに震える。そして、静かに、笑った。その笑みには、長い時間を超えてきた強さと、待ち続けた優しさが溶け合っていた。
「……はい」
ただそれだけを言ったイリナの目には、光が宿っていた。涙ではなかった。けれど、それよりもずっと深く、言葉よりも確かに、彼女の心がそこにあった。
カイは、ゆっくりと微笑んだ。互いに言葉はなかった。だが、もう何も言う必要はなかった。
教室の窓の外では、祭りの笛の音が静かに響いていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
それから、季節が一つ巡った。
教室の窓から差し込む柔らかな陽光が、黒板に描かれたチョークの文字を照らしていた。外では子どもたちの笑い声が響き、グラウンドを駆ける足音が土埃を舞わせる。
カイは、白いシャツの袖をまくりながら、机に向かってノートをめくっていた。新しく加わった子も、長く勉強を苦手としていた子も、今では同じように机に向かい、わからないところを「先生」と呼んで尋ねてくる。
その様子を、教室の後ろからリルムがそっと見守っていた。少し気恥ずかしそうに笑う彼女の手には、綺麗に並べられた答案用紙の束が抱えられていた。
窓の外には、イリナの姿も見える。今日も白衣を羽織り、診療所からの帰り道に校庭を横切っていた。視線がふと教室の中のカイと合うと、彼女はほんの少しだけ、口元を緩めて歩みを止めた。
カイは立ち上がり、黒板の前に立つ。
チョークが黒板を走り、「戦争」と書かれた文字が白く浮かび上がる。教室の子どもたちは、自然と席につき、その目を前に向ける。
「じゃあ、今日はここから話そうか。あの時、本当に大切だったものの話を。」
チョークを握る手に迷いはない。カイの声も、風のように穏やかだった。
教室の窓からは、春の風がそっと吹き込み、カーテンが軽く揺れていた。