風の帰る場所【中編】
木製のくじ引き台を囲んで、子どもたちが目を輝かせている。金色の鈴がついた細い棒を手に、どうか当たりますようにと、真剣な面持ちで回していた。そのすぐそばでは、水の中を泳ぐ金魚に手を伸ばす子どもと、それを見守る親の姿がある。大人たちは汗をぬぐいながらも、口元にうっすらと笑みを浮かべ、子どもたちのはしゃぎ声に目を細めていた。
小さな舞台では、村の楽団が太鼓を鳴らし、笛の音が風に乗って遠くまで届いていた。広場の片隅では、手作りの飾り灯籠が風に揺れている。紙に描かれた花や鳥の絵が、柔らかな光を透かしていた。
麦わら帽子をかぶった農夫が、串焼きを片手に歩き、浴衣姿の少女が手を引かれてはしゃいでいる。日が傾きかけ、空が茜色に染まっていく中で、村はいつもより少しだけ、幸せそうにみえた。
土の匂いに混じって、甘く焦げた蜜の香りが鼻をかすめた。人混みの中をそっと歩きながら、カイは少しだけ顔を上げた。
目の前を、はしゃぐ子どもたちが駆けていく。手には金魚すくいの袋、もう片方の手には綿菓子。弾けるような笑い声と足音が、砂埃を巻き上げながら通り過ぎていった。
暑さに汗がじっとりと肌に張りつく。それでも、広場の空気はどこか心地よかった。頭上を風鈴の音が通り抜け、どこかの屋台から「焼きたてだよ!」と威勢のいい声が飛ぶ。
カイは屋台の並ぶ道をゆっくりと進んだ。右手では、麦わら帽子の少年が、何度も輪投げに挑戦している。左手の屋台では、浴衣姿の少女たちが団子を頬張りながら、笑い合っていた。ふと見上げると、色とりどりの提灯が風に揺れている。橙、緑、藤色。紙越しの光が、宵を知らせていた。
横を通り過ぎた青年が、肩に子どもを乗せていた。「ほら見てごらん、あっちが太鼓の舞台だよ」と指をさす。その声に、カイの耳にも、太鼓と笛の音がようやく届いた。リズムは緩やかで、どこか懐かしい。
人々の笑顔と、食べ物の匂いと、夏のざわめきが渦を巻いている。何気ない会話のかけらが、すれ違うたび耳に入っては、消えていく。カイは歩みを止めて、少しだけ目を細めた。
――今年も、祭りが来たんだな。
胸の奥で、懐かしさとも安堵ともつかぬ感情が、静かに広がっていた。
「見て見て、あの屋台! 焼き魚串よ! めっちゃ香ばしい匂いしない!?」
カレンがぴょんと跳ねるように身を乗り出す。青地に白の模様が施された民族衣装がふわりと揺れ、髪飾りの鈴がチリンと鳴る。
「さっき団子って言ってなかった?」
イリナが呆れたように笑いながら言うと、ティリアもくすっと笑った。
「カレン、さっきの飴細工も“絶対食べる!”って言ってたのに、まだ手に持ってるよ」
「え? だって捨てるのもったいないじゃん! このカエルの形、見てこれ超リアルなんだから! ちょっとグロいけど可愛いの!」
「ええ……」
イリナとティリアが同時に引いた顔をする。イリナは肩をすくめながら「食べ物って感じがしない……」とつぶやき、ティリアはそっと目をそらした。
「ねぇねぇ、ティリア。あの綿菓子、色ついてるやつある! ピンクと水色が混ざってるの!」
「あっ、ほんとだ! ああいうの、昔はお祭りでしか見なかったんだよね……って、今もそうか」
「時代感じる言い方するなぁ、ティリア〜。まだ子どもでしょ、私たち!」
「じゃあさ、じゃあさ、3人で分けて食べよっか。綿菓子と焼き魚と団子!」
「一口ずつとかムリだって~。綿菓子って分けにくいじゃん!」
「じゃあじゃあじゃあ、勝負する?」
カレンがにやりと笑う。
「屋台で最初にサービスしてもらった人が、綿菓子をゲットってことで!」
「そういう勝負なの?」
イリナが困惑気味に眉を下げ、ティリアも「どうしよう、わたし絶対負ける……」と半泣き顔。
「私、愛想よくできないから無理かも」
イリナが肩を落とすと、カレンは胸を張って指をさす。
「じゃあ、この勝負、カレンちゃんの圧勝ってことでよろしく!」
「自分で言った!」
ティリアが笑い転げ、イリナもつられて笑顔になる。提灯の明かりが彼女たちの髪にきらめきを落とし、夜の風に衣の裾がゆれる。
「でもさ、こうやって3人で来るのって、ほんと久しぶりだよね」
ティリアがぽつりと言ったその声は、さっきまでの騒がしさと打って変わって、どこかしみじみしていた。
「うん。去年はみんな忙しかったしね」
イリナが小さく頷きながら、その横顔を少しだけ曇らせた。
「だからこそ、今日はいっぱい遊ぼう!」
カレンがわざと明るく声を張り、両手を掲げる。
「今日はお姫さま気分でいくよ! 二人とも覚悟してね!」
「もうなってるよ」とティリアが微笑む。3人の笑い声が、夜空に吸い込まれていった。 人混みの中で彼女たちは、まるで小さな光の玉のように、きらきらと輝いていた。
「――あれ、先生?」
浴衣風の民族衣装に身を包んだティリアが、出店のあいだからぴょこんと顔を出し、手を振った。提灯の灯りがきらめくなか、カイがのんびりと歩いてくる姿があった。
「ほんとに一人だわ」
カレンが目を細めてつぶやく。「てっきり誰かと来てるのかと……」
「もしかして……彼女とか?」
ティリアが妙に真剣な顔で言った。言った本人も「我ながら鋭い推理」とでも言いたげにうんうん頷いている。
その瞬間、イリナの指先がぴくりと動いた。手に持っていた綿菓子の棒を少しだけ握り直し、すぐに何事もなかったかのように笑みを浮かべる。けれど、その笑顔の端がほんのわずかに硬かった。
「え? 彼女? 誰の?」
カイはぽかんと目を丸くして、周囲を見回す。「いや、あなたのだよ!」と三人が声を揃えた。
「僕? ……えーと……そんな予定、今日あったかな……?」
「予定とかじゃなくて!」
イリナが思わず噴き出し、ついでに先ほどの自分の反応をかき消すように口元を手で覆った。
「でも、カイって、いつも一人でふらっと現れるよね。もしかして、誰かと一緒にいるの、苦手?」
カレンが首を傾げながら聞いた。
「うーん、そんなことないと思うけど……誰かと歩くと、相手の歩幅に合わせるのが難しくて。ほら、リオネルとだと首が疲れるし」
「ええ……」
ティリアがため息をつき、イリナは肩を震わせながら笑っている。
「つまり彼女いないってことでしょ?」
カレンが言うと、
「うん。今日、家出るとき誰もいなかったから、いないんじゃないかな」
カイは真面目な顔で頷いた。
「……いないんじゃないかな、じゃなくて! 自分のことなのに!?」
三人の総ツッコミに、カイは「えっ、違った?」と首を傾げるだけだった。
屋台の提灯が連なる通りの向こう、ひときわ背の高い影がこちらを見つけて足を速めた。麦わら帽子を手に握ったまま、縫うように人混みをすり抜けてくる。
その影――リオネルは、途中、屋台の軒先に吊るされた提灯に頭をぶつけかけ、思わず大きくのけぞった。提灯が揺れ、屋台の少年がぎょっと目を見開く。リオネルは帽子で顔を隠すようにしながら、軽く頭を下げてその場を離れた。
こちらに着く頃には、顔が少し赤らんでいた。帽子を深くかぶり直す仕草が、恥ずかしさを隠そうとしているのを物語っている。
カイが肩をすくめ、カレンは腕を組んで天を仰いだ。ティリアは口元を押さえて、喉の奥で笑いをこらえる。イリナは小さくため息をつきながらも、視線はどこか優しい。
そんな仲間たちの間に、リオネルはそっと並ぶ。歩き出した5人の足取りが、宵の空の下でそろっていた。
村の中心から少し外れた場所、小高い丘の斜面に建つ石造りの屋敷が一軒。古くからこの村を見守ってきた建物――そこが村長の自宅だった。
重厚な石壁は風雨に晒され、年月の跡を残している。蔦が壁面を這い、窓辺には手入れの行き届いた鉢植えが並ぶ。花は咲き誇っているというより、慎ましく咲いているといった趣きだ。
門扉は鉄細工でできており、錆びも見えるが、きちんと磨かれていた。開け放たれた門の奥には、丁寧に掃かれた砂利の庭が広がっている。
玄関扉は分厚い木製で、真鍮の取っ手がきらりと光る。その脇には、村の地図や公的な掲示が貼られた掲示板がある。屋敷の一部は公の仕事場としても使われているようだ。
裏手には小さな畑と、物置小屋。畑には野菜やハーブが並び、無骨な鍬が壁に立てかけられている。生活感がにじむが、どこか几帳面な気配が漂っていた。
蝋燭の火が、書類の影をゆらゆらと揺らしていた。村長の執務室は重苦しい沈黙に包まれていた。
対面に座るのは、濃紺の詰襟を着た若い役人。国の徴兵局から来たという彼は、机の上に丁寧に一通の封書を置いた。封には、国の紋章が押されている。
「……戦況は、芳しくありません。正直、今さら徴兵して間に合うかも分からない。ただ、それでも手は尽くさねばならないのです」
村長は目を伏せたまま、無言で聞いていた。手元にある村の人口帳簿の頁を、何度もめくっては戻し、指先で何かを払うようにそっと閉じる。
「数は?」と、絞るような声。
「三名。ただし、できれば家族のない若者を。戻れない可能性がありますから」
「……それは、承知している」
村長の目元に深い皺が刻まれる。静かに鼻から息を吐くと、椅子の背に体を預けた。窓の外では、祭りの太鼓の音がまだ遠くで鳴っている。
「この村は、かつて焼かれました。男たちは戦に取られ、戻らなかった。今また同じことを、私の手で?」
役人は何も答えない。応えられない。彼自身もまた、任務として来ているに過ぎないのだ。
「若い者を出すなど……親たちに顔向けができん」
「ですが、出さねば、他の村に負担が回ります。国として、割り当ての義務があります」
役人の言葉は冷静だったが、どこかに焦りの色が滲んでいた。紙に書かれた数字が、彼らの命を定めていることに、彼もまた心を痛めているのだろう。
村長は目を閉じた。かすかに肩が震えている。戦のない未来を願ってきたはずだった。それでも――それでも、この村から誰かを差し出さねばならない。
書棚の横に置かれた家族の写真立てが、風に揺れたカーテンに押されて微かに傾いた。
窓の外から、楽しげな笑い声が風に乗って届いてくる。色とりどりの紙灯籠が揺れ、通りを照らしていた。屋台の明かり、子どもたちの走る影、大人たちの笑顔。村は今、年に一度の祭りに包まれている。
村長は静かにカーテンを指で払い、格子窓の向こうに広がる光景を見つめた。煙が立ちのぼる焼き串の屋台。浴衣に似た民族衣装に身を包んだ若者たち。通りすがりに手を振る娘の姿に、思わず微笑みそうになったが、すぐにその表情は消える。
――こんな日に、あんなものが届くとは。
机の上、封も切られぬまま置かれた徴兵命令の封書が、重くそこにあった。もう何度見ただろうか。目を背けても、それはそこにあり続けている。
誰を選べばいい。誰を差し出せば、村の未来は守れるのか。
村の若者たちの顔が、次々と思い浮かぶ。畑を手伝う少年、子どもたちの面倒を見る青年、村の学校で教鞭をとるあの穏やかな教師――。
口元がわずかに震えた。選べるはずがない。未来のある若者たちを、命の危険がある戦地へなど。
しかし、何もしなければ、他の村に負担がいく。国との約束もある。目を閉じても、光景が焼きついて離れなかった。
窓の外から、太鼓の音がまた聞こえてきた。祭りは続いている。笑顔も、声も、幸せも、今はここにある――だからこそ、そのすべてが壊れてしまう未来を想像してしまい、胸が苦しくなる。
村長は額に手を当て、静かに嘆いた。
「……誰にも、行かせたくないのだよ」
小さな射的屋の前には、人だかりができていた。紙で飾られた屋台の棚には、お菓子や木製の小さな玩具がずらりと並べられ、どれもこれも子どもたちの目を輝かせていた。
カイは教え子たちに囲まれて、一本の木製の銃を手にしていた。構え方がぎこちなく、目を細めて狙いを定めている姿に、子どもたちは笑いをこらえながら身を乗り出す。
的を外した瞬間、わっと笑いが起こる。カイは恥ずかしそうに後頭部をかきながら、それでも穏やかな笑みを浮かべていた。次に銃を構えたのは、よく喋る少年。勢いよくコルク玉が飛び出し、見事にラムネの瓶を倒すと、歓声があがった。
そのそばで、イリナは微笑みながら様子を見守っていた。白地に刺繍の入った民族衣装の袖が風に揺れ、結い上げた髪に飾った布花が、淡い夕陽を受けてやわらかく光っている。
カレンとティリアは別の屋台で手に入れた串焼きを頬張りながら、笑い転げていた。リオネルはというと、子どもに風船を譲られてしまい、どうすればいいのか分からず、手に赤い風船をぶら下げたまま立ち尽くしていた。
祭りは、まるで村全体が一つの大きな家族になったかのような温かさに包まれていた。笑顔があふれ、誰もがこの瞬間を心から楽しんでいる。
屋台の明かりが揺れる通りの一角。笑い声と祭囃子が入り混じる中、人混みの隙間に見慣れた後ろ姿があった。
笠を深く被り、肩を少し落として立つ壮年の男――村長だった。
「……あれ、村長?」
ぽつりとつぶやいたカイに、イリナたちが視線を向ける。
「ごめん、ちょっと離れるね」
そう言って軽く笑いながらカイは皆に背を向けた。その足取りは普段通りに穏やかで、何でもない用事のようにも見えた。
けれど、イリナの目はカイの背中にじっと留まったままだった。まるで、見送るのが惜しいかのように。肩の奥に、わずかな緊張が走る。
――何か、よくない話なんじゃないか。
そんな直感が胸の奥で微かにざわついた。けれどそれを口には出さず、イリナはただ目を細めた。
一方その頃、カイは人混みの向こうに立つ村長へと歩み寄っていた。
「……村長?」
呼びかけると、村長はゆっくりと肩を上げて振り返った。顔にはいつものような柔らかな笑みが浮かんでいる。だが、口元の線がどこか固い。
「カイくんか。今日は……にぎやかだね」
「はい。子どもたちも、本当に楽しそうです」
カイは答えながら、その笑みの奥に潜む影を見逃さなかった。眼差しの中に、微かに沈んだものが宿っていた。
「……よかったら、少しだけお話ししませんか?」
カイは穏やかな声でそう申し出た。
村長は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに頷いた。
「ああ……いいだろう。少しだけな」
笠の縁が揺れる。二人は祭りのにぎやかさから離れ、神社の裏手へと歩を進めていった。
その姿を、少し離れた場所からイリナは見つめ続けていた。
境内裏手の木立は、祭りの喧騒が嘘のように静かだった。提灯の明かりも届かず、月明かりが地面にまだら模様を描いている。
二人は社の縁に腰を下ろした。しばらく風の音だけが耳に残る。
「……子どもたちは、楽しんでいるようだったね」
村長が口を開いたのは、しばらく沈黙が流れたあとだった。
「ええ。今夜だけは、みんな戦争のことも忘れていられればって、そう思ってました」
カイの返事は穏やかだったが、その声の奥には教師としての強い思いが滲んでいた。
村長はその言葉に、ふっと目を伏せた。
「……その『戦争』のことで、君に話があるんだ」
その言葉に、カイはゆっくりと村長を見る。
「はい」
「今朝、国からの使者が来た。……召集令状だ。村の若者を数名、兵として差し出すようにと」
言葉は丁寧だったが、吐き出すようだった。喉の奥で何かを押し殺すような声。
「……そうですか」
カイはすぐには驚かなかった。ただ、まっすぐに村長の言葉を受け止めた。
「今、候補を考えている。できることなら、家族のいない者を……二度と戻ってこれない可能性もある」
風が笹を揺らした。耳元でさやさやと鳴る音が、無言の余韻をかき立てる。
「僕に白羽の矢が立った……というわけでは、まだないんですよね?」
カイの言葉は静かだった。どこか受け入れるようでもあり、まだ距離を置いているようでもある。
村長は答えなかった。ただ、ゆっくりと、重く首を横に振る。
「……すまない」
その一言には、村の未来を守ろうとする者の痛みと、個人の運命を左右せねばならない責任の重さがにじんでいた。
カイは空を仰いだ。どこまでも穏やかで、満月が木々の間から顔を覗かせていた。
「……僕は、まだ子どもたちに教えたいことが山ほどあるんですけどね」
冗談のように言ったその一言に、村長はわずかに笑った。だがその目は、にじむように揺れていた。
空は雲ひとつなく澄み渡り、初夏の陽射しが校舎の木の窓枠を明るく照らしていた。柔らかな風が吹き抜け、教室のカーテンをゆるやかに揺らしている。
カイは、いつもと変わらない様子で教壇に立っていた。背筋を伸ばし、手には使い込まれた教科書。彼の声は穏やかで、まるで今日という日が特別ではないかのように、いつも通りに授業は進んでいく。
子どもたちは真剣に、けれどどこか名残惜しげに彼の言葉を聞いていた。
チョークの音が黒板に走る。カイは黒板に図を描きながら、生徒の一人に目を向けて、にこりと笑う。
「この部分、どうしてそうなるかわかるかい?」
問いかけられた少年は少しうろたえながらも、しっかりと答えた。
「うん、そうだ。それで合ってるよ」
その声に、クラスのあちこちからほっとしたような笑みが広がった。
授業の終わりが近づいても、カイは何も言わなかった。別れの言葉も、感傷も、何一つ口にせず、ただいつものようにノートの確認をし、黒板を丁寧に消していく。
陽はまだ高い。子どもたちは帰り支度をしながらも、どこか踏ん切りがつかない様子だった。
そんな空気を感じながらも、カイは微笑んだ。
「じゃあ、今日はここまで。また来週――いや、次の先生にも、ちゃんと聞くんだよ」
その一言で、子どもたちはようやく現実を思い出したように、小さくうなずいた。
カイは手を軽く振って教室を出ていく。子どもたちの視線が、その背中をずっと追っていた。
穏やかな風が、彼の上着の裾をやさしく揺らしていた。
教室に再び一人になったカイは、ノートを机に整えていた。
そのとき、窓の外から声がした。
「カイ」
静かな、けれどまっすぐに響く声。カイは手を止め、ふと顔を上げた。
窓の向こうには、イリナがいた。校舎の外からこちらを見上げている。髪は風に揺れ、瞳はまっすぐにカイを見つめていた。
その光景に、カイはふっと苦笑する。
あのときもそうだった、と彼は思った。少し前、誰もいない教室で、彼女は窓辺に立ち、外を見ていた。何かを求めるようなまなざし。あのとき、初めて“守りたい”と感じたのだった。
今、同じ窓に、同じ風が吹いている。
カイはゆっくりと窓辺に歩み寄る。イリナは何も言わず、ただその場に立ち続ける。教室を抜ける風がカーテンを揺らし、ふたりのあいだに静寂が広がる。
「ねえ、カイ」
夕陽が差し込む校舎の影の中で、イリナがふいに口を開いた。風に揺れる髪を手でおさえながら、いつになく真っ直ぐに、彼を見つめている。
「――帰ってきたら、伝えたいことがあるの」
カイは一瞬、何のことか理解できず、目を瞬かせた。
「……え?」
「帰ってこなかったら、言わない」
イリナの声は、風の中に消えてしまいそうなほど淡く、それでいて、決して曖昧ではなかった。
そんなことを言われても困る、とカイは思った。いや、困っているのではなく――ただ、戸惑っているだけだった。いつもは理路整然としているイリナの言葉に、わずかな情熱が混じっていたからだ。
目の前の少女が、何かを託すように微笑んだ。
その笑みを見た瞬間、カイは返す言葉を失った。その光の中に立つ彼女は、まるで誰かの祈りそのもののように、美しく、静かだった。
言葉が出ない。代わりに胸の奥から、確かに何かがこみあげてくる。守りたい、という気持ちだった。それは優しさでも義務でもなく――ただ、自然な願いだった。
日は西に傾き、風が少し冷たさを帯びてきた。木々の葉がさわさわと揺れ、教室の外に静かな時間が流れている。
イリナの言葉に、カイは何も返さなかった。目を伏せたまま、ほんのわずかに唇を動かしかけて――それでも言葉にはならず、静かに立ち尽くしていた。
その沈黙がすべてを物語っていた。
イリナはじっと彼を見つめていた。ただの優柔不断ではないとわかっている。ただの弱さでもないと知っている。彼が誠実であるからこそ、約束の言葉が出てこないのだと、痛いほどに伝わってきた。
そして、気づけば涙があふれていた。
「……ひどい……」
小さな声で、ぽつりとつぶやいた。その声には怒りも責める気持ちもなかった。ただ、寂しさが滲んでいた。
それから、イリナは肩を震わせ、まるで耐えきれなくなったかのように泣き出した。押し殺すこともできない嗚咽がこぼれ、背を丸めて、こらえようとするほど涙はあふれて止まらなかった。
カイは何も言えなかった。ただその場に立ち、遠くの空を見上げるように顔を上げた。彼の手は握りしめられ、胸の奥には、静かで苦い決意が沈んでいた。
やがて、イリナの嗚咽は少しずつ静まり、肩の震えも収まっていった。夕暮れの陽が差し込む教室の中、涙を流した痕を残したまま、イリナは静かに顔を上げる。
窓の外には、いつもと変わらぬ村の景色が広がっている。家々の屋根に夕陽が映え、畑には風が通り抜けていく。だけど、すべてがほんの少しだけ違って見えた。
カイはその隣で黙って立っていた。けれど、彼の眼差しは遠くを見ているようで、どこかこの教室の外に意識を預けているようだった。
イリナはその横顔を見つめた。何かを言いたいわけではなかった。ただ、見ていたかった。そこに彼がいるという、そのことだけを心に刻みたかった。
しばらくの沈黙のあと、イリナは小さく鼻をすすり、「……変なとこで真面目なんだから」と、泣き笑いのような声をこぼした。
カイはそれに返事をせず、ただひとつ、小さく息をついた。
そして、二人の間に吹き込んだ風が、カーテンをふわりと揺らした。その風が、なにか大切なものを運んでいくような気がした。
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夜の村は、ひときわ静かだった。昼の喧騒が嘘のように、風の音すら遠慮がちに耳をかすめていく。街灯代わりに設けられた灯籠が、ぽつぽつと通りを照らし、石畳の上にゆらめく影を落としていた。
カイはひとり、村の広場に立っていた。革の鞄ひとつを肩にかけ、灯りの下で足元を見つめている。風に揺れるランタンの炎が、彼の頬に影を落とす。
「……すまないな」
低く、くぐもった声が背後から届いた。振り返ると、村長が静かに歩み寄ってくる。年老いたその姿も、今日ばかりは一段と小さく見えた。
「こんな夜に、こんな形で……礼の一つも言えないのが、つらいよ」
カイは首を振った。
「気にしないでください。これが、決まりなんですから」
村長はしばし口を閉ざし、カイの顔をまっすぐに見つめた。そして、そっと懐から小さな布包みを取り出して差し出した。
「中身は干し果物だ。道中、少しでも口にできるものがあればと思ってな。……古臭い贈り物だが」
「嬉しいです。ありがとうございます」
カイは両手でそれを受け取ると、胸にそっと押し当てた。
少し離れたところには、村の幹部らしき者たちが三人、無言で立っていた。見送りは、それだけだった。名を呼ぶ声もなければ、手を振る子どももいない。それは“帰ってこないかもしれない者”への、ささやかな優しさだった。
やがて、遠くから馬車の車輪の音が近づいてきた。カイは深く息を吸い、顔を上げた。ランタンの灯りが彼の瞳を反射し、瞬間だけその目に決意が宿る。
「……行ってきます」
「……ああ。気をつけて」
それだけを交わして、カイは馬車へと歩き出す。闇に包まれた村を背に、ゆっくりと。夜風が彼の背中を押すように吹き抜けていく。
村長はその後ろ姿を見送る間、一度もまばたきをしなかった。
静まり返った夜の村に、虫の音だけが細く続いていた。イリナの部屋の窓は、ほんの少しだけ開け放たれている。そこから流れ込む涼やかな風が、薄布のカーテンをわずかに揺らした。
窓辺に佇むイリナの姿が、月明かりに浮かび上がっていた。結い上げた髪はほどかれており、肩に流れる金の糸が柔らかな光を受けてほのかにきらめく。
彼女は静かに、遠くの街道を見つめていた。瞳はわずかに潤んでいるが、涙は落ちない。その顔に浮かぶのは、不安でも絶望でもない。どこか、信じる者の静かな祈りのようなものだった。
指先が、無意識に胸元の布を握りしめる。その手の力は、少しだけ強い。でも、その握った手は、やがてそっとほどかれて窓辺に置かれた。
月が雲に隠れ、一瞬、村が薄闇に沈む。イリナはまぶたを閉じた。そして小さく頷くような仕草を見せてから、ゆっくりと窓を閉めた。
部屋に静寂が戻る。外では、風が木々を揺らし、夜は深まっていく。