【第91話:戸棚の奥に眠っていたもの】
ほんの少しの違和感と、ほんの少しの衝動。
それは、過ぎた日々をふいに手に取ってみたくなる、そんな“昼”のきっかけ。
今日は、るなの中で少しだけ風向きが変わるお話です。
【第6章】こころ、ふわりと浮かんで(12話目)
窓辺から離れたるなは、そのまま書斎へと向かった。
静かにドアを開けると、木の香りと紙の匂いが、ひんやりとした空気に混ざって鼻をくすぐる。
久しぶりにこの部屋に入った気がした。
明人が整えてくれたままの空間は、相変わらず整然としていて、るなにとってはまだ少し“気後れする場所”でもあった。
けれど、今日は違った。
心に浮かんだ“なにか”を探すように、棚の前に立ち、そっと指先で背表紙をなぞる。
ぱらぱらと埃が舞い、淡く光に照らされて消えていく。
その奥に、小さな箱がひとつ、半ば隠れるように置かれていた。
「……これ、なんだろう」
取り出してみると、それは蓋の縁に薄くレースが貼られた、手のひらほどの古びた箱だった。
るなは、躊躇いながらも静かにその蓋を開ける。
中から出てきたのは――リボンで束ねられた便箋と、古いインクの香りがわずかに残る封筒。
そこに書かれた文字は、どこか震えていて、でも確かに「誰か」に向けたものだった。
「昔、書こうとして……やめた手紙、かな」
ぽつりと呟いたその声に、明人がそっと近づく気配がした。
「懐かしいものを見つけましたか?」
「うん……これ、多分、ずっと前に途中まで書いてたもの。届ける先も、今はもうないけれど……」
微笑むるなの目元には、少しだけ遠くを見るような光が宿っていた。
「捨てられなかったんですね、その想いも」
「うん……けど、今は違う気がして。たとえば……書き終えてもいいのかな、って。今なら、ちゃんと“今のわたし”として」
その言葉に、明人は静かに頷いた。
「それはきっと、良いことです。過去と今が、優しくつながるなら――それは、前に進む一歩になります」
るなは封筒を抱え、書斎の椅子にそっと腰を下ろす。
ペンを握る指先が、少しだけ震えていた。けれど、それは不安ではなく、あたたかい緊張だった。
「……ありがとう、って。今なら言葉にできる、そんな気がするの」
彼女の声は、空気の中に静かに滲んでいった。
やわらかな光が、レースのカーテンを透けて背中に落ちる。
そのぬくもりを受けながら、るなの筆先が、すうっと紙の上を滑っていった。
動きたいと思えた気持ちも、それに少し戸惑う心も、
今のるなにとってはすべてが大切な“記録”のようです。
そっと過去と向き合えたその一歩が、また次の光につながりますように。




