【第90話:胸の奥に、ひとつ浮かぶこと】
「今日は何をしよう」――その言葉が自然に口をついて出る朝。
動きたい気持ちが心にふわりと浮かぶ、そんな朝食後のひとときです。
【第6章】こころ、ふわりと浮かんで(11話目)
朝食を終えたあと、るなはカップを両手で包みながら、リビングの椅子に深く腰を沈めていた。
窓から差し込む光はやわらかく、キッチンから漂う香ばしい匂いが、空気の中にほんのりと残っている。コーヒーの苦味がまだ口の中にあって、それが今朝の記憶をやさしく輪郭づけていた。
「今日は……何しようかな」
そう呟いた声は、彼に向けたものでも、自分自身に語りかけたものでもなかった。ただ、心に浮かんだ“動き出したい気持ち”が、そのまま声になっただけだった。
明人はソファの端で新聞を畳み、湯気の消えかけたカップを片付けていた。そのさりげない仕草を眺めながら、るなはふと立ち上がる。
「昨日、いろいろ片づけたから……今日は少し違うことをしてみようかな」
「何か、やってみたいことが浮かびましたか?」
彼が問いかける。
「うん、まだ“これ”って決まってないんだけど……でも、なんとなく、そんな気分なんです」
そう言いながら、るなは部屋をゆっくり歩き始めた。
視線は棚の上や、窓際の小物たちをなぞるように動いていく。
ふと、去年の秋に撮ったままにしてあった写真立てが目に入った。小さな旅行の思い出――行き先も特別じゃなかったけれど、その時の空気や、彼の仕草がやわらかく思い出される。
「あのときの……あの場所、また行けたらいいなって」
小さく、でもはっきりとそう言った。
「また、行けますよ。いつでも」
明人の言葉は変わらず穏やかで、その響きに、るなはふっと肩の力を抜いた。
それだけで、心のどこかにあった“焦るような期待”が、少しだけ静まる。
るなはその場にしゃがみ込んで、そっとアルバムの表紙をなぞった。過ぎた日々に触れるのは、前よりもずっとやさしい作業になっていた。
まだ朝の光は高く昇っていない。時計の針は、午前の静けさをそのまま刻んでいる。
けれど、心のどこかで、“今日”がすでに少し特別な一日になりそうな予感が、ゆっくりと膨らんでいた。
るなは窓際に歩み寄り、レースのカーテン越しに光を見上げる。
胸の奥に浮かんだ“ひとつの想い”が、小さな泡のように、静かにゆらいでいた。
過去の思い出にそっと触れながら、「またいつか」と願えること。
それもまた、今のるなにとって大切な“心の動き”のひとつかもしれません。
次回も0:00にそっと更新いたします。
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