【第7話:それでも隣には居られなくて】
距離が近づいたと思った瞬間、ふたりの間にまたひとつ影が落ちる。
それでも、言葉は少しだけ交わり始めて――。
【第2章】灯火が消えそうな夜に(3話目)
雨宮るなは、珍しくリビングに顔を出していた。
朝食の時間をとうに過ぎ、昼も回ろうという頃。
けれど、食欲のためではなく、ただ「居場所がほしくて」そこに居た。
窓から入る陽射しは穏やかで、
ソファに腰掛ける彼女の頬を、柔らかく照らしていた。
明人は、それを見ても声をかけなかった。
お嬢様が言葉を求めていない時は、沈黙こそが礼儀だからだ。
「……昨日の紅茶、美味しかった」
ぽつりと、るなが言った。
目は合わせない。けれど、その言葉は明確な“返答”だった。
「ありがとうございます。お口に合いましたか」
「うん。……落ち着いた」
「それは何よりでございます」
明人の返事は、いつも通り。
けれど、そこには確かに“安堵”の気配が、そっと滲んでいた。
「……なんかね」
沈黙が少し伸びて、るなは言った。
「こうしてると、“普通の家”みたいだよね。お父さんが仕事に行ってて、お母さんが昼寝してて……」
「……」
「私が、こうして……ちょっとだけ、ひとりじゃない気がするっていうか」
明人は、すこしだけ視線を動かして、るなを見た。
けれど、彼女はその目を見ようとはしなかった。
「……でも、そんなの、勘違いか」
「いえ」
明人の声が、それを否定するように静かに重なる。
「勘違いでも、錯覚でも、お嬢様が少しでも楽になれるなら――その空間は、意味を持つと思います」
「……うまいこと言うね、ほんと。そういうとこ、ずるい」
「恐縮です」
「ほんとは、そこに居てほしいんじゃないの?」
「……私は、いつでも、お嬢様のすぐ後ろに居ります」
「違うよ。そうじゃなくて……“隣”ってこと」
その言葉には、無意識に込められた重さがあった。
るな自身が気づいていない“願い”が、そこには確かにあった。
しばしの沈黙。
「――申し訳ありません。その席に座るには、私はあまりに未熟です」
「……そうやって逃げるんだ」
るなの声は、少しだけ震えていた。
けれど、怒っているわけではなかった。
「逃げてるのは、私のほうか……」
その呟きを、明人は聞かなかったふりをした。
彼は、相変わらず一歩後ろに立ち、
お嬢様の背中を、静かに照らし続ける“灯火”であろうとしていた。
ほんのわずかだけ、ふたりの距離が揺れた午後。
けれどそれは、確かに前より少しだけ――近かった。
(続く)
“隣に居てほしい”という気持ちと、“隣に居られない”という現実。
このすれ違いの午後が、ふたりにとって静かな転機になりますように。